聖書のみことば
2018年4月
4月1日 4月8日 4月15日 4月22日 4月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

4月15日主日礼拝音声

 天の国
2018年4月第3主日礼拝 4月15日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第19章13〜15節

<13節>そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。<14節>しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」<15節>そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

 ただ今、マタイによる福音書19章13節から 15節までをご一緒にお聞きしました。13節に「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」とあります。
 「そのとき」と始まりますが、これは直前の箇所を受けての言葉です。19章1節に、「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた」とありますが、それが「そのとき」です。先週もお話しましたが、主イエスがガリラヤを去ってユダヤ地方に向かって歩き出されたのは、主イエスがガリラヤで弟子たちと共に過ごしながら、「神さまの御支配があなたがたと共にある」と教えてくださった訓練の時を、一区切りつけられたことを表しています。主イエスがユダヤ地方に行かれるのは、主イエスご自身の中では、ユダヤに行ってまた戻って来るというつもりではなく、「ユダヤに行き、エルサレムに行って、その郊外にあるゴルゴタの丘で十字架にかかる」、そこまで視野に入れての旅路です。またガリラヤに戻るつもりでもなく、エルサレムで一旗あげるつもりでもなく、「神の御業を行うため」、つまり「十字架にかかる」ということをはっきりと意識して、主イエスが十字架に向かって新しい歩みを始められた、それが「そのとき」なのです。
 主イエスは弟子たちに、「これからエルサレムに行き、そこで敵の手に渡され、様々な苦しみを受け、殺され、3日目に復活する」ということを、既に2度語られ、3度目はエルサレムに行く途上でお語りになります。主イエスは「これから十字架に架かり、神の御業をなす」という思いを持って弟子たちに臨んでおられます。「これからの道のりには苦難が待っている。そして、十字架に掛けられる死の出来事も待ち受けている。しかし、それで終わりではない。3日目に復活の朝が必ず訪れる」と信じて、主イエスは進まれます。神がそのように主イエスを歩ませ、主イエスもそのように歩もうとする中で、主イエスは、「十字架と復活という神の御業が人間一人ひとりに本当に新しい命を与えるのだ」と信じ、その光の中で、一人ひとりのことをご覧になります。
 ところが弟子たちは、主イエスが自分たちをそのように見ておられることを理解していません。それは、これまで主イエスが弟子たちに「わたしはこれから十字架に掛けられ苦しみを受けて死ぬ。しかし三日目に復活する」と教えられたことを、弟子たちが受け止められなかったからです。弟子たちは、今の、この地上での交わりの中の主イエスとの生活がずっと続いて欲しいと願っていますから、主イエスが取り去られることを考えたくないのです。このように、主イエスの言われたことが分からなかったために、主イエスのお考えと弟子たちの行動に随分大きな開きが生じたのだということを、今日の箇所は伝えています。

 主イエスがガリラヤを去ってユダヤに行こうとしておられるという噂を聞いて、大勢の人が現れたと語られています。人々は、「うちの子供の上に手を置いて祈ってほしい」という願いを持って、子供たちを連れて来ました。13節に「イエスに手を置いて祈っていただくために」、また15節には「子供たちに手を置いてから」と、ここでは「手を置く」とだけ記されていますが、マルコによる福音書10章16節では、主イエスが「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」とあります。ですから、人々は単に手を置いて欲しいのではなく「手を置いて、主イエスによって祝福してもらいたい」と願ったのですし、マルコ福音書に記されているように、主イエスもそう思っておられたのです。
 「手を置く」という仕草は、人々が具合の悪い人を連れて来たときに、主イエスがその具合の悪い患部に手を置いて、「ここの病気が治りますように」と言って手を置くということとは違っています。子供は具合が悪い訳ではありませんから、親たちが子供の将来を思い祝福を願っての「手を置く」ということです。
 こういう習わしは、当時のユダヤではよく見られたことのようです。ある聖書注解者は、「自分たちの尊敬するラビに頼んで子供の上に手を置いて祈ってもらうことは一般的だった」と言っています。また、ユダヤ教の学者は「当時、偉大なラビからは不思議な神さまの力が流れ出る。そういう力あるラビに手を置いて祈ってもらったら、その子供の中にも神さまの力が流れ込む」と信じられていたと説明しています。「手を置いて祈ると、その指先から力が流れ出る」というと、いかにも魔術的で、私たちの感覚とは違っているように思います。主イエスご自身は、もちろん魔法をかけるようなおつもりではありません。主イエスご自身は、癒しをなさったり、嵐を鎮められたり、不思議な業をなさったことが聖書に記されていますが、そういう箇所を見ますと、主イエスが人々を驚かせることで注目を浴びたり、信じる人を増やそうとされたのではないことが分かります。主イエスの奇跡の記事を読みますと、不思議な出来事を見て驚いている人に、主イエスが「このことは誰にも語ってはいけない」と、伝えることを禁止しておられます。けれども、主イエスのなさる業を見た人の中には、「主イエスから不思議な力が出ているに違いない」と思った人もいたので、「子供に手を置いて祈ってもらいたいと願った」ということが起こるのです。

