聖書のみことば
2024年12月
  12月1日 12月8日 12月15日 12月22日 12月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

12月29日歳晩礼拝音声

 ナザレの人
2024年歳晩礼拝 12月29日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第2章12〜23節

<12節>ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。<13節>占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」<14節>ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、<15節>ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。<16節>さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。<17節>こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。<18節>「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」<19節>ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、<20節>言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」<21節>そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。<22節>しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、<23節>ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

 ただ今、マタイによる福音書2章13節から23節をご一緒にお聞きしました。13節に「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』」とあります。マタイによる福音書は、クリスマスの輝きに満ちた喜びの出来事の直後に、あたかもそれを全て打ち消そうとするかのような、おぞましい出来事が続けて起きたことを述べています。ヘロデ大王が嬰児の命を狙っていることが、主の天使により、夢の中でヨセフに伝えられるのです。
 今日聞いている箇所では、ヘロデから命を狙われた主イエスが父と母に連れられてエジプトに避難したこと、ヘロデがベツレヘム近郊に暮らしていた2歳以下の男の子を虐殺させたこと、そして天使の知らせによってユダヤに帰って来た一家がヘロデの後を継いでいたアルケラオを恐れてナザレに引越しをしたことが次々と語られています。三つの短いエピソードが続けざまに語られるのですが、その一つ一つを見ると、結びのところでいずれも「預言を通して語られていたことが実現した」という言い方で結ばれていることに気づかされます。人間的な思いからするといかにもおぞましく辛く感じられる出来事であっても、その出来事を神が御存知でいてくださるのだ、ということが聞こえてきます。どんなに厳しく、また辛く感じられる状況の下に置かれる時にも、神は御自身の民の一人ひとりを憶えておられ、見守って支えていてくださるのだということが、今日の箇所の中から聞こえてくる第一の事柄です。私たちは、どのような場合にも、神の支えと保護を祈り願って良いのです。神が私たちの生活を見守ってくださるという時、それは指を咥えて、ただじっと黙って御覧になっているというのではありません。神は今日のところで、 夢の中に現われた天使を通じ、ヨセフに語りかけておられます。大変的確に、また明瞭な言葉でお語りになります。「エジプトに逃げ、わたしが告げるまでそこにとどまっていなさい」「起きて、子どもとその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい」とおっしゃいます。ヨセフは、その言葉に聞き従って行動し、難を逃れるのです。
 天使を通して神の御告げを聞いた時、ヨセフには、その言葉の意味をすべて理解できていたかどうかは分かりません。おそらくはすべてを理解できた上での行動ではなかったかも知れません。しかしそれでも、ヨセフには御言が必要でした。御言の導きがもしなかったら、ヨセフは自分の判断でエジプトに逃れることができていたかどうかは分かりません。また、エジプトからイスラエルに戻ることなく、ずっとエジプトで暮らし続けていたかも知れません。しかし実際には、ヨセフはエジプトに逃れ、そしてイスラエルに戻ってきます。それは彼が神の御言を信じて行動したからこそのことでした。
 神は決して沈黙したままで、わたしたちを眺めているだけの方ではありません。御自身の御心の深いところにある計画に従って、私たちに御言を語りかけてくださり、私たちそれぞれの人生を先へ先へと持ち運んでくださいます。神が御自身の民に御言を語りかけて、御心のままに私たちを持ち運び支え守ろうとしていてくださる方だということが、今日の箇所から聞こえてくる第2の事柄です。ヨセフが夢で天使から聞かされた言葉に聞き従って素直に行動して家族を守ったように、私たちも、銘々に語りかけてくださる御言に耳をそばだて、そして、自分に聞こえ、理解できた範囲において、その御言に聞き従って良いということが、今日のところには示されているのではないでしょうか。
 神が、御自身の民としてお選びになった一人ひとりを守り、支え、持ち運ぼうとしてくださいます。それは、私たちが今、この地上の領域を生きている間だけに留まることではありません。地上の生活を歩み終え、地上とは違う別の領域へと移されて行く時にも、神は御自身の御計画に従って固い交わりの内に一人ひとりを必ず憶えていてくださり、支え、持ち運んで行かれます。そのしるしとして、神は御言を私たちに語りかけてくださるのです。神は私たち一人ひとりをこの地上に生まれさせてくださり、その人生と命を支配し、守り支え、持ち運んで行かれます。御心の奥深いところに秘めておられる神御自身の御計画に従って、私たちの名前を呼び、一人ひとりに語りかけてくださり、配慮をもって、その人生を歩ませてくださいます。今日の箇所は、神がそのように一人ひとりの人間を支え、持ち運び、その家庭の歩みを御計画に従って先へ先へと導いておられる一つの例のような箇所なのです。その様子をこの記事の中に表されている一つ一つの場面から聞き取ってみたいと思います。

