聖書のみことば
2024年12月
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月1日主日礼拝音声

 恵みの約束
2024年アドヴェント第1主日礼拝 12月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/エレミヤ書 第33章14〜16節

<14節>見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。<15節>その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。<16節>その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。

 ただ今、旧約聖書エレミヤ書33章14節から16節までをご一緒にお聞きしました。14節に「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる」とあります。
 ここでは一人の預言者の口を通して、主なる神が語っておられます。御自身の民である人々の上に「恵みの約束を果たす」とおっしゃってくださるのです。神が御自分の民の上に「恵みの約束を果たす」、そういう日が必ずやって来ると聞かされると、私たちは、どこかほっとした気持ちにさせられるのではないでしょうか。そして、こういう神の約束の言葉を自分の心の中に蓄え、繰り返して思い返し、支えられたいという気持ちになるのではないでしょうか。
 「恵みの約束を果たす日が来る」と神はおっしゃいます。ということは、神はこの世界のことも、またその中に生きている一人ひとりのことも決してお忘れではなく、また見捨ててもおられないということです。神は私たちのことを絶えず御心に掛けていてくださり、深い配慮のうちに、一つひとつのことを注意深く持ち運び実現してゆかれます。神がこの世界のために御心深くに抱いておられる御計画は、平和の計画です。災いの計画ではありません。神はそれを一つ一つ成就し、実現して行かれます。そのような神のなさりようの中で、今日私たちが耳にしている言葉も語られています。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る」と主は言われるのです。

 ところで、この約束は一体誰に向かって語られているのだろうかと思われるかもしれません。神はここで「イスラエルの家とユダの家」の上に「恵みの約束を果たす」のだと、おっしゃいます。するとこれはイスラエルの人たちとユダヤの人たちだけに関わる約束であって、今日ここにいる私たちには関わりがない言葉だと思われるかも知れません。しかし、そうではありません。ここには、「イスラエルの家とユダの家」と言われていますが、こういう言い方で、この言葉を取り継いだ預言者は、地上に拡がる神の民全体のことを思いめぐらし、こう言い表しているのです。そしてそこには、今日ここにいる私たちも含まれているのです。
 この言葉を私たちはエレミヤ書から聞いているのですが、エレミヤという預言者が活動したのは南ユダ王国の末期に当たります。エレミヤが活動した時代は、ユダ王国の王の名前で言うと、ヨシヤ王、ヨヤキム王、セデキヤ王の時代であり、ユダの最後の王であったゼデキヤを初めとするユダ王国の主だった人々がすべて捕虜としてバビロンに連れ去られてしまった「バビロン捕囚」と呼ばれる時代に、エレミヤは神の御言を人々に取り継ぐ預言者として立てられました。エレミヤの生きた時代には、もはや北イスラエル王国は滅亡していました。それにも拘らず、エレミヤがここで、イスラエルの家とユダの家についての預言の言葉を語っているということは、これが、具体的な歴史上の北イスラエルや南ユダという国や国民についての預言ではないということを表しています。「イスラエルの家とユダの家」ということで、預言者は、神の民に属する人全体のことを言い表しているのです。従って、今日ここで聖書からこの言葉を聞かされ耳にしている私たちに対しても、この約束の御言は語りかけられていることになります。私たちの上にも「恵みの約束が果たされる日がやって来る」ことを、聖書はここで語っているのです。

 しかしそれならば、預言者を通して神が語りかけてくださる「恵みの約束」とは、実際には何なのでしょうか。神の恵みは、一体どのように実現されてゆくのでしょうか。そのことについて、預言者は続けて語ります。今は南ユダ王国が滅びに向かっている時だけれども、やがて南ユダ王国、北イスラエル王国の祖先に当たる元々のイスラエルを治めていたダビデ王の子孫の中から、再び正しい王が立てられるという仕方で実現されるのだと語ります。15節に「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」とあります。「正義の若枝」と呼ばれるような一人の人物がダビデ家の血筋の中に現れ、公平と正義をもって神の民を治めるようになる、そんな日が来るのだと預言者は語ります。神の恵みは、そういう仕方で実現することになると言うのです。
 しかしこういう言葉を聞かされても、預言者エレミヤの時代の人々は果たして納得したのでしょうか。自分たちの上に恵みの約束が実現されるといくら聞かされても、今、ユダの人々の目に見えるのは、もう既に随分衰えてきているユダ王国が周囲の大きな国々によって圧迫され、侵略されて散々に蹂躙され踏みにじられているという現実です。先ほど、エレミヤの活動した時代は、南ユダ王国の末期であって、ヨシヤ王、ヨヤキム王、ゼデキヤ王の時代だと言いましたが、ヨシヤ王は、南の大国であるエジプトから攻め込まれて戦になった最中で戦死を遂げています。次のヨヤキム王は、そのエジプトの王ファラオが立てた王で、即ち、エジプトの支配下に置かれた傀儡政権でした。ところが今度はそのヨヤキム王が北の大国であるバビロニアから攻め込まれ戦になって、ヨヤキムは戦死ではありませんでしたが、戦争の最中に病気で亡くなるのです。戦はバビロニアの勝利で終了し、南ユダの最後の王であるゼデキヤは今度はバビロニアの王ネブカドネツァルによって立てられた傀儡でした。このゼデキヤは、最後はバビロニア王からの信用を失い、仕方なく反旗を翻して逆に侵略され敗北します。そして王を初めとする主だった人々、民を束ねる官僚たち、生活をさまざまに支える技術者たちが皆バビロンに連行されて、バビロン捕囚と呼ばれる時代に入って行きました。
 エレミヤという預言者は、そういう南ユダ王国の終焉の時、その場に居合わせました。バビロニアの軍隊にエルサレムが包囲されてしまい、今にも城壁が破られそうになっている状態の時に、今日の預言の言葉は最初に語られたのです。

