ただ今、マタイによる福音書3章13節から17節までをご一緒にお聞きしました。
16節の言葉をもう一度繰り返してお聞きします。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。主イエスが洗礼を受けられたということは、4つの福音書全てに述べられています。もともとヨハネによる福音書は、他の3つの福音書と違う仕方で語っていますが、ヨハネが主イエスを証しして洗礼を授けたことが分かるような語り方がされています。福音書には、いずれも主イエスのご生涯のことが述べられているのですけれども、それぞれに個性があって、書かれ方が少しずつ違っています。4つの福音書全てに共通して述べられる出来事というのは、主イエスのご受難の出来事と、3日目の復活の出来事は勿論記されていますけれども、それ以外の出来事を探すと、案外少ないのです。ですから、この主イエスがヨハネから洗礼を受けられたという出来事は、大変重要な出来事だったということになるのです。4つの福音書がそれぞれの視点で主イエスの御業について語っていくときに、この出来事だけは決して落とすわけにはいかないと共通して見ている、そういう出来事だからです。
しかし、どうしてそんなに、この洗礼の出来事が重く受け止められるのでしょうか。そもそも、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになったということには、どういう意味が込められているのでしょうか。マタイによる福音書は、主イエスの御受洗について、他の福音書が伝えていないある消息について述べています。その消息とは、主イエスがヨルダン川の洗礼者ヨハネのところにやって来て、他の人たちと同じように自分にも洗礼を授けて欲しいと申し出られた時、ヨハネが最初は洗礼を授けるのをためらったという経緯です。13節から14節にかけて、そう述べられています。「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」。主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川においでになった時、ヨハネはそれを思いとどまらせようとしたのだと、ここに書かれています。そして、この顛末について語っているのは、4つの福音書の中でも、このマタイによる福音書だけです。
ですから、私たちが今日の聖書の言葉を聞く時には、他の聖書の箇所では出会うことのない一つの問いを抱くということになります。その問いとは「どうして、ヨハネが主イエスに洗礼を施すことをためらったのだろうか」という問いです。ヨハネが主イエスを思いとどまらせようとしたのは、一体何故でしょうか。そして、主イエスはそんなヨハネに何とおっしゃったのでしょうか。
ヨハネが洗礼を思いとどまらせようとした理由は、ヨハネ自身が語っている言葉の中に手がかりを見つけることができます。ヨハネは主イエスに、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と申し上げます。ヨハネは、もし自分が主イエスに洗礼を授けるようなことになったら、それは話があべこべだと思ったのです。「自分が主イエスに洗礼を授けるなんて、話が逆だ」と、本当は、ヨハネ自身の方が主イエスから洗礼を授けてもらうということでなくてはならないはずだと思ったのです。
しかし、どうしてそう思ったのでしょうか。それは、ヨハネが主イエスのことを「自分よりも後にやって来られる、より優れた方に他ならない」と考えたからでしょう。先週もお聞きした箇所ですけれども、3章11節で、ヨハネは「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言っています。ヨハネは、自分よりもはるかに優れた方が自分に続いておいでになることを、人々に伝えていました。その方がおいでになる時には、自分はその方の履物を脱がせる価値もないのだと思っていました。ところが、まさにその方が、ヨハネのもとにおいでになったのです。ヨハネにしてみれば、当時は奴隷の仕事とされていた履物の紐を解くことすら、もったいなくて自分にはできないことだと思ってきたのに、当のその相手から、悔い改めの洗礼を授けて欲しいと切り出されて、とんでもないと返事をしているわけです。「なんと恐れ多いことをおっしゃるのか。自分こそ、本当に清らかなあなたの前では、あなたに倣って神への信頼を教えられ、悔い改めを学ばなければならないのに、わたしから洗礼を受けたいなんて、それは話があべこべです。どうか思いとどまってください」、ヨハネはそう考え、行動しているのです。
ですから、ヨハネは洗礼を思いとどまらせようとしていることを通して、今、目の前に来られたナザレのイエスと呼ばれる方こそ、来るべき、自分より優れた方なのだということを、全力で証ししているのです。ヨハネは、ここでただ、主イエスに洗礼を思いとどまっていただこうとしているだけではありません。「本当なら、わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのです」と言っています。
