聖書のみことば
2016年1月
1月1日 1月3日 1月10日 1月17日 1月24日 1月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月1日主日礼拝音声

 光の訪れ
2016年1月第4主日礼拝 2016年1月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第4章12〜17節

4章<12節>イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。 <13節>そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。<14節>それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。<15節>「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、<16節>暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」<17節>そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

 ただ今、マタイによる福音書4章12節から17節をご一緒にお聞きしました。まず12節に「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」とあります。このころ、主イエスにヨルダン川で洗礼を授けたバプテスマのヨハネが逮捕され、牢獄に繋がれるという出来事が起こりました。
 この出来事は、ヨハネが領主ヘロデ・アンティパスの結婚について非難したために起こったと言われています。ヘロデ・アンティパスは、元々は、アラビヤ半島にあったナバテア王国アレタ王の娘と結婚していました。ところが、ヘロデ・アンティパスは、自分の異母兄弟ヘロデ・フィリポの妻ヘロディアと出会って横恋慕し、とうとう正式な王妃をナバテア王国に帰し、ヘロディアを後妻としました。いわゆる略奪婚を、自分の兄弟の妻にしかけたのです。バプテスマのヨハネは、曲がったことは通らないことを日頃から公言していましたので、臆することなく、ヘロデ・アンティパスの不貞な結婚を攻撃しました。この結婚は律法に反すると、明言しました。ユダヤとガリラヤの民衆たちは、ヨハネの言葉を「その通りだ」と喜んで聞きましたが、ヘロデ・アンティパスにとってみれば、それはガリラヤの領主として都合が悪いわけですから、自分の悪評の元であったヨハネを捕らえ、ガリラヤ湖の岸辺に建つ マルケス城の地下牢にヨハネを幽閉しました。それが、今日の12節の前提にある出来事です。
 加えて言いますと、ヨハネはこの後、牢から出ることはできませんでした。マタイによる福音書14章には、首をはねられ処刑されたことが記されています。

 12節では、そのようにヨハネが捕らえられたとの知らせが主イエスに届いた時に、主イエスが「ガリラヤに退かれた」のだと言われています。こう聞きますと、主イエスに洗礼を授けたヨハネが捕らえられたので、弟子筋に当たると目された主イエスも危険を避けて避難した、それが「退いた」ということだと考えたくなりますが、しかし、避難したにしては方向が妙であることに気づきます。3章1節を見ますと、ヨハネが活動していたのはユダヤの荒れ野であったと言われています。ですから、主イエスも当然ユダヤまで出かけて行って洗礼を受けられ、またその後、サタンの誘惑を受けられたのもユダヤの荒れ野に違いありません。そこでヨハネ逮捕の知らせを聞くのですから、もし主イエスがヘロデ・アンティパスを恐れて難を避けるというのであれば、北のガリラヤに戻るのではなく、ユダヤからもっと南のイドマヤ地方に向かうのが普通です。どうしてかと言いますと、ヘロデ・アンティパスはガリラヤの領主だからです。主イエスは元々、ガリラヤの外のユダヤにおられたのですから、ヨハネが捕らえられたと聞いてガリラヤに向かったとすれば、変な方向に向かって「退いた」ことになります。「退いた」と言いますと、大概避難したと聞こえますが、しかし実際の方角から言いますと、逃げたというより、むしろ向かって行ったと言えるのです。どうして「退いた」という言い方になっているのでしょうか。この言葉に注目して、少し考えてみたいのです。
 この言葉は、「退く」という以外に「立ち去る、引っ込む」とも訳されることがあります。この同じ言葉が、2章14節に出てきます。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」、この「去り」に同じ言葉が使われています。また、22節にも「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり」、「引きこもり」が同じ言葉です。ヨセフが幼い主イエスとマリアを連れてエジプトに立ち去った、それは天使が預言で危険を伝えたからです。ヨセフは夢のお告げを聞き、天使の言葉に従って、エジプトに立ち去りました。また、ヨセフはアルケラオを大変恐れるのですが、夢のお告げによってガリラヤに引きこもりました。つまりヨセフは、2回とも、神から「こちらへ行きなさい」との示しを与えられて、それに従って行動していることが、この「立ち去る、引っ込む」という言葉で表されています。そして、その同じ言葉が、「退く」という言葉でここに使われているのです。
 そうであれば、「退かれた」という言葉が何を言い表そうとしているのか、分かるかと思います。主イエスがガリラヤへ向かわれたという出来事は、神のご計画に従っての出来事だったということを言い表しています。ヨセフが神のお告げに従ってエジプトへ去りまたガリラヤに引きこもったのと同じように、バプテスマのヨハネが捕らえられた時、神の御旨に従って、主イエスがガリラヤにお住みになるようになったのだと語られているのです。
 主イエスの先ぶれとして遣わされたバプテスマのヨハネが捕らえられて、その活動の幕が下ろされる。そして、そのすぐ後に、来るべき方である主イエスの活動が始まるのです。しかしその活動はどこで始まるかというと、ユダヤの都エルサレムの近くではなく、まずは北の辺境の地であるガリラヤで始まったのだと語られています。それが神の御心なのであり、主イエスはその神の御心に従われたのです。

 しかし、そうであればどうして、主イエスの救い主としての業がエルサレムではなくガリラヤから始められなければならなかったのか。それは、実は、主イエス・キリストというお方によってもたらされる救いが、ユダヤ人という狭い範囲に留まるのではなく、もっと広い範囲に及ぶのだということが示されるためです。マタイによる福音書は、主イエスがガリラヤへ退かれた、その結果、古の預言者イザヤが語った言葉が実現するのだと語っています。14節から16節に「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』」とあります。このイザヤの預言の元々の箇所は、イザヤ書8章23節から9章1節ですが、マタイはそれを少し自由な形で引用しています。元々の言葉は、預言は23節からですが、21節から見ますと、「この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と記されています。
 ここでイザヤが語っている言葉は、北イスラエル王国が滅亡していった時の状況を語っています。預言者イザヤが活躍した時代には、サウル、ダビデ、ソロモンという3代の王が築き、栄華を極めたイスラエルが2つに分かれていました。ユダ族が中心になっていた南ユダ王国と、他の10部族が中心になっていた北イスラエル王国とが並び立っていました。その北イスラエル王国が、イザヤの時代に、北の大国アッシリアに攻められ滅びてしまいます。今聞いたイザヤ書8章の終わりから9章にかけてのところは、まさに北イスラエルが滅ぼされ、その歴史が閉じられていく、その場面が語られています。イザヤは南ユダで活動していましたから、自分が攻められたわけではありません。ただ、隣国が滅ぼされるのを目の当たりにして、語っています。
 アッシリアの侵攻は紀元前734年と732年の2度ありましたが、最後に残った北イスラエルの部族、ゼブルンとナフタリが滅ぼされて、主だった人たち、官僚や技術者たちは捕虜され、故郷の地から連れ去られます。そういうことを聞きますと、バビロン捕囚を思い起こしますが、バビロン捕囚は南ユダ王国の滅亡の際の出来事で、この北イスラエル王国の滅亡の150年ほど後のことです。ですから、北イスラエル王国の滅亡は小さなバビロン捕囚のようなことが起こったとして、アッシリア捕囚と呼ばれることもあります。けれども、この時の捕囚は、主だった人たちをアッシリア本国には連れて行かず、ゼブルンとナフタリの地の近くに移しました。例えば、ゼブルンとナフタリの地は、当時キレネト湖と呼ばれたガリラヤ湖の北側と西側に広がっていましたが、そこから東側に移しました。そして、主だった人たちが連れ去られたゼブルンとナフタリの地には、アッシリアの人たちが植民されて住むようになります。それが、その地域が「異邦人の地」だと陰口を言われるようになるきっかけでした。元々ゼブルンとナフタリの地だった場所が、主イエスの時代にはガリラヤと呼ばれる大きな地域になっています。そしてそこにはアッシリアの人たちが多く住んでいるので、あの地域にいるのは生粋のイスラエル人ではないと、南ユダ王国の人たちが「異邦人のガリラヤ」と陰口を叩いたのです。
 そのような状況の中で語られたイザヤのこの預言は、北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされて、特にゼブルンとナフタリの人たちが酷い被害を受ける、けれども、彼らが連れて行かれた海沿いの地域、東岸の地域、あるいは主だった人たちが連れ去られ、取り残された人たちがその日一日を何とか凌いでいる異邦人のガリラヤと呼ばれる地域が、やがて栄光を受け、復興する日が来るのだという希望を語る預言です。ただ、そのように希望の言葉を語っていながら、この時のイザヤ自身の目に、次の時代に続くような胎動が映っていたのかというと、そうではないのです。イザヤの目に見えていたのは、戦いに敗れて荒廃しきった北イスラエルの姿です。今、21節から読みましたが、「苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」という言葉が並んでいます。「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」と語ります。イザヤは困難な現実から目を逸らして、空想の世界に引きこもって、上辺だけの気休めとか言葉だけの救いを語るのではありません。そうではなく、すっかり行き詰まり、滅んで、まさにこの歴史が終わっていく、そういう現実を見ながら、なおそこで、「神がおられる」がゆえに、人々の営みがいかに敗れようとも、そこには希望があるのだと語るのです。
 私たちの日常生活がどんなに悲惨な終わりを告げるように見えることがあるとしても、なお、その最後のところに神が立っていてくださる。だから、あなたたちは、栄光を受けることになるのだ。それがイザヤの預言です。現実は「苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」であったとしても、しかし神は、そこに将来を備えてくださる、とイザヤは語りました。

