聖書のみことば
2016年1月
1月1日 1月3日 1月10日 1月17日 1月24日 1月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月1日主日礼拝音声

 誘惑
2016年1月第3主日礼拝 2016年1月17日 
 
宍戸俊介牧師 
聖書/マタイによる福音書 第4章1〜11節

4章<1節>さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。<2節>そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。<3節>すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」<4節>イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」<5節>次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、<6節>言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」<7節>イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。<8節>更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、<9節>「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。<10節>すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」<11節>そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 ただ今、マタイによる福音書4章1節から11節までをご一緒にお聞きしました。1節2節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」とあります。主イエスが悪魔から試みを受けられた、そういう記事です。これは、大変に大きな意味を持っている試練です。これまで、どこにおいても、また誰も経験したことのないほどの試練です。世の中には、優れた精神的遺産を残した人々がたくさんいます。そういう人々は、それぞれに何らかの意味で厳しい試練や誘惑に出遭い、それらを潜り抜けています。そういうことから言えば、危険で深刻な試練を経験したのは、主イエスお一人だけというのでありません。しかし、ここで主イエスが経験しておられる試練と誘惑が、殊の外、重大であるというのは、この試練の形の上での危うさや深刻さのゆえではありません。そうではなくて、この試練と誘惑の内容から考えて、これが真に大きな意味を持つ試練であったと言えるのです。

 先週の礼拝では、今日の箇所の直前のところをお聞きしましたけれども、そこでは、全く罪のない清らかな主イエス・キリストが、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになっておられました。主イエスがヨハネの許に出かけて行って、自分にも洗礼を授けて欲しいと申し出られた時、ヨハネは最初、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(3章14節)と大いに当惑していました。洗礼を、単なる清くなるための清めの儀式だと思えば、ヨハネが言った通り、罪のない清らかな主イエスが洗礼を受けて清くされる必要はなかったのですけれども、しかし、主イエスの御受洗には、それ以上の意味が込められていました。まことに清らかな神の独り子である方が地上においでになり、悔い改めを必要とする人間たちのもとにやって来られ「人間と同列の者になってくださる」ということが、主イエスの御受洗という出来事によって起きているのです。
 これは、別に言うならば、清らかな天と、私たちが生きて生身を引きずりながら生活しているこの地上とが、主イエスという梯(はしご)によって、一つに結ばれたということに他なりません。この主イエスというお方によって、私たちには、天と結ばれて生きる希望が生まれているのです。主イエスが私たちのところにまで来てくださり、共に歩んでくださり、神の御支配を繰り返し指し示し思い出させてくださるからこそ、私たちにとって、神がよそよそしい方にならず、近いところにいてくださり、慈しみと配慮を持っていつも私たちを持ち運んでいてくださるのだという信頼のうちに、私たちが生活を送れるようになっているのです。そしてまさに、主イエスが神と私たちの間の梯になってくださる方であるからこそ、今日聞いている「荒れ野の試練」と呼ばれる出来事がここに起こってきているのです。
 よく知られているように、このところで主イエスは、3つの事柄について試みを受けられました。しかし、この試みは形の上では3つであっても、その全体を通して問題となっている事柄は、結局一つです。その一つの事柄、一点を巡って、誘惑する者、即ち悪魔が主イエスにしきりと挑戦しているのです。

 では、その問題となっている一点とは一体何なのかと申しますと、それは、主イエスがこれから公の生涯全体を通して行おうとなさっておられる「十字架の贖いの御業」が、本当に意味を持つものとして成り立つのかどうか、ということです。誘惑を仕掛けてくる悪魔が問題にしているのは、洗礼を受けて、今から救い主としての働きを始められ、公生涯をここから歩もうとしておられる主イエスが、本当に救い主としての務めを担えるのかどうか、ということです。本当に神の御心にだけ従って、救い主の務めを終りまで果たすことができるのか、それとも誘惑に引っかかってしまって、志し半ばで、その清らかな使命を悪魔によって奪い取られてしまうのかどうか、ということです。
 このことは更に、私たちの側に引きつけて言うならば、本当に救い主が真実な方として立っていてくださるのかどうか、ということです。もしかすると、清らかな方が天の神の許から地上の私たちのところにまで降ってきて天と地が一つに結ばれているということが、ただの虚しい思い込みに過ぎないのではないか。私たちが救い主だと信じ頼りにしているお方は、実際には、上辺だけ、見せかけだけ、あるいは言葉だけのものであって、そこには神の御心に本当に従おうとする清らかさなど何もないのではないかということを、悪魔は証明しようとして、誘惑を仕掛けているのです。
 ですから、このところで、主イエスが誘惑する悪魔の試みを見事に退けられるか、それとも悪魔の誘惑に屈服してしまうのかということは、この方を通しての救いに与っている私たち自身の運命にも直接つながってきます。それで、主イエスが荒れ野で経験されたこの試みは、殊の外、重大なものなのだと申し上げました。この誘惑の出来事は、主ご自身にとってだけでなく、私たち自身にとっても重要な意味合いがあるのです。