ヨハネがこのように言う時、水の洗礼を受けようと思っているのではありません。11節で言っていたように、後から来る自分よりも優れた方は「聖霊と火で洗礼をお授けになる」のだと、ヨハネは教えていました。そうであるなら、ヨハネが「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきだ」と言っている、その洗礼は、聖霊と火による洗礼であるに違いないのです。
聖霊と火による洗礼とは、どういうことを言っているのでしょうか。ヨハネ自身の言葉を辿ってみると、11節の前後、10節と12節で、清めの火のことが述べられていることに気づかされます。10節「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」、また12節「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」とあります。両方から聞こえてくるのは、神の御前で、永遠に通用するものと、そうでない過ぎ去るものとが、分別されるということです。特に、10節の言葉は、サドカイ派やファリサイ派といった、上辺ばかりをさも信心深そうに取り繕いながら、本心では「今日の裁きはないだろう」と思って、今日を神の前に生きなくても平気だと慢心している人たちへの警告として語られている言葉です。上辺だけをどんなに信心深そうに飾ってみても、もし本当にその人が神に信頼して今日を生活しようとしていないのなら、上辺の飾りなど、あっという間に取り去られ、燃やされてしまうのです。本当に残るものは、上辺の見せかけではなくて、その人が本当に神に信頼し生活している、その信仰です。その人の上に聖霊が働いて、たとえかすかでも、からし種一粒ほどでも神への信頼がその生活の中に残っているかどうかが問題なのです。少なくともヨハネはそう考えて、「わたしこそ、あなたから洗礼を受け、全てが篩にかけられて、その場限りの取り繕いや見かけ倒しの敬虔さが全て燃やし尽くされても、聖霊によって清められている本当の信仰が残り、今後、その信仰によって生きる者にして頂きたい」と願っています。ヨハネは必死になって、自分が洗礼を授けるのではなく、自分の方こそ主から洗礼を受けさせて頂きたいのだと訴えるのです。
ところが、そんなヨハネに主イエスはお答えになりました。15節「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」。「今は、止めないでほしい」、そう主イエスがおっしゃったからには、主イエスはヨハネの必死の証しを理解して、それをその通りだと認めてくださっているということになるでしょう。「ヨハネよ、あなたはわたしが聖霊と火によって、洗礼を施す者だというのか、それは確かにその通りだ。けれども、今は、わたしがあなたから洗礼を受けることを止めないでほしい」と、そう主イエスはおっしゃるのです。主イエスは、ヨハネが人々に宣べ伝えていたことを誤りだと言って退けるのではないのです。「確かに、わたしは聖霊と火による洗礼を授ける者だ。永遠に通用しないその場限りのものや、上辺だけの見せかけのものを聖なる火によって焼き尽くし、その代わり、永遠の神の許からやってくる聖霊の働きで、あなたがいつも神と共に生きるようになる、新しい命をもたらす者だ。それはその通りだ。けれども、今は止めないで欲しい」とおっしゃいます。
そして、それに続けて、謎めいたことをおっしゃるのです。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。主イエスがおっしゃる「正しいこと」というのは、一体何でしょうか。ヨハネは、自分などが主イエスに洗礼を授けるなど、恐れ多いこと、正しいことではないと考えて、主イエスを思いとどまらせようとしているのです。他の人たちには、神の御前で悔い改め、神に信頼してここから生き始めるように勧めたヨハネでしたが、そんな彼自身、主イエスの前に出てしまうと、まだまだ本当には神に信頼できていない者であることが明らかになってしまうのです。宝石のイミテーションが本物の前では輝きを失って見えるように、ヨハネは主イエスと比べると見劣りがするのです。ヨハネが主イエスに悔い改めを勧め、洗礼を施すなど、とんでもないことです。
ところが、主イエスはヨハネにおっしゃるのです。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。ここで「正しいこと」と主イエスがおっしゃるのは、「主イエスが私たちと何もかも同じ立場に立たれること」を指して、このように言われているのです。悔い改めを必要とする人間、そして、神を忘れて生活することがあるため最後には神から離れて死の時を迎えなければならない人間、そういう私たちすべての人間と同じ立場に、主イエスもまたお立ちになるということ、それがここで「正しいこと」と言われています。
