2016年1月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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光の訪れ | 2016年1月第4主日礼拝 2016年1月24日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マタイによる福音書 第4章12〜17節 | |
4章<12節>イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。 <13節>そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。<14節>それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。<15節>「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、<16節>暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」<17節>そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 |
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ただ今、マタイによる福音書4章12節から17節をご一緒にお聞きしました。まず12節に「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」とあります。このころ、主イエスにヨルダン川で洗礼を授けたバプテスマのヨハネが逮捕され、牢獄に繋がれるという出来事が起こりました。 12節では、そのようにヨハネが捕らえられたとの知らせが主イエスに届いた時に、主イエスが「ガリラヤに退かれた」のだと言われています。こう聞きますと、主イエスに洗礼を授けたヨハネが捕らえられたので、弟子筋に当たると目された主イエスも危険を避けて避難した、それが「退いた」ということだと考えたくなりますが、しかし、避難したにしては方向が妙であることに気づきます。3章1節を見ますと、ヨハネが活動していたのはユダヤの荒れ野であったと言われています。ですから、主イエスも当然ユダヤまで出かけて行って洗礼を受けられ、またその後、サタンの誘惑を受けられたのもユダヤの荒れ野に違いありません。そこでヨハネ逮捕の知らせを聞くのですから、もし主イエスがヘロデ・アンティパスを恐れて難を避けるというのであれば、北のガリラヤに戻るのではなく、ユダヤからもっと南のイドマヤ地方に向かうのが普通です。どうしてかと言いますと、ヘロデ・アンティパスはガリラヤの領主だからです。主イエスは元々、ガリラヤの外のユダヤにおられたのですから、ヨハネが捕らえられたと聞いてガリラヤに向かったとすれば、変な方向に向かって「退いた」ことになります。「退いた」と言いますと、大概避難したと聞こえますが、しかし実際の方角から言いますと、逃げたというより、むしろ向かって行ったと言えるのです。どうして「退いた」という言い方になっているのでしょうか。この言葉に注目して、少し考えてみたいのです。 しかし、そうであればどうして、主イエスの救い主としての業がエルサレムではなくガリラヤから始められなければならなかったのか。それは、実は、主イエス・キリストというお方によってもたらされる救いが、ユダヤ人という狭い範囲に留まるのではなく、もっと広い範囲に及ぶのだということが示されるためです。マタイによる福音書は、主イエスがガリラヤへ退かれた、その結果、古の預言者イザヤが語った言葉が実現するのだと語っています。14節から16節に「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』」とあります。このイザヤの預言の元々の箇所は、イザヤ書8章23節から9章1節ですが、マタイはそれを少し自由な形で引用しています。元々の言葉は、預言は23節からですが、21節から見ますと、「この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と記されています。 さて、主イエスがガリラヤに行かれ、カファルナウムに住まれるようになったのは、イザヤの時代から760年ほど経ってのことです。マタイによる福音書を著したマタイは、主イエスがカファルナウムにお住まいになる、そのことを以ってまさに、このイザヤの語った希望がここに実現しているのだと言おうとしています。当然、随分と様子は変わっています。今ではガリラヤという名で1つの地域が呼ばれるようになりましたが、元々そこはゼブルン族とナフタリ族に土地でした。そして実は不思議なことですが、カファルナウムは、昔の区分で言うと、ゼブルン族とナフタリ族の居留地の丁度境目にあるような町なのです。そして更に、ガリラヤ湖に面した港町でもあるのです。