 さて、そのように子供たちが主イエスのところに連れて来られた時に、13節後半ですが、「弟子たちはこの人々を叱った」と記されています。弟子たちは主イエスの側にいて、いわば主イエスのガードマンのようなことになっていて、主イエスのところに来た大勢の人々を叱りました。「叱った」という言葉は、原文では「非難する、怒鳴りつける」という言葉です。ですから、単純に注意したのではなく、かなり激しい調子で、子供を連れて来た群衆を「叱りつけた」のでした。弟子たちは、どうしてこのように激しい対応をしたのでしょうか。聖書に記述がありませんので、はっきりとは言えませんが、多くの聖書注解者は、この時の弟子たちの心中を慮って色々と説明しています。
 ある学者は、主イエスがこの直前まで、主イエスと共にユダヤに行こうとしていた人たちに教えておられた教えに関係していると言います。先週聞きましたが、結婚や独身という誰もが生きて行く上で関わりのある大事なことを、主イエスは弟子たちに教えておられました。そこに大勢の人が現れたので、弟子たちは邪魔をされたと思い怒ったのだと説明します。弟子たちをはじめ、これから主イエスに従って行こうとしている人たちは大事な教えを熱心に聞こうとしている、そこに、主イエスと一緒に行くつもりもなく、もうお別れだからと言って子供を連れて大勢の人たちが来て邪魔をした、そのことを許せなかったということです。
 確かに弟子たちがそういう思いになったということは、場面を考えて、想像できなくはありません。けれども私たちは、福音書に書かれているこの先のことを知っていますから、思います。主イエスに従って行こうとした弟子たちは、最後まで主イエスに従うことができたかというと、そうではありませんでした。弟子たちの気持ちとすれば、自分たちは主イエスと一緒にユダヤに行こうとしていますから、ガリラヤに残ろうとしてお別れに主イエスのところに子供を連れて来た人たちとは、主イエスに対する情熱が一段違うと思っているのです。けれども、主イエスがエルサレムまで行かれた暁には、主イエスに従って行ったつもりの弟子たちは、主イエスが逮捕された途端に蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。最後には自分の都合を優先させたのです。ガリラヤに残った人たちも、従って行きたい気持ちがなかった訳ではないでしょう。けれども、子供の世話や家庭の事情を優先させたということでしょう。弟子たちは、「真剣について行こうとしている自分たちは、行かない人たちよりずっと主イエスに近い者だ」と思っているのですが、エルサレムで自分の身に危険が及んだ時には、やはり自分の生活を優先させて、主イエスから離れてしまうのです。ですから、少し突き放して考えて見ますと、ここで人々を叱りつけている弟子たちと、叱られている人々とは、あまり違いはないように私たちは思うのですが、しかし、弟子たちが、子供を連れた大勢の人に邪魔をされて怒ったというのが、この学者の見方です。
 また別の研究者たちの見方もあります。連れて来られた子供たちは、どこか具合が悪いとか病気ということではありません。連れて来た大人たちの願いは、漠然とした、子供の将来に対する祝福を願う気持ちです。けれども、そうであれば、わざわざ「手を置いて」祈ってもらう必要があるのかと考えるのです。具合の悪いところがあるのなら、そこに手を置いて欲しい気持ちは分かります。一人ひとりに手を置いて祈ることは大変に時間も労力も要することですから、ただ漠然と祝福してもらいために、「手を置いてほしい」と願ったことに、弟子たちが憤慨したのだという見方です。一人ひとりにそんな労力をかける必要はない。50人であろうと100人であろうと、皆一つに集めて祝福を祈ってもらえばよいと弟子たちは考えたという説明です。