私たち人間は、この地上を生きていく時に、いつも暗い勢力に付きまとわれ、命を奪われる危険にさらされています。死と滅びの勢力が、いつでも私たちを呑み尽くそうと待ち構えています。そういう何とも危なっかしい人間の立場に、主イエスご自身もまた、その身を持ち運んでくださるのです。私たちの誰もがやがて必ず経験する死に対して、主イエスご自身もまた、私たちと同じように無力な者となって臨まれます。主イエスが洗礼を受けて水をくぐってくださった、その瞬間に、主イエスの上を死の水が覆ったその時に、主イエスはまさしく私たちと同じように死の勢力に対して全く無力で、完全に屈服した者の一人になられました。洗礼の水は、私たちの死を表すのです。
神がその独り子、罪の全くない方を地上にお遣わしになり、十字架にかけられるということは、私たち人間の理性からすれば、正しいことではありません。神に背を向け、神抜きで生きてしまう人間たちは、その弱さと頑なさのゆえに、遂には神から見捨てられ、滅んでしまわざるを得ないというのが、人間の理性で考えることのできる当然の成り行きです。洗礼者ヨハネも、そういう暗い見通しの下に、だからこそ、今日、本心から悔い改めて、神に信頼する歩みを始めるように呼びかけたのでした。
ところが、人間の考える正しさと神のお考えになる正しさは違うのです。人間がどんなに悔い改め、神への信頼に生きようとしても、私たち人間には、自分中心の罪の思いが抜きがたく根を張っているため、どうしても神への信頼だけに生きていけないところがあります。日曜日にこの礼拝の中で、あなたは神の民の一人なのだと聖霊を通して語りかけられ、「そうだ、もう一度ここから新しく歩み出そう」と志を与えられても、月火水と日を重ねていくうちに、私たちの神への信頼の気持ちというのは、次第にあやふやになり、怪しげになります。代わって、自分の思いをどうしても押し通さないと気の済まないようなところが頭をもたげてきて、遂には、「神に信頼して生活することなど自分には決してできないのではないか」という、絶望的な思いが私たちを捕らえるほどになってしまいます。
神は私たち人間の中に、そういう罪への傾きがあることをご存知で、それを憐れんでくださり、ご自身の正義を行ってくださいます。罪のない独り子を私たち人間のただ中に遣わして、滅びるべき人間の運命を、そっくりご自身の側に引き受けてくださいました。それが「神の正しさ」なのです。
ローマの信徒への手紙8章3節に、この神のなさりようについて述べられています。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。私たち人間が、自分の理性の範囲内だけで物事を考えるときには、神を抜きに生きてしまう私たち自身の罪の落とし前は、きっちり自分でつけなければならないことになります。そうすれば、どうしても私たちは、神に逆らう者、神抜きで平気で生きてしまった者として、その罪の責任を問われ、罪を断罪されて滅んでいく他ありません。ところが神は、そういう罪への傾きがあるために、本来ならどうしても死んで滅んで行かざるを得ない者たちを憐れんでくださり、惜しんでくださり、ご自身の独り子を、罪ある人間の同列に立たせ、この独り子を罰して十字架に磔にすることで、私たちの罪を処罰したことにしてくださったのです。そういう神の御業が行われていくことを指して、主イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいこと」なのだとおっしゃるのです。
この15節の主イエスの言葉は、マタイによる福音書の中では、特に重要な言葉の一つです。なぜなら、マタイによる福音書では、この言葉が、主イエスの口から語られている最初の肉声だからです。1章と2章では主イエスのことが語られてはいますが、当のイエスご自身は黙っておられます。3章に入って、初めて口をお開きになり、その最初の言葉が「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」という御言(みことば)なのです。まさしく主イエスは、神の正しさ、神の義を地上にもたらすために、この世においでになっておられるのです。主イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられ、罪ある人間と同じ立場に立たれたということには、神と等しい方が人間になられたというクリスマスの出来事を、更に一層具体的に表すような意味合いが込められているのです。
そして、そうであればこそ、主イエスがヨハネから洗礼を受けて、水から上がられた時、天が開いて、神の御言がそこに語りかけられるということが起きているのです。16節17節「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」。主イエスがヨハネから洗礼をお受けになり、人間と完全に同列にお立ちになった時、まさにその行いを励まし力づけるように天が開いて、聖霊の力が主イエスの上に降ってきたことが語られています。聖霊は、鳩のように降ってきたのだと言われています。それは、軒先に止まっていたり、庭で餌をついばんでいる鳩の姿ではありません。天高く飛翔している鳥の姿です。ですからこれは、天からの力が主イエスの上に降り、主イエスが完全に人間と同じ立場に立って歩み出そうとする行いを励まし、力づけていることを語っているのです。