湖沿いの町ですから、船に乗って渡った対岸の町にも影響が及んでいくような、そういう町です。ですから、主イエスがカファルナウムで活動なさる、そうすると、その評判が対岸にも広がっていくような、そういう場所に主イエスは来ておられるのです。 しかし、それは一体どのように始まるのか。17節「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」とあります。「宣べ伝え始められた」と、日本語ですと一言のように言われていますが、ここは正確に訳しますと、「宣べ伝える」ことと「言う」ことをお始めになったのだと書かれています。そして「始めた」ということには、時間的に始まったという意味もあるのですが、それと共に、内容的には、「源になった」という意味があるのです。英語で言いますと「beginning」と「origin」の両方の意味を含んでいます。ですから「宣べ伝え始められた」ということは、「主イエスの福音を告げる活動が始まった、第一歩が示された」ということと同時に、まさに、「主イエスの御業の基礎がここに据えられた」ということを言っているのです。 では、この時カファルナウムで始められ据えられた「主イエスの御業の基礎」とはどういうものだったのか、そのことを考えてみたいのです。今日の箇所の直前、3章あるいは4章では、主イエスが洗礼を受けられた出来事と、荒れ野でサタンから誘惑をお受けになったのだということが語られました。また、今日の箇所の後には、最初の弟子として4人の漁師が招かれる、主イエスが癒しをなさる、更に主イエスに従う新しい者としてのあり方を山上で説教なさる、と続いていきます。こういう福音書の流れの中に、今日の出来事も置かれています。主イエスは、ヨハネから洗礼を受けて、私たちと同列になってくださいました。そして、私たちがややもすれば受けがちな誘惑、私たちの一生にいつもつきまとっている誘惑をお受けになりますが、それをきっぱりと退けられ、天と地を結ぶというご自身の使命にしっかりと立ってくださいました。そういう主イエスが、この地上に弟子を集めようとなさり、群れの中で癒しをなさり、主イエスに従う者の生活を教えながら、「弟子たちを神と結ばれた民として形づくっていこうとなさる」、そういう出来事がこのカファルナウムで始まった、ここに土台が据えられたのだと、聖書は語っているのです。 今日まで続く主イエス・キリストの御業がこのところから始まった、そのことを表すかのように、17節で主イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われました。「悔い改める」というのは、自分が悪かったと言って、自分を卑下したり反省したりするということとは違います。自分が悪かったのだと自分を責めるのではなく、本当に神がこのわたしを捕らえてくださったのだと「神に信頼して歩んでいく」ことです。神など知らないかのように神抜きで自分で生きていたのに、その生き方の向きを変えて、「神がこのわたしを顧みてくださっている、そういう者として歩んでいく」、それが「悔い改め」です。ある牧師がこの箇所を説教した時、この「悔い改め」は、自分の心持ちや気分のことではなく、意志の事柄だと説明しております。自分を責めたり反省したりして、そこで悔い改めが終わったようなつもりになることが悔い改めなのではありません。私たちは確かに、弱く頑なで、愚かですけれども、しかし、そういう者として、「わたしはもう一度ここから、神に信頼して、神のものとして歩んでいく」のです。神の御言葉を聞き間違えることもあるかもしれません。神の御心を測りかねて誤った行いをしてしまうかもしれません。それでも、「もう一度、ここから御言葉に聞き、神の民として歩みたいと願います」と、「神へと向きを変えること」、それが「悔い改め」です。 主イエスは、神への信頼に生きるようにと、「悔い改めよ」と、ここで招いておられます。招きの言葉を聞かせるために、また実際に主イエスに従い、主イエスに信頼して生きる弟子の群れをこの地上に来らせるために、ご自身は何の罪もなく、また地上においでになる必要もなかったにも拘らず、主イエスは自らこの地上においでになり、ヨハネから洗礼を受け、私たちと同列の一人として立ってくださったのです。私たちのただ中に、主イエスが立っていてくださるのです。そして、主イエスの御言葉を聞かせてくださり、神の保護と配慮のうちに、「もう一度、あなたはここから生きていいのだよ」と教えてくださるのです。そういう仕方で、私たちと親密に味わいを持って歩んでくださるのです。 私たちは、そういう主イエスの招きに与って教会の枝とされ、今日ここに共に集まって御言葉に耳を傾け、主に慰められ、励まされ、勇気づけられて、一人一人ここからの生活にもう一度歩み出していく、そういう時を与えられています。私たちの人生を裏打ちしてくださる方として、主イエスが洗礼を受け、私たちのただ中に立っておられるのだということを、もう一度覚えたいと思います。 |
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