ただ今、マタイによる福音書1章18節から25節までをご一緒にお聞きしました。
18節に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。わずか1節ですが、ここにはたくさんのことが語られています。「イエス・キリストの誕生の次第」と始まります。主イエスは、忽然と現れたのではありませんでした。人間としてお生まれになったと言われています。マリアを母とし、またヨセフを父として、アブラハムの子ダビデの子として、その血筋の中に確かに人としてお生まれになりました。しかしながら、主イエスは単なる人間ではありません。母マリアの胎内に聖霊の働きによって宿られたことが、「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と述べられています。「聖霊によって身ごもった」というのは、この懐妊の出来事が神の御心により、また、神の御力によって生じたということを言い表しています。それ以上のこと、たとえば処女のままでの妊娠は果たして可能であるのか、というような生物学的な事柄については、何も語られていません。
今日風な物の考え方をする私たちは、処女受胎ということに、つい思いを向けがちです。おとめが聖霊によって身ごもることは本当に可能なのだろうかと、生物学的な発生という方向で物を考えてしまい、そしてそれは不可能だという結論を一旦自分の中で出した上で、ではなぜ嬰児は母の胎内に宿ることができたのか、この子の本当の父は誰なのかという問いを抱きがちなのです。そして、それを知るための手掛かりはないかと思いながら聖書の言葉を読んでしまいがちです。ですが、そういうことについて今日の箇所は何も語っていないのです。今日の記事は、そういう生物学的、科学的見地から何事かを語ろうとはしていません。全然違う、もっと別の事柄を言おうとして、この記事は記されています。
ここにはまず、神から遠く隔たり、すっかり断絶してしまっているようになっているこの世界のただ中に、神が御自身の独り子を送ってくださり、この世界を御自身に結び合わせてくださるという、神のなさりようが語られています。そして、そのように不思議な御業が行われる際には、そこで地上に生じる実際の出来事も、超自然的な奇跡という形を取るのだという考え方の下に語られているのです。ですから、神による御業がこの地上に起こっているという信仰が、ここに告白されている事柄です。
聖霊によって身ごもったということは、この嬰児が、既に母の胎内に宿ったその最初の時から神の子であったということです。つまり、この嬰児は生まれた時はただの人間だったけれども、その生涯のどこかで途中から神になったというのではないし、また、その死後に神として祀り上げられた訳でもないということを主張しています。この嬰児は母マリアの胎内に宿った、その最初の瞬間から、神の子でした。聖霊によって身ごもったという言葉は、そういう事情を言い表しています。
ところで、このマタイによる福音書の記事は、その神の子の懐妊の出来事を父であるヨセフの側から光を当てて語っているのですけれども、ヨセフがこの事実を知った時、彼は大変に衝撃を受け、そして、いいなずけのマリアをひそかに離縁しようとしたことが語られています。19節に「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。ヨセフは正しい人であったと言われています。ヨセフの正しさとは一体どんなことであろうかとよく取り沙汰されるのですが、それは、辛い衝撃を受けた中にあってもマリアと胎内の嬰児に対して配慮し、思いやりをもって行動しようとした、ということでありましょう。当時、婚約中の男女は、たとえ一緒に暮らし始める前であっても、夫婦と同じであると見なされました。従って婚約しているマリアがヨセフの知らないうちに懐妊して子を宿していることが表ざたになりますと、マリアは姦淫の罪を犯したということになってしまいます。その場合、マリアは石打ちの刑によって処刑される恐れがありました。もちろん目下の事態というのは、ヨセフ自身の立場から考えるなら、婚約中の男子としての面目は丸潰れです。ですがヨセフは、自分のメンツを第一にしてマリアを冷酷に突き放すのではなく、逆にマリアとそのお腹の中に宿っている胎児の命を第一に考えました。そういうあり方によって、ヨセフは、「あなたは殺してはならない」という戒めに従ったのですが、その点でヨセフは正しく行動できたことが、ここに語られている正しさであると思われます。もっともヨセフ自身の思い、ここには敢えてそのことに触れられていないのですが、しかしヨセフ自身の胸の内は非常に複雑であったろうことは想像に難くありません。
