ただ今、マタイによる福音書19章1節から 12節までをご一緒にお聞きしました。1節に「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた」とあります。主イエスがガリラヤを去ってユダヤ地方に行かれたと言われています。この言葉を、私たちは、あまり気にせずに読んでいるかもしれません。けれども、この福音書を書き記したマタイは、この1節の言葉を大変大切な言葉として書いています。なぜなら、主イエスがガリラヤを去ってユダヤ地方に行かれる、その果てには、エルサレム郊外のゴルコタの丘に立つ十字架に掛けられるということが待ち受けているからです。私たちは、この1節を何気なく聞いてしまうかもしれませんが、「これらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り」ということですから、主イエスが弟子たちに、ガリラヤで伝えるべき言葉、内容をすべて語り終えられ、そして「もう二度と戻ってくることはない」というつもりで、エルサレムに向かって行かれたということを伝えているのです。ですからここには、主イエスがいよいよエルサレムの十字架に向かって歩んで行かれるのだということが語られています。
そして、その時、主イエスの周りには大勢の群衆がつき従っていたことをマタイは記しています。この群衆は、弟子たちの群れに聖霊が下るペンテコステの出来事の前ですから、自分たちが教会の群れになるという意識はなかったかも知れません。けれども実際には、ここで主イエスに従っている大勢の群衆は、やがての日、地上に現れてくる教会の先触れのようなものです。この人たちは主イエスに従い、また導いて下さる主イエスに癒され慰められながら歩んでいくことになるのです。2節に「大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた」とあります。
さてこのように、ガリラヤからユダヤのエルサレムに向かって、大きな人の波が動き出しました。その時、主イエスを中心とした群れの前に立ちはだかろうとした人がいた、と言われています。ファリサイ派の人たちです。
主イエスは、ガリラヤを後にされた時に、この旅路が戻ることのない一方通行の旅路であることをご存知でした。けれども、主イエスの前に立ちはだかっているファリサイ派の人たちは、エルサレムに向かって行こうとしているナザレのイエスという人が、やがてエルサレムで捕らえられ十字架に掛けられ、苦しみを受けて殺されるということについて、何も知りません。むしろ、ファリサイ派の人たちは、大勢の群衆とその先頭に立つ主イエスを見て、漠然とした不安に駆られるのです。大勢の人を従えた主イエスがそのままの勢いを保ってエルサレムに向かうことを何とか邪魔してやろうとして、ここに現れているのです。
どうしてファリサイ派の人たちが主イエスと群衆に恐れを抱いたのかということについては、私たちにも頷ける点があるかも知れません。彼らは、自分たちの今の平穏な生活が壊れてしまうことを恐れたのです。もしこのまま主イエスが大勢の群衆を引き連れてエルサレムに上ったなら、もちろんエルサレムの人たちは大変驚くでしょう。驚くだけではなく、主イエスを若い預言者か律法の教師と見て期待する人々が出てくると、エルサレムの都が混乱し、厄介なことになり兼ねません。ユダヤはローマ帝国の属国となっていますから、混乱が起これば、ローマ当局が、大祭司を中心とするユダヤの指導層を統治能力のない無能者だと見なすかもしれません。そうなるとユダヤの指導者たちは失脚させられ、ローマが直接統治することになれば、今のユダヤの暮らしは変わってしまいます。ファリサイ派の人たちは、それを恐れているのです。自治権が取り上げられ、もしローマ帝国が直にユダヤを支配するようになれば、ローマ帝国はローマの皇帝礼拝を強いるでしょう。例外として認められていた「ユダヤの神を礼拝しても良い」という自治特権も取り上げられ、神を礼拝できなくなります。ですからファリサイ派の人たちは、エルサレムに向かっていく主イエスと大群衆が不穏な動きをする前に、なるべく早めに勢いを削いでしまいたいと考えました。そこで、当時大変難しい問題とされていた問いを主イエスにぶつけて、主イエスの無能ぶりを群衆の前に印象付けようとした、それが今日の箇所の問答です。3節に「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、『何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と言った」とあります。ファリサイ派の人たちは、最初から「イエスを試そうとして」質問しています。ですから、この質問は真剣な問いではありません。離縁、つまり離婚のことについての問いですが、彼らは大変敬虔なそぶりで「人生の難しい問題について教えて欲しい」と質問していますが、本心は、答えるのが難しい問いをぶつけて主イエスの揚げ足を取ってやろうという思いで質問しています。