そして、そこにはまた、天からの声も響きます。「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」。この時から、主イエスは、この世にあって公に神の独り子としての生活、公生涯にお入りになるのです。主イエスは、神の独り子として、この地上に「正しいことをすべて」実現していかれるようになります。それで、このところでは、神の愛する独り子であるということにすぐ続けて、「わたしの心に適う者」であると宣言されるのです。
主イエス・キリストがヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになり、水をくぐり、水から上がられ、そして開かれた天との関わりを持たれた、このことは一体何を意味するのでしょうか。それは、このところで、この主イエス・キリストという方を通して、「滅びの深みと救いの高みが一つに結び合わされた」ということに他なりません。別に言えば、「死をもって終わる、死に閉じ込められたこの世界が、尽きることのない命の世界に結び合わされた」ということに他なりません。
この方によって、激しい炎が燃やされ、天と地を隔てている分厚い壁が突き破られます。主イエスが火をもって臨まれる時、私たちは焼き尽くされてしまうのではないかと恐れてしまいますが、そうではありません。主の十字架の出来事によって、天との交わりを持つ、死を超える新しい命が、私たちにもたらされているのです。私たちを捕らえて離さない死の勢力に対して、命の神がそこに踏み込んできてくださり、命の光がそこに明るく照り輝くようになり、その輝きの中で私たちは生き、そして地上の生を終えて、やがて主が開いてくださった道を通って天の中へと入れられていくのです。この御業を通して、主イエスは、「正しいことをすべて行い、実現する」のだとおっしゃいます。
主イエスは、洗礼を受けられた時から人間と同じ者として歩き始めてくださり、十字架に赴かれ、また甦ってくださいました。それによって、天と地が結ばれるということが起こっています。しかし、ここに語られていることは、それで終わりではありません。マタイによる福音書が本当の福音として告げていることは何か。主イエスが最初の肉声として、まず口を開かれて、ヨハネの不完全な悔い改めの業に連なって、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃったことは、そこから先、どこに向かって行くのでしょうか。マタイによる福音書の一番終わりのところで、主イエスが何とおっしゃっておられるのか、その声も確かめてみたいのです。28章19節、20節です。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
ヨルダン川で神への完全な悔い改めを勧めながら、それでもなお、不完全な悔い改めの業しかできずにいたバプテスマのヨハネの許に、主イエスが来てくださり、洗礼をお受けくださり、最初の正しいことを実現してくださいました。そして主イエスは、火と聖霊による洗礼によって、まことに清らかなものとなるのだと、ヨハネに新しい生活を備えてくださいました。しかしそれは、ヨハネにだけ起こったことではないのだと、ここに言われています。「すべての民」が主イエスの許に呼び集められています。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださり、伴ってくださる主イエスの御業と御教えによって、罪を焼き尽くされ、清められ、私たちは神の民として持ち運ばれていくのです。そして、その主の御業に仕えるために、教会は、週ごとに公の礼拝を守り、洗礼を授け、また弟子として生きるために御言の説き明かしを語り続けているのです。
私たちが、今日ここで礼拝を守っている、このことが実は、主イエスが始めてくださった正しいことの中の一つなのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」、この言葉が、この福音書の中の主イエスの最後の言葉であることを、よく受け止めたいのです。この言葉は、誰かよその人に語られている言葉なのではありません。今日ここに集まっている私たちに、主イエスが語ってくださっているのです。
ヨハネとの間に最初の正しいことを実現して御業を始めてくださった主イエスが、私たちの生活にも、いつも伴ってくださっていることを覚えたいと思います。
教会の群れを通じて御言を教え、神の御心に従う清らかな歩みを地上に造り出そうとしてくださる主イエス・キリストが、この私たち一人ひとりに伴ってくださいます。そのことを覚えながら感謝して、私たちも、主に伴われている者にふさわしい歩みを、ここからまた、歩み出したいのです。 |