ただ今、マタイによる福音書1章1節から17節までをご緒にお聞きしました。
1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。新約聖書の一番初めにあるマタイによる福音書は、系図をもって書き出すという、大変印象的な始まり方をしています。しかし、どうして系図をもって書き出されているのでしょうか。
日本語聖書には「系図」とありますが、この言葉は元々のギリシア語聖書では、「ゲネセオーの書」と書かれています。「書物」という文字と「ゲネセオー」というギリシア語、2つの言葉で書かれている事柄を、日本語聖書では「系図」と一言に訳しているのです。「ゲネセオー」とは何かというと、物事の始まりだったり起源だったり、あるいは誕生とか歴史と訳される言葉です。旧約聖書の最初の書物である創世記のことを、英語ではジェネシス、ドイツ語ではゲネシスと言いますけれども、そのゲネシスという言葉はゲネセオーから生まれています。創世紀は世界の誕生、その始まりについて書いてあるので、ゲネシスと呼ばれます。
けれども、マタイによる福音書もその同じ文字で書き出されています。ちなみに、今日の箇所の先のマタイによる福音書1章18節に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」という言葉が出てきます。「イエス・キリストの誕生」という言葉は、「イエス・キリストのゲネシス」と書いてあるのです。カタカナの多い話をしてしまい申し訳ありませんが、何が言いたいのかと申しますと、この福音書を書いたマタイは、どうやら主イエス・キリストという方の誕生によって世界の新しい歴史が始まったということを印象づけようとしているらしいのです。もう少し踏み込んで言うと、マタイは新しい創世記を書こうと考えているらしいのです。それでわざわざ、ゲネシスとかゲネセオーという言葉を用いているのです。
また、マタイは、創世記を書こうとしただけではありません。この福音書をずっと読んで行きますと、ところどころに主イエスが弟子や群衆たちに向かってまとまって説教をしている箇所が出てきます。まずは5章から7章にある「山上の説教」と呼ばれるものが有名ですが、その先の10章には、12弟子を伝道の働きに派遣する前にその心得を教えているので、「派遣の説教」と呼ばれるものがあります。3番目は13章で、ここは有名な「種まきのたとえ話」から始まる説教で「たとえ話による説教」と言われます。4番目は18章で、兄弟愛を教える言葉が並んでいて「教会生活の心得の説教」と言われます。そして5番目が最後なのですが、23章から25章にかけて、終わりの日、終末について語られていて、「終わりの日、終末についての説教」と呼ばれます。
マタイによる福音書には、そういう5つのまとまった主イエスの説教があるのですが、これは、旧約聖書のモーセ五書に合わせていると言われています。旧約聖書の中では、最初の5つの書物(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)をモーセ五書と呼んで、ユダヤ人たちがとても大事にしていました。それに合わせて主イエスも新しい教えとして新しい説教を語っている、仮にそれが正しいとしますと、この福音書を書いたマタイは、新しい創世記を書こうとしただけではなくて、この福音書全体で新しいモーセ五書を書こうとしたとも言えるのです。モーセ五書というのは、ユダヤ人たちにとっては生活一切の土台となる基本的な教えでした。マタイはまさに、この福音書がキリスト者たちにとっての生活の土台となり、基本になる教えだと思って書いている節があるのです。マタイにとっては、キリスト教会がまさに新しいイスラエルの民であって、主イエスにいつも伴っていただき、主イエスによって救いに入れられ導かれ、また清められて生活してゆく群れであると考えていたのです。旧約のイスラエルの人たちが自分たちは神の民だからモーセ五書を基本にして生活していたのと同じように、マタイは、自分たちは主イエスによって救われた新しい神の民だから主イエスの新しい言葉を聞いて生きていくのだと考えて、マタイ福音書を書いたと言ってよいだろうと思います。
