ただ今、ヨハネによる福音書20章19節から21節までをご一緒にお聞きしました。「その日、週の初めの日」に、弟子たちは思いもよらない大混乱に陥ります。それは朝早く始まりました。早朝に何人かの婦人の弟子たちが墓参りに出かけました。初めは悲しみに暮れての墓参りでした。ところが終わりには、とんでもないショックを受けての帰宅となります。そして、墓の入り口が開かれていて中が空になっていることを、婦人たちは弟子たちに告げました。
私たちは、イースターの出来事とは、「主イエスが復活し、墓が空になっていたこと」と考えがちです。けれども、墓が空になっていたということだけでは、まだイースターではありません。「墓が空だった」ということからは、色々なことが推測されます。しかし実際には、推測するどころか、墓が手付かずで閉ざされていたよりも、事態はもっと深刻で忌まわしいものだったと言わなければなりません。墓が荒らされ、主イエスの遺体はどこかに運び去られてしまったという可能性も考えられます。この朝、「墓が空になっていた」という知らせを聞いて、起こった出来事を理解できた人など、どこにもいません。ましてや、墓が空になっているということで励まされたり喜んだりする人も、どこにもいません。婦人の弟子たちが伝えてくれたこと、それは端的に言えば、「墓が暴かれ荒らされた」ということでもあるのですから、「墓が空だった」ということでは、それはイースターとは言えないのです。
墓が空だったことを聞かされた男性の弟子たちが、この知らせを戯言のように思った(ルカによる福音書)ということも頷けます。今日の箇所では、弟子たちが「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とありますが、それも頷けます。「ユダヤ人を恐れた」だけでなく、もっと別の恐れもあったはずです。「婦人たちが知らせてくれた出来事は、ただ事ではない。得体の知れない不気味な力が働いているようだ。こんな状態が何日も続くのであれば、頭がおかしくなってしまいそうだ」と思って、弟子たちは家の鍵をかけていたのかも知れません。空の墓が発端になって、様々な不安や恐れが頭をもたげてきて、弟子たちを捕らえています。そして、その状態は決して、イースターと呼べるようなものではありません。不安が更なる不安を掻き立てる、思考がどんどん混乱する、そして、新しい知らせを受け止める余裕がなくなります。
ですから、墓が開かれ中が空であることで、イースターが来るのではありません。では、イースターはどこから来るのでしょうか。復活なさった方が実際に弟子たちを訪れてくださって、そして「本当に、この方は復活されたのだ」と弟子たちが信じることができることで、初めて、イースターがやってきます。甦りの主が親しく弟子たちを訪れて御言葉をかけてくださる。確かに主イエスが生きて働いてくださっていることが人々に示されることで、イースターは訪れるのです。福音書のイースターの記事には、確かに、そのように述べられています。
例えば、今日の箇所の直前、20章11節から18節には、マグダラのマリアが復活した主イエスとお目にかかっていますが、マリアは気付かず、出会った人は園の園庭だと思い込んで見当違いな願いを語っています。15節後半、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」とマリアが申し出たことに対して、主イエスが御言葉をかけてくださいます。16節「イエスが、『マリア』と言われると…」、主イエスが御言葉をかけてくださって「確かに主イエスは復活なさったのだ」とマリアが確認をして、初めて、マリアは「ラボニ(先生)」と呼びかけるようになっています。イースターは、墓が空になった瞬間に起こったのではありません。甦った主イエスがマリアのもとにやって来て、「マリア」と呼びかけてくださった時、マリアは初めてイースターの出来事を経験するのです。