 さて、主イエスがガリラヤに行かれ、カファルナウムに住まれるようになったのは、イザヤの時代から760年ほど経ってのことです。マタイによる福音書を著したマタイは、主イエスがカファルナウムにお住まいになる、そのことを以ってまさに、このイザヤの語った希望がここに実現しているのだと言おうとしています。当然、随分と様子は変わっています。今ではガリラヤという名で1つの地域が呼ばれるようになりましたが、元々そこはゼブルン族とナフタリ族に土地でした。そして実は不思議なことですが、カファルナウムは、昔の区分で言うと、ゼブルン族とナフタリ族の居留地の丁度境目にあるような町なのです。そして更に、ガリラヤ湖に面した港町でもあるのです。湖沿いの町ですから、船に乗って渡った対岸の町にも影響が及んでいくような、そういう町です。ですから、主イエスがカファルナウムで活動なさる、そうすると、その評判が対岸にも広がっていくような、そういう場所に主イエスは来ておられるのです。
 大昔に戦いがあって、「苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放、絶望や苦しみ」が埋め尽くしていた、そういう場所で、今や新しいことが始められる。主イエス・キリストというお方が、そこにおいでになる。そのことによって、まさに、イザヤが預言したような新しい希望の出来事が始まるのだと、マタイは語っているのです。

 しかし、それは一体どのように始まるのか。17節「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」とあります。「宣べ伝え始められた」と、日本語ですと一言のように言われていますが、ここは正確に訳しますと、「宣べ伝える」ことと「言う」ことをお始めになったのだと書かれています。そして「始めた」ということには、時間的に始まったという意味もあるのですが、それと共に、内容的には、「源になった」という意味があるのです。英語で言いますと「beginning」と「origin」の両方の意味を含んでいます。ですから「宣べ伝え始められた」ということは、「主イエスの福音を告げる活動が始まった、第一歩が示された」ということと同時に、まさに、「主イエスの御業の基礎がここに据えられた」ということを言っているのです。

 では、この時カファルナウムで始められ据えられた「主イエスの御業の基礎」とはどういうものだったのか、そのことを考えてみたいのです。今日の箇所の直前、3章あるいは4章では、主イエスが洗礼を受けられた出来事と、荒れ野でサタンから誘惑をお受けになったのだということが語られました。また、今日の箇所の後には、最初の弟子として4人の漁師が招かれる、主イエスが癒しをなさる、更に主イエスに従う新しい者としてのあり方を山上で説教なさる、と続いていきます。こういう福音書の流れの中に、今日の出来事も置かれています。主イエスは、ヨハネから洗礼を受けて、私たちと同列になってくださいました。そして、私たちがややもすれば受けがちな誘惑、私たちの一生にいつもつきまとっている誘惑をお受けになりますが、それをきっぱりと退けられ、天と地を結ぶというご自身の使命にしっかりと立ってくださいました。そういう主イエスが、この地上に弟子を集めようとなさり、群れの中で癒しをなさり、主イエスに従う者の生活を教えながら、「弟子たちを神と結ばれた民として形づくっていこうとなさる」、そういう出来事がこのカファルナウムで始まった、ここに土台が据えられたのだと、聖書は語っているのです。
 主イエスの御業というと、私たちはすぐに十字架を思います。主イエスは飼い葉桶で生まれ十字架で死なれたのだと単純に思いますが、しかし、主の御業は十字架で終わりなのではありません。更に、復活で終わっているのでもありません。「主イエスの御業を聞いてそこに招かれ、弟子たちの群れが形作られる」、そういう仕方で、主イエスの十字架と復活の出来事はその後の時代へと開かれていくのです。そのようにして主の御業が開かれているからこそ、私たちも、今、ここに集められ、聖書を開き、御言葉に耳を傾けて礼拝を捧げているのです。主イエスが始めてくださった御業に、まさに今、与っている者として、私たちは今日それぞれに生きる者とされているのです。