 どちらの見方も頷ける点があると思います。けれども、それ以前のこととして、もう一つ、弟子たちの激しい対応の原因があるように思います。そもそも弟子たちは、主イエスが教えてくださっていた「神の国」について、「人間は神の慈しみ深い御支配のもとに生きるのだ」ということを、十分には理解できていなかったのではないかという点です。連れて来られたのが子供たちだったので、弟子たちは憤慨しています。もし大人だったら、少し態度が違っていたかもしれません。つまり、弟子たちは結婚の事柄などを主イエスから教えてもらいながら、「そういうことなら、理解できる」と思って聞いていますから、自分たちは主イエスの教えを聞くに値する者、資格ある、立場ある者だと思っているのです。そして、「そんな人生の難しい事柄を子供たちが理解できるはずはない」と思っていれば、そんな子供たち一人一人のために主イエスが時間をかけて相手をする必要はないのではないかと思ったのだろうと思うのです。
 なぜ弟子たちは、子供たちを連れて来た人々を叱ったのか。それは、主イエスの御業の対象になっているのは、自分たち大人だと思っているからです。子供たちに罪の話をしても分かるはずはないのだから後回しで良いと、軽く考えてしまったのです。弟子たちは、子供たちが主イエスから直接祝福を受けるということを大切なことだとは思わず、後回しに考えたのです。
 しかし、主イエスはどうお考えだったかと言うと、むしろ主イエスは、子供たち一人ひとりの信仰の事柄を非常に真剣に、真正面から受け止めてくださっています。14節に「しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである』」とあります。弟子たちの対応とは、全く違っています。主イエスは、子供たちをご自分との直接の交わりの中に来させなさいと言われました。それだけでなく「天の国はこのような者たちのものである」とまでおっしゃいます。
 このようにはっきりとおっしゃるのは、ここが初めてではありません。18章の冒頭に、弟子たちが「天の国では誰が一番偉いか」を競い合っていた出来事が語られていますが、その時、主イエスは、近くにいた子供を弟子たちの真ん中に立たせて言われました。2節から4節です。「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ』」。誰が一番偉いのかと話していた時点では、弟子たちは、当然自分たちは天の国に入れると思っています。ところが、主イエスはそういう弟子たちに向かって、一つの警告をしておられます。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、天の国で誰が偉いかと考える以前に、あなたがたは、そもそも天の国に入れるかどうかさえ覚束ないよ」と言われたのです。そして、今日の箇所では、弟子たちは主イエスと子供たちの繋がりを遮ろうとするのですが、主イエスは、「子供たちを来させなさい。天の国は、まさしく、この子供のような者たちがいる場所なのだ」と言われました。
 弟子たちにとって、この言葉は、多分意外だったと思います。もしかすると、私たちにとってもそうではないでしょうか。私たちはこの話を、主イエスが子供たちを招いておられる話としてよく知っていますが、けれども「天の国はこのような者たちのものである」と言われると、正直に言って分かりにくいのではないでしょうか。普段、私たちはどう考えているでしょうか。「自分は子供だから、天の国に入れるのだ」とは思っていないでしょう。むしろ、「人生経験を経て、様々な悩み苦しみ痛みを抱えているわたしが、そういう中で、主イエスの福音に触れて慰められ、生きるようにされているのだ」と思うからこそ、何も分からない子供が来ることにはあまり意味がないと考えるのです。
 けれども、主イエスは違います。主イエスの十字架と甦りの出来事は、罪を自覚した大人だけに対して行われているものではありません。主イエスは、幼子のためにも十字架にかかって下さっています。主イエスの十字架と復活の中で起こった出来事が、私たちが神と結びつけられる上で決定的な出来事なのです。主イエスの御業が私たちの信仰の一番根底にあることです。私たちが十字架と復活をどう理解したかということではありません。ですから、主イエスの十字架は、大人のためだけではなく、子供のためにも起こっている出来事なのです。