同じようなことは、他の福音書にも出て来ます。ルカによる福音書24章には、「エマオ途上の出来事」が語られています。「お墓が空になった」と聞いて、弟子たちは激しく動揺し頭の中が混乱したまま、故郷へ帰ろうとしてエマオを目指して進んでいきます。その途中で、甦った主イエスがその弟子たちの道連れになります。そして、食事の席で、復活した主イエスが弟子たちの目の前に座っておられるのですが、弟子たちの目が遮られていたために、主イエスだとは分らなかったと言われています。そこで終わっていたなら、イースターは来なかったのです。けれども、主イエスがこの弟子たちにも語りかけてくださり、また、「食卓でパンを裂き、祝福と感謝の祈りを捧げてくださった」その時に、パン裂きの様子で弟子たちは「ああ、ここに主イエスがおられる」と分かるようになります。この弟子たちにとっては、イースターは朝早く墓が開かれた時に訪れたのではありません。夕暮れになり日が傾いてから、「主イエスが親しく自分たちと食事を共にしてくださった」、その時に初めてイースターが訪れ、イースターの喜びで満たされたのです。
今日の箇所ではどうでしょうか。今日の箇所は、更に遅い時間、その日の夕方遅く、復活の主イエスが弟子たちの前に現れます。そして主イエスは「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、ご自分の手と脇腹をお見せになっています。なぜ手と脇腹をお見せになったのかというと、そこに十字架に掛けられた傷があったからでしょう。釘穴の残る手で、あるいは、槍で脇を突かれた傷跡をお示しになって、主イエスは、「確かにわたしは復活した」と教えようとなさいます。「信じない者ではなく信じる者になるように」と弟子たちをお招きになります。弟子たちは、そういう主イエスと交わりを持ち、そして「確かに主イエスは復活して、わたしに働きかけてくださっている」と知って、そして喜びに包まれる、それが今日の箇所のイースターの出来事です。
ですから、イースターとは何かと言うと、「お墓が空になっている」という話ではありません。そうではなく、「私たちのために十字架につけられたお方が、確かにわたしと共にいてくださる」ということ、それがイースターの内容に他なりません。主イエスは「十字架につけられた方」として、私たちのもとを訪れてくださるのです。その際、甦りの主は、何事もなかったかのように来られるのではありません。十字架の印を身に帯びて、弟子たちの前に現れます。弟子たちに、傷つけられた手、槍で突かれた脇腹を示しながら、十字架の事柄を帯びて来られます。御傷を示しながら、しかしそれが勝利の印なのだと言われ、親しみを込めて挨拶をしてくださいます。
主イエスが弟子たちのもとを訪れてくださる時、その時には、主イエスは沈黙しておられるのではありません。沈黙のままでは、そこに主イエスがおられることが分からないからです。お墓でマグダラのマリアと出会ってくださった時、もし主イエスが黙っておられたら、マリアは目の前にいる人は園庭だと思ったままだったでしょう。エマオの宿屋で主イエスが黙っておられたなら、弟子たちは、見知らぬ旅人と道連れになったと思っただけで終わったでしょう。けれども、実際にはそうではありませんでした。主イエスは弟子たちを訪れて親しく御言葉をかけてくださいました。挨拶の言葉をかけてくださったのです。深い思いを込めて「シャローム」と、アラム語で呼びかけてくださいました。
「シャローム」という挨拶は、しばしば交わされる挨拶であるために、新共同訳聖書では、時に「おはよう」と訳されている箇所もあります。けれども、私たちが今日聞いているヨハネによる福音書では、本来の意味が分かるような言葉に訳されています。「あなたがたに平和があるように」、「平和」という言葉が「シャローム」です。この挨拶は、実際の平和が失われている時代には、ほとんど合言葉のように軽く口に上るだけの言葉です。しかし、二人の人が互いに「シャローム」と言っても、もしかすると、二人の話していることは全然意味合いが違うということも有り得る言葉です。「シャローム」という挨拶は、言葉の上辺だけで、何の責任もなく気軽に口にすることもできます。道すがら行き遭った知り合いに「おはよう」「こんにちは」と言っているのと同じように使うこともできます。けれども、同時にまた、心の底から、どこまでも深く責任を感じながら、「あなたが本当に神に護られ平安であるように」という憧れを込めて、この同じ挨拶を口にすることもできます。
