ただ今、旧約聖書のイザヤ書61章1〜3節までをご一緒にお聞きしました。1節に「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために」とあります。
この年、私たちの教会が最初に聞かされる御言(みことば)は、主なる神の霊、即ち、聖霊が降ってわたしを捕らえたという宣言の言葉です。「主なる神の霊がわたしをとらえた」、ここには確かにそう言われています。これは、主なる神をこの一年身近に感じられたら良いなあ、というような預言者自身の願いや希望を言い表している言葉ではありません。このわたしはここからの一年間を神の者として御言に従い歩んで参ります、という決意を言い表している言葉でもありません。そうではなくて、これは、わたしは油を注がれて捕らえられてしまったという事実を確認しているような言葉です。このところで預言者を捕らえ聖霊で満たしておられるのは、主なる神です。神が誰かを捕らえてその人の上に油を注ぎ、聖霊で満たすということは、人間の側の努力や熱心さによって起こることではありません。神が、それをなさるのです。ですから、ここで言葉を語っているのは預言者ですけれども、ここに語られている事柄、それ自体を行っておられるのは神ご自身です。神が預言者イザヤを捕らえて、ご自身に仕える者となさり、御言を語る者としておられるのです。
神が誰かを用いて御業をなさるという時には、予め、人間の側の都合や意向を尋ねるようなことはなさいません。その務めを果たすための充分な備えや用意があるかというようなことも尋ねられることはありません。そもそも人間が神の御業を自分で果たせるだけの充分な準備を予め整えておくなどということは、不可能なことだからです。私たちは、神から御業に仕え働くように求められた時には、神がきっと用いて下さることを信じ、感謝して与えられた務めに赴くのが願わしいことなのです。賤しく欠けの多い者を、それでも神が用いて下さろうとする、それは真に光栄なことなのです。
ここで預言の言を語っている預言者イザヤは、彼自身が充分な研鑽を積み、支度が整ったので、その仕上げとして聖霊を受けているというのではありません。自分の上に油が注がれ聖霊を受ける者とされているのは、彼のこれまでの歩みの結果や、彼自身の品性や資質が良いためではありません。全く不思議なことですけれども、地上に大勢生きている人間たちの中から、神がこの人物を選び、油を注いで預言者の務めに立てておられるのです。そういう神の不思議ななさりようについて、ここでは、こう語られるのです。「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた」。聖霊がわたしを捕らえたというのですから、わたし自身は捕らえられた者です。わたしの方が主人で、聖霊の求めに対して取捨選択をして、自分のやりたいことだけを行うというのではありません。捕らえられた者として、わたしを捕らえた聖霊が、この先一体わたしに何をさせて下さるのだろうかと期待を持ちながら、神の御業に仕えるようにされていくのです。それが、主に捕らえられた預言者の姿なのです。
イザヤ書のこのところは、そんな預言者の姿を私たちに語ってくれるのですが、思えば私たち自身も、主によって捕らえられた者たちではないでしょうか。私たちの頭には油ではなく、洗礼の水が注がれています。あの水は、私たちの頭の上で死の大水が満ち溢れ、私たちを一度すっかりと呑み込んでしまったというしるしです。私たちは洗礼によって一度死んでいるのです。洗礼の水は、私たちが古い自分には死んで、今、甦りの主によって生かされている新しい人として歩まされているのだということを表します。そして、水の洗礼を受けて私たちが古い自分に死んだ時、そして新しい主の僕として生きるようになった時、私たちの上には聖霊も降ってきているのです。自分の上に聖霊が降っているとは、とても実感できないとおっしゃる方が、あるいはおられるかもしれません。ですが、こうは考えられないでしょうか。主イエスが私たちと同じ洗礼を受けて下さったがために、主イエスの上に降った聖霊が私たちの上にも降るようになっているのです。主イエスが洗礼をお受けになる前と後で、洗礼の意味が変わったのです。
新年の第2週か第3週の礼拝で、マタイによる福音書3章13節以下の、主イエスが洗礼をお受けになった時の記事を聞く予定になっています。その時にも考えることになると思いますが、主イエスは元々、ご自身は何の罪もなかった方ですが、洗礼を受けて、私たち(罪のために死すべき者)と同じようになって下さいました。主イエスが洗礼を受けられるまでは、人間の洗礼というのは、自分自身の罪を認めて言い表し、それを洗い清めて、今からは神に本当にお仕えして生きる者になりますという、人間の側の決意表明の儀式に過ぎませんでした。しかし、人間の決意表明であれば、当然そこには人間の弱さゆえの限界があったのです。即ち、自分では清らかな者となって生きていきたいと、その時は強く願うのですけれども、そういう決意は長く続かず、いつも気がつくと従うべき神のことを忘れ、いつの間にか、神抜きで暮らしてしまうような弱さが、私たちにはあるのです。自分の思い通りにではなく、神の御心に従って生活しようと強く思っても、私たち自身の心の底には、抜き難いほど深く罪の根が入り込んでいて、いつの間にか自分中心の思いが頭をもたげてきて、私たちの全体を支配するようなところがあります。ですから、人間の決意表明としての洗礼は、それだけでは長続きしませんし、本当に清らかな者にもなり得ないのです。
ところが、主イエスが、そのような不完全な人間の悔い改めの業でしかなかった洗礼を自ら受けて下さり、私たちと同列の者の一人になって下さった時、洗礼はまことに清らかな、聖なる出来事に変えられました。私たちの受ける洗礼に、主イエスもまた、連なって下さったからです。
主イエスが洗礼を受けられると、私たちが一人でに天使のように無垢な者になるというのではありません。私たちはやはり、罪ある者の弱さを抱えた人間でしかありません。ですが、そのような私たちの同じ列に、主イエスが加わってくださったことで、破れと過ちの多い私たちの生活の中にも、主の御声が響くようになっているのです。そして、これまでは罪の中にがんじがらめに捕らえられて、神と何の関わりもないような生活を送っていた私たちの上に聖霊が降り、私たちが聖霊に満たされるようにもなっているのです。
マタイによる福音書3章16節17節に「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」とあります。主イエスが洗礼を受けて下さったことで、元々は私たち人間の決意表明でしかなかった洗礼が神に結ばれました。主イエスが私たちと同列の中を生きて下さり、そして主イエスが語って下さることで、私たちにも神の御言が聞き分けられるようになり、聖霊も私たちに降ってくるのです。
主イエスを通して私たちに語りかけられる御言は、主イエスご自身もお聞きになった言葉であり、また主イエスを通して私たちにも降る聖霊も、主イエスがご覧になったのと同じ聖霊です。即ち、私たちにも神は「あなたはわたしの愛する子の一人である。わたしの心に適う者である」とおっしゃってくださり、私たち一人ひとりを捕らえているのです。ですから、私たちはもはや自分の人生の主人ではありません。聖霊に捕らえられた時に、私たちは、自分の気ままに生きそして滅んでいくような歩みから、聖霊の導きに従って神の御言を聞き分けて生きる生活に導き入れられているのです。
イザヤ書の預言者は、御言を聞き分ける人になりたいとか、そのように努力すると言っているのではなくて、自分は聖霊に捕らえられているのだと述べています。この預言者がそうであるのなら、私たちも同じなのです。私たちも聖霊に捕らえられているのです。洗礼を受け、聖霊を注がれて御言を聞き分けるようにされている私たちは、この世の中にたくさん溢れている人間の言葉と、主イエスを通して語りかけられている神の御言が確かに違うものだということを弁えるようになっているのではないでしょうか。
私たちは、どうしてこの元日の、この早い時間にも拘らず、この場所に集まってきたのでしょうか。お正月に行くところがなくて暇つぶしに来たというのではない筈です。むしろ、一年の最初を、神を賛美し、御言に聞いて歩みだしたいと願って、ここに集まっているのではないでしょうか。そして神は、確かに私たちの上に聖霊を送り、御言を語ってくださり、私たちをこの年の新しい清らかな歩みへと遣わしてくださいます。イザヤ書の預言者に使命が与えられ、送り出されているように、私たちもまた、この年の生活を神の恵みの下に一歩一歩形づくっていくように送り出されるのです。
神の真実な恵みの下を生きていく時、たとえ目に見えるところでは、様々な貧しさがあったり、乏しさを抱えているようであっても、主イエスがその生活を共に歩んでいて下さるため、私たちは決定的に捨てられるということがなくなります。主が貧しい私たちと共に歩んでくださるという良い知らせが、私たちに絶えず語りかけられるのです。絶望して打ちひしがれている人とも、主イエスが共に歩んで下さいます。様々な困難な状況の下に置かれ、どうしても思い煩いから自由になれない人とも主は共に歩んで下さいます。
この預言者は、神の霊に捕らえられて、その後「わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために」と語ります。聖霊に捕らえられた人の歩んでいく先で語ること、それは、貧しい人、打ち砕かれた心、捕らわれている人、つながれている人に解放があるのだということを告げることです。そしてそれは、たとえそういう状況にある人とも、主イエス・キリストが共に歩んでくださるのだというところから始まるのです。
主イエスがどんな時にも共に歩んでくださるということを知らされる時に、私たちには、人生を生きる上での、ある落ち着きが生まれてくるようになります。そして、その落ち着きから新しい生活が生じるようになるのです。今までは、私たちは自分で何でも思い通りにしなければ気が済まないようなところがあったのですけれども、貧しい者とも、また囚われ人の不自由さの中にある人とも、主が共に歩んでくださるのだということを知らされた人は、今この状況の中で、自分に何ができるのかを考えるように変えられていくのです。そして、自分に今は変えることのできないものは、やがて神がその障害を取り除いてくださるようにと祈りつつ、待つことができるように変えられていきます。
別の言葉で言えば、神が今備えておられる恵みに目を開かれ、そして、神が最終的に結着をつけて下さる日を目指して、祈りつつ待ち望む者たちへと変えられていくのです。
そして、そのように変えられていく時には、私たちの装いも変わってきます。3節に述べられているような様子に変えられていくのです。「シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」と言われているように変えられていきます。主が共に歩んでくださることを知り、信じる人々は、悲しみを灰に代えて栄光の冠を頂くようになり、嘆きの中にあってもそこになお喜びを感じるようになり、暗い憂鬱な思いにあっても、主がそこに居て下さる賛美でいっぱいにされるのです。
そして、この地上にあって、神の栄光を照り返す「義の樫の木」と呼ばれるようになります。樫の木は、舟の背骨部分に当たるキールに使われる木材ですが、とても丈夫で、ただ硬いだけでなく粘り強い強さのある木です。キリスト者たちも、地上にあって、信仰ゆえの希望と愛を、粘り強くその身に担っていくのです。
神がすべてのことに結着をつけて完成して下さる日を遥かに仰ぎ見、見つめながら、私たちは聖霊に導かれ、御言を聞き分けて、この地上の生活を一歩一歩、歩んでいきます。その幸いな一周りの時を、神が今再び開いてくださったことを信じ、感謝と賛美をささげて、ここから歩みだしたいのです。 |