聖書のみことば
2023年12月
  12月3日 12月10日 12月17日 12月24日 12月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月10日主日礼拝音声

 ザカリアの預言
2023年12月第2主日礼拝 12月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第1章67〜80節

<67節>父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。<68節>「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、<69節>我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。<70節>昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。<71節>それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。<72節>主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。<73節>これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、<74節>敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、<75節>生涯、主の御前に清く正しく。<76節>幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、<77節>主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。<78節>これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、<79節>暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」<80節>幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 ただ今、ルカによる福音書1章67節から80節までをご一緒にお聞きしました。67節から69節に「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。『ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた』」とあります。
 このときザカリアが語った賛美の言葉は、ラテン語の聖書の中で最初に記されている言葉をとって「ベネディクトス」と呼ばれます。その意味は「ほめたたえよ」という意味です。「ほめたたえよ」と呼びかけていますが、この言葉は命令文ではありません。直前の64節では、口が開かれ舌のもつれがほどけたザカリアが神を賛美したことが語られていました。その「賛美する」という動詞の受け身の形の分詞がここに使われていて、そのニュアンスを生かして訳すならば「ほめたたえられるべきである。イスラエルの神である主は」となります。主語はザカリアやイスラエルの民ではなくて、主なる神御自身です。ですから、そういうこの箇所の細かいニュアンスに気がついて、前任の北牧師は、「この箇所は、私たちのささげる賛美ということについて示唆を与える箇所である。賛美は、神が賛美する人間の心を揺さぶってくださって初めてなされるもの。賛美するのは私たちだが、しかし私たちに働きかけて賛美へと向かわせて下さる主体は、神御自身である」と教えておられました。
 「ほめたたえよ」という呼びかけは、ザカリアが誰かに賛美するように働きかけたり要請しているのではなくて、まさにザカリア自身が神の慈しみと恵みの働きに圧倒されるようにして口を開かれ、「わたしはほめたたえる。神さまはほめたたえられて然るべきお方だ」と証言している言葉なのです。

 ザカリアが神の働きに圧倒されて賛美の言葉を口に上らせていることは、ここに語られている賛美の内容がザカリアの個人的な事柄ではなくて、まずは神の大きな救いの御業についてであることからも伺い知れます。ザカリアは自分の口が自由に動き、言葉を再び喋れるようになって良かったとか嬉しいというようなことは、一切語りません。ザカリアは、自分の身辺の事柄からは、はるかに遠くの彼方を見るようにして語るのです。
 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」。ザカリアはこの時、既に、神の救いの御業が始められていることを知っていました。マリアがザカリアとエリサベトの家を訪れたため、ザカリアは、妻エリサベトだけでなくマリアの胎内にも神が嬰児を宿らせ、救いの御子が程なく誕生することを知らされたのでした。神は、御自身の民を遂に顧みて下さいました。救い主がその民のもとを訪れて下さり、確かな救への根拠となって下さるのです。
 「救いの角がダビデの家に立てられる」とザカリアは言います。「角」には旧約聖書の中では2つの意味があって、悪い意味の角は、人間の中に潜む獣のような野性、乱暴で向こう見ずなあり方へと人間を駆り立てる衝動を表します。しかし角には、もう一つの良い意味もあって、神が確かに御自身の民を顧みて、支え救ってくださる力と勝利を表していました。エルサレム神殿の聖所の中にある献げ物を置く机には2本の角がつけられていましたが、その角は、神の救いの力の確かさを表すものでした。ザカリアが語った角は「救いの角」と言われていますので、良い方の意味の角のことが述べられています。

 確かな神の救いの角は、ダビデの家に生まれる一人の嬰児から始まります。その御業は、71節で「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」であると言われます。
 イスラエルは憎まれます。それは、この民が他の民と同様、人間的に欠けを負っているからではありません。そうではなくて、イスラエルが神の民とされており、まさにそういう民として生きて行かざるを得ないためです。神の民として生きる人々は、どうしても他の人たちと違うところが出てしまいます。そのために、周囲の人々はイスラエルを憎みます。自分たちに同化しないからです。
 しかし、敵はイスラエルの外にいるだけではありません。後の日に明らかになりますが、せっかく神がダビデの家に立ててくださった救いの角は、やがて無惨にも折られてしまう時が来るのです。神が一本の救いの角として立ててくださった方は、十字架に掛けられ処刑されるという仕方で折られてしまいます。一体誰がこの角を折るのでしょうか。十字架刑はローマの処刑法ですから、イスラエルの外にも敵がいるのは確かです。けれども、嬰児として生まれようとしている一本の角である方を捕らえ、敵であるローマ総督ピラトに突き出した者たちがいます。我こそはユダヤ人であり、アブラハムの子らであると強い自負心を抱いていた人々が、救いの角である方を十字架の上へと追い立ててゆくのです。従って、敵はイスラエルの外だけではなく、内側にもいるということになります。しかしザカリアは、この角が「我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」、つまり「敵からも、神の民を憎む者の手からも救ってくださる」と語ります。

