聖書のみことば
2016年1月
1月1日 1月3日 1月10日 1月17日 1月24日 1月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月1日主日礼拝音声

 人間をとる漁師
2016年1月第5主日礼拝 2016年1月31日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第4章18〜22節

4章<18節>イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。<19節>イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。<20節>二人はすぐに網を捨てて従った。<21節>そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。<22節>この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 ただ今、マタイによる福音書4章18節から22節までをご一緒にお聞きしました。ここには、主イエスの最初の弟子として、ガリラヤ湖で漁に携わっていた4人が召された時のことが述べられています。

 18節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」とあります。ガリラヤ湖のほとりを主イエスが歩いておられます。主イエスはそこで、2人の漁師が岸辺近くで「網を打っているのを御覧になった」と言われています。「網を打っていた」というのですから、この時、シモン・ペトロとアンデレが使っていた網は、投網だったはずです。丸い網を浅瀬に投げ込んで、魚を獲るのです。ですから、この2人は、自分たちが食べるための魚を獲っていたと言って良いでしょう。ガリラヤ湖の漁師と言っても、自給自足に近い、漁師の中では貧しい部類の人たちであったと想像できます。
 さて、そこから更に主イエスが進んで行かれると、また2人の兄弟に目を留められます。この2人は、先ほどの2人と少し様子が違います。21節には「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった」とあります。こちらの2人は、「舟の中で網の手入れをしていた」と言われています。この2人には持ち舟がある、それが最初の2人と違っているところです。そして、網の手入れをしていたというのですから、その網は、手入れが必要な網です。投網ではありません。舟で沖へ出て、網を打ってそのまま岸辺まで引いて来る、いわゆる底引き網のようなものでしょう。こういう漁では大きな魚を一気に獲ることができますが、一方で、湖底で網を引きずるために瓦礫や小石も引っかかり、網の一部が破れることがあって、漁が終わると網を繕わなければならないのです。魚を獲った後、網を洗い、テグスで丁寧に破れを繕っている、それが漁師ヤコブとヨハネのしていたことです。ですから、この2人は、最初のペトロとアンデレに比べると、裕福な暮らしをしていたと想像できます。
 私たちは、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、皆同じ漁師上がりの弟子だと思っていますが、同じ漁師でも、このように少し生活の程度が違っていたのです。しかし、主イエスによって招かれる、その招きは一緒であることがここに語られています。経済的に豊かな人が特別扱いされて招かれるのではありません。また、貧しい人たちがそこで辱められているのでもありません。どちらの場合も、それぞれの、その人らしい生活をしている姿に、主イエスは目を留められました。そして、ごく普通の生活の中から、主イエスは「わたしについて来なさい」と言って、招かれたのです。すると、貧しさ、豊かさに関係なく招かれたこの4人は、即座に主イエスに従っています。このことが、聖書に語られている、「最初の弟子たちの招かれ方」でした。