 まず最初の場面は、13節から15節に記されている、ヨセフが嬰児のイエス様と妻マリアとを連れてエジプトに逃れる場面です。主の天使が夢の中でヨセフに現れてエジプトに逃れるように勧めると、ヨセフは飛び起きて夜のうちに幼子と妻を連れてエンプトに逃れるという緊迫感を伴う出来事が語られています。ヨセフが夢の中で聞いた御言に従って行動できたことで一家は危難の中から助け出されました。この出来事について15節のところでは、これが旧約聖書ホセア書1章1節に語られていたことの実現であったと言われているのです。「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と言われています。
 「預言者を通して」と言われていて名前が伏せられていますが、これはホセアという預言者の言葉です。この言葉は、ここに語られている上辺だけを見ますと、神が嬰児の主イエスをエジプトに避難させて、然る後になってから、エジプトからイスラエルへ呼び戻したという事実を捉えて、この預言の実現だったと考えたくなるようにも思える言葉です。でも、実はそれだけではありません。元々のホセアを通して語られた主の言葉は、イスラエルが神によってエジプトでの奴隷状態から導き出して頂いたのに、イスラエルの民は恩知らずにも神に背を向け、銘々が好む偶像を大事に崇拝して生きる生活に精を出したというイスラエルの姿を非難する文脈の中に、この言葉が語られているのです。即ち、ホセア書11章1節2節に、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに 彼らはわたしから去って行き バアルに犠牲をささげ 偶像に香をたいた」と述べられているのです。これが、今日聞いているマタイによる福音書で、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と引用されている、元々の言葉の全体です。
 これは単純に神の御子である方がエジプトからイスラエルの地に呼び出されるということだけを述べている言葉ではないのです。せっかく神が御自身の民であるイスラエルの一人ひとりをエジプトの奴隷の生活から呼び出して神の民となって生活することができるように自由を与えてくださったのに、民の方はその神に感謝しないで背を向け、銘々の好みに任せて偶像に心を惹かれ、心を寄せて生きているという非難が、この言葉に込められています。そしてこれは、主イエスの命を狙い亡き者にしてしまおうとするヘロデ王や、王の疑いの矛先が自分たちの方に向かわなければそれで良いと考えて、無責任にもメシアはベツレヘムに生まれることになっていると言って、実際の聖書の言葉を一部わざと違えて王の耳に吹き込んだエルサレムの主だった人々のありように重ねられているのです。
 神は預言者ホセアの口を通して、「神は御自身の民イスラエルをエジプトから呼び出した」、「当然イスラエルは神に感謝して喜んで神に従うと思っていたのに、そうはならなかった」、「却って銘々が好みの偶像にひれ伏し、再び偶像の奴隷になってしまっている」という警告の言葉を発しています。

 人間が自分の気ままに歩んでしまう、自分好みの偶像に親しみ、それにひれ伏して生活するとしても、偶像は本当の神ではありません。従って偶像を拝むことで得られるのは、単なる気休めに過ぎません。王座に座る者であっても、本当の神にお仕えするのでなければ、平安を得ることはできません。第2の場面では、ヘロデの恐れと不安が牙を剥いて多くの痛ましい出来事が起きたことが述べられます。16節から18節のところです。ヘロデが占星術の学者たちにだまされたと知って怒ったことが語られていますが、これはあべこべだと言うべきでしょう。だまそうとしたのは、むしろヘロデの方であって、学者たちはその企みに気がついて、ヘロデと顔を合わせないようにしてエルサレムを通らずに自分たちの国に戻って行っただけなのです。しかしヘロデにしてみれば、占星術の学者たちを自分の手先として使い、嬰児の居場所を突き止めることに失敗した訳で、それに気がついて、迅速に二の矢を放ちます。即ち、学者たちから聞き出していた情報に基いて、ベツレヘム近郊にいた2歳以下の男の子を皆殺しにさせました。この時に殺された子どもの数は、研究者たちによって少しずつ人数は違うのですが、20人から30人ぐらいだったろうと説明されることが多いようです。もしヨセフがベツレヘムに留まっていたなら、主イエスもその中に数えられたに違いありません。
 この血生臭い出来事についても、神は御心を向けて嘆いておられることが旧約聖書の引用を通して語られています。ヤコブの最愛の妻でありベツレヘムの近郊で息を引き取り葬られたと言われるラケルが、この子どもたちの痛ましい出来事のために声をあげて泣いたことが語られます。18節に「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これは預言者エレミヤの口を通して語られた預言であると17節に言われています。エレミヤ書31章15節に出てくる言葉です。エレミヤという預言者は、南ユダ王国が滅んで多くの人々がバビロンに捕虜となって捕れて行かれたバビロン捕囚の事件を見聞きした人物でした。この預言の言葉も、元々はバビロンに多くの人々が連れ去られ、家から若い男たちが絶えてしまった情景を言い表している言葉ですが、しかしエレミヤはこの時、辛い嘆きだけを語ったのではありませんでした。捕囚の嘆きと同時に、神が今、嘆いている人たちに語りかけられ、そこに新しい始まりをもたらしてくださるという約束が与えられることを同時に告げています。エレミヤ書31章15節16節に「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む 息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る」とあります。激しい嘆き悲しみのさなかに、主がそこに新しい始まりをもたらしてくださるという約束が語られます。ヘロデの行ったむごい虐殺に際して、幼い我が子を喪った父母たちは嘆かずにいられません。神は両親たちの深い嘆きに御心を向けてくださいます。悲しみと嘆きが決して最終的なものではないことを、預言者エレミヤの口を通して語ってくださるのです。
 死は人間にとって誠に手強い敵ではありますけれども、それは最後の者ではありません。神が御自分の民を神御自身との交わりの中に置いてくださる時に、死の勝利は打ち破られて、命が勝利するのです。2番目の虐殺の場面の上に語りかけられているのは、そういう物語です。
 ラケルは子どもたちを永久に喪ったと感じて慰めてもらおうとしないのですが、主は言われるのです。「息子たちはやがて自分の国に帰ってくることになる。きっとそうなるのだ」と御自身の約束の言葉を語りかけられます。私たち人間の辛い悲しみと嘆きの現実に際して、神は沈黙して私たちを突き離されるのではありません。御言をかけて御自身の交わりの中に置いて、そこに新たな命の営みを持ち運んでくださるのが、聖書の神なのです。

 そして第3の場面です。ヘロデが亡くなると、天使が再び夢の中でヨセフに現れて語りかけ、イスラエルに戻ってくるように語ります。ヨセフはこの言葉を聞いてイスラエルに戻ってくるのですが、ヘロデの長男のアルケラオがエルサレムにいてユダヤを治めていることを聞いて不安を憶え、ガリラヤのナザレに行って、そこに住まうようになりました。主イエスがダビデの町であるベツレヘムでお生まれになりながらも、なぜナザレでお育ちになったのかという、マタイ福音書の説明がされている言葉です。これは「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言の実現だと言われているのですが、実はこのとおりの言葉は旧約聖書の中に出てきません。上の2つの預言のように、これはホセアだとかエレミヤの話だというような言い方で、誰かがこれを語ったとは言えない言葉なのです。
 しかし、ナザレという言葉によく似た言い方が旧約聖書の中に出てきます。それは士師記13章5節で、土師サムソンが母の胎内にいる時からナジル人として神にささげられているという言い方で出てくるのです。士師記13章5節に「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」と言われています。主イエスがナザレの人と呼ばれたのは、母の胎内にいた時からナジル人として特別な務めを与えられていたためです。「ナザレ」と「ナジル」というのは言葉遊びのようなものですが、ヘブライ語のアルファベットには母音がなくて子音だけしかないため、「ナザレ」と「ナジル」は同じ書き方になるのです。

 3つの場面を通して預言者の口を通して語られているのは、まず主イエスが命を狙われてエジプトに避難しなければならないことについては、神がこのようなことを行うヘロデとエルサレムの人々の悪事を見過ごしなさらないということです。人間の世界では力の強い者が弱者を虐げ、脅かすようであっても、神はそれを見過ごしになさらないのです。モーセを遣わして奴隷状態に置かれていた人々を奴隷状態から導き出されたように、主イエスを新しいモーセとして遣わしてくださり、私たちを救い出してくださることが最初に語られることです。
 まん中の場面では、ヘロデが力を振るい、幼子を皆殺しにして暴力による支配を見せつけていますが、神はそれを決してお認めにならず、そこに必ず新しい始まりを備えてくださる約束が語りかけられます。ラケルのように嘆くことが決して最後のものでないことが語りかけられるのです。
 そして最後の場面では、その新しい始まりをもたらす方として世に送られた方が、母の胎内にあった時からナジル人であり、そのことを表すようにナザレで育ち、「ナザレのイエス」と呼ばれるようになったことが語られています。ナザレのイエスというのは、実は、主に反対する人たちがつけたアダ名でした。「ナザレから何か良い者が出るだろうか」という格言があったように、ガリラヤのナザレは辺鄙な土地であり、そこからは決して預言者のような者は出ないと考えられていて、祭司長たちや律法学者たちは、主イエスのことを、「あれはナザレの出身だ」と殊更に言い立てて見下したのです。
 ところが実は、主イエスがナザレ人になったのは、母マリアの胎内にいた時から神に聖別されているナジル人だったからなのだと、今日の記事は語ります。ほんの嬰児にすぎないイエスの息の根を止めることなど雑作もないことだとヘロデは考えて兵士たちを送りました。しかし神はそんなヘロデの企みをすべて見抜いておられ、死のただ中に新しい命への道を開いてくださり、主イエスを、その御言に仕える特別な方としてお立てになるのです。

 クリスマスが過ぎて世の中が神のことを忘れそうになる時、私たちに語りかけられているのは、神が確かにこの世界の痛々しい嘆きの現実を見詰めながら、ナザレのイエスによって新しい命の業を始めてくださるのだという約束です。この主に伴われて、私たちは、この地上の日々を、一日また一日と辿る者とされたいのです。お祈りをささげましょう。
このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