問いは「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」というものですが、これはかなり注意深く聞かなければなりません。一般論としての離婚の良し悪しではありません。良し悪しを言うならば、離婚はどんな場合であっても、恐らく男性女性共に深く傷つき痛みを覚える筈ですから、良いわけはありません。良い離婚はなく、離婚せずに済むならその方が良いのです。けれども実際には「離婚せざるを得ない事態に立ち至る」そういう不運な家庭は有るのです。不幸な事情を抱える夫婦は、この世に決して少なくありません。
そういう現実があることを認めた上で、どういう理由なら離縁の理由として正当で法的に認められるのか、それがファリサイ派の人たちの問いです。「どんな理由があれば、離婚が認められるのか」と問うています。これは、今日でもそうですが、主イエスの時代にも議論されていた問題でした。
離婚の正当性について、今日の日本ではどう考えられているでしょうか。離婚相談のホームページなど見ますと、「離婚の訴えを起こせる要件」などが記されています。相手の「浮気、不倫などの不貞行為」「悪意ある遺棄(家庭を放棄する)」「3年間の失踪」、あるいは「心の病によって結婚生活が成り立たなくなった場合」、「その他、結婚を維持できない場合」には「合意によって」離婚が成立します。ですから、日本ではかなり様々な理由で離婚が可能になっているのだと思います。実際に離婚を経験した方の中には、理不尽な条件を持ち出されて悲しい思いをしたけれど、しかしもはや関係を継続できないと諦めて、辛い決断をして離婚に至ったという方もおられると思います。
主イエスの時代に、離婚が話題に持ち上がる時に必ず参照される聖書の箇所がありました。申命記24章です。1節に「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります。ここには、離縁できる条件として、「相手に何か恥ずべきことを見出した場合」と言われています。逆に言えば、「何も恥ずべきことを見出せないならば、法的には離婚は認められない」ということになります。そうすると、問題なのは、ここに言われている「恥ずべきこと」とは何かということです。ここで「恥ずべきこと」と訳されているのは意訳で、原文では「裸、むき出し」という言葉と、「事柄、言葉」と訳せる言葉が結び合わさって書かれています。直訳すると「裸の事柄」とか「むき出しの言葉」となります。
「裸の事柄」「むき出しの言葉」という言葉を巡って、主イエスの時代には、様々に受け取る人たちがいました。「裸」「むき出し」という言葉を重く受け取った人たちは、ここに言われる「恥ずべき事柄」は、不品行や姦淫のことだと考えました。この場合には、離縁できる条件はとても狭いと思います。また他の人たちは、「事柄」「言葉」の方を重く受け止めて、この場合には、「相手のむき出しの悪いところ、悪い言葉、悪い点」を見つけるなら、それを理由にして離縁状を渡すことができると考えていました。
それ以前に、今日の私たちの感覚に合わないことは、離縁状を渡すのは、必ず男性であるということです。けれども、ここで離縁状を渡して去らせるのは、女性の権利を守るためのことです。後を読みますと分かりますが、離縁状を渡され離婚されてしまった女性が、その後再婚して、その再婚相手も亡くなった場合に、もし、元の夫がやはり元の鞘に収まりたいと思って結婚を申し込んでも、それは汚れているという理由で二度とできません。つまり、「夫は簡単に妻を離縁できない。離縁するのならば、離縁状を渡して去らせなさい」ということです。もちろん、今日のように男女が対等というわけではありませんから時代の制約がありますが、この離縁状の決まりは、女性への配慮のつもりでモーセは言っています。主イエスも8節に「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」と言われました。