旧約聖書で言えば、一番初めの創世記の先頭には天地創造の出来事が記されています。よく知られているように、神は7日間をかけてこの世界全体をお造りになり、最後の7日目には、でき上がった世界全体を御覧になって「これは良い。すべて良い」とおっしゃって喜ばれ、その喜びの集いに私たち造られた者たちも招かれて、安息日が定められていました。神の天地創造の業、7日間というのは、たまたま一週間かかったということではなくて、7日目の神の喜びに向かっているようなところがあります。7日目が創造の業のクライマックスになっているのです。
マタイによる福音書のクリスマスの記事もそれと似たところがあって、創造の7日目に当たるクライマックスはどこかというと、主イエスが実際にお生まれになる出来事です。マタイ福音書の主イエスの誕生の記事には、マタイにとって、まことに決定的となるような大変重要な言葉が語られています。それは「インマヌエル」という言葉です。この言葉はマタイ自身が説明していますが、「神さまが私たちと共におられる」という意味で、元々は旧約の預言者イザヤが語った預言ですが、新約聖書ではマタイによる福音書に一回だけ登場します。新約聖書全体の中で僅か一回しか出てこないのですが、この言葉がマタイにとっては大変重要な意味を持っていて、この言葉がこの福音書全体を貫いているし、この言葉のためにマタイは福音書を書いたと言っても良いくらい、重要な言葉なのです。
「インマヌエル」というのは、「神さまが私たちと共にいてくださる。いつも伴っていて、私たちを御覧になっておられ、また、支え助け、救ってくださる」ということなのですが、マタイによる福音書を終わりまでずっと読み進んで行きますと、一番終わりにあるのは、主イエスの伝道命令と呼ばれる約束を語る言葉です。マタイによる福音書28章19節20節に、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とあります。主イエスはここで、「インマヌエル」という言葉は使いませんけれども、一番最後におっしゃっている「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という事柄は、まさしくインマヌエルということです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だからあなたたちは、このことを土台として生活していきなさい」、「わたしがあなたがたに教えたことを一つ一つ憶えて、兄弟姉妹と共に生きていきなさい。主イエスが共にいて新しい生き方を教えてくださっている、そういう生活が今、まさにここで始まっている。主イエス・キリストにいつも伴っていただき、命を支えられている私たちキリスト者こそが、新しいイスラエルであり、まことの神の民なのだ」ということを、マタイは、この福音書全体を通して訴えているのです。
ですから、マタイによる福音書1章のクリスマスの記事では、23節に語られている「インマヌエル」という言葉が最も大事な約束の言葉であって、そう考えると、23節が天地創造の7日目の安息日に当たるような言葉だということになります。
そう思いますと、今日聞いている1節から17節は、言ってみれば、神が黙々とイスラエルの民を持ち運んで、主イエスの誕生まで導いてくださった歴史です。神がこの世界を1日目から6日目まで一つひとつ持ち運んで造ってくださった、神の創造の御業に当たるような箇所だと言えるのではないでしょうか。
かなり長い前置きになりましたが、そんなことを申し上げた上で、神がどのようにイスラエルの民を持ち運んでくださったのかを聞き取ってみたいと思います。
まずは1節で「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」という書き出しの言葉が記されています。神は天地の一切を一瞬で造られたのではなくて、丹念に6日をかけてお造りになりましたが、それに似て、インマヌエルということも忽然と降って湧いたような出来事ではないことを、この書き出しの言葉は伝えてくれています。