私たちもそうではないでしょうか。「こんにちは。またお会いしましたね」、あるいは「さようなら。お元気で」と挨拶を交わす時に、私たちはそれを、ただの口先の挨拶として語る時もあれば、「次には何時会えるか分からないけれど、それまでどうか護られますように」という深い思いを込めて口にする場合もあるのです。
主イエスが弟子たちに向かって「シャローム」とおっしゃる時には、主イエスは「父なる神」のことを念頭に置いて、この言葉を発しておられます。ですから、主イエスの挨拶には「永遠に亘る責任」が込められているのです。また、まさに言葉通り、「何としても平和を実現させずにはおかない」という強い思い、誓いが込められています。
主イエスが私たちに「シャローム」とおっしゃってくださる時には、たとえそれが「おはよう」という言葉であっても、そこには「いと高き方からの約束」として、天からの語り掛けとしての意味合いが込められています。これは、神から私たちに送られる贈り物です。決して、私たち人間が自分で抱く期待、夢、希望、理想ではありません。私たちは、「平和があるといいな」という自分の抱く思いで「シャローム」と口にする場合がありますが、主イエスが口になさる場合には、「神さまがあなた共にいてくださるように。神さまがあなたの人生を保護してくださいます」という神の約束に基づいて、「シャローム」と言ってくださるのです。
「シャローム」という言葉から、私たちは様々なことを思い描くことができるだろうと思います。生活の不安が全て満たされて、他の人たちと何のわだかまりもない、そういう状態が本当の平和だと考えることもできるでしょう。あるいは、のっぴきならない状況に置かれている時には、何時も悩まされている悩み事が一時でも中断していることが平和だと思うかもしれません。戦場で銃弾の中を歩んでいる兵士たちであれば、休戦になって、一時でも銃弾の流れが止まり戦場が静かになっている、その時が真に平和だと思うかもしれません。あるいは、人が互い同士、本当に信頼し合っていて、決して裏切ることはないと思っている、そういう間柄が平和だと思っている人もいるかもしれません。偏見や差別に晒されている人であれば、そういうものがなくなって、自分を自分として見てくれる、そういう世の中が訪れることが平和だと思うかもしれません。けれども、主イエスが「シャローム」とおっしゃる時には、今考えたようなことの全ての意味が、はち切れんばかりに、そこに満ちています。そこでは、私たちが「平和」という言葉と結びつけて考える思いや観念の全てが満ちていると言って良いと思います。
復活した主イエスは、確かに「シャローム、平和があるように」と挨拶をして、そして私たちに「神の平和」を約束してくださいます。聖書の中でこれに近い言葉を見つけるのは、なかなか大変なのですが、旧約聖書イザヤ書の中にありました。イザヤ書55章9節です。「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている」。イザヤは、「神の御心は、常に私たちを超えたところにある」と言い表しました。主イエスが「シャローム」とおっしゃる時に、そこにはまさに、こういう響きがあるように思います。
実は、この「シャローム」という言葉、「主イエスが約束してくださる平和」には、「神が私たちを救おうとする、救いの決意」であったり、あるいは、「救いのために神が織り成してくださった全て」が込められています。地上に織りなされる人間の歴史には、どんなに小さなことであっても、その中心部分には「神の救いの御心」が働いています。たとえ、どんなに痛ましく辛い出来事であったと振り返るような出来事であったとしても、実は、その全てが神の御心によって受け止められています。私たち人間が本当に恩知らずで、他者に対して冷淡で、そのために互いに傷つけあったり絶望させてしまうようなことが起こる時でさえ、神は、そういう人間を救おうとして、歴史を先へ先へと進めておられるのです。
ですから、この地上の歴史は、どんな一瞬であっても、どんな束の間の時であっても、神の恵み、神の忍耐の許にないような瞬間はありません。私たち一人ひとりの歩みもまた、神の御前に覚えられています。私たちの歩みは、神の忍耐によって持ち運ばれているのです。
甦られた主イエスが「シャローム」とおっしゃる時、そこには、「敵を愛する愛。全てを受け止め忍耐して持ち運んで行こうとする神の愛」が込められています。人間がその罪によって多くの破れを生じ、多くの惨めさや悲しみを作り出している。人間はこの世界を管理するために生み出されたのに、逆にこの地上を破壊していると思える。そういうところであっても、主イエスは、そういう私たち人間の罪とその結果の破れを全てご自身の側に引き受けてくださいました。そして、私たちに代わって十字架に架かってくださったのです。
主イエスは十字架の傷を示しながら、「神の愛と慈しみ」をご自身の身を以て指し示しながら、私たちに親しく、「シャローム」と呼びかけてくださるのです。
ですから、「シャローム」という挨拶、「あなたがたに平和があるように」「おはよう」という挨拶は、その内容を考えますと、「あなたの贖い主であるわたしが、あなたと共にいる」とおっしゃっていることになります。
そして、イースターの朝に、主イエスは、信じる者たちを訪れて教えてくださいます。地上の諸々の破れにも拘らず、また私たちが繰り返してしまう痛ましい過ちにも拘らず、「神がなおこの世界を、そこに生きている過ちやすい人間を受け止め、忍耐して、将来を備えてくださる」ことを教えてくださるのです。「わたしがあなたと共にいる。平和があなたがたと共にあるように」と、おっしゃってくださるのです。
私たちが多くの失敗を抱え、過ちを犯し、他者に傷を負わせていても、なお、「あなたは、もう一度、ここから生きて良いのだ」と言ってくださる主イエスが、「シャローム」とおっしゃってくださいます。そして、主イエスがそうおっしゃる時に、実は、「死」は、一番最後のものではなくなっているのです。私たちは様々な失敗を犯して、色々なものを破壊します。そして、全てが壊れてなくなってしまう時に、「ここで全てが終わった。ここが死なのだ」と思うのです。けれども、そのところに、主イエスは来てくださるのです。甦った主イエスが「わたしはあなたと共にいる。あなたが破壊した傷は、わたしがここに受けている。そして、わたしは生きているし、あなたと共に永遠に生きるのだ」とおっしゃってくださる。ですから、私たちは今、「死が最後ではない世界」に生かされています。
「不安や諦め、死」は、主イエスが甦られたからには、もはや主人面をして私たちの上に居座ることはできません。甦った主イエスが、「わたしはあなたと共にいる。十字架の傷を負って、あなたの罪も、あなたの過ちも敗れも全て背負ったわたしがあなたと共に生きているのだよ」とおっしゃってくださる時に、私たちはもはや、自分の終わりが「死」なのだと考えなくてもよい者とされているのです。「わたしがあなたと共にいる」、それがイースターの知らせです。
さて、このように十字架につけられ復活した主イエスの挨拶は、その次にどうなって行くのでしょうか。それは、弟子たちに受け継がれて行くのです。21節に「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』」とあります。主イエスはこうおっしゃって、弟子たちをこの世へと差し向けられます。後には、もっとはっきりとおっしゃるところが出て来ます。「あらゆる国の人々に告げなさい。すべての民に向かって、あなたがたを遣わす」と言われます。
今日の箇所では「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃいました。弟子たちは、「神の愛を宣べ伝える者」「神の慈しみを宣べ伝える者」、そして「主イエスによってどこまでも愛され、どこまでも命を立てられている自分であると伝える、そういう者」として遣わされて行きます。教会は2000年の間、そのように語り続けて来ているのです。
