聖書のみことば
2023年12月
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月24日主日礼拝音声

 羊飼いたちへの知らせ
2023年 クリスマス主日礼拝 12月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第2章8〜21節

<8節>その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。<9節>すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた<10節>天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。<11節>今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。<12節>あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」<13節>すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。<14節>「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」<15節>天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。<16節>そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。<17節>その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。<18節>聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。<19節>しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。<20節>羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った<21節>八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 ただ今、ルカによる福音書2章8節から21節までをご一緒にお聞きしました。毎年、クリスマスになると読まれる箇所です。10節と11節に「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである』」とあります。
 主イエスがお生まれになった時、天使がベツレヘム郊外で野宿して羊の群れの番をしていた羊飼いたちに現れ、救い主メシアの誕生を告げました。「民全体に与えられる大きな喜びの出来事が起こった」、「ダビデの町」即ちベツレヘムで「あなたがたのため」の「救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」、クリスマスの天使は羊飼いたちに告げます。「救い主が一人の人間の姿をお取りになり、確かに地上に訪れて下さった」、それが、クリスマスの良き訪れであり喜びの根源となる出来事です。
 毎年クリスマスがやってくる季節に地上の教会が告げ知らせるのは、たった一つ、このことであると言っても過言ではありません。「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」、即ち、「救い主は既に世に出ている。この方こそ主メシア、キリスト・イエスなのだ」と、世界中の教会がこの一つの事柄を宣べ伝えるのです。「救い主が確かに神さまの約束のとおりにダビデの町にお生まれになり、そこから始められた神さまの出来事、神さまの御業がある。私たちは、今、その神さまの救いに抱かれて生きる者となっている。これは民全体に知らせるべき大きな喜びなのだ」という知らせを、地上のすべての教会が、どこの国の教会であっても、呼びかけるように求められています。天使はまず、そのことを、「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言って語り始めます。
 そして、クリスマスに与えられているこの御言は、恐れではありません。恐れではなくて大きな喜びです。それはすべての民、すべての人々に呼びかけられるのです。そして、この大きな喜びは、ただ言葉だけ、口先だけのスローガンのようなものではありません。この喜びは、確かに一つの実体を持っています。それは、「ここに一人の幼な子がお生まれになった」という事実から始まります。
 天使たちは、この幼な子の誕生を指し示しながら、「ここに救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア、すなわちキリストである」と紹介します。ここに救い主である幼な子が生まれ、この幼な子が救い主キリストとして生涯を辿り、救いの御業が行われてゆきます。そして、この幼な子がやがて人間の罪をすべて背負って十字架に掛かり、復活され、その復活の主に招かれ伴われてキリスト者たちが地上の生活を生きるようになり、主の体である教会がこの地上に立てられるようになっています。それが、ここに天使が指し示す喜びの実態です。今日も主の教会は、それぞれの国にあって、立てられ置かれている状況の中で苦闘しながら、神の救いの御業がこの世界に確かに行われている、進行中であることを語り続けています。私たちが集められているこの愛宕町教会も、そういう地上の教会全体の中の一つの肢として、この町に立てられています。そして世界中の教会と一つになって、この世に向かって、大きな喜びが確かにここにあることを告げ知らせるのです。
 クリスマスの喜びの根底には、ここにお生まれになり、御業を初めておられる幼な子の存在があります。この幼な子、主イエス・キリストと呼ばれるこの方が、今も私たちに伴っていて下さることが、あらゆるクリスマスの喜びの出発点なのです。

 しかし、クリスマスの天使がそのような喜びを伝えても、また教会が天使から聞かされ与っている喜びをどんなに熱心に伝えても、これを聞く人間の側は、素直に喜ぶ気持ちにはなれないという思いになる場合があるかもしれません。私たちが現実に生きているこの世界には、戦があり感染症があり、自然環境が破壊され、生活してゆくのに苦しむ人も大勢います。この世界の一体どこに喜びがあるのでしょうか。それこそ大きな喜びというのは口先だけの、ぬか喜びにすぎないではないかと受け止める人もいると思います。喜びがあると言ってもそれは言葉の上だけのことで、本当の喜びは一体どこにあるのかとつぶやく声がそこかしこから上がるかも知れません。喜びではなく、ため息と苦しみと嘆きばかりが目について仕方がないと思う人も少なくはない、それが今日の世界の現実だろうと思います。
 しかし、嘆きや苦しみや空しさがこの世を覆っていたということであれば、それは今の時代が特別にそうだというのではなくて、2000年前の社会の現実も、あまり違いはなかったかも知れません。現に、幼な子がベツレヘムでお生まれになった経緯を考えても、そこにはローマ帝国による人口調査のための住民登録という事情がありました。徴兵し、軍隊を養うための人口調査ですから、主イエスのお生まれになった時代も、世界のキナ臭さは今日とあまり違わなかったかも知れないのです。また、人々が皆、幸せに暮らしていたわけでもありません。世の中の交わりからのけ者にされ、人としてまともに扱ってもらえなかった羊飼いたちのような人もいました。
 しかしそういう世界の現実に、天使たちは一向にひるみません。この世界がさまざまな問題を抱え、嘆きや痛みに溢れていることを知っていても、それでも、「確かに大きな喜びが始まっている」と語ります。
 それにこの天使は、世の中のあれやこれやの有様を指さしながら、喜びがあると言った訳でもないのです。そうではなくて、クリスマスの天使が指し示すのは、ただ一点です。すなわち、長い危険な旅をしてきて、ようやくベツレヘムの馬屋に辿り着き、そこで何とか生まれることのできた幼な子です。その幼な子を指さしながら、「この幼な子の上に、この方の上にこそ、大きな喜びがあり、またこの方こそがすべての希望の源である」ことを知らせて、天使はクリスマスの喜びを伝えるのです。

 ところで、すべての喜びの源としてお生まれになった幼な子には、古のソロモン王のような栄華の輝きはありません、天使が告げる大きな喜びを見出すためには、上辺は大変貧しく感じられる現実に心を向けなくてはなりません。天使はそのことを伝えます。12節に「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」とあります。
 ですから、クリスマスの大きな喜びと出会うためには、私たちには信仰が求められます。何故なら、クリスマスに出会う現実は、神が与えようとしておられる大きな喜びの全体から言うと、本当にささやかなしるしでしかないからです。民全体に与えられる救い主は、力に満ちた王者の姿で現れるのではありません。布に大切にくるまれて飼葉桶の中に横たえられている乳飲み子だというのです。それ以上でも、それ以下でもありません。しかし、まさにその生まれて間もない幼な子こそが、神のくださる救いのしるしであり、この方こそが救い主メシアだというのです。
 17世紀に活躍した賛美歌作者のパウル・ゲルハルトは、「まぶねのかたえに」という詩を書いた時、その3節で、最初のクリスマスの日に羊飼いたちが見たであろう現実の貧しさと、この幼な子が実際に担っている救いの現実の晴れがましさを見事に対照させて、こんな詩を著しました。「きらめく明星うまやに照り、わびしき干し草 馬船に散る 黄金の揺りかご 錦の産着を、君に相応しきを」。「この世のどんな黄金も、錦の産着でもお納めできないような救い主がお生まれになっている。侘しい干し草が散っている馬船の中に、天から明るい星が照らしている」、そういう場面を通して、救い主としてお生まれになった幼な子がどのようにしてこの地上においでになったのかを語りました、
 この日天使は、「まことに質素なしるしの中に、しかし大きな喜びの出来事が始まっている。今やそれは、地上の現実となって起こっている」ことを、羊飼いたちに伝えました。「救い主は確かにダビデの町ベツレヘムにお生まれになっておられる。あなたがたは、そのしるしを、その気になれば見ることができる。それは大変慎ましいしるしであり、飼葉桶の中に横たえられている幼な子である」と伝えたのでした。
 このようなクリスマスの知らせを、信じないで聞き流すか、それとも本気で受け止めて喜ぶかは、聞いた人自身の問題です。けれども神の側は、この知らせを聞いた私たち人間が、それを真剣に受け取って喜ぶことを望んで下さっています。

 羊飼いたちの前に現れた天使の言葉が本当あることを証しするかのように、この天使の宣べ伝える働きを後押しして応援するかのように、天使の大軍がそこに現れ、賛美の声が辺り一帯に響きました。それは、たとえ地上ですぐには受け止めてもらえないとしても、救い主を地上に生まれさせ送り出した天の側には大きな喜びがあることの表現でもあります。13節14節に「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」とあります。天使たちの喜びは、この救い主の訪れによって、それまで地上には見られなかった本当の平和が、御心に適う人々によって持ち運ばれ、担われてゆくということに向けられています。この喜びの賛美は、確かに神の御心をはっきり知っている天使たちならではの賛美の声です。神の傍近くに仕えて神の御心をよく知っており、また、神の御計画が必ず実現することを確かに信じている、そういう天使だからこそ歌えた賛美の言葉なのです。

 「いと高きところには栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ」、この時の天使たちの賛美の言葉は、相言葉のように省略されて「天に栄光、地に平和」と言われたりします。しかし後に語られる「地に平和」という言葉は、特に地上の現実では、殊の外実現しづらいものです。
 後に、この日お生まれになった幼な子である主イエスが、エルサレムの都にお入りになった時、人々は歓呼の声をあげてこの方を喜び迎えました。ルカによる福音書19章38節には、この時の人々の歓呼の声が記されています。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」とあります。特にこの叫びの最後のところで、人々は口々に「いと高きところには栄光」と言っています。この叫びは、クリスマスに現れた天使たちも同じことを、「いと高きところには栄光、神にあれ」と語っています。問題なのは、それに続けてクリスマスの天使たちが叫んだ、「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉です。エルサレムの群衆は、「地には平和」とは言いません。「天には平和がありますように」と言って、主イエスを迎えたのです。
 群衆たちが「天には平和がありますように」と言って喜んでいるということは、これを裏返しに言うならば、地上にはどこにも平和がないと、当時の人々が痛みを持って思っていたということではないでしょうか。「この地上には平和がないけれど、せめてその平和が天にはありますように。そして、いと高きところでは、神の栄光がひたすらにほめたたえられていますように」という叫びが、主イエスをエルサレムに迎えた日の人々の偽らざる思いであり生活実感でした。「地上にはどこにも平和がない。それがあるのは、天上の神の御許くらいだ」と、当時の人々は思っていたのです。「平和」という言葉を口にはしているものの、「それは地上をはるかに超えた神の御許でようやく実現している程度のものであり、私たちの現実は、平和とは程遠い」と思っていました。
 しかしそう思うのは、2000年前のエルサレムの人たちだけでしょうか。2023年の日本に住む私たちもまた、この世界の中で、同じように感じているのではないでしょうか。一体、この世界のどこに本当の平和があり、安らぎがあり、大きな喜びがあるというのかと、私たちも今の世界の現実や私たちの周りを眺めて、つい思ってしまうことがあるように思います。
 しかしそんな私たち、民全体に向かって、クリスマスの天使たちは呼びかけるのです。2000年の昔に呼びかけただけではなく、今この世界に生きている私たちに向かっても、天使たちは呼びかけます。「あなたの前に置かれた飼い葉桶の中を見なさい。そこに、あなたへのしるしがある。確かにあなたのために救い主がお生れになっている。この方こそが主キリストであり、この方に従うところから、あらゆる人間の喜びと幸いが生まれることになる。この方が伴い、支え、保護してくださる生活の中で、この世にさまざまな痛みや悲しみがあるとしても、あなたは生きていくのだ」と語りかけています。

 飼い葉桶の中に横たわっている幼な子は、大変危険な旅をしてきた末に、ようやく生まれることのできた嬰児です。本当に慎ましやかな質素さの中にお生まれになりながら、しかしそこで安らかに眠っている乳飲み子です。私たちは、この子がまだ生まれたばかりで幼く、世の現実の苦しみを知らないので無邪気に眠っているのだと思うかもしれません。私たちの方が、この幼な子よりも何倍もこの世界の事情をよく弁えていて、生まれたばかりの乳飲み子は何も知らないのだと決めつけてしまうのです。
 しかしこの乳飲み子は救い主であり、天使たちは、この乳飲み子の訪れによって、地上に平和がもたらされることになると喜び歌います。
 飼い葉桶の中に安らかに眠る乳飲み子、主イエス・キリストは、この世についての無知のために安らかに眠っているのでしょうか。むしろ心の底から父なる神に保護され守られているという信頼を知ればこそ、平安のうちに憩えることを、私たちに示しているのではないでしょうか。
 今の時代、私たちもそれぞれに困難を抱え、問題に満ち、痛みを覚えて生きる時があるのは確かです。しかしだからと言って、すべてに行き詰まって滅ぼされてしまうのではありません。私たちは問題を抱えながらも「今、ここで生きるように」と神から呼びかけられ、周り人たちと一緒に生きるようにと招かれています。心の底から神に信頼することを知ればこそ平安のうちに憩えるのだということを、この幼な子が示しているのであれば、無知なのは幼な子ではなく、私たち自身ではないでしょうか。「神に信頼して生きる」ことを、飼い葉桶の中に横たわっている幼な子は私たちに示してくれているのです。

 天の大軍の歌声に、もう一度、耳を澄ませて聞き入りたいのです。天使たちは歌の最後で、「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌っています。「御心に適う人」とは、どんな人たちのことを言うのでしょうか。このクリスマスの出来事が民全体に対しての喜びの出来事だと、天使は最初に言っていました。そうであるならば、神の御心は、ある特定の人々やグループだけを救おうというのではなくて、民全体を救おうとしている、そういう思いが神の側にはおありだということになります。「御心に適う人」というのは、「自分もその中に加えられている。そのために神が救い主となる幼な子をこの世界に確かに生まれさせてくださった」ということを喜んで受け入れる人たちすべてを指しているのではないでしょうか。
 神はこの幼な子によって、民全体を御自身の許に招き、御自分に結びつけ、保護して、生かそうとしてくださっているのです。乳飲み子が心の底から両親に信頼し、恐れなく置かれた境遇の中で平安に憩い安らかに眠っているように、神に信頼して寝起きし、成長してゆく人々が「御心に適う人」なのではないでしょうか。

 神が人間を分け隔てせず、すべての人を御自身の許に招き、信頼の中に導こうとしておられることは、この知らせを最初に聞かされた人々が羊飼いたちであったということにも現れています。羊飼いは、当時の社会にあっては信用されず、神の救いの外に生きる荒くれ者だと思われていました。羊飼いたちは仕事柄、野獣と出会えば戦わなければなりません。羊の群れを世話しなければなりませんから、毎週の礼拝にも参加できず、いわゆる神の民の外に置かれて生きているアウトサイダーだと思われていました。
 しかし神は、わざわざそんな羊飼いたちを選び、天使たちを送り、「この世界の民全体に、今、神の平和がもたらされようとしている。飼い葉桶の中の幼な子を通して、神の平和が訪れようとしている」ことを告げ知らせて下さいました。クリスマスの日に、この大きな喜びから排除されている人間はどこにもいないことを表すために、神は羊飼いたちのもとに、この知らせを持ち運んでくださっています。

 私たちにもまた、クリスマスの天使が訪れています。「あなたがたのために救い主がお生まれになっている。あなたは、この幼な子に目を向けなさい。思いを向け、幼な子によって、神がいつも共にいてくださることを知る者になりなさい。どんなに困難な時にも、あなたは捨てられてはいない」、この知らせを私たちも受け止めて、喜んでここから歩み出したいのです。お祈りを捧げましょう。

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