 今日まで続く主イエス・キリストの御業がこのところから始まった、そのことを表すかのように、17節で主イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われました。「悔い改める」というのは、自分が悪かったと言って、自分を卑下したり反省したりするということとは違います。自分が悪かったのだと自分を責めるのではなく、本当に神がこのわたしを捕らえてくださったのだと「神に信頼して歩んでいく」ことです。神など知らないかのように神抜きで自分で生きていたのに、その生き方の向きを変えて、「神がこのわたしを顧みてくださっている、そういう者として歩んでいく」、それが「悔い改め」です。ある牧師がこの箇所を説教した時、この「悔い改め」は、自分の心持ちや気分のことではなく、意志の事柄だと説明しております。自分を責めたり反省したりして、そこで悔い改めが終わったようなつもりになることが悔い改めなのではありません。私たちは確かに、弱く頑なで、愚かですけれども、しかし、そういう者として、「わたしはもう一度ここから、神に信頼して、神のものとして歩んでいく」のです。神の御言葉を聞き間違えることもあるかもしれません。神の御心を測りかねて誤った行いをしてしまうかもしれません。それでも、「もう一度、ここから御言葉に聞き、神の民として歩みたいと願います」と、「神へと向きを変えること」、それが「悔い改め」です。

 主イエスは、神への信頼に生きるようにと、「悔い改めよ」と、ここで招いておられます。招きの言葉を聞かせるために、また実際に主イエスに従い、主イエスに信頼して生きる弟子の群れをこの地上に来らせるために、ご自身は何の罪もなく、また地上においでになる必要もなかったにも拘らず、主イエスは自らこの地上においでになり、ヨハネから洗礼を受け、私たちと同列の一人として立ってくださったのです。私たちのただ中に、主イエスが立っていてくださるのです。そして、主イエスの御言葉を聞かせてくださり、神の保護と配慮のうちに、「もう一度、あなたはここから生きていいのだよ」と教えてくださるのです。そういう仕方で、私たちと親密に味わいを持って歩んでくださるのです。
 そういう御業がここに記されたこの日に始まったのであり、その御業は、この福音書全体を貫いていくのです。
 マタイによる福音書の一番最後の言葉は、「大伝道命令」と言われて、大変有名な言葉です。28章18節〜20節「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』」と記されています。主イエスはこうおっしゃって、「すべての民」を主イエスの弟子として招こうとしておられます。ただ洗礼を授けなさいと言っておられるのではありません。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」、つまり教会の群れというのは、主イエスの御言葉に教えられ、慰められ、勇気づけられ、清められた者とし生きていく群れなのであり、そういう群れを、主イエスはこの地上に作り出そうとなさっているのです。

 私たちは、そういう主イエスの招きに与って教会の枝とされ、今日ここに共に集まって御言葉に耳を傾け、主に慰められ、励まされ、勇気づけられて、一人一人ここからの生活にもう一度歩み出していく、そういう時を与えられています。私たちの人生を裏打ちしてくださる方として、主イエスが洗礼を受け、私たちのただ中に立っておられるのだということを、もう一度覚えたいと思います。
 主イエスは、私たちの生活の中の本当に近いところで、いつも御言葉を聞かせてくださいます。その主の御言葉に励まされながら、ここからのそれぞれに与えられた務めに、もう一度、向かって行きたいと願うのです。

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