アブラハムの子、ダビデの子と言われています。アブラハムという人物については、そういう名の個人が実在したということを疑う人も多くいまして、これはもしかすると一人の人間ではなくて、一つの祖先や集団を表しているのではないかと考えている人もいるのですが、たとえ個人であれ集団であれ、アブラハムはおおよそ紀元前2000年ぐらいに地上を生きたらしいと言われています。アブラハムは、たとえ個人ではなかったとしても信仰の祖先であることは間違いないので、信仰者の父と呼ばれます。しかしなぜそう呼ばれるのでしょうか。創世紀12章3節に「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と神からアブラハムに約束してくださった言葉が記されていて、アブラハムはその神の約束を信じて旅を始め、神を信じて生活した最初の人だったからです。ですから、主イエスの系図の一番最初にアブラハムの名前が出てくるのです。
次に名前が出てくるダビデは、これはもう間違いなく歴史上の人物で、紀元前1000年頃にイスラエル王国とユダ王国の王となった人物です。エレミヤ書にある預言の言葉に、神がきっとダビデ家の血筋の中から「正義の若技」と呼ばれる人を生まれさせてくださるという約束が語られていました。バビロン捕囚という苦労ばかり多く、虚しさが募りそうな生活の中で、多くの人々が慰められ、勇気づけられ、希望を与えられたのが、神がダビデに対してなさってくださった約束でした。捕囚の民は、正義の若枝と呼ばれる人が生まれてくることを預言の言葉を通して繰り返し聞かされ、慰められ、今を生きることには意味があるということを教えられていました。「やがてインマヌエルと呼ばれ、また、正義の若技とも呼ばれる方がこの地上に実際にお生まれになる」、このことを神は、ダビデであれば1000年、アブラハムであれば2000年も昔から人々に語ってくださっていました。神は、アブラハムから始まって綿々とつながる人たちに祝福を告げられ、辛抱強く、その歴史を持ち運んでくださいました。マタイはそのことを表そうとして、主イエスの系図から始めているのです。
私たちは今、紀元2024年12月を生きていますから、主イエスの誕生を挟んで、アブラハムと私たちは、丁度4000年も隔たっていることになります。そう考えますと、私たちが今、聖書の言葉に耳を傾けているということは、神が実に4000年もの間、私たち人類を支え、辛抱強く持ち運んでくださっているということです。ここには、その前半の2000年、即ちアブラハムから主イエスへと至る人間のつながりが語られています 数多くの名前が登場していて、その中には、私たちが聖書の中で見聞きする名前もあれば、まったく聞かない人の名前も出てきます。
この系図をどう見たら良いのでしょうか。17節を見ると、3つの時代に分かれているらしいことが分かります。まずアブラハムからダビデまでの14代、そしてそのダビデからバビロン捕囚されて行ったエコンヤまで14代、最後は捕囚の生活に入ったエコンヤから数えて主イエスまで至る14代という風に、時期が分けられています。
それぞれが14代となっていますが、これは7の2倍という意味があります。7というのは聖書の中では完全数と考えられていて、すべてが満たされるという意味があります。その7を2回繰り返していますから、「より完全に時が満ちる」という意味で14という数字が数えられているのです。これは、私たちの目から見て良い時代も悪い時代も、時が満ちるということが起こるのだと教えてくれているように思います。良いことも悪いことも永久に続くものではありません。私たちは、「時が満ちていく」、そういう中で過ごしています。
それぞれの時代について、まず先頭のアブラハムからダビデに至る14代というのは、神が最初にアブラハムの旅に伴って祝福を約束してくださったところから始まって、タビデがユダとイスラエルの王となるまで真実に約束通りに事を持ち運んでくださった良い時代であると言えます。アブラハムを初めとして、人間の側が神の約束を信じなかったり、忘れてしまったりして、その度に色々な失敗が起こりましたけれども、人間の有り様がどのようであったとしても、神の側は忠実に御自身の民を持ち運んで、守り導いてくださったのでした。それが最初の14代です。