 さて、主イエスの言葉に戻りたいのですが、「天の国はこのような者たちのものである」、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」、そう言われても、「私たちは、本当に幼子のようになれるのだろうか」ということに、大人になった人はどうしても行き当たってしまいます。随分と若い人であっても、また、子供であっても、「わたしはもう子供ではない」と思っている場合があります。「子供のようにならなければ神の国に入れない」と言われると、率直に言って「では、わたしは神の国に入れるのだろうか」と考えざるを得なくなります。
 聖書の中にも、同じように困っている人が出てきます。ヨハネによる福音書に出て来るニコデモという人です。3章3節以下に主イエスとニコデモの問答が出てきます。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』」。このように、ニコデモが戸惑って言っている言葉は、今日の箇所で、主イエスが「天の国はこのような者たちのものなのだ」とおっしゃっているのを聞いて私たちが感じる戸惑いと似ていると思います。
 どんな人でも、私たちはもはや子供ではなくなっているところがあります。少しずつ大人になっているのです。小学生であってもそうです。困っているニコデモに主イエスはお答えになりました。5節「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない』」。つまり、「新しく生まれなければならないのだよ」と、主イエスは言われました。
 では「新しく生まれる」とはどういうことか。それは「水と霊とによって」です。「水」というのは「洗礼の水」のことを表しています。
 「洗礼の水」には、私たちが水に巻かれて溺れ死ぬという意味合いがあります。聖書のイメージで言えば、「ノアの洪水」のことを考えるのが一番分かりやすいと思います。神がノアの方舟の中に入れて下さって、「この人は生きる」と決めて下さった人以外は、皆、水に巻かれて溺れ死んでしまいました。これと同じように、神が「この人を救う」と決めてくださるのでなければ、私たちは自分の正しさやあり方によって神の裁きの前に立ち続けることはできないのです。
 洗礼を受けた人たちは、洗礼の水をくぐっているのですが、その水は、実は象徴的に私たちに死を経験させるものです。「わたしは、神さまがいなければ、もはや生きていけません」ということを、洗礼の水をくぐる時に経験しているのです。「わたしは死ぬほかない者だったけれど、こうして生きている」という事実を、この身に帯びて生きているのが、洗礼を受けたキリスト者なのです。神が「この人を救う」と決めてくださるのでなければ、生きることはできません。ですから、「洗礼を受けた」ということは、「神の前に自分の正しさで生き続けることはできない」という意味でペシャンコになっているということを表しています。ところが、そのようにペシャンコになっている人に「聖霊の息吹を与えて生きるようにする」、それが「水と霊によって新しく生まれる」ということなのです。洗礼では、そのことが起こるのです。
 神の前に自分を振り返れば、決して生きていることができない罪深い者でありながら、しかし一方で、「死ぬほかなかった者が、神の霊によって命を与えられて生きるようになる。その時に新しく生まれて、生まれたばかりの幼子のように生きるようになる」、それが「水と霊によって新しく生まれる人」ということです。
 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と、主イエスは言われました。それは、「神の御国に生きる人は、どんな人であっても、神がその人に新しく命を与えてくださっている、そういう人なのだ」ということです。

 ところで、「天の国はこのような者たちのものである」、「子供のようにならなければ神の国に入れない」と主イエスは言われますが、子供たちに天の国に居場所があるということは、どういうことでしょうか。子供は、自分の力で「ここにわたしは居場所を占めている」と思っていません。子供たちがそこにいるのは、「全てを用意されて、ここにいるしかない」からです。家族や家庭があって居場所がある、あるいは、家族がいなくても誰かの保護を受けてそこにいる。子供が自分で周りの大人たちを理解して、「ここなら上手くやっていけるから、ここに居ます」とは思っていないのです。ただ自分のことを受け入れて愛してくれる相手がいる、その相手の保護によってここで生きているし、愛してくれている相手を自分も愛して生きている、子供はそういうあり方をして生きているのです。
 主イエスは、「子供たちが自分の周りの者に信頼して生きているように、神があなたを受け止めて生きる者としてくださっている。そのことに信頼して歩む者でなければ、天の国で生きることはできない」と言っておられます。つまり、「自分のことは何でも分かっている。何でもできる。だからわたしは神の国で生きられる」というあり方では、神の国の支配に生きることにはならないということを教えておられるのです。

 来週は「金持ちの青年」の話を聞きます。金持ちの青年は、天の国に入れないのです。主イエスは「金持ちが天の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。今日の箇所と来週の箇所は、セットになっています。「誰が天の国に入るのか、それは、子供のような者。誰が天の国に入るのが難しいのか、それは豊かで何でも自分でできると思っている者」と、対比があるような箇所なのです。わたしの側に何か神の前で通用するようなものがあるから、神の国に入れるのではありません。そうではなく、そういうものは何も無い。「神の裁きが行われるとすれば、自分はきっと水に巻かれて死んでしまう。裁かれて滅んでしまう側の人間だけれど、ではなぜわたしは生きているのか」、それは、自分が正しいから生きているのではありません。神が「生きよ」と言ってくださっているから、生きる側へと、ノアの方舟で言えば神が方舟の中に拾い上げてくださった側に置かれているから、生きることができるのです。

 そして、私たちが方舟に引き上げられるために主イエスがなさったこと、それが「十字架に架かる」ということです。本当は、私たち自身が裁かれて死ななければならないのに、その私たちの死をご自分の側に引き受けて、主イエスは十字架に架かってくださるのです。
 今日の箇所では、十字架に架かるお方として、今からエルサレムに向かって歩もうとしておられる、そういう時に、主イエスの前に大勢の子供たちが連れて来られました。もちろん、子供たちは大人とは違いますから、自分の言葉で「わたしは罪人です」と思うことも言うことも難しいのですが、主イエスの側からすると、「この子のためにも十字架はあるのだ。神の御業は確かに行われている」のです。子供たちの側からすれば、大人のように「罪」とは言わなくても、「本当にイエスさまが自分のためにいてくださる。そのことを信じます」と受け止める時には、子供らしいあり方で、主イエスの御業に連なって生きるようにされるということが起るのです。

 けれども、子供たちがそのようにして本当に神に信頼して生きるようになる、その入り口には、主イエスに深く信頼している大人たちの存在があります。今日の箇所でも、ここに現れている子供たちは、自分で主イエスを見つけて駆け寄って来たとは書いてありません。そうではなく、大人たちが自分の子供たちを主イエスのもとに連れて来たのです。子供を安心して主イエスのもとに招くのは、既に主イエスのもとに先に召されている大人の務めなのだということを覚えたいと思います。
 主イエスは、「子供のようにならなければ、天の国に入ることはできない」と言われました。「子供のように」というのは、姿形で判断することではありません。主イエスのもとに招かれて来る人たちは、老齢の方であっても、初めて教会に来たという方は、誰かに連れて来られた子供のような方なのですから、そういう思いを持って、私たちは、教会に来られる新しい方をお迎えしなければならないことを思います。
 また、教会の交わりというのは、神の御業を理解している者の交わりということではありません。私たちの信仰の土台は、あくまでも、「主イエスが私たちのために十字架に架かり、甦ってくださっている」ということにあります。「主イエスが共にいてくださるのだ」という事実を知らされ、「主を信頼して良いのだ」と信じて来る人たちが、教会に新しく連なっていくのです。そして私たちは、主イエスがそういう一人一人を本当に喜んで招き、主イエスの祝福を新しい一人一人にも与えようとなさっていることを覚える者とされたいと願います。

 弟子たちは、ガリラヤに残る人たちと自分たちを比べて、自分たちの方が主イエスに近い者だと思っていましたが、実はさほど違いはなかったのだと、今日の最初に申し上げました。もしかすると、教会に連なっている私たちも、同じかもしれません。
 私たちは喜んで教会に集まって来ていますが、しかし、もしかすると、人生において抜き差しならないようなことが起こる時に、自分でも思いがけないくらいあっさりと主イエスから引き離されてしまうということが起こるかもしれません。決定的に主イエスから離れてしまう前でも、もっと自分は信心深いと思っていたとがっかりすることは始終ありますが、そんな時に私たちが思い出さなければならないことは、私たちが主イエスと結びついている結び付きというものは、自分の信仰理解とか、信仰の強さとか、自分の側にあるのではなく、「主イエスがわたしのために十字架に架かり、甦ってくださっているのだ」という事実の側にあるのだということです。
 そして、「主イエスが私たちのためになさってくださった御業のもとに、今日も新しい方が次々と招かれているのだ」ということを覚えたいのです。私たちは、自分自身の信仰の弱さや至らなさをがっかりしてしまうということと、新しい方を軽んじてしまうということには、同じ根があることを知らなければなりません。「わたしは、主イエスがわたしのために十字架に架かり甦ってくださっているので、神との交わりの中に繰り返し招かれ、生きるようにされている。わたしはそのことを知っているので、主イエスに感謝して、今日からの日々を歩んで行きます」、そういうあり方をさせられたいと願います。

 主イエスがご自身の御業によって多くの人を救いに導いてくださっている、その御業に感謝して私たちが生きていく時に、そのあり方をきっと主イエスは喜んでくださるに違いありません。主イエスの御業の実りがたくさんこの地上に生まれていることを、主イエスが喜び、その実りがさらに豊かになるために、御言葉をもって私たちを慰め励ましてくださるのです。そういう主イエスの御言葉を聞きながら、与えられた日々を歩む者とされたいと願います。
このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