 繰り返しになりますが、今日聞いている荒れ野の誘惑の出来事は、主イエスがヨルダン川で洗礼をお受けになった出来事の後、すぐそれに続く出来事として語られます。それは、このマタイによる福音書だけではなく、荒れ野の誘惑の出来事に触れている他の福音書、マルコでもルカでも同じです。洗礼者ヨハネがヨルダン川の岬に現れ、人々に悔い改めを勧めて、洗礼を授けています。するとある日、そういう群衆に混じって、主イエスもやって来るのです。そして、他の群衆と同じように、悔い改めのしるしであるバプテスマをヨハネから授けられます。そのようにして、主イエスは悔い改めを必要とする他の人々と同列に並び、同じ地平に身を置かれます。実は、このことが既に、主イエスの贖い主としての御業の第一歩になっています。罪と何の関わりもない、まことに清らかな方が、敢えて、罪を抱え、神からさまよい出し、神を見失って生活している人たちの同列に並んで、身を低くなさったのです。
 旧約聖書の詩編1編1節2節には「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」とあります。ここには「罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と席を共にしない者」が幸いである、と歌われています。ところが、主イエスは、ご自身は清らかであるのに、敢えて「罪ある者」たちのただ中にお立ちになり、共に席に着こうとしてくださいます。神の独り子でいらっしゃる方が、事もあろうに、神に背を向け神抜きで生活しているのが当たり前になっているような私たち人間のただ中にその身を置き、同じ立場に立ってくださるのです。
 そして、父なる神は、ご自身の独り子が敢えてそのように行動し、様々な困難と混乱に満ちている地上に天の永遠の御国の光を届かせようとなさった行いを、お認めになります。洗礼を受けて、水から上がられた主イエスの上に、天からの御声が響きます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。即ち、主イエスがこのようになさったことは、神の御心に適ったことであると宣言してくださり、こうして主イエスがここから十字架に向かって歩んでいく御業が開始されるのです。人間と同列に並び、人間の罪を背負って十字架におかかりになり、罪を全て滅ぼそうとなさる救い主の歩みが、ここに始められます。清らかな罪のない神の御子が、この地上では、罪ある者たちの責任を代わって担うために、敢えて罪ある者たちの立場にお立ちになります。そして、このことについて、父なる神と御子の間には、完全な同意が成り立っています。洗礼を受けたその時から、主イエスの歩まれる道は、ゴルゴタの丘の十字架へと続いていました。そして、そのことは父なる神の御心でもあったのです。

 こういう主イエスの御受洗の出来事を背景にして考えますと、どうして悪魔が荒れ野で主イエスをしきりに誘惑し、試みようとしたのか、その理由が分かります。それは、私たち人間の罪をご自身の十字架の上で滅ぼし、私たちを贖おうとなさる「神の御計画」を、崩そうとするためです。そのために、主イエスを誘惑して父なる神から離れさせ、十字架に向かう道から逸らせてしまおうとして、悪魔は盛んに主イエスに甘い言葉を聞かせるのです。
 実際には、神と主イエスが同意して行おうとなさっている計画を、誘惑によって挫くなど、悪魔自身にとっても身震いするほどの大胆な企てだったに違いありません。主イエスが神の御旨に従って十字架に向かおうとなさる、その志しを曲げさせてしまうことは、いかに悪魔といえども、困難な仕事であるに違いありません。人間業ではなく、悪魔の仕業としても不可能と思えることを、悪魔は敢えて大胆にも行おうとします。深く恐れおののきつつ、出来得る限りの策を弄し、知恵を働かせて、悪魔は主を誘惑しようと謀ります。しかし、その結果は、よく知られている通りなのです。
 主イエスが荒れ野で誘惑を経験されたことの意味は、おおよそ、そのようなことです。