主イエスの時代には、「恥ずべきこと」の理解に、このような2つの難しい問題がありました。主イエスが十字架に架かられた後、教会ができるまでに40年から50年近く経っていますが、その間にユダヤ社会は更に緩やかな傾向になり、聖書の書かれた時代には、第三の立場も出てくるようになりました。「妻に何か恥ずべきことを見いだし」に続いて、「気に入らなくなったときは…」とありますから、「気に入らなくなったら」いつでも離縁状を書いて去らせることができると考える律法学者もいたそうです。ですから、学者たちの間でも、離縁について書かれた聖書の解釈はまちまちだったのです。
ファリサイ派の人たちが、解釈のまちまちな難しい問題を、ここで敢えて主イエスに問うているのはなぜか。本当に正しい離縁の手続きについて真面目に主イエスに教えてもらおうとしているのではありません。「試そうとして」とあるように、このような問いで、何とか主イエスの足元をすくってやろうと思っているのです。この問いは、ファリサイ派の人が主イエスと一対一で問うているのではなく、大勢の群衆の前で、公の場に立っている主イエスに問うています。学者たちも様々な解釈をしている問題ですから、当然、この群衆の中には様々な考えを持つ人がいたことでしょう。ですから、主イエスが「恥ずべき事柄」について、狭い考えをお持ちであろうと、広い考えをお持ちであろうと、この群衆の考えが多様であれば、主イエスの答えを聞いて、自分との違いを感じ始める人も出てくるに違いありません。ファリサイ派の人たちは、「今のところは一つの群れとして纏まっているけれど、この難しい問題を巡って分裂すれば、イエスの勢いを削ぐことができるだろう」と考えて、このように答えるのが難しい問いをぶつけているのです。
実際には、主イエスに従っている群れの中にも、辛い人生経験をしたという人もいたでしょう。ですから、こういう問題を持ち出すことは甚だ失礼であり不謹慎であると言わざるを得ません。けれども、主イエスの弟子たちの群れを分断させてしまうためには、非常に巧妙で悪意を持った問いかけだったのです。
主イエスは、この問いに対してどうお答えになったでしょうか。主イエスは、個別のケースによって千差万別になるような離縁の事柄を、十把一絡げにしてお答えにはなりません。個別のことについては、それぞれに判断するしかありません。主イエスは、どのような場合には離縁が可能かというような一般化した問いにはお答えにならず、むしろ、離縁や離婚の前提となる「結婚」の事柄について、この時、人々に教えようとなさいました。それが4節から6節です。「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』」。
ファリサイ派の人たちは、この世で様々な仕方で起こる離縁に繋がるような人間関係の破れの方に気を取られて、そればかりを問題にしています。けれども主イエスは、今起こっている難しい事柄ではなく、初めからの事柄に目を向けさせようとします。離縁の前には結婚があるのです。そしてそれ以前に「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」と言われました。「男と女である」ということは、どんな人間であっても、自分一人で充足しているわけではないことを言っています。男であれば女、女であれば男と、組み合わされるべき異性が造られている、人間はそういうものとして造られているのです。しかも、異性であれば誰でも良いということではありません。神が一人一人について、その人に相応しい配偶者をお造りになって出会わせてくださると、聖書には言われています。
5節で主イエスが言われた言葉に注意したいと思います。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」。主イエスはここで、創世記2章24節の言葉を引用しています。この言葉を聞くと、私たちは、神が定めてくださった結婚制度の由来であると聞くと思います。二人を神が合わせてくださったと単純に考えますが、改めてここを丁寧に読みますと、「二人は一体となる」という言葉の前に「それゆえ」という一言が付け加えられています。「それゆえ」とは何を指すのでしょうか。引用箇所である創世記2章23節24節には「人は言った。『ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。ここを読むと分かりますが、「こういうわけで」、それが「それゆえ」ですが、「それゆえ」とは、一人の人が、自分を生み出してくれた父と母との結びつき、それまでの人生で一番濃密で大切だった交わりを振り切ってまで、妻の元に走る理由です。親との関係ではない新しい関係を作るために相手と結ばれる理由は、「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから」と言われています。つまり、「自分の骨の骨、肉の肉と呼べるような相手を神がお造りになり、出会わせてくださったから、それゆえに」なのです。
生まれてからこの方、自分を助けてくれたのは、元々は両親です。ところが全く信じられないようなことですが、両親でもないのに、「わたしを助けてくれる『わたしの骨の骨、わたしの肉の肉』と呼べる相手を、神がお造りになり、用意してくださり、出会わせてくださった」、「それゆえに、人は父母を離れて、その相手と結ばれる」のです。結婚の事柄は、この人が良いかなと、お試し期間のように結婚してみて、しばらく暮らしてみたけれど、やっぱり駄目だったので別の人にと、簡単に取り替えるようなものではないのだということが、ここに言われているのです。結婚は、「神が、なぜこんなに自分にフィットする相手を与えてくださったのか不思議だけれど、間違いなく神がその人を造り、与えてくださった相手なのだから、一緒に生きていく」ということです。ですから「二人は一体となる」のです。
自分の気持ち次第で、気に入らなければどんどん伴侶を変えれば良いと思っている人は、「二人は一体となる」という考えを持っていない人です。二人が一体なのであって、三人、四人で一体となるのではありません。主イエスは、そもそも結婚とはそういうものなのだと、ここで教えておられるのです。
けれども、こういう主イエスの言葉を聞かされると、私たちとすれば少なからず、たじろがされるのではないかと思います。私たちは、実際に再婚するということもあり得ます。あるいは、以前は結婚していたが今は独身という方もいます。別れを経験した方のその後の交際とか恋愛は、神から祝福されないものとなってしまうのだろうかと考えますと、私たちは非常に困ってしまいます。
しかし、どうもそう考えなくても良いようです。主イエスが、「結婚の結びつきは聖なるものである。二人は一体となる者として神が与えてくださった相手なのだ」と教えられた時に、弟子たちの間から、たまらず声が上がりました。10節です。「弟子たちは、『夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです』と言った」。つまり、主イエスの弟子たちもこの時、主イエスの言葉を聞いて少なからず気後れがしたのです。「結婚というのは、自分が決めてするものだと思っていたけれど、本当は、神が与えてくださったまたとない相手と一つに合わされる生活なのだ」と聞かされると、「自分としては、そこまでの確信も自信も持てない」という思いになるのです。そんなに重大なことだとすると、どんな相手であっても、自分では決断できなくなります。自分としては「この人がいいんじゃないかな」という思いで結婚することはできるけれど、「その人しかいないのだ。取り替えはないのだから覚悟しなさい」と言われると、とてもそんな覚悟はできないので、「それなら結婚しないほうがましです」と、弟子たちは言ったのです。
それに対して主イエスは、「結婚は、恵みによって与えられるものである」とお答えになりました。11節12節です。「イエスは言われた。『だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい』」。
世の中には本当に様々な人生を送る人がいるのだと、主イエスは弟子たちに言われました。重度の障害を持って生まれてきた人たちは、結婚生活を維持していくという力を持たないかもしれません。生まれつき結婚できないという境遇の人もいるかもしれません。あるいは、生まれた時には普通だったけれど、主イエスの時代であれば、宦官になって結婚をあきらめざるを得ないという人生を辿る人もいました。修道士や修道女のように、生涯を神に従うために結婚しないという道を選ぶ人もいます。そのように、結婚することだけが人生ではない。結婚しない人生を送る人もたくさんいる。そういう中にあって、「結婚する人たちは、結婚を通して神から特別な恵みをいただくという生活をしている人なのだ」と主イエスは教えられるのです。ですから、伴侶がいることが人生のスタンダードなのではないのです。独身を卑下する必要は全くありませんし、結婚を焦る必要もないのです。神は、そこに生きている一人ひとりをご覧になって、その人が確かに生きているということを喜んでくださり、祝福してくださっているのです。
どんな状況に生きている人であれ、「神がわたしを支えてくださる」という信頼を捨ててしまって、手近な人間に救いを求めてしまうような結婚に走るような場合には、もしかすると、相手との離縁によってもちろん傷つきますが、それだけでなく、神と離縁してしまうということも起こるかもしれません。よく考えて、「自分が納得いった相手を、神が引きあわせてくださった相手だと思って結婚していく」ことが、神の恵みの許にある結婚ということになるのだと思います。