 ここに語られていることは、最初の4人の弟子たちが特別な招かれ方をしたということではなく、いわば、私たちが弟子として招かれる時の典型的な姿が語られているのだと言って良いと思います。
 19節20節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。シモン・ペトロとアンデレは、投網を打っていた時、その仕事の現場から召されます。するとこの2人はすぐに従いましたが、それだけではなく、ここでは「網を捨てて従った」と言われています。私たちは、このような細かいことに気づかずに読みがちですが、彼らは今やっている仕事をやり終えて網を乾かして畳んでから、ついて行ったというのではありません。「わたしについて来なさい」と言われて、「はい」とその場で網を湖の中に捨てて、即座に従ったというのですから、実はこの箇所は、大きな驚きを持ってマタイが書き記していることだと思うのです。ペトロとアンデレは仕事の現場から即座に従いました。そして、続くヤコブとヨハネの場合も同じです。22節には「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」とあります。
 この2組の兄弟の漁師たちに共通することは、主イエスから短い招きの言葉をかけられると、すぐに従ったという自然な振る舞いです。この4人は、主イエスに招かれると、本当に何かそれが当たり前のことのように、主イエスに従って行きます。こういうことは、しかし、私たちの場合にも起こることなのでしょうか。私たちもそれぞれに、自分の生活を持って生活しています。そこに、主イエスが私たちの目の前に現れて、「わたしについて来なさい」と言われたとすると、私たちは一体どうするだろうかと考えます。恐らくこういうことは、私たちの場合にはあまり起こらないのではないでしょうか。ですから、聖書の注解書を読んでいますと、大変面白いことに気づかされます。聖書には何も書かれていませんが、この4人があまりにも率直に主イエスに従っていますから、このことに不信感を抱いて、いろいろと詮索して説明される場合が多いのです。
 例えば、ある注解書は、この4人は恐らくこの日初めて主イエスにお会いしたのではなく、既にどこかで出会い、主イエスのことをよく知っていたのだろうと推測します。そうでなければ、こう簡単に事は進まないと説明するのです。また他の注解書では、この時、4人のうちの誰かは既にバプテスマのヨハネの弟子だったので、そこで主と既に会ったことがあり、また教えを聞いたこともあった。主イエスの意図を、この4人は予めよく分かっていて、主イエスがその業の協力者になってくれと頼んだので喜んでついて行ったのだ、そうでなければ従えるはずはない等々。こういう注解書の言葉を読んでいますと、それぞれに尤もらしいなと思うこともありますし、何ともお節介だと感じることもあります。
 しかし考えたいことは、なぜこういう説明がされるのかということです。それは、聖書が語っているこの事柄がどうにも腑に落ちないので、その穴埋めのために、聖書の語っていないことまで語ろうとしているのだと気づかされるのです。けれども、忘れてならないこと、聖書の御言葉を聞く時に大切なことは、「聖書の言葉を聞く」ということだろうと思います。「聖書の言葉」は、時として、私たちには、すぐには腑に落ちないところがあるのかもしれないと思うのです。なぜ、こんな言葉が語られているのだろうか。私たちには、「そういうことか」とストンと受け止められない。そこで、それを何とか受け止めるために、聖書には書かれていない、その背後のことをいろいろと自分勝手に想像して繋いでしまう。「こうなら分かる」と言って、読んでしまうことがあるのです。
 しかし、肝心なことは「聖書が語っていることを聞く」ということです。聖書が語っていることと、私たちが想像で思うことを、同等に受け取ってはなりません。「聖書が語っていることはこうなのだ」と、まずは素直に聞くことが、私たちに求められることです。
 恐らく、今日の箇所についても同じことが言えると思います。多くの聖書研究者が想像するように、もしこの4人の漁師がどこかで既に主イエスと知り合っていた、だから主イエスの招きに即座に応えることができたのだとすれば、マタイはそう書いてもおかしくない筈です。しかし、マタイはそう書いていない。ですから、聖書が伝えていることは、主イエスの招きは短い言葉だったけれども、この4人の漁師は即座に従うことになったのだということです。

 そして、そのように聖書は語っているのだと、改めて確認しながらこの箇所を聞きますと、私たちは、このところでショックを受けるのではないかと思います。確かに、多くの注解書が言っていることは、尤もだと思います。主イエスが見ず知らずの4人の漁師に短い言葉をかけたら即座に従った、そんなことは有りそうにないと、そう思う、ということです。しかし、主イエスの最初の弟子として招かれた4人は、それがいかにも当然なこと、自然なこととして応答している。それはつまり、そういうことが今日の私たちにとっては自然なことではなくなっていると気づかされて、ショックを感じるのではないでしょうか。もし本当に、こういう主イエスの招きに直面したならば、どんな犠牲を払ってでも懸命にその招きに応えて従っていく、そういう無条件な事柄というものがこの世にはあるのだという、そういう感覚が、今日の私たちには非常に希薄になっているのです。自分が生きていく上で、何が本当に大きな価値なのか。それは自分の判断であり、自分の考え、自分の思い出会って、一人一人に与えられている人生の主人公は、この「わたし」なのだという、そういう意識が非常に強く私たちを支配しているのです。そういう支配が当たり前であるならば、予想外に「わたしについて来なさい」と言われて、「はい、分かりました」と素直に従う筈はありません。けれども、私たちには、「わたしについて来なさい」と言われて、すぐに従わなければならない事柄があるのかもしれないのです。神が私たちに命を与えてくださって、その神が私たちに「あなたたちは、こう生きるのだよ」と言ってくださった時に、私たちは「はい、分かりました」と言って即座に従わなければいけないのかも知れません。ところが今日では、たとえ神の事柄であっても、自分にとってそれが損か得かで物事を考えてしまう、そういうことに気づかされて、この4人の漁師たちの姿は、私たちにショックを与えるのです。