ところで聖書はここで、正しいヨセフの決心に対して、もう一つ別の方向からの介入があったことを語ります。20節21節に「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」とあります。正しい人ヨセフが決心をして彼なりの正しい道を進もうと考えていると、そこにそれとは違うもう一つ別な道が備えられます。天使が夢に現れて、マリアを離縁するのではなくて、信じて迎え入れるようにと語りかけるのです。この天使の訪れは、ヨセフに全く思いもしなかった道を示しました。思いがけない道が拓かれたと言っても良いかも知れません。悲しみと混乱を深くしていたヨセフに向かって、天使は、恐れずに妻マリアを迎え入れるようにと語ります。此度の出来事は聖霊の働きによって生じたことだからだと、マリアの受胎の秘密が明かされます。ヨセフはこの天使の言葉を夢の中で聞いて、これを信じるか信じないかのどちらかを選び取ることを迫られるのです。ヨセフは一体どうするのでしょうか。天使の言葉を信じるのでしょうか。それとも彼自身の苦渋の決断を先立たせて、人間である自分の考え通りの正しいあり方を押し通すのでしょうか。
夢の中での語りかけである以上、ヨセフが実際に行動を起こすのは眠りから目覚めてからになるのですが、ここには天使の語りかけの後に、尚、ひと言が添えられています。22節23節に「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」とあります。ヨセフの夢の中に天使が現れたこの出来事は、旧約のイザヤ書7章に語られている預言の成就であったことが述べられます。この預言は「インマヌエル預言」と呼ばれる預言ですが、「一人の嬰児の誕生によって神が御自身の子らに伴ってくださる」という預言です。
ヨセフはこの晩、大変に惨めな気持ちで眠りについていたに違いありません。信頼していたいいなずけに裏切られたという、やり場のない思いがあったでしょう。相手を責める気持ちと自分自身の不甲斐なさも感じたでしょう。またこれまで思い描いてきた喜びに満ちた将来がすっかり壊れてしまって、離縁して、これからは別々に人生を歩んで行くのだという苦い思いもあったに違いありません。そういう苦しい中で相手のことを思いやり、配慮に満ちた正しい判断をヨセフは下そうとしていました。けれども、それで喜びが生まれるわけではありません。ヨセフもマリアも惨めな辛さを抱えてここから歩む他はない、ヨセフが眠りに落ちた時点で抱いていた思いは、おそらくそんなだったのではないでしょうか。
ところが夢の中に現れた天使は、ヨセフが考えたのとはまるで別の道を指し示しました。それは、恐れずマリアを迎え入れるという道です。天使は言うのです。「此度のことは聖霊の御業である。即ち、神の御心によることである。マリアは男の子を産むことになるが、その子の名をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救う者になるのだ」と。
ヨセフは一体どうしたでしょうか。朝になり眠りから覚めたとき、ヨセフは天使の語ってくれた言葉に従い、妻マリアを迎え入れたことが24節に語られています。ごく手短に事実経過のみが記されていますが、しかしこのように実際に行動するためには、ヨセフはいくつもの障壁を乗り越えなくてはならなかったでしょう。世間体を乗り越え、またマリアを疑う自分自身の思いを乗り越えて、ヨセフは妻マリアを迎え入れ、マリアの夫、また主イエスの父になります。
ヨセフがこのような行動をとることができたのは、ヨセフの度量の大きさによるのではありません。夢に現れた天使の語りかけを聞いたからこそ、ヨセフはこのように行動しました。これは苦渋の経験に対して信仰が勝利した、信仰の勝利の記録なのです。この信仰は、しかし、ヨセフが自分の心の内で生み出したものではありません。天使の働きかけによって、ヨセフに与えられた信仰です。神は天使を通してヨセフに働きかけ、ヨセフに主イエスの父としての役割と使命をお与えになりましたけれども、務めを与えると同時に、その務めを果たすための力と希望を与えてくださるのです。
天使が告げてくれたとおり、マリアは男児を出産します。そしてヨセフはこの子をイエスと名付けたことが、今日の記事の最後に語られます。「そして、その子をイエスと名付けた」。「イエス」という名前は、私たちにとって大変馴染み深い名前ですが、旧約聖書では、この名前はヨシュアと記されます。出エジプトの出来事の後、荒野での40年間の生活をすごした後に乳と蜜の流れる地にイスラエルの民を導いて入って行った指導者がヨシュアでしたが、この名前は、「主は救いである」という意味です。
天使は生まれてくる嬰児にこの名前をつけるようにヨセフに語り、ヨセフもその通りに名前をつけたのですが、なぜ、この名をつけるように求められたのかが大事な点です。天使は何の理由もなく、イエスと名付けるように言ったのではありません。天使はヨセフに理由を告げました。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。「『主は救いである』という名前をこの子につけなさい。この子は自分の民を罪から救うからだ」と言うのです。この嬰児は神の救いを表す名前をつけられるけれども、それは、この子の民となる人々が、この嬰児によって罪から救われるからなのだと、そう天使は告げました。
私たちは日頃、イエス様の名前を何気なく口にしたり耳で聞いたりしていますけれども、この名前は信じる者を罪から救う名前だと言われているのです。「罪から救う、罪から救われる」というのはどういうことなのでしょうか。それはこの嬰児が、どこまでも私たち人間の罪に対して戦いを挑んでくださり、そして罪の支配下に捕らわれの状態にある私たちを罪から自由にして解放してくださるということではないでしょうか。
ですから、イエスというこの名前をよくよく考える時、私たちは人間自身の持っている可能性について、すべての楽観的な見通しが甘いということを思い知らされます。私たちは自分中心に生きてしまう罪に対して鈍感であり無力です。自分中心に物事を考えて生活するのが当たり前になっていて、神を中心にして生きることなど、とてもできません。神を中心に生活できないどころか、いつの間にか神抜きになって生きてしまっていることすら気づかない程、自己中心的なあり方が当たり前になっています。教会に来た時には分かっても、また日常生活に戻れば、私たちは自分が神から離れていることを忘れて歩んでしまいます。自分では神に忠実に仕えているつもりでいても、いつの間にかそこに自分の我が入り込んできます。神に仕えることも、自分の思い通りでなければならないと思ったりもするのです。それは、神とのつながりから言うと、つながりの切れた罪の状態の中に生きていることなのです。
ところが、そういう罪にすっかり捕らえられてしまって、いつの間にか神に背を向け、神抜きで生きるようになっている私たちを罪から救い出すために、一人の嬰児がお生まれになりました。「イエス」という、この嬰児につけられた名前は、まさにこの子が私たちを罪の支配から解放して神の側に取り返し、神のものとするためにおいでになった方であることを表す名前なのです。罪からの救いと、罪に対する決別をお与えになる方として、この嬰児は地上にやって来られました。ですから、この嬰児は生まれてすぐから、激しい戦いの中を生きられることになりました。生まれてすぐに、この嬰児を抹殺しようとする勢力が動き始めます。そのためにこの子は一時エジプトに避難しなくてはなりませんでした。マタイによる福音書のクリスマスの記事は、そう告げます。そしてまた、最後はエルサレム郊外のゴルゴタの丘に立てられた十字架の上にあげられ、「この世界にお前は要らない」と反発され亡くなっていきます。このようにして、この嬰児はその生涯にわたって人間の罪との戦いを戦っていかれるのです。「人間には例外なく、罪がある。神抜きで生きてしまう罪を、神は決して喜ばれない。あなたは新しく生きることができるのだ」、この嬰児はそういうメッセージを携える者として、「イエス」という名前をつけられたのです。
この嬰児が世界の中に人間としてお生まれになり、そして出会った人々を「わたしに従いなさい」と招いてくださるところに、私たち人間が罪から救われ、罪の支配から解放され、二度と罪に戻るまいという決心に生きる新しい生活が拓かれていくのです。
「インマヌエル、神が私たちと共にいてくださる」というのは、私たちには分からないけれども、どこか自分の近くに神がいて私たちを眺めていてくださるのだろうというようなあやふやな事柄ではありません。主イエスを通して繰り返し、「あなたはわたしのものだ。わたしのものとして生きるのだ。あなたは自分中心でやがて滅んでしまうような虚しい生き方をするのではなくて、あなたに与えられている命を生きるのだ」と、神が私たちに呼びかけてくださる、それがマタイによる福音書が告げる「インマヌエル」という事柄です。
この福音書の一番最後に、「すべての者をわたしの弟子としなさい。あなたがたに教えたことをすべて教え、それを守って生きるように導きなさい」という呼びかけが語られています。それこそが「インマヌエル」なのです。「あなたはわたしのもの、あなたはわたしの弟子として生きるのだ」と招かれているのです。
従って、クリスマスというのは、ただ楽しいだけの時ではありません。私たちがここからもう一度、今日の命を新しく生きるという決心を与えられ、主が私たちを訪れてくださり私たちと共に生きてくださるという呼びかけを聞いて、感謝して従う、そういう主の日がクリスマスなのです。
私たちに罪を離れて生きる決心を与えてくれるのが、「イエス」というお名前です。この方は既にこの地上にやって来てくださり、そして飼い葉桶から十字架までの御業を成し終えていてくださり、今もこれからも、終わりの日に至るまで、ご復活の主が私たちの名を呼んで、「わたしに従いなさい」と招いてくださるからこそ、私たちは、この主に感謝して一日一日の生活を生きる者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |