ただ今、マタイによる福音書19章23節から30節までをご一緒にお聞きしました。先週も同じ箇所を読み、裕福な青年と主イエスとの対話を中心に聞きました。今日は、その青年が立ち去った後で主イエスが弟子たちにお語りになったことを中心に、御言葉を聞きたいと思います。
最初に、23節24節の主イエスの言葉を繰り返してお聞きします。「イエスは弟子たちに言われた。『はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい』」。大変有名で印象的な言葉だろうと思います。「富んでいる人が、心からの信頼を神さまに寄せて生きていくことは何と難しいことか」と、主イエスは嘆かれました。依り頼むものを沢山持っている豊かな人が、それにも拘らず神に心から信頼を寄せる、それは「らくだが針の穴を通るより難しい」ことだと、主イエスは言われました。
「らくだが針の穴を通る」と言われましても、あまりにも大きさがかけ離れているために、逆に何のことを言っているのか、私たちは戸惑うと思います。「針の穴」と言いますと、縫い針に糸を通す小さな穴のことを思い起こしますが、ここで主イエスのおっしゃった針の穴は、縫い針の穴のことではありません。主イエスの時代のエルサレム神殿は城壁に囲まれていましたが、神殿の脇に、人が一人通れるくらいの通用門があって、それが「針の穴」と呼ばれていました。人間が立って一人通り抜けるくらいのくぐり門ですが、そこにらくだを通させようとすると、らくだを腹ばいにさせ、首に縄をかけて、首だけ先に門をくぐらせ、引っ張ったり押したりして体を押し込んで通らせることになったと思います。らくだはそこを通りたいわけではありませんから、腹ばいになってくれるかどうか分かりませんし、大きならくだであれば、つかえて通り抜けられないかもしれません。ですから、「らくだが針の穴を通る」というのは、最初から丸っ切り不可能なわけではありませんが、非常に大変なことです。通ってはみたものの、あちこちに擦り傷を負ってしまうかもしれません。主イエスがおっしゃったのはそういう譬えですが、なぜ「らくだ」かと言うと、当時は「らくだ」が一番大きい動物として知られていたからです。
主イエスがこう話されたのは、直前で富める青年が「わたしは子供の頃から聖書の掟を守って来ました」と言ったからです。青年は、聖書が教えていることはすべて、自分としてはできていると思っていました。そして、「行うべきことは行い、してはならないことはしない、そのように教えを満たして歩んで来た。聖書によれば、そうしていれば良い人生であると確信して心穏やかに暮らせそうなものなのに、実際には、少しもこれで良いと言う気持ちになれない」と悩んでいました。彼は、あくまでも自分の行いの正しさを神に認めてもらおうとする、自分は正しいのだから神は祝福してくれるはずだと思い込んでいるので、神の祝福があるのかないのかを自分で確信することができないのです。
本当に神に愛され祝福された良い人生を送りたいのであれば、「神さまはわたしを愛してくださっているのだ」と信頼して生きなければなりません。自分の正しさを認めさせようとするところには、喜びはありません。「わたしは神さまから愛されている。神さまが支えてくださっている中で、今日を生きることができているのだ」と思わなければ、神に喜ばれている自分であると思えるはずはありません。ですから、主イエスは青年に「あなたの持っているものを全部、一度、手放してしまいなさい。そしてわたしに従ってきなさい。そうすれば、神さまがあなたを支えてくださっていることが分かるようになるよ」と教え、招いてくださいました。けれども、物質的な富とか自分の正しさとか、この青年の持っているものはあまりに大きなものでした。聖書の律法の膨大な巻物を体に巻きつけるようにして生きていますから、狭い門を通ることはできません。青年は自分で門を通ろうとするのですが、背中に抱えている「自分はこんなに立派だ」という思いが大きすぎて、それが突っかかってしまうのです。主イエスはそのことを、「らくだが、針の穴と呼ばれる門を通るようなものだ」と言われたのです。豊かな者、富んでいる者、自分の立派さを誇る者が「ただ神さまに委ね、神さまに愛され支えられて生きる」ということは、本当に難しいことなのです。
主イエスがこうおっしゃったことに対して、弟子たちが非常に驚いたというところから、今日の話は始まります。なぜ驚いたかというと、当時は「神に愛され祝福されている人とは、神の守りがあるので、財産的にも豊かになり、社会的にも重んじられ名誉ある地位を与えられるに違いない」と多くの人が思っていたからです。当時の一般的な尺度からすれば、富める青年は多くのものを豊かに神から与えられている人です。財産があり、役人としての立場もあったと他の福音書には記されていますから、弟子たちからすると、青年は「神から愛され祝福された人」なのです。ところが主イエスは、そういう豊かさを指差しながら、そのように豊かな人が、「自分は神の祝福を受けている」という確信を持って神のご支配のもとに生きる、つまり「永遠の命に生きることは何と難しいことか」とおっしゃったのです。大方の人が、豊かさこそ神の愛のしるしだと思っていることに対して、その豊かさこそが、人を神から引き離してしまうものなのだと指摘しておられるのです。ですから、弟子たちは驚いたのです。25節に「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った」とあります。
弟子たちが驚いたということは、逆に言うと、この時、弟子たちは主イエスのおっしゃったことをきちんと受け取ったということになります。自分たちがこれまで思っていたこととは違うので、驚いたのです。けれども、主イエスがここで教えられたことは、この日初めて教えられたことではありませんでした。マタイによる福音書ですと、5章3節で「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と主イエスは言われました。「天の国というのは、心の貧しい人たちのものなんだよ」と、弟子たちに教えておられます。
今日の箇所で、富める青年が主イエスの言葉につまずいて悲しみながら立ち去ったのは、「心が貧しくない」からに他なりません。富める青年は、自分のやるべきことは全部やれていると思っています。律法の掟を要求されている通り行っている、自分は正しい、ですから自分の行いという点では、青年は満ち足りています。けれども、「自分の行いには何も間違ったことがない」というあり方は、決して心が貧しくはないのです。そして、そういうあり方では、天の国に入るのは本当に難しいことなのです。ですから、主イエスからすると、山上の説教で弟子たちに教えられたことと、富める青年についておっしゃっていることには全く矛盾なく、最初から同じことをおっしゃっているのです。
富んだ青年は、主イエスの言葉につまずいて立ち去りました。しかしそれは主イエスに反発してということではなく、ある程度主エイスのおっしゃっていることは分かったけれども、自分には違うと思って、悲しみながら立ち去ったのです。そして弟子たちは、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えられた、その時には分かったつもりだったのですが、自分たちのあり方としては、「やっぱり豊かな方が、神さまに祝福されているのだろう」と思っているので、「この富める青年が天の国に入れないとすれば、いったい誰が入れるのだろうか」と驚いのです。
そういう中で、今日の箇所では、ペトロが他の弟子たちとは違うことを考えたのだと言われています。27節に「すると、ペトロがイエスに言った。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか』」とあります。このペトロの言葉が主イエスの教えておられる意図を全く理解していない発言であることは明らかです。主イエスが「天の国に入るのは難しい」と言われた「金持ち」の中には、金銭や物質だけのことではなく、自分の行いに絶対の自信を持っているようなことも含まれています。富める青年は「子供の頃から、わたしは間違ったことをして来なかった。聖書に命じられていることは全部やっている」と思っていますが、実はペトロも「わたしは全てを捨てて主イエスに従うことができている」と思っています。ペトロは確かに、金銭的には貧しくなったのかもしれません。けれども、「自分は何もかも捨てて主イエスに完全に従えています」と思っているということは、心は貧しくないのです。ですから、主イエスの教えからすれば、そういう人が天の国に入るのは何と難しいことかということに当てはまるのです。たった今、主イエスが「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃったばかりなのに、ペトロは、「わたしは全てを捨てて主イエスに従って来た」という自負を背中に背負っているのですから、主イエスの教えからすれば、背負っているものが突っかかって通れそうにないわけです。けれども、ペトロ自身は主イエスの言葉をさっぱり理解していませんから、弟子である自分たちは当然通れると思っているのです。そして、「わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と言っています。「お金持ちの青年は針の穴を通れませんでしたけれど、何もかも捨ててあなたに従って来た私たちには、穴を通った先に何があるのでしょうか」と質問するのです。
