ただ今、マタイによる福音書19章16節から30節までをご一緒にお聞きしました。今日は特に16節から22節までのところを中心にして聴こうと思います。16節に「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか』」とあります。一人の男の人が主イエスの前に進み出ています。この人は、20節、22節では青年と言われていますので、この箇所は「主イエスと富める青年の対話」とよく言われます。
この青年は、主イエスに対して真に真剣に尋ねようとしてやって来ています。福音書の中には、実に様々な人が主イエスの前に現れて質問するという場面が語られていますが、そういう中には、当時の人が答えにくいとか難しいと思う問いをわざとぶつけて、主イエスを困らせようとして質問する人たちも多く出てきます。けれども、この青年はそうではありません。この人は、心から主イエスに教えてもらいたいと思っています。そして単刀直入に「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねます。
この人は真剣に問うていますが、こういう言葉を聞いても、私たちは、この人が何を質問しているのか、よく分からないのではないかと思います。この青年は「永遠の命を得たい」と言っています。一体何を願っているのか、私たちにはピンと来ないのではないでしょうか。どうしてかと言えば、私たちの知っている命は、決して永遠ではないからです。私たちは、誰であっても例外なく、いずれは地上の生活に終わりの時が来ることを知っています。そうしますと、地上に生きている限り、命が永遠であるはずはありません。ですから、この青年の質問の意味を、私たちは咄嗟には分かりかねるのです。
けれども、もちろんこの青年は、いわゆる不老不死を願っているわけではないのです。では何を望んだのか。それを知るためには、聖書の中で「永遠の命」はどのように教えられているかを見ておくことが大事だと思います。マタイによる福音書の中に、これから先に読む箇所ですが、「永遠の命」について教えられているところがあります。25章46節です。「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」。ここに「永遠の命にあずかる」と出てきます。どういう文脈の中で語られているでしょうか。「主イエスが終わりの裁きの日に、天使たちを従えて再び来られる」という場面です。終わりの日に主イエスが来られると、「羊飼いが羊とやぎを選り分けるみたいに、全ての人を右と左に分ける」、つまり「この人は神の御前に永遠に通用するか、通用しないかをご覧になる」ということです。その結論として、「裁かれる人は永遠の罰を受けるけれども、神の御前に正しさを認められ主イエスに忠実だった人は、永遠の命にあずかる」と言われているのです。
ですから、聖書の中で「永遠の命」が語られる時には、不老不死などの「時間」の話ではありません。そうではなく、私たちが一生を終える時に、「あなたの一生は、それで良かったんだよ」と言ってもらえるかどうかということです。「あなたの人生はまるで的外れな生活、何の意味もなかった」と言われてしまうのか、「あなたは、そう生きて来て、まさに良かったのだ」と言ってもらえるのか、それが永遠の罰と永遠の命のイメージです。ですから、「永遠の命」は時間が無限になるということではなく、「あなたの生き方は、神さまの前に『それで良い』と言われる正しさを含んでいるかどうか」です。
この青年は、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねていることからも分かるように、「わたしは、どのような人生を送れば良いのか」ということを尋ねているのです。ですから、この人は極めて真面目な人です。せっかくこの世界に生まれてきたのだから、ただ生きるということではなく、自分のこの一生を本当に意味のある良いものにしたいと心から願っているのです。一生の終わりに、「自分の歩んできた人生は、まさに、神さまの前に良いと言われる『永遠の命』を生きて来れた」と振り返れるような一生を過ごしたい。「そのためには、どんなことをすればよいのか」と尋ねているのです。
そして、「どうやったら、正しい一生を生きられるのか」、この青年は、このことを心から願っていますから、そういう意味では、聖書に語られている掟のようなものは、きちんと人並み以上に守っているつもりなのです。また、貧しい人、不運な状況にある人を見れば施しもしているし、自分としては精一杯善いことをしようとして生きているのです。しかし、それでもなお、本当に正しい命を生きているという実感がないのです。ですから、「本当にこれで良いのだな」と自分自身が満ち足りて思えるような命を生きるためには、どんな正しいことをすれば良いのかと尋ねているのです。これから先、長い人生を生きていかなければならないと思えば、もしかすると誰もが考えるかもしれない、そういう問いでもあると思います。