 ザカリアがはるかに信仰の目で見た幻は、角が無惨に折られて終わるのではありません。確かに角が折られるほどに戦いは激しいのですが、それは、はるか遠くに起こっているのではなく、実にザカリアが今居る場所、あるいはザカリアの内面から、ずっと地続きになって繰り広げられています。振り返れば、かつてザカリアは天使から、「神の救いの御業が始められている。それはあなたの妻のお腹の中に幼子が宿るという仕方で始められている」と聞かされた時、その言葉を信じませんでした。神の御業に逆らってしまう人間の側の戦いというのは、どこか遠くで起こっているのではなく、ザカリア自身の内にも起こっていました。
 その結果、ザカリアの口は封じられてしまいました。仮にザカリアの口が封じられなかったならば、彼が語るべき言葉は祝福の言葉でした。神が生きて働いておられることを信じられなかった結果、ザカリアの口は封じられ、祝福の言葉を語ることができなくされました。
 そしてその時から10か月が経過して、ザカリアは今、聖霊に満たされて預言する者へと変えられています。知らされた約束を信じなかったため閉ざされたザカリアの口を、今、聖霊が開いています。これは突然に生じたことではありません。宗教改革者のルターは、「ザカリアの不信仰と聖霊が10ヶ月間激しく戦った結果、今、ザカリアの口が開かれた」と語ったと伝えられていますが、まさしくザカリアは、人間の不信仰に対して神が戦いを挑み、勝利を収めてくださることを、身をもって知っています。神が人間の不信仰や不従順よりもはるかに勝って力強く、また頼もしく御業を行ってくださる方であることを、しみじみと経験させられながら、「ここに一本の救いの角が確かに立てられる」と言っているのです。

 ここに立てられる角は、やがての日、折られることになります。けれども、折られた姿のままで、この角は、なお救いの角であり続けます。私たち人間が罪から解放され、角によって贖われ、救われていることを代々にわたって確かに示し続けるのです。角は折られますが、折られることによって私たちの罪を清算し、ザカリアのように信じる者へと変えられた者たちを救い、もはや恐れなく神に仕えることができるようにしてくださるのです。73節後半から75節にかけて、ザカリアが「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」と言っているように、です。
  救いの角として生まれてくる嬰児が、人間の罪と戦って勝利を収めてくださいます。まさに角として、私たちの罪を清め、神の御前に立つことができるようにして下さいます。「清く、正しい者として下さり、恐れなく主に仕えるようにされる」と言われているとおりになるのです。私たちが努力して、自分で自分を清めたり正しくなるというのではありません。一本の救いの角が立ってくださり、私たち自身の外なる敵とも内なる敵とも戦って勝利を収めてくださいます。この方が勝利してくださるからこそ、私たちは何の不安も恐れもなく、主に仕えることができるようにされるのです。
 そしてそういう御業が行われるからこそ、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」とザカリアは賛美したのです。これは10か月の間、自分の身に経験したことでもありました。ザカリアに示された第一の幻は、そのように、まことにスケールの大きな遠大なものでした。

 そしてそれに続いて、ザカリアにはもう一つ、二番目の幻も示されるのです。これは、最初の幻に至る手前のところで、今、ザカリアとエリサベトに与えられた幼子が救い主である嬰児の御業の中に組み入れられ、用いられてゆくという幻です。ザカリアとエリサベトの間に生まれた幼子は救いの角の御業の道備えとして働き、人々に罪の赦しによる救いの必要性を悟らせる者へと成長してゆくのだと、ザカリアは語ります。76節77節に「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」とあります。ザカリアは生まれてきた自分たちの幼子に呼びかけます。「幼子よ、お前は主に先立って行き、やがて主と出会うようになる人々に『罪の赦しによる救い』という道のあることを知らせる者になるのだ」と預言します。
 私たちも経験することかもしれませんが、キリスト教の信仰を伝えるのが難しいのは、ここでヨハネが行なっている働きと、主イエス・キリストが実際に与えてくださる救いの事柄が、しばしば混同されるためであるかも知れません。ヨハネの働きは、それ自体では人々に救いをもたらすことはできません。しかしヨハネがいなければ、人は、「罪は赦されなければならないものである」ことに気づかず生きてしまうことになるに違いないのです。