 最初に語られたと言いましたのは、実は、今日聞いている33章の言葉は、元々エレミヤが語った言葉を、後の時代にもう一度振り返って思い起こしている言葉だからです。元々のエレミヤの預言は、エレミヤ書23章5節6節に出てきます。「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる」とあります。「正義の若枝」と「正しい若枝」と幾分か言葉が違っているところはありますが、この23章がエレミヤが語った元々の預言の言葉です。そしてこの言葉が語られた時、エルサレムはもはや絶対絶命の状況にありました。バビロニアの大軍によってエルサレムの都の城壁はすっかり包囲され、陥落寸前の時に、この言葉は語られました。
 元々はそういう状況で語られた言葉だったのですが、では、今日聞いている33章の言葉は、いつ、誰が語ったのでしょうか。実は、この言葉はエレミヤが語ったのではないと言われています。神殿が陥落してしまって、主だった人々がバビロンに連れ去られた時、エレミヤは主だった人とは見なされずにエルサレムに残されました。細かな説明を省きますが、そして間もなくエレミヤは、ある事情によってエジプトに移住せざるを得なくなり、そのエジプトで亡くなったと言われています。
 今日私たちが聞いている33章の言葉は、エレミヤではない無名の預言者がバビロンに連れて行かれた捕囚の人に向かって語っている言葉です。この預言は捕囚状態の中にある人たちに向かって語られています。エルサレムが陥落し、城壁が焼け落ち、神殿もすっかり壊されて金銀の祭具がすべてバビロニアへ持ち去られてしまった後で、今、捕囚の状況下に置かれている人々に対して、この神の約束の言葉が語りかけられているのです。

 しかしそういう状況でこの言葉が語りかけられているのには、一体どういう意味があるのでしょうか。そもそもエレミヤの語った預言に意味などあったのでしょうか。将来ダビデの家に正しい若枝、正義の若枝と呼ばれるような王が誕生することになると言われても、その数日後にはエルサレムの都が陥落して、ユダの王家はあっけなく滅んでしまったのです。
 エレミヤの預言を、「ゼデキヤが王である南ユダ王国はなお存続することができる。そして、その先の何代目かの王に正義の若枝と呼ばれる名君が生まれる」という預言であると受け取ろうとするならば、エレミヤの語った預言には意味がなかったということになるでしょう。エレミヤの予想は外れて、預言も実現しなかったということになってしまいます。
 けれどもこれは、エレミヤ自身も分かって預言していたのですが、この預言はゼデキヤの王座が存続することを語っている言葉ではありません。むしろ今のゼデキヤ王とは違う真に公平と正義を行う王がやがて現れることになることを、それはダビデの血筋から現れるのだということを語っています。そしてこの言葉は、今敵に攻められて城壁の中に立てこもっている人たちよりも、むしろ、遠くの国に捕虜として連行され、困難な状況の下を生きざるを得ない人たちにこそ、慰めと勇気をもたらした言葉なのです。エレミヤが語った言葉は、今敵に包囲されている自分たちが助かるという預言ではありません。もっと先を見つめている、そうであるからこそ、無名の預言者は、この言葉を大事に憶えていて、今、捕囚状況にある困難と苦しみを経験して痛みを憶えている人々に語りかけたのでした。
 「その日が来れば、主は一本の若枝をダビデのため、即ち、神の民のために生えさせてくださる」というのです。そして、この正義の若枝の下に生活する人々は、救いを知らされ、平安の下に置かれて生活するようになると言われています。そして、その生活は「主は我らの救い」と呼ばれるものになるのだと教えられるのです。
 実は、南ユダの最後の王となったゼデキヤ王は、その名前の意味を言うと「主は我々の救いである」という意味の名前です。あるいはもう少し正確に言えば、「主は我らの正義」であるという意味の名前です。しかし、この最後の王の本当の名前はゼデキヤではありませんでした。両親からつけてもらった本当の名前はマタンヤという名前です。ところがバビロニアの王ネブカドネツァルがこのマタンヤを南ユダの王座に上らせた時に、ゼデキヤと名前を改めさせたのでした。そこには、バビロンの王がお情けでユダ王国の存続を認めてやるのだという驕った思い、またユダに対する蔑みと嘲りの気持ちが込められています。バビロンの王がかける情けによってユダ王国は存続することができる、それがこの救いだと言って、バビロニア王はマタンヤをゼデキヤと名乗らせるようにしたのです。