 ところで、この機会に、なお2つのことを考えておきたいと思います。
 第一には、主イエスが荒れ野で誘惑を受けられたということ自体、何か釈然としないものを感じるかもしれないということです。主イエスは神の独り子であり、全知全能でいらっしゃるはずなのに、どうして、最初から悪魔が近づいてくることを拒否せず誘惑を受けられたのだろうと、その点が不思議でならないと考える方がおられるかもしれません。そのことについては、こう理解したいのです。即ち、主イエスがここで悪魔の誘惑に出遭われたのは、主イエスがそれほどにまで低く、私たち人間と同列に座ってくださったことの証しだということです。
 私たち自身は、皆それぞれに、人間であるが故の愚かさや弱さ、頑なさを抱えています。そしてそのために、どなたであっても、神の御心に完全に従って歩むことができず、いつも誘惑にさらされ、本当に覚束ない信仰の歩みであると、自らを振り返ってそう思わざるを得ません。しかし、それでも私たちが何とかキリスト者として生きることができているのは、主イエス・キリストがいつも共にいてくださるからです。主イエス・キリストに励まされ、伴われ、導かれ、守られているからこそ、何とか信仰生活を辿ることができているのです。私たちがそのように主イエスを身近に感じながら生活していくことができるのは、私たちの側から言えば、簡単に「主イエスが共にいてくださるからだ」ということですが、しかし、それは逆に言えば、「主イエスご自身が、それ程までに身を低くして私たちと同じになってくださり、私たちが経験する誘惑の中をも共に歩んでくださり、共に経験してくださり、そこから導いてくださるから」なのです。私たちは様々な誘惑に遭い、その誘惑に引きずられてしまいそうになりますが、しかし、それでも私たちは最後のところで、なお神のものとして歩むことができる、それは、主イエスが私たちと同じ誘惑を経験してくださるほどに、ご自身の身を低くしてくださっているからなのです。
 このことについては、ヘブライ人への手紙の中に、考えてみるべき2つの文章が書き留められていることを思い起こしたいと思います。一つは、ヘブライ人への手紙4章14節15節です。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。主イエスは試練に遭ってくださいました。ですから、私たちが経験する誘惑ゆえの苦しみや戦いをよくご存知であり、だからこそ、私たちの弱さに同情してくださるのです。こういう主イエスに伴われているからこそ、私たちは、愚かで弱く頑な者にすぎないにもかかわらず、キリスト者として、信仰生活を送ることができているのです。
 もう一箇所は、ヘブライ人への手紙2章18節です。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。主イエスが、私たちのために身を低くして私たちと同列に歩んで下さって、私たちが経験する試練、誘惑、悲しみや苦しみを共に経験してくださっています。その中には、悪魔が私たちを神から逸らしたり、神に向かって生きることを妨げようとする、そういう誘惑さえもあるのです。しかし主は、そういう私たちのために、身を低くして誘惑をお受けになったのだということを、何よりも覚えたいのです。

 そして第2に、念のため覚えておきたいことは、次のことです。即ち、確かに主イエスは悪魔から試みを受けておられるのですが、しかしこれは、主イエスが悪魔に支配され、悪魔によって抑え込まれてしまった結果なのではない、ということです。実は、主イエスは「聖霊」に動かされて、悪魔に出会っておられるのです。そう聖書は語っています。どの福音書を見てもそうですが、この誘惑の記事は、初めから終わりまで、聖霊によって導かれている出来事として語られています。今日お聞きした一番初めのところ、1節を見ますと「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。主イエスは、悪魔の支配の下で試みを受けておられるのではありません。聖霊の支配の下で、聖霊に従って、試みを受けておられるのです。
 このことは、聖書の中で、試練とか誘惑といったものが、どういう事柄として理解されているかということに関係しています。このことを弁えておくことは、とても大事だと思います。即ち、試練や誘惑の背後には、いつも神が立っておられるのです。私たちの経験する誘惑、試練もそうです。私たちは、生きている日々に、思いがけない出来事や思いを超える出来事に出遭い、なぜこんなことになるのか、一体神は本当におられるのだろうかと、つい疑ってしまうようなことを経験します。しかし、そういう試練や誘惑の一つ一つの背後には、悪魔の支配ではなく、神が本当の主として立っておられるのです。まさに神が、私たちを更に確かなものとするために、私たちを誘惑や試練に引きあわせるということがあるのです。
 聖霊が主イエスを引き回して荒れ野に向かわせ、悪魔の誘惑を経験させているのと同じように、私たちにもまた、神がまさにこのわたしの主であり、どんな試練の中でもわたしを導いてくださるのだと確信させるために、試練が与えられるのです。その中で、私たちは自分の弱さをしみじみと感じさせられますが、しかし、自分の弱さにもかかわらず、「神が確かにこのわたしを顧みてくださっている。とてもこの試練を通り抜けることはできないと思う、そういう私を持ち運んでくださる」、そのことを確信させるために、神は、私たちに試練を与えておられるのだということを覚えたいのです。
 試練には必ず、悪魔が関わってきます。しかしその際に、悪魔には、ただ一定の時があてがわれているに過ぎないことを覚えたいのです。聖書の中で、悪魔は決して神と並び立つような、自立した存在ではありません。悪魔は、結局は神に屈服し、短い操り紐で引き回されている、そういう存在にすぎません。そのことを覚えて、私たちは、歩んでいきたいのです。

 この年、どのような試練や誘惑に出遇うのか、私たちには分かりません。私たちの人生の中で、将来にどんな大変なことが待っているのかも分かりませんけれども、しかし、そういう出来事の一つ一つの背後に、神が働いておられるのだということを覚えたいのです。
 今日はこれから、成人祝福の祈りをいたしますが、新しい生活に向かっていく方々の将来にも、神が立っていてくださるのだということを、確かなこととして覚え、信じたいのです。
 試練の中に置かれる時、戦いの中に置かれる時、その戦いの大変さを経験しながらも、しかし、なお主イエスがそこに臨んでいてくださる、神が確かに私を持ち運んでくださるのだということを、今日のこの荒れ野の誘惑の記事を読みながら、確かなことと信じて、ここからまた歩み出すものとされたいのです。

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