 ヨハネは成長して後、厳しい神の裁きを告げる預言者になります。人々を厳しく問い詰めながら、「斧が既に木の根元に用意されている。あなたがたは今や、切り倒されるのを待つばかりの罪深い生活をしているのだ」と人々に伝えて、世の中の注目を惹くようになります。ヨハネは、「罪ある自分を悔い改めて、神のものとして清らかに生活するように」と人々に勧めました。しかし実際には、ヨハネの勧めに従って罪を悔い改めてみても、その悔い改めた状態を、人間は自分で保ち続けることはできません。ヨハネの勧めに従って、「神の前に清く生きなければならない」と気づいて悔い改め、洗礼を受けた人々は大勢いましたが、しかしその洗礼は、人生の半ばにおいて自分が罪の力の前には、もはやどうにもならない弱い者にすぎないことを認めた、そういう瞬間があったということの記念碑のようなものにしかすぎません。自分の弱さや罪深さに気づかされ、そうした惨めさと決別したいと願っても、人間にはどうしても、その決意を忘れ、神抜きで生きてしまうような傾向があるためです。最初の人間であるアダムとエバ以来、私たち人間には、どうしても神抜きで生きてしまう癖がしみついているのです。
 しかし、ヨハネがそのように厳しく人間の罪を問い詰め、悔い改めを迫ったからこそ、自分の罪を深く悲しみ、罪から離れたいと願う人々が生まれてくるようになります。そしてそういう人たちが、主イエスによって救われることになるのです。即ち、自分の罪の重さ、根深さに気がついて、自分が自分にとって本当に重荷だと知る人こそ、主イエスが共に歩んで下さり、十字架を示しながら「あなたの罪は確かに赦されている。あなたは、わたしの十字架によって清められているのだ」という御声を聞いて、新しく生きる者へと変えられていくのです。そして、そういう思いで生きるようになった人は、たとえ無惨に折られていようとも、救いの角が確かに地上に立てられていることを繰り返し知らされ、仰ぎ見ながら、そこから命と力を与えられて生きるようにされてゆきます。

 ザカリアは、以前天使から聞かされたとおり、今、自分たちに与えられた幼子が喜びとなり楽しみとなることを感じながら、感謝しつつこの預言を語っています。一切のことが神の憐れみから出ていることを知って、78節「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」ると語ります。神の憐れみは、高い所から地上に差し込んで来る「あけぼのの光」と言われます。あけぼのの光ですから、朝一番に地上に送られる光であり、その時にはまだ、地上は暗闇に包まれているのです。
 ザカリアは聖霊の働きに励まされて、信じられなかった者から、喜びと感謝をもって神のなさりようを預言する者へと変えられ育てられました。しかし、この成長は不思議な成長です。成長というからには、普通はザカリア自身の中に育つべき芽のようなものが眠っていて、それが外側から刺激を受けたり、養分を与えられると芽吹き育ってゆくのですが、しかしザカリアが幻を示され預言するようになったのは、「高い所からのあけぼのの光による、これは我らの主の憐れみによるのだ」とザカリアは語ります。ザカリア自身の中には、もともと育つようなものは何もありませんでした。ですからザカリアは、天使から聞かされたことを信じることができませんでした。しかしそういうザカリアの上に聖霊が働いて、あけぼのの光が上から射し込んできて、ザカリアは立ち上がらされ、神を賛えて生きる者へと、今、一歩を踏み出して行きます。

 ザカリアの上に降り注いだあけぼのの光は、今日、私たちの上にも降り注いでいます。平和の道に私たちを導こうとする神は、私たちが暗闇の中で座したまま朽ち果てることをお許しになりません。今日ここから再び賛美の声をあげ、御言葉の暖かな光に照らされ、主の贖いによる慰めと勇気を頂いて歩んでいくようにと、招かれています。そのような神の招きの声を聞き取り、歩む者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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