この世界には、確かに多くの破れがあり、多くの悲しみがあり、傷つき、命を落とす人たちも数知れません。しかしそういう中にあって、教会は、「それでも、この世界には希望があり、一人ひとりが生きていく人生には意味があり、価値がある。たとえどんなに問題が深刻であっても、それでもあなたの命には意味があるし、生きていって良いのだ」と語り続けてきました。それはどうしてかというと、主イエスが甦って、私たちに、「シャローム」とおっしゃってくださっているからです。「わたしがあなたと共にいる。わたしがあなたの罪を引き受けて十字架に架かった。だからあなたは、もう一度そこで生きて良いのだ」と言ってくださる。教会は、この主イエスの十字架の出来事を頼りに、「私たちは生きていって良いのだ」と語り続けているのです。
私たちは、このような「神の慈しみ」を宣べ伝える者、命の意味を宣べ伝え本当の「シャローム」を宣べ伝える役割を果たす者として、主イエスから遣わされています。弟子たち(私たち)が遣わされて行くのは、まさにこの世界が、主イエスのこの知らせを聞かなくてはならないからです。教会の外では、こういう言葉は聞けません。私たちは、主イエスが知らせてくださったこの知らせを、一人ひとりが主イエスからいただいて、それを次の人へ次の人へと持ち運んで行く、そういう役目を与えられているのです。
イースターの源になる「主イエスが共にいる」という満ち満ちた知らせから遠ざかれば遠ざかるほど、それを証しする人の声は小さく、自信がなくなりがちになります。そして、自信のない分を他のもので水増ししたりするようになり、その結果、人は、拗ねたり絶望したりして、よろよろと歩かざるを得なくなります。一方であらゆるものを否定する死の力が、どんどんどんどん大きくなってくるように思えて、私たちは圧倒されそうになるのです。命の勝利が告げられる福音が無視されると、そこでは、私たちの命は生きていても仕方ないものだという、死への衝動が支配するということも起こってきます。
私たちは、そういうものと戦うようにと、主イエスから送り出されています。私たちが自分の人生をつまらないものだと考え、生きる値打ちがないと思わないように、私たちは、イースターの知らせを聞かされなければなりません。そしてまた、そのことを周りの人たちに伝えなくてはならないのです。
今日、私たちは、ともすれば滅びに呑み込まれそうになっているこの世界に生きています。しかしそこで、私たちは、「あなたには本当に、命を生きて良いのだ」という、主イエスの約束を聞かされています。
主イエスは、不安になって鍵をかけ、引きこもっていた弟子たちの中央に立ち、「シャローム」とおっしゃったと、今日の箇所に語られています。「シャローム、あなたがたに平和があるように」。今日、手と脇腹に傷を負っているお方の平和の挨拶を聞くこと以上に、私たちの人生に重大なことはないと言っても良いでしょう。私たちは、このお方の呼びかけを聞く以外に、自分の命について希望を持つことはできません。毎日毎日忙しいことが巡ってきて、私たちはその中で、自分の務めだ役割だと言って、様々なことに心を奪われ心を擦り減らしながら過ごしていますが、それによって私たちの死がなくなるのかと言えば、そんなことはありません。「私たちが本当に生きることができる拠り所」は、どこにあるのでしょうか。「あなたの罪は、わたしが引き受けて十字架に架かった。だからあなたは、赦された者として、ここからもう一度生きて良いのだよ」と言ってくださるお方の語り掛けの中に、全てがあるのです。
私たちの命と人生が本当に有意義なものだと分かるのは、釘痕のある手をかざしながら、「わたしはあなたと共にいる。シャローム」と挨拶して下さるお方の呼びかけを聞き、それを信じる信仰によります。どんなに私たちが困難の中に置かれていても、どんなに不遇な状況の中で暮らさなければいけないとしても、「わたしはあなたと共にいる」と呼びかけて下さるお方が、今日、私たちと共にいて下さることを覚えたいのです。
そして、今日与えられている私たち一人ひとりの命を、もう一度ここから歩む者とされたいと思います。落ち着きを与えられて、「今日、わたしには何ができるだろうか。自分が為すべきことは何だろうか」と考えながら生きる者とされたいと願います。
「シャローム」との呼びかけに耳をすまして、この言葉に慰められ、力づけられ、勇気を与えられて、ここからそれぞれに与えられている生活に向かっていきたいと願うのです。 |