富んだ青年は、主イエスのおっしゃったことを、ある程度理解できたので、「悲しみながら立ち去った」のですが、ペトロは全く理解していないので、大変無邪気に「何がもらえるのだろうか」と思っています。自分の正しさを疑っていないあり方は、このペトロの言葉で分かるとよく言われます。27節を見ますと、ペトロは「私たち」と繰り返し言っていて、自分が前面に出ています。
こういうペトロを前にして、主イエスは顔を曇らせたのではないでしょうか。主イエスは、富める青年がたくさん背負っている「自分が正しい」という自負心から解放されて、「ただ神さまに信頼して、従って行きますという思いだけを持てれば良いのに」とお考えでした。「わたしに従ってくれば、どんなに神さまがあなたを愛しているかを知ることができるのに」とおっしゃったのです。けれども青年は、「わたしは正しいことをやっているから、神さまから愛されるはずだ」と思っていますから、「それでは針の穴を通ることはできないのだ」と、主イエスは言われたのです。
ところが更に、一番弟子だと思われているペトロまでもが同じような高慢なことを言ったのですから、主イエスからすると心得違いも甚だしい訳で、こういうペトロは、この後、厳しく叱られても仕方ないのではないか、あるいは何も分かっていないことを考慮しても、たしなめられても仕方ないのではないかと。私たちは思います。実際にはどうだったでしょうか。28節に「イエスは一同に言われた。『はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる』」とあります。
この主イエスの答えは、予想と違うものだと思います。ペトロは高慢にも「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いました。ペトロのこれから先のことを知っている私たちからすれば、とても怪しい言葉だと思いますし、たしなめられてもよいと思うのですが、主イエスは「その通りだね。あなたはよくわたしに従ってきたから、いずれは十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と、やがては大変晴れがましい立場が与えると言っておられるように聞こえます。
こういうやり取りを聞いていますと、私たちはふと、主イエスというお方のことが分からなくなってしまいます。どうしてこんなことをおっしゃるのか。ペトロの言葉は、明らかに見当はずれな言葉です。私たちはこの言葉をどう聞くでしょうか。
私たちは、福音書を最後まで読んでいて、この後のペトロのことを知っていますから、このペトロの言葉に賛同することはできないと思います。確かにこの時点では、ペトロは形の上では「何もかも捨てて主イエスに従っていた」かもしれません。けれども、本当にペトロが自分を捨て切って主イエスに従い得たかというと、この先に起こる出来事を考えるとそうは言えないのです。主イエスが十字架に掛けられる前の晩、逮捕される直前に、ペトロは「たとえ一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。たとえ十字架に掛けられるとしても、わたしはあなたに従います」と、そこまで言ったのです。ところがその数時間後に主イエスが逮捕されると、ペトロを除く弟子たちは蜘蛛の子を散らすみたいに主イエスを見限って逃げてしまいます。ペトロは他の弟子たちより多少ましだと言えるかも知れませんが、逮捕された主イエスの後を追って大祭司の官邸の中庭まで行くのです。けれどもそこで何が起こったかは大変有名なことですが、ペトロは正体を見破られそうになって、「あなたはあの人の弟子ではないか」と繰り返し問われて、「いいえ、わたしはあの人のことを知りません」と、三度も主イエスを知らないと言ってしまうのです。それは、すべてを捨てて主イエスに従っている人の姿ではないことは明らかです。私たちはそういうペトロの正体を知っていますから、どうしても、主イエスが「あなたはよくわたしに従ってきたから、いずれは十二の座に座る。大変晴れがましい立場が与えられる」とおっしゃっている言葉を納得することができません。どう考えても不可解な言葉だと思います。