これまで結婚のことについて考えてきましたが、最後にもう一つ覚えたいことがあります。ともすると私たちは、結婚は一組の男女、二人の間のことだと考えがちですが、しかし、主イエスが言われたことからすると、結婚は一組の男女のその背後に、神が関わっておられるという事柄です。神を信じない人、神を知らない人たちの結婚にすら、隠れた仕方ですが、神は関わっておられ、それぞれの相手を生れさせ育て、そして出会わせてくださいます。私たちにとって最も近しい間柄になる結婚の背後には、神がいらっしゃるのです。
では、そういう人間関係は、結婚という間柄だけかというと、そうではありません。神は、独身の人の上にも共にいてくださいますし、夫婦以外の、この世の人間関係の上にも臨んでいてくださるのです。教会の兄弟姉妹の間柄の上にも神が臨んでいてくださって、私たちは、教会生活の中で共に交わりを持って生きるようにされています。
今日の箇所の始まりのところで、主イエスが十字架におかかりになるために、ガリラヤからユダヤに向かって行かれたときに、大勢の群衆が主イエスに従っていたと言われていました。この群衆は、主イエスに癒されながら共に歩んでいたと言われていますが、これはまさに私たちの教会の姿ですし、教会の交わりの姿でもあると思います。主イエスに従っていた群衆は、ファンクラブのようなものではありません。ファンクラブは、アイドルと自分との交わりだけで横の交わりは関係ないのですが、教会の交わりはそうではありません。主イエスを信じる兄弟姉妹として、私たちは互いに交わりの中に置かれ、お互いを配慮しながら生きる、そういう新しい間柄を与えられているのです。
主イエスはかつて、主イエスの伝道活動を止めさせようとしてやって来た弟たちや母マリアに呼ばれたときに、「わたしの父母、兄弟とは誰のことか」と、その場にいた人にお尋ねになりました。「ご覧なさい。わたしの父母、兄弟はここにいる」と、その場に共にいる人たちを指し示してくださいました。弟子たちは、主イエスの後を追ってガリラヤからユダヤに一緒に行こうとしました。主イエスが中心になっている交わりの中には真の平安があり、主イエスによって癒され、あるべき姿に導かれていく、真の人間関係が成り立っていくということがあったから、弟子たちは全てを振り捨てて主イエスに従ったのです。
もちろん、主イエスを真ん中にしていても、時として、弟子たちの間には行き違いや摩擦は起こったかもしれません。それは、今日の教会生活の中で私たちもそういう失敗をする場合があります。しかし、そういうことがあっても、主イエスによって私たちは一つの群とされて、皆でこの地上を生きていくのだという生活を成り立たせるように招かれ、導かれているのです。主イエスを好きでさえいれば、あなたたちはバラバラでいいですよ、というのが教会ではありません。教会は、主イエスを通して、神が私たちを真剣に愛し慈しんでくださっているということを聞きながら、神が愛しておられる隣人である兄弟姉妹を、神によって与えられている交わりの相手だと思いながら生きていくのです。そのようにして教会は、この世に形作られていくことを覚えたいと思います。
夫婦の親密な間柄も「愛の学校だ」と、よく結婚式の説教で言われますが、私たちは、神が造ってくださった相手だと信じながら、その相手に愛を持って関わり家庭を築いていくのです。それまで別々に暮らして来たのですから、時には、異物のような思いをすることもあるでしょう。けれども、それを乗り越え、本当に自分の体の一部として愛し、互いに交わりを築き家庭を作っていくのです。そういう仕方で、私たちは自分の至らなさ、自分の破れを超えて、神に愛されている者に相応しい交わりを作っていくようにされ、そこでクリスチャンホームは立てられていきます。また、そういう交わりだけでなく、兄弟姉妹の交わりの中でも、私たちは、夫婦ほどの近さではありませんが、しかし、お互いを配慮しながら共に生きていくということを学ばされ、また考えさせられながら歩んでいくのです。
主イエス・キリストの愛が私たちを照らし、清め、生かしてくださる、そのことを覚えたいのです。そのように導かれた群れの中に抱かれて、私たちは今、この地上の生活を一人一人与えられています。教会の群れに属する、また教会の群れに連なる一人一人として私たちは、愛を行って生きていく、それが本当に難しい間柄だなと思ったとしても、どのようにして歩んで行ったら良いかという問いと課題を与えられながら、精一杯、理解することを許されている範囲において、神の愛に仕えて歩んでいく、そういう群れとされたいと願います。 |