 けれども、エレミヤが語った預言、そして無名の預言者が捕囚の民に語った預言は、神御自身がそのようなバビロニア王の企てを否定しておられる言葉です。バビロニアの傀儡の王が名乗らされた「ゼデキヤ」という仮の名前、偽りの救いに対して、神御自身が本当の救い主、本当のゼデキヤをお与えになるとおっしゃるのです。そして、こういう預言の言葉が指し示すとおりに神は行ってくださり、一本の若枝をダビデの家の中に生まれさせてくださいました。神は恵みの約束を果たしてくださり、一人の嬰児をこの地上に生まれさせてくださったのです。

 今日聞いている御言はエレミヤ書の中にあり、エレミヤの語った元々の言葉が下敷きになっていますけれども、この言葉を無名の預言者が受け継いで、エレミヤがもはやいないところで、捕囚状況の下にある人たちに語りかけている言葉であることを心に留めたいと思い ます。
 エレミヤが語ってくれた言葉を、この無名の預言者は神からの語りかけの言葉であると受け止め、そして、この言葉を繰り返し胸の中で唱え、忘れないように携えて、今捕囚の痛みと困難を憶えている人々の許まで持ち運んで行って、語り伝えています。
 私たちの状況に重なるところはないでしょうか。私たちも御言に触れ、その意味を知らされていく中で御言葉に慰められ、勇気づけられ、力を与えられるという経験をすることがありますけれども、そんな時、私たちはどうするでしょうか。神から頂く慰めを感謝して受け取りながら大事に持ち運んで、周りの人たちにもお福分けをするように、慰めや勇気や力をそっと手渡すようなことが、もしもできるのなら、それは大変麗しく、喜ばしいことではないでしょうか。33章の無名の預言者は、そういう働きをしているのです。エレミヤを通して神が語ってくださった御言が、確かに自分たちに語りかけられていることを聞き取って、それを持ち運び、今捕囚の苦しい状況にある兄弟姉妹に向かって、神が恵みの御業を実現してくださる日が来る、そしてダビデの裔から一本の若枝が立てられるのだと語っているのです。

 もちろん、私たちは神から頂く恵みを、そのままこの預言者と同じように隣の人に分け与えられる程には、神の恵みを十分分かってはいないかも知れません。私が以前に通っていた教会の牧師は、ある日曜日の説教の中で、主イエスという源から恵みの水はこんこんと湧き上がって溢れる程なのだけれども、悲しいかな私たちは、与えられている恵みの水を、小さな柄杓で掬って飲んでいるような者であると言っていました。人間的な実感としてはそういうものかもしれません。
 けれども、私たちが自分自身の能力や才能や力量に目を落とすなら、本当に貧しい者でしかないかもしれません。けれども私たちを遣わし、「神さまが共に生きてくださっている。神さまが恵みの業を実現してくださっている」ことを語らせるのは、私たちではなく、神御自身なのです。私たちは、神が御言によって慰め励ましてくださる中で、「あなたは自分の人生を生きるのだ」と聞かされ、自分に与えられている恵みを自分なりに、伝えられる範囲でお伝えしていけばよいのではないでしょうか。
 この預言者も、そのような神の働きの中に用いられて、エレミヤと同じような働きをする者とされていることを覚えたいのです。

 私たちは自分中心に物事を考え自分の能力や力量ばかりを問題にしがちですが、実際にはそのことに躓いてしまう者です。けれども私たちを生かそうとしてくださっているのは、命を与えてくださっている神です。神が今日、私たち一人一人に命を与え、人生を生きるようにとおっしゃってくださるのです。そしてその中で御言を聞かせてくださり、「あなたの人生に、恵みが実現する日が来る。わたしはあなたを今、持ち運んでいる。わたしが遣わした救い主を信じて生きなさい」と呼びかけられています。
 私たちを恵みの御業の下に置いてくださる神が配慮と慈しみをもって私たちの人生を持ち運び、私たちを、恵みを持ち運ぶ道具として用いてくださることを祈り求めつつ、与えられている日々の生活を心を込めて歩む者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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