ペトロという人は、自分自身のことが分かっていない人だとしか言いようがありません。けれどもこういうペトロの姿を通して、私たちは、自分自身のことを考えることができるのではないかと思います。私たちは「主イエスを信じます。主イエスに従って行きます」と言って、洗礼を受けてキリスト者になったのですが、では私たちは本当に、「すべてを捨てて、神への信頼だけによって」生きているでしょうか。洗礼を受けた私たちは、「わたしは神さまの子どもですから、神さまに従っています」と言えるはずなのですが、自分自身を振り返りますと、怪しいところがたくさんあるのを知っています。自分の経験から考えれば、「わたしは何もかも捨てて主イエスに従ってきました」などとは言えないことを知っているのです。
けれども、ここで主イエスが、高慢にも「わたしは何もかも捨てて従ってきました」と言い切ったペトロに対して、「あなたはよくわたしに従ってきたから、特別な座を与えよう」と言ってくださったということは、同じことを言うならば、「主イエスを信じます。主イエスに従って行きます」と言って洗礼を受けた私たちに対しても、主イエスは「あなたはわたしに従ってきたから、特別な座を用意しよう」と言ってくださっているということになるのです。どうして主イエスはこのように応じてくださるのでしょうか。これは、ペトロだけの問題ではなく、私たち自身にも関わることです。
私たちは、こんなにも主イエスに従うと言いながら従うことの少ない私たちであるにも拘らず、なぜキリスト者と呼ばれているのでしょうか。この世にあって、他の人たちが座ることのない「キリスト者」という座に座ることができているのはなぜか。主イエスはその答えを今日の箇所でおっしゃっています。26節です。「イエスは彼らを見つめて、『それは人間にできることではないが、神は何でもできる』と言われた」。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」、それが主イエスのお答えですが、その前に主イエスは、「弟子たちを見つめられた」と言われています。主イエスの前にいる弟子たちはどのようだっただろうかと思います。おそらく、心の底から主イエスに従っているか、神に信頼しているかどうかと言えば、甚だ心もとない人たちばかりがそこに居たのだろうと思います。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えられて、この弟子たちは、「そうだ、そうだ」と思う。字面を聞いて分かったつもりになって、「自分たちは貧しいのだから天の国に入れる」と喜んでしまうのです。
また、私たちはどうでしょうか。本当に心が貧しいかどうかと考えますと、貧しいどころか、何も手放すことができていないのではないでしょうか。「神さまに信頼しているから、今日わたしはやっと生きていられます」ということではなく、日々の暮らしの中で、「あれもこれもやりたい。わたしはあれもこれも出来る、こんな楽しみもある」と、様々なものに心を寄せてしまいますから、すぐに神を忘れて、神抜きで生きていることに気づいて愕然とする、そういう者だと思います。そして、主イエスの前にいる弟子たちも恐らく同じだったと思います。
主イエスは、そういう一人ひとりをご覧になって、一人一人を見つめながら、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」とおっしゃいました。
「神の御支配のもとで、神が真実にあなたを支えてくださるという生活は、心が貧しい人が歩んでいく道なのだよ」と主イエスが教えてくださって、弟子たちは最初それを喜びます。「それならば、わたしにも出来ます。あなたに従って行きます」と思うのです。けれども、いざその道を歩み始めると、どうなるか。心の貧しい者として、ただ神に信頼して主イエスを愛してついて行く。その生活に自分で内実を作って行こうとする。主イエスに従うキリスト者としてのあり方を自分の手で満たして行こうとする。そうすると実は、私たちは、次々に崩れて行ってしまうのです。「わたしを信じて従って来なさい。あなたはわたしのもの、キリスト者にしてあげよう」という主イエスの招きの中で、私たちは信仰生活を過ごしているのですが、その招きを聞いて、さて自分が主イエスに従っている者として相応しく生きようとしても、なかなか内実が伴わないのです。