 今日のこの記事を聞いて、私たちには何に心動かされるでしょうか。この4人の行動は全く理解できない、心動かされないという方もおられるかもしれません。また、「わたしについて来なさい」という主イエスの短い言葉に、反発を感じるという方がいらしても不思議ではありません。「わたしについて来なさい」とおっしゃるのであれば、何か従っていくのに足るような、変わった出来事や奇跡でも見せて欲しいものだ、そうしたら信じてやろうと思う方もいるかもしれません。主イエスの時代の多くのユダヤ人が、そのことで主イエスに躓きました。主イエスが多くの奇跡をなさっている間は、群集は喜んでついて行きました。群集はいつも、主イエスの奇跡や徴を見たくてついて来たのですが、彼らはそれだけであって、主イエスが「わたしについて来なさい」とおっしゃると、「それは嫌だ」と言って退いてしまいました。聖書の時代ですらそうなのですから、私たちの時代、「わたしについて来なさい」というからには、何かを見せてくれなければ嫌だという思いがあっても不思議ではありません。
 しかし、もしもそういう躓きを乗り越えて、この4人の漁師たちのどこに私たちが感動するのか、そう考えてみますと、それは、この漁師たちの行動は実に自由で自発的なものだということではないでしょうか。主イエスが前もってこの4人と出会われたわけではありませんし、この4人の前で何の徴や奇跡を行われたわけでもありません。ここではただ、主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と、おっしゃっているだけです。そして、この4人はその言葉をとても素直に受け止めて、この4人なりに自由に行動を起こして、主イエスについて行っているのです。ここには、この漁師たちが自分から決断したとか、神の意志がそれを決定しているのだとか、そういう気負ったことは何も起こっていません。実に不思議ですが、主イエスが「わたしについて来なさい」とおっしゃると、直ちに従っているのです。事柄はそれだけです。ここでは、神の御言葉が一人一人に招きを与えて、そして人間がその御言葉を聞き取って、自然に自由に行動しています。ひょっとすると、この4人は、自分では意識していなかったけれども、予てから、もしもこういう招きを受けたならば、そう行きたいと思っていたのではないかと思うほどです。つまり「人間をとる漁師になりたい」と心の中で願っていたのかもしれません。だからこそ、主のこの呼びかけに素直に従ったのです。

 この招きの出来事は、私たちからすると有り得ないことと映りますが、しかし今風に言えば、この4人の漁師たちは、もともと神から与えられた自分の中に眠っていた可能性を、主イエスの言葉によって見出したということかも知れません。ですから、主イエスのこの招きの言葉に対して、彼らは、思ってもみない言葉で嫌々ながら無理強いされてついて行ったということではありません。外からの命令に奴隷のように従ったというのではありません。そうではなくて、これは外からの力を借りて、自分が本当に自由になった、本当に自分のあるべき姿になっていったということなのです。そうであるからこそ、この4人は、その生涯を通じて、この日招かれた主イエスの弟子として歩むことができたのです。もしも、ここでの招きが主イエスの都合によることで、自分の進むべき道をねじ曲げられて連れて行かれたのだとしたら、主イエスが十字架に架けられた時には、これは良いチャンスだと思って元の漁師の仕事に戻ったに違いありません。しかし、そうはならず、彼らは、主イエスの招きの中で一生を歩みたいと願い、そして実際に復活の主イエスのもとで、主を宣べ伝える、人間をとる漁師の務めに、生涯を歩みました。

 聖書の招きとは、そういうものであると聞かされますと、私たちは、自分自身のことを考えることができるのではないでしょうか。私たちも一人一人、主イエスの弟子となって歩む道が備えられているのではないでしょうか。それは決して、皆が教会の伝道者になるということではありません。そうではなくて、一人一人がその人らしい姿で、主イエスの弟子として生きていくのです。ある人には教育者、ある人には企業人、また芸術家として、医師や看護師として、主婦として等々、いろいろな仕方で主イエスの弟子になっていく道が備えられているのではないでしょうか。私たちに備えられている道は様々ですが、しかし、その道を行く時に、私たちは今日語られている御言葉を記憶したいのです。主イエスが私たちに呼びかけて下さって、私たちが自分の歩むべき道を自由に歩む、その背中を主が押してくださる時に、私たちは打算を働かすことなく、またこの世のしがらみに捕らわれることなく、自由に伸び伸びと主の招きに応じていくことができるようになります。このわたしに与えられる人生の課題も、主イエスが背中を押し、また共に背負ってくださるのだと信じて、引き受けていくものとされたいと願うのです。たとえ、その道行きに、どんなに犠牲を払うことがあるとしても、それはまさに、神がわたしに与えてくださる人生の道行きなのです。職業ということに限ったことではありません。神がこのわたしに与えてくださっている人生を、今日、本当に伸び伸びと引き受けていく、「わたしについて来なさい。あなたに与えられている生活を伸びやかに受け入れて、そしてそこを歩みなさい」と、そう招いてくださっている招きが、この4人の漁師たちにだけでなく、私たちにも与えられているのだということを覚えたいのです。