けれども、今の日本で多くの人が願っていることを考えてみますと、こういう問いの立て方とは違うかもしれないと思います。この青年は「良い生き方をしたい」と願っています。もちろん日本でもそういう人はいるでしょう。けれども、多くの人は良い生き方というよりも「自分らしく生きたい」と思っているのではないでしょうか。今は少し違っているかもしれませんが、少し前の日本では、「自分探し」ということが若い人たちによく語られていました。多くの人は、それは悪いことではないと思っていると思います。「人生は自分の思いを実現するステージだ」と思っている人は、割合多いと思います。学校教育の影響もあるでしょう。小中学校の作文では、「あなたは何になりたいか。夢はなんですか」ということについて書かされますし、書けば先生に「実現するには、頑張りなさい」と励まされ、皆「わたしはなりたいものになるために頑張る」と思って頑張るのです。そして、大人になれば「自己実現」と言われ、それは大方良いこととして社会に通用していると思います。
けれども、敢えて申し上げるならば、「自分の人生は自分の思いを実現するためにあるのだ」、つまり「自己実現以上の良いことはないのだ」と考えてしまうようになると、私たちは、あることを忘れてしまうのではないかと思います。それは、「わたしの人生の上に、このわたしを超える方がいる。そして、その方がわたしに命をくださっているのだ」ということを考える暇がなくなってしまうのです。命を、まるで自分の手で得て自分で生きているもののように思ってしまうのです。
今日の聖書箇所の富める青年は、そこまで自分中心に物を考えているのではありません。自分の願いが実現して欲しいと願っている、そういう自分のあり方も含めて、「自分の命、自分の一生を本当に良いものとして生きるためには、今のままで良いのか」という悩みを抱えて主イエスのもとに来ているのです。「本当に良い命、良い一生を送るには、どんな善いことをしたらいいのか。自分とすれば、良さそうなことは全部やっている。それでも、実際の自分は『これで良い』と思えない気がする」、すっかり満ち足りていて幸せだと思えない部分があるのです。
ですから青年は、主イエスとの問答の中で、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と言われて、「どの掟ですか」と尋ねました。そして、あれこれの掟を言われて、答えました。20節です。「そこで、この青年は言った。『そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか』」。「まだ何か欠けているでしょうか」、これは、また振り出しの問いに戻っている言葉です。まさにここに、この青年の悩みがあります。「やるべきだと思うことは皆行っている。神の戒めや掟も、人並み以上に守っているつもりである。だから、そうであれば何も足りないものはないと思えるはずなのに、しかし自分としては、完全に生きるべき命を生きているという充実感を得ることができない。それはどうしてだろう?」と、この人は思っているのです。そういう悩みがこの人を突き動かして、主イエスに質問しているのです。
さて、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」という青年の問いに対する主イエスのお答えは、17節です。「イエスは言われた。『なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい』」。真剣な青年の問いに対して、主イエスは意外にも、正面からお答えになりません。答えをはぐらかしているのではありませんが、両者の問答はすれ違っています。
青年の問いは、逆の言い方をすれば「わたしは一生懸命生きています。一生を生きた後に、『あなたの一生はそれで良かった』と、是非とも神さまに言っていただきたい。神さまに認めさせるためには、どう生きたら良いでしょうか?」と言っているようなものです。つまりこの人は、終わりの時に神に認めてもらいたいし、そのためであれば自分は何でもできると思っているのです。できるはずだから、そのするべき善いことを知りたいと思って尋ねているのです。
けれども、この問いは、自分には何かができるということが前提ですから、自分がそれを行ったならば、最後には、神は関係なくなるのです。本当になすべき善いことを知ったならば、神がいようがいまいが、最後には自分にも周囲の人からも認められるような人生を生きることができるのです。つまり、「神さまから離れてしまっても、自分の人生はこれで良いと思えるような人生を送るためには、どうしたらよいでしょうか?」という問いを立てているのです。
ところが主イエスは、「人間の命は神さまからいただくもの、お預かりしているものなのだから、どうであろうと、神さま抜きで、自分一人で正しかったなどと言えるはずがない」とお考えなのです。「もし、永遠の命を生きたと言いたのなら、つまり、もし命を得たいのなら、神さまの前に立つほかないだろう」と言われるのです。この青年が問題にしているのは「善いことは何か」ですが、主イエスの答えは「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」と、「善い方は誰か」についてお語りになるのです。「あなたの命を、本当にそれで良かったんだよと言ってくださるお方は、一人だけである。命については、あなたが言うべきことではない」と、主イエスはおっしゃっています。そして、善い方の御心を行うために御言葉に耳を傾けて、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と言われました。
考えてみたいのですが、もしこの青年が、自分の人生の中でなすべきことを全て行って最後まで生きることができたとして、その甲斐があって、大勢の人から感謝され尊敬されたとして、ではそれでこの人は、「悔いのない一生を送ることができた」と満足して一生を終えられるかと言うと、多分そうならないと思います。どうしてかと言うと、仮に全て正しく生きることができたと仮定しても、誰しも自分のやっていることが本当に正しいことなのか、何か間違っているかということは、自分では最後まで分からないからです。人生の中で大きな決断を下す場合、例えば進学、就職、結婚、引越し、転職、退職など、いろいろな場面があると思いますが、それは、自分がこう進みたいという思いによって決断する場合もあるでしょうし、こうするしかないという場合もあるでしょうが、そこで下す決断が「本当にこれで良かったのだ。正しかったのだ」と分かるかどうかというと、はっきりとは分からないのではないでしょうか。こう決心して、「こうすることが正しいことではないかな」と思って、私たちは人生を生きていくのです。そう生きてしまえば、違う場合の人生と比べてみることはできませんから、自分が生きたなりのことでしか物事を考えることはできないのです。そうしますと、仮に本当に良い人生を送っていたとしても、自分では「この人生が本当に良かったのかどうか」は、最後まで分からずじまいなのです。
では、私たちにできることは何でしょうか。「こうすることが、わたしのなすべきことなのだろうと信じて決断する」ということだと思います。「この場所にいること、この職場にいること、それは良いことではないだろうかと信じて、選び取って、今生きています」と言うこと、それは、私たちにできることです。けれども、それが正しかったかどうかは、私たちには分かりません。けれども、私たちが「これが正しいことだと思います」と信じて様々なことを決断するときに、それを受け止めてくださるただお一人の方がいらっしゃるのだと、主イエスは言われます。私たちが決断して、時には間違ってしまうこともありますが、そこで「それは違うよ」と言ってくださる方がいる。そして、そのお方は「善いお方である」と言われるのです。そして、「あなたの一生は、そういう善いお方に伴っていただいている一生なのだよ。だからあなたは、その方の御心、御言葉を聞いて、人生を歩んで行きなさい」と、主イエスは教えてくださるのです。「善い方はお一人である。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」、「掟」とは言葉は堅いですが、つまり「御言葉を聞いて生きて行きなさい」ということです。
ところが、この青年には主イエスのおっしゃることが分かりませんでした。「神の御言葉を聞いて、その戒めを守って生きて行けばよい」と主イエスが言われたことに対して、青年は「どの掟ですか」と尋ねました。それに対する主イエスの答えが18節です。「イエスは言われた。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」。6つの言葉を言っておられますが、その中の5つは、十戒の2枚の板の2枚目に書いてある戒めです。「十戒」は10の戒めで、最初の5つには「神と人間との間柄」のことが、そして後の5つには「人間同士の間柄」のことが書いてあるのです。そして、ここで主イエスは、その2枚目の板に書いてあることをおっしゃり、それに加えて最後に「隣人を自分のように愛しなさい」と、旧約聖書のレビ記に記されている戒めを教えられました。
すると、青年は即座に答えました。20節「そこで、この青年は言った。『そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか』」。やはりここでも、主イエスがおっしゃっていることと青年がやりたいと思っていることは噛み合わず、すれ違っています。すれ違っている原因は何でしょうか。
ここで注目したいことは、主イエスが挙げられた掟です。主イエスは、十戒の2枚の板に記された掟、つまり「人間同士の間柄がどうあるべきか」ということを語っておられます。改めて考えてみますと、これは少し意外なことです。主イエスは「善い方はただお一人である。そのお方の御言葉を聞いて生きることが良いことだ」とおっしゃったのですから、「ではどの掟を守ったら良いでしょうか」と問われたら、普通であれば、「神様との間柄を正しく生きるための掟」が書かれた1枚目の板の言葉を教えられるだろうと思うのです。
ところが、主イエスが青年に示されたのは2枚目の板「人間同士の間柄の
戒め」であり、またレビ記18章19節に記された「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉でした。なぜかというと、主イエスは、この青年について、「この人に足りないものは、隣人に向かうことだ」とお考えになったからです。
もしも、私たちが聖書の御言葉を本当に受け止め、それを守って生きることができるのであれば、実は、私たちはその時に経験することがあります。それは、「神さまがどんなに、このわたしを愛してくださっているか。神さまがどんなに、このわたしを深く受け止め、認めてくださって、『あなたはそこで生きて良い。あなたの命は祝福されている。わたしが守っている中に置かれているのだよ』と言ってくださっている」と知る経験です。そしてそこで、心から嬉しいと思うことができるのです。教会に来るということは、多分、そういうことではないでしょうか。
教会に来て、「ああしなさい。こうしなさい」と、ルールのようなことばかりを教えられるのであれば、また礼拝で御言葉を聞いても、「神さまがわたしを受け止めてくださっている。愛してくださっている。ここで生きて良いのだと言ってくださっている」ことを何も感じないとしたら、多分、私たちは毎週毎週礼拝に来ることはできないのではないでしょうか。
私たちがどうして教会に来たいと思うのか。私たちは聖書の御言葉の前に集まり、御言葉を聞こうとしているのです。聖書の中には、神さまが私たちのことを真実に考え、受け止めてくださって、「あなたは生きて良いのだ」とおっしゃってくださっている言葉が語られているからです。その言葉を聞いて、「それならば、今週、わたしはこう生きてみよう」と思うからこそ、私たちは一週間、慰められ、力づけられて生きることができるし、そうだからこそ、私たちはまた次の日曜日には教会に行こうと思うのです。「わたしは、もしかしたら、毎週礼拝で聞いている聖書の言葉、自分で読んでいる聖書の言葉を十分には理解できていないかもしれない。勘違いしたり思い違って受け止めているかもしれないけれど、しかしそれでも神さまは、このわたしを生かしてくださっているのだな。わたしは本当に間違いばかりの小さな者だけれど、それでも神さまが『生きて良い』と言ってくださる中で生きている。なんと幸せなことか。嬉しいな」と、そう思って生きているならば、その時には、私たちが聖書の言葉を正しく受け止めているということなのです。
ですから、そういう生活を送っている人は、そもそも、「自分は永遠の命を生きていないのではないだろうか」という問いは、抱かなくなると思います。「わたしを支えてくださっているのは、神さまなのだから、わたしは永遠の命にあずかって生きているのだ」と感謝していることができるのではないかと思います。
ところが、この青年は、そういう思いになれないのです。「善いと思うことは全て幼い頃からやっている。でも、永遠の命を生きている気がしない」のです。それはなぜかと言うと、自分が正しく何をやっているかということばかりに気を取られて、「神がどんなにわたしを愛してくださっているか」ということに全く目を向けないからなのです。主イエスはこの青年に、「あなたが永遠の命を生きている気がしないのは、自分で何でもすることができるし、また自分のやることが全てだと思っているからだよ。そうではなくて、自分も周りの人たちとの交わりの中で生かされているのだということに目を向けたらよいのだよ」と言って、「人間同士の間柄」について神がどう教えてくださっているかに目を向けさせ、また、「隣人を、自分を愛するように愛するのだよ」と教えてくださったのです。
「神がわたしを愛してくださっている」ということを、私たちはどうやって経験するでしょうか。私たちがどういう時に神の助けを経験するか。それは、実際の生活の中で、「周りの人たちが、わたしを支えてくれている」という経験の中で知るのです。もちろん、実際の場面では、「目の前にいるこの人が、わたしを支えてくれている」というふうに経験しますが、その交わりの中に神が働いていてくださるのだと知って、私たちは、神の導きや助けを経験しながら生きていくのです。私たちは、日々の生活の中で、周りの人たちと一緒に生活をする中で、「神がわたしを支えてくださっている。神は確かに共にいてくださる」ことを知るようになるのです。
一つの例を挙げますと、私たちは皆、お祈りをし合って生きているようなところがあります。けれども、自分が本当に祈られていることを実感し感謝だと思う人は、周りの人のことを祈っている人です。自分が誰かのことを祈る時に、私たちは、念力やテレパシーで相手に届くようにと思って祈ったりはしません。神に向かって、「どうか、あの方をお支えください」と祈ります。ですから、相手に分かっていなくても祈っています。それと同じことが、自分についても分かるようになるのです。具体的にどう祈られているかは分かりませんが、でも「わたしは祈られている」と分かるのは、自分が祈っているからなのです。
主イエスがこの青年に、直接的に「神との間柄に関する掟」を教えられたなら、きっと青年は、「そんなことはみな知っています」と言ったことでしょう。ですから主イエスは、青年が「神との関わり」を正しく知るために、「今あなたに最も大切な掟は『人間同士の間柄に関する掟』である。あなたは、神さまの光のもとに周りの人との交わりを生きるのだよ」と教えられました。「真実に神との交わりに生きる」ということは、「神さまのもとに置かれている隣人が、わたしを支えてくれている」、そういう仕方で、「神さまが見てくださっている世界の中で、わたしは生きています」ということを経験することです。そしてそれが、「神さまがわたしを愛してくださっている」ということに出会う入り口になるのです。
これで分かったならば良いのですが、やはり、この青年には分かりませんでした。「そういうことはみな守ってきました」と、やはり自分の行いになってしまうのです。
この青年が「そういうことはみな守ってきました」と答えた時に考えていることは、「周りの人を愛さなければならないから、自分は貧しい人を見たら施しをするし、お祈りをしている。そういう正しいことは全部やっている」と、自分の中で、できているかできていないか、そのことだけであって、周りの人が自分をどう支えてくれているか、それと同じように、十分ではないとしても自分も周りの人たちを支えるようなあり方をしているかどうかというところに思いが至らないのです。ただ、自分は祈り施している、神の前に正しいことをしているのだとしか思わないのです。
そこで最後に、主イエスは非常にはっきりしたことをおっしゃいます。21節です。「イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』」。「行って持ち物を売り払え」ということは、それまで青年がやってきたことは、自分で自由になるポケットマネーの中からの施しだったということです。ですから、施しによって、自分の生活は少しも脅かされていないのです。ここは、もっとはっきりと「持ち物を全て売り払え」と書かれている福音書もあります。「あなたは、今持っているものを全部、一度手放しなさい」と、主イエスはおっしゃるのです。「あなたは、自分の生活は自分の持っているもので成り立っていると思っているけれど、そこから離れることが大事だ」とおっしゃるのです。それはどうしてかと言うと、この青年は豊かなのです。豊かであるために、自分としては周りから支えてもらう必要はないと思っているのです。自分の人生は全て、自分の持っているもので成り立っている。そして、そういう自分が正しくあるためには、何か善いことをすればよいと思っている。全部、自分ができる中でしか物事を考えていないのです。主イエスは、「そういうものから離れなさい。そのためには、持っているものを全て手放しなさい」と厳しい言葉をおっしゃるのです。
しかしそれは、貧しくなれということではありません。逆に、全部財産を売り払ったからと言って、それで「わたしは正しいことをしています」と言い張るのであれば、主イエスのおっしゃっている意味とは違います。「あなたは今、自分の人生を自分で成り立たせていると思っているから、そこから離れなければいけない。そして、その時には、わたしに従って来なさい」とおっしゃるのです。「わたしがあなたと一緒に生きてあげるから、あなたはわたしに従っていらっしゃい」と、主イエスはおっしゃるのです。
たくさんの財産、たくさんの持ち物、たくさんの名誉に守られていて、隣人との交わりにおいては自分が助けられていることは何も考えずに、自分が助けることばかりを考えている青年、信頼して誰かに依り頼むということは全く無かったこの青年に対して、「あなたにとって本当に大切なことは、隣人との交わりを生きて、相手を支えると共に、相手に依り頼んで生きるようになることだ」と、主イエスは教えられるのです。
さて、こういう記事を聞いて行くと、最後に、私たちは問われることがあると思います。
富める青年は、「本当にこれが正しいと思える命を生きたい」と願いました。主イエスは、「それを与えてくれるのは、目に見えない神。善い方はただお一人である」と教えてくださいました。「その方に支えられて生きるようになるために、あなたは、隣人との交わりによって支えられていることにまず目を向けなければならない」と教えられました。けれども結局、この青年は、この最後の主イエスの言葉を信じることができず、自分の財産で生きようという思いから離れられないために、悲しみながら立ち去って行ったと、ここには語られています。
そうであれば、この話を聞いている私たちはどうなのかということが最後に問われることなのです。「本当にあなたは、自分の今の財産を手放せるか」ということを言っているのではありません。そうではなくて、「心の底から、このわたしは善い方に支えられて生きるという、そういう人生を生きる者になるのか」、「そこまでわたしは、目に見えない神に信頼を置いて生きていけるのだろうか」ということが、最後に私たちに問いかけられてくる事柄だと思います。
富める青年は、目に見えない神に支えられているなどという、あやふやなものに信頼するのではなくて、もっと自分に手近に思えるこの世の財産、富に依り頼んで自分を成り立たせようとしました。ですから、主イエスの前から悲しみながら立ち去って行くより他ありませんでした。「富」は金銭だけに限りません。お金であったり、正しく生きていると思う自分への信頼であったり、自分の学識とか知識とかを含めて様々な豊かさがありますが、そういう富によって生きようとする道を、この青年は選んだのです。
「あなたはどうなのですか」と、私たちはこの箇所を聞く時に問われます。「あなたは、『全てを失うとしても神さまに信頼する』というところで、自分の人生を生きると言えますか?」という問いです。
青年は、「神さまには信頼できない」と言って立ち去るのですが、この青年の弱さ、信頼しきれない弱さというものを、実は、私たちもそれぞれに抱えていると思います。私たちは、どこか神に頼らないところを持っていますから、神のことを忘れてしまうのです。礼拝している時には、「神はおられる」と思いますが、礼拝堂から一歩出ると、すぐに自分の生活のことで頭がいっぱいになって、神を忘れてしまうのです。私たちは皆、そのように、自分の力で生きているのだと思ってしまう傾きを、誰一人例外なく持っているのです。
ですが、言い方を変えれば、「本当に自分の力だけで、自分の持っているものだけで生きていて良いのですか?」という問いがここに語られているのです。私たちは、真に善い方から、「わたしのもとで生きなさい」と招かれているのです。「わたしを忘れずに、わたしを信じる者として生きて行きなさい」と呼びかけられているのです。その時にあなたはどう答えるでしょうか。それが問いかけられていることです。
これがもし、主イエスの口先だけの言葉であれば、含蓄のある話だとは思っても、本当にこの方に信頼して生きようとは思わないだろうと思います。自分を省みれば、「とても、わたしは神さまに信頼しておりますなどとは言えない」と思います。けれども神は、私たちがそういう弱さを抱えていることを憐れんで、真に確かな仕方で、「神が人間と共におられる」ということを、この地上に表してくださったのです。
神を忘れて生きてしまう、神抜きで生きてしまいがちな私たちのために、神は何をなさったか。神抜きで生きてしまえば、神から見捨てられる他ないのですが、神から捨てられ寂しく死ぬ他ない私たちの罪を、その罰を、神は一人のお方に負わせて、この地上に十字架を立ててくださったのです。
先に、神の前で右と左に分けられる、永遠の命と永遠の罰の話をしました。実は、神は一本の十字架を地上に立てて、永遠の罰を一人の人の上にかぶせてしまわれました。それが、私たちが教会に来ると思い出させられる「ゴルゴタの丘の十字架」の話です。
私たちは、「神が絶えず、このわたしと共にいてくださるのだ」というその神を肉眼で見ることはできません。ですから、神を忘れたり信仰があやふやになることはあります。けれども、歴史の中で、あのゴルゴタの丘の上に十字架が立てられたのだという出来事は、確かなこととして知ることが出来ますし、いつでも思い出すことができるのです。そういう仕方で、神は、「わたしは本当にあなたを愛しているよ。あなたがたとえわたしを忘れて、そのために永遠の罰に陥ってしまうような歩みをするとしても、わたしはそのあなたの罰をあの十字架で精算しているのだから、あなたは、思い出したらもう一度、あの十字架を見て、わたしを信じる者になりなさい」とおっしゃってくださるのです。
そして、「わたしを信じる者となって生きなさい。もし命を得たいのならば、善い方の御言葉を聞いて生きて行きなさい」と招いてくださるのです。そういう生活の中では、たとえ私たちがいろいろな失敗を重ねてそのために惨めになってしまうことがあっても、辛くなることがあるとしても、あるいは、昨日まで仲良くしていた人たちが皆去っていくとしても、「それでもわたしはあなたを見捨てないよ」という神の約束が、私たちに語りかけられるのです。
主イエスはそのようなつもりで、富める青年に、「わたしがあなたと一緒に歩んであげるから、あなたはわたしに従って来なさい」とおっしゃいました。主イエスは、この青年を後に残してご自分一人でさっさと先に行ってしまわれるようなお方ではないのです。主イエスは「十字架にお架かりになるお方」として、「あなたと一緒に歩んであげるのだから、あなたはわたしにいつまでも従って来なさい」と言ってくださっています。ここにいる私たちに対してもそうです。私たちは、この富める青年のように立ち去るのでしょうか。そうではなくて、「あなたと一緒に生きるから、わたしに従って来なさい」と言ってくださる主の言葉を信じて、御言葉に聞きながら、もちろん忘れたり聞いても分からないこともありますが、それでも、御言葉に慰められ支えられて、「あなたは生きてよいのだよ」という言葉を聞き取りながら、一日一日の生活を歩む者とされたいと願うのです。 |