礼拝を捧げる中で、「あなたはわたしのものだ」と、聖書で主イエスがおっしゃっている御言葉を聞き取る、その時には、確かに嬉しいのです。「そうだ、わたしは、主イエスに捕らえられた者なのだから、主イエスに従って歩もう」と、その時には本気で決心するのです。精一杯、神の前で誠実な者として歩もうと思うのです。けれどもその決心は、到底一週間続かないのです。全力で信仰生活を生きようと決心する、信仰者らしい内実を作り上げようと願っても、決心するそばから私たちの決心は崩れて行きます。それはどうしてかと言うと、そもそも私たちの中に、主イエスに従って歩める内実など、何もないからです。
ペトロが主イエスに向かって言った「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」という言葉を聞いて妙な気持ちがするのは当たり前です。私たちは、主イエスに従っているかというと、全く従えていない、内実など少しもないと思わざるを得ませんから、ペトロであってもそうだろうと思うのです。ところがペトロが「わたしは従っています」と言い切るので、違和感を感じるのですし、主イエスに「それは違うよ」と言っていただきたいとも思うのです。
けれども、主イエスはここで、「それは違う」とはおっしゃらず、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るときには、あなたがたもわたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになるのだ」とおっしゃる。このように、主イエスがペトロの言葉を撥ね付けもせず、聞き流しも無視もなさらず、むしろ正面から受け止めて「その通りだ」とおっしゃってくださるのは、実は、ペトロの言葉の中に主イエスを感心させ納得させるような真実があったからではありません。そうではなくて、主イエスご自身が、ペトロの言葉の中に内実を満たすことがお出来になるからです。「わたしはあなたに従います」という私たちの言葉に、主イエスの側で内実を作ってくださって、私たちを造り変えて、少しずつでも従える者としていってくださるのです。
私たちは、自分では従えていないと思っています。けれども、毎週礼拝に来ています。なぜ教会に来るのかというと、「わたしは一週間、ずっとあなたに従って来ました。こんなに立派に過ごしました」と報告するために来るわけではないと思います。そうではなく、私たちは、教会に来る時には、「この一週間、わたしは虚しく過ごしてしまいました。どうか神さま、御言葉をもって、わたしの中に新しいわたしを造ってください」と願って、やって来るのだと思います。そして、私たちはここで、聖書を通し神の御言葉に触れて、「わたしの中に、僅かであっても、神さまによって生きる自分が形作られた」と思って喜び、その思いを持って新しい一週を歩んで行こうとする、それが、私たちが礼拝の中で経験する改心であったり、決心なのだろうと思います。
ペトロは「わたしはあなたに従って参りました」と言いましたが、それはペトロが自分でできていることではありません。主イエスがペトロの中に、「従って来る者」を作ってくださるのです。そして主イエスは、それをご覧になって、「だから、あなたがたはわたしに従って来ることになるのだから、新しい世界になって、人の子が栄光の座につくときには、あなたがたにも12の座にそれぞれの席が用意されているのだよ」とおっしゃるのです。
「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき」と、主イエスはおっしゃっています。「新しい世界になる」という言葉は意訳で、原文をみると、「世界」という言葉はありません。「新しく生まれるときには」と書かれています。今日は説教題を「再び生まれる」としましたが、「新しい世界になり」という言葉の元々の言葉を訳したものです。「新しく生まれる、再び生まれる」、この「再び」は、意味から言うと「元に戻って」という意味です。「元に戻って、すっかり引き返して、最初からもう一度生まれる、その時に」ということです。
「人の子が栄光の座に座る」、これは今日の箇所の時点で実現していることではありません。主イエスはこれから、栄光の座に座るどころか、十字架に架けられて殺されるのです。けれども、その主イエスが神の独り子として高く引き上げられ栄光の座につかれる時が来る。皆がそれを見上げる時が来る。「その時には、あなたがたはもう一度最初から、あなたがたの命を生き直すことになる。その時には、あなたがたは、従っているかいないか分からないような不確かな者ではなく、確かに主イエスに従って来る者として、一人一人に座が用意されているのだ」と主イエスはおっしゃっているのです。
ペトロは、自分がこれまで歩んで来た地上の道のりを振り返って、自分は従うことができたと思っています。けれども、それは実際から言うとそうではないので、批判的には空虚な歩みをして来たと言われても仕方ありません。けれども主イエスは、そういう弟子であっても、「主イエスに従いたい」と心から思っているならば、「もう一度新しく生まれさせてあげよう」とおっしゃるのです。「あなたがたが再び生まれさせられて、新しく生きる時には、わたしと共にある者として、今度こそは真実に、12の部族を治める者の座につくことができる」とおっしゃるのです。
そして、ここにいる私たちにも、一人一人に、そういう座が用意されていると言われています。
「十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治める」というのは、旧約聖書のイスラエルのイメージでおっしゃっているのですが、私たちに引きつけて言うならば、「教会の中に場所がある」ということだろうと思います。「十二部族」は「神の民」ですから、「教会全体」なのです。その全体の中に、「あなたが座る椅子がある」ということです。そして「治める」というのは、何も偉そうに踏ん反り返って「あなたはどうだこうだ」と裁くようなことではないと思います。「十二部族」が皆歩んでいけるように治めるのですから、「仕える」ということです。ですから私たちは、「主イエスこそが、やがて来たるべき救い主なのだ」ということが明らかになる、そういう世界の中で、それぞれに座があって、そこに座ることを赦され、その中で、教会の群れ全体のために自分の役割を果たす、そういう仕え人として一人一人が召されているのです。
今のところ、私たちは、そういう約束とは似ても似つかないようなあり方を歩んでしまいがちかもしれません。「あなたはわたしのものだ。神さまの御国の中に数えられていて、そこに席があって、そしてあなたにはそこで果たすべき役割もあるのだ」と言われていても、私たちは、始終その約束を忘れ、神の民であることを忘れて空虚な歩みをしてしまうかもしれません。それでいながら、私たちは、「この地上の教会で、わたしはこれだけのことをやりました」と、時には得意になって見当違いなことを言ってしまうことさえあるかもしれません。けれども主イエスは、そういうペトロにも、他の弟子たちにも、私たちにも、「あなたは確かにあなたが言う通りの者になるよ。あなたはわたしのものなのだから、わたしがあなたに内実を与えるのだよ」とおっしゃるのです。
弟子たちだけではなく、ここにいる私たちも、「信仰を与えられ信仰の内実を与えられて、神の民とされていく」、私たちの地上の生活は、その前味を味わっているようなところがあります。私たちの中に少し、時々、キリスト者らしい香りがすると、私たちは、それがキリスト者らしいことなのだと感じますが、実はそれは、来るべき私たちの完成された姿のほんの前味、香りに過ぎません。私たちがキリスト者らしい香りを放つのは、今ここに、それだけ立派なキリスト者としての実体があるというよりは、「主イエスがそういう者として私たちを作り上げようとしてくださっている」から、だから、その香りが時々、私たちから漂うのです。人間にできることではないことを、私たちは約束されているのです。「神のものとされ、神にだけ信頼を置いて、そしてそうであるがゆえに、どんなことがあっても決して動かされることなく落ち着いて、与えられている場所で生きていくことができる」、そういう人間に、私たちはされていくのだという約束がされているのです。
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」、この言葉通りに主イエスが語りかけてくださいますし、また、私たちの言葉に真剣に耳を傾けてくださるのだということを覚えたいと思います。
そして、そうであるからこそ、私たちは、いよいよ熱心に祈りを捧げて歩む者としての生活に励む者とされたいと願います。「神の民とされている」、その約束が私たちにとっては何にも代え難いこと、そしてそれが本当に真実なことなのだということを覚えたいのです。そして、約束を与えられている者として、今日この地上で、神の恵みの許にある自分自身とはどういう者なのかを考えながら、神にいよいよ仕える者として相応しい歩みをさせていただけますようにと祈り、日々の生活を過ごしていきたいと願います。 |