 今日のところで、主イエスは、4人に「漁師を辞めよ」とおっしゃっているのではないということに注意したいと思います。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とは、大変面白い言い方です。漁師には違いない、これまでは魚を相手にしていたけれど、これからは人間を相手にするのだと言われて、きっと4人は戸惑ったことと思います。「人間をとる漁師」などと言われても、「はい、分かりました」と言えるような手順や方法が最初から分かっていたとは思えません。けれども、このことは、人間の長い歴史の中で、時代が変わって新しくなっていく時、時代の変化の中で新しいことが始まる時には、どんな仕事であれ、そうだったのではないでしょうか。
 例えば、私たちの身近な例で考えますと、今から15〜16年前に介護保険という制度が始まりケアマネージャーの仕事が重要になりましたが、当初は、ケアマネージャーの仕事についての理解も浅く、またケアマネージャー同士であっても元々従事していた業種の違いによって意見の齟齬があったりと、今日のように、その働きや位置付けが明確になるまでには時間を要しました。そしてまた、今日の姿が決して決定版なのではなく、これからも変化し発展し続けるでしょう。そこには必ず、新しい必要のために生きるパイオニアのような存在が生まれてくるのです。「人間をとる漁師」というのも、それに近いものです。漁師は魚を獲るのであって、人をとるのではないと誰しも思いますが、しかし、主イエスはそうお考えになりません。人を捕らえる仕事、人間を神のもとに連れてくる仕事、これは漁師の仕事の延長線上にあるのだとおっしゃるのです。召されたからと言って、この4人の漁師がすぐさま自分のすべきことを分かっていたとは思いません。けれども、主イエスが、そういう新しい仕事にこのわたしを招いてくださっているのだなと感じて、この4人は職を転じていくのです。
 主イエスは、この4人を召された時、ただ「人間をとる漁師にする」と言われただけではありません。その前に「わたしについて来なさい」と言われました。つまり、主イエスも「人間をとる漁師」として働くから、あなた方も一緒に働きなさいとおっしゃるのです。主イエスに従って生活していくうちに、主の御言葉を聞いていくうちに、人間をとる漁師の仕事について、徐々にこの4人は呑み込めていくのです。
 そう考えながら読んでいきますと、大変、面白く思います。マタイによる福音書13章には、天の国の神の御支配が、魚の網に譬えられて出てきます。13章47節48節「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」。まさにここは、漁師出身の4人の弟子を覚えて、主イエスが天の国について教えておられるところなのです。漁師でなければ、網に魚がいっぱいになるまで何度も何度も網を投げ入れるとか、網に魚がなかなか入らなくても忍耐して網を操作することとか、あるいは、網が大量の魚でいっぱいになることの喜びというものは分からないと思います。漁で苦労したことのない人たちは、この主イエスの譬え話を、とても単純に聞くことでしょう。ただ単に、大勢の人を教会に迎え入れていくことをおっしゃっているのだなと思って終わるかもしれません。
 けれども、魚を獲るために苦労している漁師であれば、せっかく引き上げた魚をそうそう簡単に、これは悪い魚だと言って捨てたりはしないでしょう。苦労して自分が獲ったのであれば、そのことを思って、何とかしてこの魚を食べることはできないだろうか、お刺身がダメならムニエルに、それでもダメなら肥料にでもと、何とかしようとすることでしょう。まさにそれが、人間をとる漁師の姿なのだということを、主イエスはこの4人の漁師たちと一緒に過ごしながら、彼らに分かるように、教えておられるのです。
 そして、それだからこそ、「わたしについて来なさい」とおっしゃるのです。聖書の言葉を通して、一人一人が与えられている自分の生活に向かって行く、それは、主イエスが共にいて示してくださって、御言葉をかけてくださって分からせてくださるのです。私たちは、人をとる「漁師」ではありませんけれども、人をとるそれぞれの務めに召されているのかもしれません。聖書を通して主イエスの御言葉をいただいて、自分が今与えられている生活の中で、何に心を向けて、どう生きていったら良いのかということを教えられながら、神の御用に仕えるのです。
 主イエスは私たちに呼びかけて下さっています。あなたを「人間をとる会社員に、農夫に、公務員に、主婦に、芸術家に」と。あなたに与えられているこの世界、この地を受け継いで、この社会の中で、与えられている生活の中で、この世界と共に歩んでいくようにと、「わたしについて来なさい」と招いてくださっています。
 「わたしについて来なさい」と招いてくださる、御言葉をくださる、そういう道こそが、私たちが本当にあるべき自分自身の姿に向かって進んでいく道であることを覚えたいと思います。そして、それが私たち自身の道であるからこそ、どんなに犠牲を払おうとも、万難を排して精一杯、主イエス・キリストの御言葉に聞き従って生きる、その生活を遂げるものとされたいと願うのです。

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