聖書のみことば
2023年12月
  12月3日 12月10日 12月17日 12月24日 12月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月1日主日礼拝音声

 ヨハネの誕生
2023年アドヴェント第1主日礼拝 12月3日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第1章57〜66節

<57節>さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。<58節>近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。<59節>八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。<60節>ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。<61節>しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、<62節>父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。<63節>父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。<64節>すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。<65節>近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。<66節>聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。<67節>父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。

 ただ今、ルカによる福音書1章57節から66節までを、ご一緒にお聞きしました。57節58節に「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」とあります。
 この箇所は、時間的な面から言うと2つの機会に起きたことが続けて語られています。2つの場面と言っても良いかも知れません。その一つは、エリサベトに男の子が誕生したという、ヨハネ誕生の場面、つまり洗礼者ヨハネが生まれてきた時です。そしてもう一つの場面は、それから八日目、一週間後のことですが、生まれてきた子供に割礼が施され、更に名前がつけられる、その名づけの日の出来事です。
 今日の説教の題を、あまり深く考えずに新共同訳聖書の小見出しに引きずられるようにして「ヨハネの誕生」としましたが、説教の準備をする中で、ここは「誕生と名づけ」とした方が良かったなと、少し残念に思っています。

 ところでこの二つの出来事は、書かれている分量、情報量を考えますと、圧倒的に、「ヨハネ」と名前が付けられた八日目の出来事に比重がかけられていることが分かります。この福音書を書いたルカは、ヨハネの誕生よりも、八日目の命名の出来事の方に大きな関心を寄せているとよく言われるのですが、それは今日の箇所の最後66節で、奇しくも人々が「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と語りあっているように、「ヨハネはどんな人になるのか。ヨハネとは何者だったのか」ということに、ルカが深く関心を寄せていたからに他なりません。そして、「ヨハネが何者なのか」ということは、来週聞く1章76節以下のところで、父ザカリアが「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」と預言しています。
 幼子ヨハネは、もう一人の幼子イエスに先立ってその少しだけ前を歩み、やがて主イエスによってもたらされる罪の赦しによる救いを多くの人々が得られるようにするため、人々に罪を自覚させるような役目を果たす人物となってゆくのです。ヨハネ自身が人々に救いを与えたのではなくて、主イエスがやがて与えて下さる救いを人々が受け取ることができるように、多くの人々に前もって働きかけ、罪を赦されるということが是非とも必要だと気がつかせる、そういう働きをしたのがヨハネでした。
 ですからヨハネの誕生に際しては、ヨハネが実際に地上に生まれて人々の間で活動したことも大事なことには違いないのですが、それ以上に、このヨハネは将来何者になるのか、どんな役割を果たす者になってゆくのかということが一層重要であって、そのことを人々が初めて意識させられたのが八日目の命名の時に起きた出来事だったので、この福音書を順序正しく書こうとするルカとしては、割礼と命名の日の出来事の方にウェイトを置いて語らざるを得なかったのです。

 しかしそれは、ヨハネの誕生の出来事やヨハネの存在自体が軽く見られているということではありません。その証拠に、ヨハネの誕生については、「月が満ちて」、つまり神の定めてくださった時が満ちてエリサベトが男の子を産んだと言われている通りなのです。「月が満ちて」というのは、神が約束された「エリサベトにも男の子が誕生する」と言われていた、その時が満ちたということを述べています。神を抜きにして考えるならば、これは十月十日赤ちゃんがお母さんのお腹の中にいて、そして生まれてきたことであって、それ以上でもそれ以下でもないでしょう。
 しかし思い出したいのですが、エリサベトは自分が身ごもったことを知らされてから誕生の日まで、人目を避けて身を隠していました。それは単に恥ずかしいとか、いい年をしてみっともないと感じたからということではありません。人間的には、もう自分には子どもが宿ることはなかろうと思っていたエリサベトにとって、自分の胎内にも子が宿ったということは、もはや枯れ木に過ぎないと思い込んでいた自分にも神が目を留めてくださり、そして幼子を宿している一日一日は神の御業に仕える者としてエリサベトに与えられた日々だったのです。エリサベトは、もはや子を産めないと思っていた自分に神が目を注ぎ、この自分が用いられていくことの不思議さを、日々、身をもってしみじみと思わされながら過ごしていました。そして神が約束して下さったとおりに、遂にその日になって、エリサベトの嬰児がこの世に誕生した、それが57節「月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ」という言葉に表されていることです。

 次の58節には、幼な子誕生の知らせを聞いた人々の反応が語られています。この出来事を聞いた人々は「喜び合った」と、新共同訳聖書では大変そっけない言い方に訳されていますが、ここは文字通りに訳すと、人々は「エリサベトと共に喜んでいた」と言われています。赤ちゃんが生まれたという話を聞いて、エリサベトのいないところで、「ああ、良かったわね」と、親戚同士、知人同士が言い合ったというのではないのです。エリサベトが身をもって経験した不思議な経験と深い喜びを聞かされて、そのエリサベトと共に喜ぶ人々の姿がここに記されています。
 そしてこれは、教会の姿でもあると思います。エリサベトとエリサベトの近くにいる人たちが一緒に喜んでいるのは、教会生活の先取りをエリサベトが経験していると言って良いでしょう。キリスト者同士が互いに喜びを感じる時には、世の中の他の人々が感じるのとは違う種類の喜びが、キリスト者でなければ感じることのない喜びがあるように思います。それは、エリサベトがまさに経験しているように、神が一人ひとりに目を留め顧みて下さっている、神が一人ひとりの命と歩みを御存知でいてくださっていることを知って、お互いに喜び合うという喜びです。
 今日から今年のアドヴェントに入りましたが、昨日はその準備のために多くの兄弟姉妹が教会にやって来て飾りつけやクッキーづくりなどの準備をして下さいました。とても忙しく働いて下さいましたが、その根底にある喜びは、「神が私たち一人ひとりのことを知っていてくださり御心にかけてくださっている。主イエスが私たちと共に歩んでくださるためにお生まれくださった」、そのことを知る喜びではないかと思います。
 エリサベトが神に顧みられたことを深く感謝して胎内の幼子と共に静かに過ごし、幼子が誕生した喜びを周囲の人々も一緒に喜んだのですが、同じように、教会生活を送る中では、兄弟姉妹一人ひとりが深く神に覚えられ御心に留められていることを知って、皆が喜び合うという喜びがあるのです。神が御心に留めて慈しんでくださった、そして御業に用いてくださったことを知ってエリサベトが大いに喜んでいる喜びを、周りの人たちもお裾分けをもらうようにもらい、皆で喜び合うという姿がここに語られています。

 さて、それから一週間が経って、生まれてきた男の子に割礼を施し、また名前をつける時が来ます。生まれて八日目の男子に割礼を施すことは、神がアブラハムにそうするように命じられてからずっと続いてきたユダヤ人の古い習慣ですが、その時に名前つけるということは、実は旧約聖書のどこにも命じられていません。ですから、割礼と命名が同時に行われるようになったのがいつ頃なのかははっきりしないのですが、ルカによる福音書2章21節を読みますと、主イエスも八日目の割礼の日にイエスと名付けられたと言われていますので、ヨハネや主イエスが誕生した紀元1世紀には割礼と同時に名前もつけられることが普通になっていたようです。
 当時のユダヤでは、子供に名前を与えるのは父親の役目でした。ところがヨハネの場合には、父親のザカリアは口が利けない状態でしたので、その代理として母エリサベトが「ヨハネ」という名前を示しました。この名前は、「主は恵み深い」という意味の名前です。まさしく神がザカリアとエリサベトを顧み、また、神の民である人々を顧みて下さる慈しみを讃えるという名前ですから、ここに誕生した嬰児にぴったりの名前でした。
 ところが割礼と命名に立ち合おうとやって来た人たちの間から、この名前に異論が唱えられます。異論を唱える人々は、父親の名と同じザカリアという名にするべきだと主張しました。エリサベトが女性であり、当時の社会にあっては発言を聞いてもらえる立場ではなかったため、軽んじられた側面があるかも知れません。エリサベトの提案した名前は一旦は退けられたのですが、しかしエリサベトは納得せず、ヨハネという名にこだわり続けたので、やって来た人々は困り、本来命名権を持つザカリアに息子の名をどのようにつけたいかを尋ねました。書き板を出させたザカリアは、天使ガブリエルが彼に告げてくれた通りに、「この子の名はヨハネである」と記しました。
 10か月前に、神殿の聖所で天使から幼子の誕生を知らされた時には、ザカリアは自分たち夫婦が高齢であり、人間的にはもはや子供を期待できないと思い、告げられた言葉を本気にできませんでした。しかしそういうザカリアが、10ヶ月の間に、実際に神の御業が力をもって実現されてゆく様子に立ち合い、思いを変えたのです。ここに生じたことは確かに天使に告げられた通りであって、神の御業であると気づいて、今回は躊躇うことなく、「この子の名はヨハネである」と書き板に記しました。すると、封じられていたザカリアの口が開き、舌のもつれも元通りに戻って喋ることができるようになり、ザカリアはその口で神を賛美し始めたということが63節64節に記されています。「父親は字を書く板を出させて、『この子の名はヨハネ』と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」。
 閉ざされていた口が再び開かれたことは不思議に思えるかもしれません。神が御業をなさり、人間の様子が大きく変わるところでは、時にこのように不思議なことが起こることもあり得ます。たとえば、もともとはキリスト者を大変悪く言っていた人が主に捕らえられ、洗礼を受けキリスト者とされる場合もあるのです。パウロがキリストに捕らえられた時のように、です。
 このザカリアの姿で特に注目させられるのは、彼の口が再び開かれた、その時に、すぐにその口から出てきた言葉が神を賛美する言葉であったことでしょう。天使が伝えた知らせを信じることができなかったために口を閉ざされたザカリアでしたが、しかし幼子が誕生するまでの10か月間、ザカリアは無駄に時を過ごしていたのではなかったのです。沈黙していた間、ザカリアは自分が聞かされた神の御命令を繰り返し思い続けていたことが、この賛美の姿から聞こえてきます。
 もしザカリアが口を閉ざされたことを痛みに思っていたり、逆にまた口が開いたことを喜んだりして、自分の境遇のことを考えていたなら、口が開かれた時に出てくる最初の言葉はどんな言葉になったでしょうか。おそらく、神を賛美する言葉にはならなかったでしょう。口を利けなくされて大変であったとか、口を利けるようになって嬉しいとかいうような、自分自身の事柄が最初に口に上ってもおかしくはなかったはずです。神への賛美が口をついて出てきたということは、ザカリアは10か月の間、口が利けなかったことを悲しんだり、自分自身を憐れんだりするのではなく、人間的には気の毒に思われたり、辛さや不便を感じる境遇にあっても、その時その時を神への信頼のうちに過ごすことが許されていたことのしるしだろうと思います。

 口を閉ざされながらも、尚、神への信頼の内を、神から聞かされた御言葉を繰り返し考えながら歩んでいたザカリアの姿が一方にあります。そしてもう一方には、自己の懐妊を知り、人目につかない静かな生活を、神が一日一日自分に務めを与えてくださっていると感じながら過ごしていたエリサベトがいます。この2人のあり方から、私たちは深い示唆を与えられるのではないでしょうか。
 今この世界には、戦や伝染性の病気や不景気などによって、多くの不安と心配事が私たちを取り囲むように存在しています。そんな中で、大勢の人たちは一体どのようにしてこの時を過ごそうとしているでしょうか。一時の楽しみごとや利那的な快楽に思いを向けて気を紛らわせながら過ごそうとする人が多いのではないかと思います。しかし、そういうことをしてみても、それでいて本当のところは少しも心が落ちつかないままでいる、それが今の時代の多くの人々が経験していることではないかと思います。今の生活にどこか灰色がかった空気に包まれたような不安や恐れを感じながら、何らかの気晴らしで心を満足させつつ、この時をやり過ごそうとする人は多いと思います。けれども、それは上手くゆかないあり方でしょう。
 どうしてかというと、私たちが不安を感じたり、何となく落ち着かない思いになる原因は、さまざまな心配事のためですが、実は、人間が永遠の存在ではなく、様々な限界を抱えて生きざるを得ない存在だという事実があるからです。一見、病気や戦や不景気が私たちを脅かしているように感じられるのですが、本当の原因は私たち自身にあります。自分自身が決して永遠のものではなく、限界や弱さ、欠けがあり、私たちが決して永遠でも無限でもないということを私たちは当たり前に抱えていますが、そういう弱さが様々な出来事によって刺激を受けるのです。私たちは、問題は今の時代の悪さ、戦争や病や不景気などだとすぐに考えがちですが、そういうものに刺激されている私たち自身の中に、問題の根は深く根ざしているのです。

 けれども、そういう貧しく有限な存在でしかない人間一人ひとりに、神が近づいて下さり御言葉をかけて下さるということが、聖書が伝えていることです。「恐れることはない。ザカリア、あなたは主から恵みを頂いていた。あなたは顧みられている。決して捨て去られることはない」という約束が、ザカリアにもエリサベトにも語りかけられています。そしてこの夫婦は、その御言を聞いて、傍目から見れば不自由な境遇の内にあるようでありながら、神への信頼に生きることができたのでした。

 今日の最後のところに、生まれてきた幼子には「主の力が及んでいた」と言われています。ここだけを聞くと、生まれて来た幼子に何かただならない力が宿っていたかのように思うかも知れません。
 しかし、神の力は、いつでも魔法のように働くと決まっている訳ではありません。ここではザカリアとエリサベトを用いて神がヨハネを生まれさせてくださり、この両親のもとにある生活の上に既に神の力が与えられ、ヨハネは神の力に守られ育てられていくのです。
 その有様は、信仰を持たない人々が見たなら、他の無数にある家庭の子供の成長と何も違わないように見えたことでしょう。信仰を土返しにしてそのようなことを見ようとしない人は、「子供は勝手に育つ」と思いながら子供に向き合います。傍目からはヨハネもごく普通の家庭の子供だと見られたでしょうけれど、しかし神は、普通に見られる生活の中で、御業をなさってゆかれます。ごく普通に思われる生活が、しかし神の支えのもとに持ち運ばれてゆきます。

 そうであるならば、同じように、私たちの生活もまた、神の約束のもとにあることを覚えるべきだろうと思います。私たちの上にも神が目を留めてくださり、私たちの日々を御存知でいてくださるのです。必要な支えと力が与えられ、慰めと勇気が与えられて、私たちは今の時代を、この世界の中で生きてゆくものとされていきます。決して安楽な道ではないかもしれません。問題や障害があり、その中でなお私たちは前へと進まなければならないという時もあるでしょう。
 しかし、神がこの貧しい自分を用いて御業をなさっていかれる、そのことの確かさを、今日の箇所から聞き取りたいと思います。クリスマスに救い主がこの世に与えられることに向かっていくアドヴェントの時に、私たちはもう一度、神が確かに私たちの上にも御業をなさってくださることを確認して、ここから歩んでいきたいと願います。

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