その次のソロモンからエコンヤ、このエコンヤは旧約聖書の中ではヨヤキンと呼ばれる王ですが、このまん中の14代は、一言で言えば、神の憐れみの深さと慈しみの大きさに人間の側がすっかり慣れっ子になって、神に背を向けて平気で生活してしまった堕落の時代と言えます。この時代の先頭に名前が出てくるダビデの子のソロモンは、エルサレム神殿を建設し、また経済的にも繁栄して巨万の富を手にした人です。人間的な言い方をするなら、イスラエルの王の中で誰よりも豊かな王でした。しかしその反面、豊かになったために、王宮にハーレムを作り、世界中の美人を集めて側室とした結果、外国から集められた妃たちが、それぞれに自分の故郷の神々を持って来て宮殿で暮らし始め、最後にはソロモンもそれにつられて偶像礼拝をするようになったと言われています。イスラエルとユダの偶像礼拝はどこから始まったかというと、このソロモンから始まっています。国の中心である王宮から偶像礼拝が始まってしまった、そういう意味でソロモンは、功罪相半ばする人です。そして、人間の常として権力者たちは、自分の悪い面は包み隠し良い面だけを他人に見せようとしがちですが、神に対しては、そういうことは通用しません。神はすべてを御覧になり、そして、14代かけて、つまり時が完全に満ちた時、ソロモンから始まったすべての王たちの責任を問われ、南ユダ王国は滅亡して、バビロンへ捕虜として連行されるバビロン捕囚と呼ばれる出来事が起こります。11節に言われている、エコンヤとその兄弟たちのバビロン移住というのは、単なる引っ越してではなくて、捕囚の出来事を表わしているのです。
そして最後のエコンヤから始まる時代は、ダビデ以来、エコンヤまでがユダの王でしたけれども、捕囚された後エコンヤは王でなくなり、ただの捕虜として生活するようになります。そして、ここに最後に記されている14人は無名の人たちです。まん中の14代が堕落しながらも歴史の光の中に置かれ脚光を浴びていた時代と対照的に、この最後の14代を暗黒の時代と呼ぶ人もいます。誰がどんな人だか分からないからです。
しかし神は、どんなに人間が堕落しても、また社会の隅の方に押しやられて目立たないようになっても、一人ひとりになお目を留められ、辛抱強く、また真実にその人生に伴ってくださり、支えてくださるのです。イスラエルの民はバビロン捕囚から解放されてユダに戻ってくることができましたが、しかしヨセフのことを考えますと、元々のダビデ一族の土地であったエフラタのベツレヘムには戻ることができず、ガリラヤの山里でひっそりと息をひそめるように生きていました。けれども、そういうヨセフを神は決してお忘れになりません。
今日の系図には、まだ数々の人間の失敗や破れの歴史が書き込まれています。けれども、この系図の最も大事なところは、たとえ破れや失敗が多く見受けられるとしても、神はそれを理由に御自身の民となさった人間たちを見限ったり、見捨てたりはなさらないということです。今日の系図は、人間の破れに満ちています。ため息やうめき声が聞こえてきそうな、そういう系図です。ここに持ち運ばれている人間の歴史は、本当に脆く弱い歴史です。しかし神は、それを尚、先へ先へと持ち運んでくださり、そして最後に、「インマヌエル、神我らと共にいます」という真実を賛美することへ導いてゆかれる、そういう系図なのです。
思えば今日、私たちがここに集められていることもまた、神が御自身の民を真実に持ち運んでおられることの結果だと言えるのではないでしょうか。系図のところどころに人間の失敗が描き込まれているのにも似て、私たち一人一人の人生の中にも、振り返って考えれば、決して輝かしいことばかりに満ちているのではないはずです。私たちもまた、多くの失敗の傷跡があり、痛みの思い出を抱えて生きているのではないでしょうか。それでも神はなお、私たち一人一人に神として向かい合ってくださり、私たちを御覧になって、「あなたはわたしのものだ」とおっしゃり、私たちの人生を先へ先へと持ち運んで行かれるのです。
私たちまたまた、「世の終わりまで、あなたと共にいる」とおっしゃってくださる神に信頼し、主イエスの御言葉を聞いて、それを心に留めながら、主に喜ばれる新しい歩みへと押し出されたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |