聖書のみことば
2023年12月
  12月3日 12月10日 12月17日 12月24日 12月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月17日主日礼拝音声

 降誕
2023年12月第3主日礼拝 12月17日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第2章1〜7節

<1節>そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。<2節>これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。<3節>人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。<4節>ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。<5節>身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。<6節>ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、<7節>初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 ただ今、ルカによる福音書2章1節から7節までを、ご一緒にお聞きしました。毎年、クリスマスの季節になると好んで読まれる箇所です。
 その中程の3節から5節に「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」とあります。ここに、一つの旅があったことが報告されています。ガリラヤからユダへ、ナザレからダビデの町ベツレヘムへとはるばる旅をした一組の若い夫婦の姿が、大変控え目な言い方ではありますが、確かに示されています。
 この旅は夫婦にとって、ある危険をはらんだ旅でした。マリアのお腹の中の子が臨月に近づいていたからです。聖書の後ろに当時の地図が付いていますが、その地図によれば二人の住まいがあったナザレからベツレヘムまでは、直線距離で120km近くあったことが分かります。実際には直線ではなく、タボル山を迂回しながらガリラヤ湖畔に下り、ヨルダン川沿いの比較的平らな道を南下して死海の畔の荒涼とした道をしばらく歩いてから、最後はベツレヘムまで山道を登る旅をしたものと思われます。おそらく全行程は150kmから160km位で、道のアップダウンもあった筈ですから、もう少し長かったかもしれません。それだけの距離を、臨月の女性が歩き通すことは大変だったに違いありません。それは、母体だけでなくお腹の中の赤ん坊にも非常に負担がかかっていた筈です。

 主イエスはお生まれになり、長じてから救い主としての働きのため、非常な苦難を経験され、十字架にお掛かりになりました。けれども、救い主としての苦難は、実はお生まれになる前から、母マリアの胎内におられる時から始まっていたのでした。
 ルカによる福音書をずっと先の方まで読み進んで行きますと、主イエスが十字架に掛かり復活なさった後、エルサレムを後にしてエマオの村を目指していた二人の弟子たちに復活の主イエスが現れて下さったという記事があります。この二人の弟子は、主イエスが亡くなり、その遺体もどこかへ持ち去られたと思って落胆していました。夕暮れの道を生まれ故郷のエマオに向かってとぼとぼ歩いていく弟子たちの姿は、人生の暮れ近くにさしかかり、何の目当てもないままに年を重ねて行かざるを得ない人間の姿にも重なります。
 旅路を急ぐ二人は、その本人だけを取り出して考えるならば、何も手にしていない貧しい者たちに過ぎません。勿論、若い頃には二人なりに思うことがあり、様々な期待や希望を持って、その将来を主イエスに託して従い、弟子として生きたのですけれども、結局、その主イエスは十字架に掛けられて処刑されてしまいました。その遺体もどこかへ持ち去られてしまい、二人は貧しく無力な自分でしかないことをまざまざと思い知されながら、今、最後の旅をしようとしています。「結局、自分たちは何者になることもできなかった。若い頃には夢を描き、主イエスに従い郷里を後にしたけれど、しかし今は、ただ息をして過ごしているだけの者だ」という苦い気持ちを味わいながら、しかし、「人間の人生というのは誰もがこのように暮れていくに違いない」と思い定めて、歩を進めています。

 この二人の旅人は、主イエスのことを自分たちの先生であり、自分たちはその弟子だと思っていました。ですが、その主イエス・キリストの十字架の死が自分たちのために起きたことであり、また、その主が十字架の死からよみがえっておられ、自分たちと共に歩んで下さる方であることを知りません。エマオに向かっている時の二人にとって、主イエスとの生活は過去のことであり、思い出の中のことになろうとしていました。しかしその思い出も、これからの人生を生きてゆく中で次第に色褪せてゆき、最後にはすっかり失われてしまうものかも知れません。
 実はこの二人は、自分としては分かっているつもりでいながら、実際にはまだ知らずにいることがあります。それは、主イエス・キリストというお方が死を越えて永遠に生きておられる方であり、また、そういう方として弟子たちの一人ひとりに御心を留め、常に憶えてくださっているということです。主イエスはそんな二人の弟子のもとを訪れ、おっしゃってくださいます。ルカによる福音書24章25節から27節に「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。
 「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった」と、御復活の主イエスは二人の弟子たちに教えられました。このような言葉を聞かされますと、私たちはつい、主イエスのおっしゃっている苦しみとは、十字架の死と、そこに至る重苦しい道筋ばかりを考えてしまいます。確かに主イエスは、十字架に向かう厳しく険しい道を辿ってゆかれました。弟子たち一人ひとりの弱さを思い、また、その弱い弟子たちが福音を聞かされて信じる者へと変えられ、信じた者が順ぐりに福音を伝えていく、はるか後の時代にも信じる者が起こされるということを御心に留めて下さりながら、主イエスは神の御心に従う険しい道を進まれました。
 しかしそういう主イエスの苦しみと受難は、主イエスがお生まれになる前から、母マリアの胎内におられる時から始まっていたのです。

 メシアの御業については、「既に預言者たちが、あなたがたに伝えていた」と、主イエスはおっしゃいます。主イエスのことを人々に教えた最大の預言者は、主イエス誕生の直前に生まれたバプテスマのヨハネですが、それ以前の旧約聖書に登場する預言者たちも、救い主メシアについて述べていました。数々の箇所が挙げられるのですが、その中の一つに、預言者ミカの言葉があります。ミカ書5章1節から3節に「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。まことに、主は彼らを捨ておかれる 産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は イスラエルの子らのもとに帰って来る。彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり その力が地の果てに及ぶからだ」とあります。ベツレヘムの町から一人の救い主メシアが誕生することになるという預言です。この救い主が神の民イスラエルを呼び集め、主の御名の威厳をもって、その民を養い、治めてくださるという預言です。この方の御支配が地の果てにまで及び、その下で民が安らかに住まうことができるようになるという預言です。十字架にお掛かりになり復活された主イエスこそ、まさにこのミカが預言した通りの救い主その方でいらっしゃいます。
 そしてこの預言のとおりに、主はベツレヘムでお生まれになりました。そのことのために、母マリアと胎児だった主イエスは共に険しい遠い道のりをはるばる越えてベツレヘムまで歩んで行かれたのです。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった」、それは預言者たちも述べていたことだとエマオに向かう弟子たちに教えてくださったその苦しみの中に、まさに今日私たちが聞いているベツレヘムへの母子の命がけの旅も含まれているのです。

 人間的な思いから言えば、ガリラヤのナザレからユダの地にあるダビデの町への長く危険な旅など、決して望ましいことではありません。臨月の女性が150kmもの道のりを歩くなど考えられないことです。父ヨセフは、もしも皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録という事情がなかったならば、ナザレを動くことはなかったでしょう。家族思いの父ヨセフは、妻マリアとその胎内の嬰児の命を自分から危険に晒すような真似は決してしなかったに違いないからです。彼らの旅は、決してヨセフたち自身が希望して歩んだ道のりではありませんでした。強いられて仕方なく歩んだ道のりです。
 しかしこういう経緯を聖書から聞かされるときに、私たちの地上の人生と重なり合うようなところがあるかもしれません。私たちの人生の歩みがしばしば、希望したり期待したりする方向と違う方向にねじ曲げられてしまい、仕方なくこの生活を歩んでいる、与えられた道のりを歩んでいるかもしれません。私たちは自分の願うことや希望することであれば喜んでそれを行いますし、場合によっては自ら進んで必要以上のことさえ行ったりします。しかし望んでいない事柄、向こう側からやってくる事柄については、なかなかそうはなりません。行うとしても渋々、なるべく手間もかからない方法で簡単に済ませようとします。しかしそういう時には、喜びはそこから生まれません。行ったとしても、疲労感と倦怠感が募ります。人生は退屈で疎ましいものに感じられてしまいます。
 ヨセフもマリアも、登録自体については、そういう思いを持ちながらの旅だったかもしれません。もっともヨセフには、もっと別の思いを向けるべき事柄がありました。妻マリアと胎児の健康を支え守りながら道を進むということです。マリアの体調に気を配りながら、時には休み休み、道を進んだかもしれません。
 ヨセフもマリアも、親として自分たちの方が、胎内の嬰児に心を配り、気を遣って歩んでいると思っていました。本当に小さな何かの刺激を受けると、あっという間に流産してしまうかもしれない嬰児だったからです。しかし主イエスはまさにその時、その状態のままで、実はメシアとしての苦しみと命の危険を、その身の上に経験して歩んでおられました。

 主イエスはやがて肉体を持つ赤子として母マリアからお生まれになりましたが、それは、私たち人間が、それぞれに肉の弱さを抱えていて、始終不要や恐れに捕らえられてしまう弱い者であるためです。ヘブライ人への手紙の中に、キリストは人間の肉の弱さを身にまとわれたけれど、それは、無知な人や迷っている人を思いやることができるためであったと言われています。無知で迷いやすいというのは、この世の知識のことではなく、神を知る知識のことを指しています。
 エマオへ向かっていた二人の弟子たちが、主イエスに確かに憶えられ顧みられていたにも拘らず、がっかりした思いを持って道を進んでいたように、あるいはまた、ヨセフとマリアが自分たちが胎児を守ってやるのでなければ胎児は何もすることができないと思って、緊張と不安を抱えながらベツレヘムへの山道を登って行ったように、私たちもまた、救い主がいつも共に居てくださるのにも拘らず、失望したり不安になったり、恐れたりしながら、人生の道を進んでゆきます。しかし、主イエスはいつも、私たちの人生に伴って下さるのです。
 実際の肉体を持ち、痛みを覚え、思いやることのできる方として、主イエスは胎児の時から十字架上にお亡くなりになるまで、生涯の一切を経験して下さり、私たちの弱さを思いやって下さいます。

 ヨセフとマリアの経験した旅は強いられたものでした。その旅を強いたのは皇帝アウグストゥスであり、この住民登録はローマ帝国がユダヤの人々から税金を取ったり徴兵するためのものでした。ですから、そのこと自体を眺めるならば、それは戦争の準備のための行いであり、イスラエルのための行いではありません。
 2節に、キリニウスというローマの武将がシリア州の総督に着任して行われた最初の住民登録であったと言われていますが、ヨセフスというユダヤ人の歴史家が書いた「ユダヤ古代誌」によれば、キリニウスがこの時行った登録がユダヤ人の反感を強く買うことになり、数年後に再び住民登録をさせようとした時には、ガリラヤでユダという人物が武装蜂起してローマに対する反乱が起こったということが知られています。その反乱勢力はやがて、熱心党と呼ばれる秘密結社となって行きました。

 住民登録自体はまったく世俗的な事柄であって、アウグストゥスもキリニウスも、まさか自分たちが聖書の神の御業に仕える行いをしているとは夢にも思わなかったでしょう。しかし神は、実際にこの世界の歴史の上におられて、それを支配しておられます。住民登録という世俗の行いを通して、神は旧約の預言者たちに語らせたとおりに、救い主をベツレヘムで生まれさせて下さいました。

 このように聖書に言われているのですから、私たちも今、この時代にあって、現代の世界の歴史を支配し持ち運んでおられる神の在すことを信じて良いし、信じるべきではないでしょうか。神を信じることができないところでは、私たち人間の将来の予測は悲観的にならざるを得ません。人間には常に偽りや嘘があり、自分本位であり、人間が自分の姿を基準にして世界を動かそうとするのであれば、私たちの世界は容易く破れるに違いありません。
 感染症が蔓延して集うことが難しくなり、そのために、以前のように無邪気に人の集まる所へ出かけられなくなっている人もいれば、冒険するように人混みの中に入って行ってトラブルが起こるような時代です。まっとうに正直に生きるという価値観が、上辺では大切なことのように言われていながら、もはやどれだけの人がそのような生き方に従っているのかが分からず、不安になったり、つい投げやりな思いになってしまう、そういう時代です。
 けれども、今のこの時代の上にも神はおられ、まさに御業をなさっておられるのだと、聖書は語りかけます。静かな目立たないところで、救い主が確かにこの世界に力を及ぼしておられる、そして救い主が私たちに伴い慰めを与え、信じて生きるようにと招いてくださっています。「あなたはわたしのものとして、ここから生きて良い」と御声をかけてくださいます。
 そのような救い主が確かに今日、私たちに伴っておられ、私たちの一日一日の歩みを支え、生かして下さっていることを信じたいのです。

 主イエス・キリストが確かにお生まれになり、弟子たちを招き、復活して弟子たちに常に伴ってくださっているが故に、私たちの生活にも伴い、私たちを持ち運んで下さることを、もう一度確かなこととして憶え、ここからの一巡りの時へと歩む者とされたいのです。お祈りを捧げましょう。

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