2023年12月 |
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12月3日 | 12月10日 | 12月17日 | 12月24日 | 12月31日 | ||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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奉献 | 2023年 歳晩礼拝 12月31日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第2章22〜40節 |
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<22節>さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。<23節>それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。<24節>また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。<25節>そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。<26節>そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。<27節>シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。<28節>シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。<29節>「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。<30節>わたしはこの目であなたの救いを見たからです。<31節>これは万民のために整えてくださった救いで、<32節>異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」<33節>父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。<34節>シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。<35節>――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」<36節>また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、<37節>夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、<38節>そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。<39節>親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。<40節>幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。 |
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ただ今、ルカによる福音書2章22節から40節までをご一緒にお聞きしました。2人の人物が、エルサレム神殿に奉献のために連れて来られた主イエスとの出会いを与えられ、大いに深く喜んだ出来事が報告されています。この2人、即ちシメオンとアンナの喜びは、将来を垣間見せられた預言者の喜びです。 シメオンが実際には預言者の働きをしていながら、そう名乗らなかったのは、当時のエルサレムを支配していた人々のあり方に理由があったと思われます。当時というのは、今日の箇所から分かるように主イエスがお生まれになって間もない時ですが、当時、エルサレムでユダヤの王として君臨していたのは、最晩年にさしかかっていたヘロデ王でした。この王は大変な小心者で、疑り深く、また乱暴で残忍なことで知られていました。マタイによる福音書の記すところでは、生まれたばかりの幼子イエスを自分の王座を脅かす敵と考えて、ベツレヘム付近にいた2歳以下の男の幼児を皆殺しにするという命令を出すような暴君でした。そして当時のエルサレムは、そのような世俗の王と折り合い、エルサレム神殿の大祭司や高い地位にある人々は、自分の保身と私腹を肥やすことに熱心でした。 しかし肩書の有無に関係なく、シメオンは明らかにこの日、預言者として主イエスの将来を語りました。その言葉が29節から32節に、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と言われています。このシメオンの言葉は「ヌンク・ディミトゥス」と呼ばれます。ラテン語聖書で、このシメオンの言葉の最初に出てくるのが、「今、去らせてくださる」という単語で、それが「ヌンク・ディミトゥス」です。シメオンがこの時語った最初の言葉は、「今、自分はこれで安らかに去ることができる」というものでした。ここには、何とも言いようのない、シメオンの深い安堵と感謝の満ち足りた思いが込められています。それというのも、26節に「そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」と述べられていたからです。おおっぴらに名乗りはしなくても、シメオンは預言者でした。 ところが、そういうシメオンは、主イエスが奉献のために連れて来られたこの日、何とも言えない安らぎに満ちた言葉を語りました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」。この時までシメオンは、このままでは死んでも死にきれないと思ってきました。しかし今、幼子主イエスと出会った時に、「これで安らかに人生を終えることができる」という確信を与えられました。自分の目が神の救いを見たのだと言います。一体どうしてシメオンは、このような思いを抱くことができたのでしょうか。 しかしそれはそれとして、大変不思議なのは、私たち自身も、毎年クリスマスの時には、このシメオンと同じことを言い表しているのではないかと思わされます。即ち、飼い葉桶の中に横たえられた乳飲み子を憶えながら、「まさにここに、私たちのために世に来てくださった救い主がおられる」と言って、神の御業をたたえる礼拝を捧げているのではないでしょうか。 ところで、あまり目立たず、つい読み過ごされがちな言葉が出て来ます。それは、シメオンからこのように語りかけられた時の父ヨセフと母マリアの姿です。33節に「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた」と述べられています。確かに誰であっても、いきなりシメオンの言葉のように挨拶をされれば驚くことでしょう。そう思うので、この言葉は、つい読み過ごしてしまいがちなのですが、実は、この記事はクリスマスの出来事にすぐ続く出来事として語られています。そうであれば、1ヶ月ほど前のクリスマスにあれ程大きな出来事を経験していたのに、ヨセフとマリアは一向にその出来事の意味を悟っていないようなのです。まるで、生まれてきた赤ん坊はどこにでもいる赤ん坊だと思っているかのようです。 シメオンは、この救い主について、更に両親に語って聞かせます。「この救い主によってもたらされる救いは、決して世の中で言われている気休めのようなものではない。この救いは、神さまの力をもって人々を倒したり立ち上がらせたりする。またこの救いは、人々から反対を受けることもあり、そのために、あなた自身はとても辛い思いをすることになることもあるだろう」と語りました。35節には、母マリアが剣で心を刺し貫かれる程の辛さを味わうことになるとさえ言われます。 今日は一年の最後の主日として礼拝をささげています。こういう季節になると、私たちはつい、この一年が良い年だったか悪い年だったかということを考えがちになります。けれども、今日の箇所でシメオンが伝えている、「救いがここに来ている。本当の慰めが与えられた」と言っていることは、一つ一つの事柄の良し悪しを言っているのではなく、たとえ出来事は起こるとしても、「救い主があなたと共に歩んでいてくださる。この救い主は決してあなたを見放すことはない」という事実の中にこそある救いだと思います。 生涯の終わり近くになって、シメオンは確かに、そういう救い主が世に来てくださっている、人間の傍近くに歩んで下さる事実を目の辺りにして、大いに慰められ喜ばされました。 |
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