ただ今、マタイによる福音書12章38節から45節までをご一緒にお聞きしました。38節に「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った」とあります。「先生、何かしるしを見せてくれませんか」という願いが、主イエスの元にもたらされます。こう願い出た人たちは、律法学者とファリサイ派の人たちでした。
律法学者とファリサイ派の人々は、日頃は主イエスに敵対することが多い人たちでした。そういう人たちからの願いですから、最初主イエスは、不審そうな顔でこの人たちをご覧になります。この申し出の背後には、きっと何かの口実を捕らえて主イエスを訴えようとする魂胆が隠されてはいないでしょうか。ファリサイ派の人たちは既に、何とかして主イエスを亡き者にしようとする相談をしたことが、前の箇所に記されています。そして主イエスも、その計画をお知りになったと書かれております。ですから、この願いが主イエスの足元をすくい尻尾を掴もうとする魂胆から語られているという恐れも、十分にあるのです。
けれども、ここで願い出ている律法学者やファリサイ派の人たちは、ただ自分たちの務めに忠実なだけなのかもしれません。自分たちの生活の場に言い広められている信仰や教えを注意深く調べて、それが元々の古来ユダヤからの宗教的伝統に一致しているかどうかを確認することは、律法学者たちが果たすべき大切な務めの一つです。いい加減な教えや異常な教えが人々を惑わしてはなりません。誤った教えが、神の民であるイスラエルの人たちの間にはびこらないようにする、それが彼らに与えられている一つの務めです。もしかすると、そういう務めに忠実であろうとして「何かしるしを見せて欲しい」と、主イエスに頼んでいるのかもしれません。
しかしもしかすると、今語ったようなこととは全く違って、彼らは、自分たちの果たすべき務めということを超えて、自分自身が「主イエスに従う者になりたい」と願っているのでしょうか。後ろめたい企みによってではなく、まさしく誠心誠意、信仰心からしるしを見せてもらって、主イエスに従っていきたいという思いを後押しされたいと願っているのでしょうか。彼らがどういう動機からしるしを求めたのか、細い点をここに語られていることだけから確定することは困難です。
しかし、たとえどういう動機であるにせよ、彼らの頭の中では何かがもやもやとしているのです。そのもやもやしたわだかまりというのは、もし、しるしを見せてもらったならば、つまり目の前で普通ではあり得ないと思う大きな奇跡でもしてもらったならば、答えが与えられるのではないかと思っているようです。目の前ではっきりしたしるしを見せてくれるならば、自分たちは、正体のしれないナザレ出身のイエスと名乗るラビに対して、どういう態度を取ったら良いのか、「この人の教えを受け入れるのか拒絶するのか、この人は戦うべき相手か信じるべき相手か」がはっきりするだろうと考えている。このように自分の中のわだかまりをすっきりさせたいという願いを持って、主イエスに対して「先生、しるしを見せてください」と言っているのです。
けれども、ここで主イエスにしるしを求めている人たちは、主イエスがこれまでにも大勢の群衆の前で何度もしるしをなさったということを知らないのでしょうか。主イエスによって既に至る所で、不思議な御業が行われていることを知らないのでしょうか。例えば、カナという村の結婚式に主イエスが出席され、水を上等なぶどう酒に変えられたという出来事がありました。あるいは、嵐を鎮めるとか、何千人もの人に食べ物をお与えになるというような目覚ましい奇跡が既に、主イエスによって行われていたのです。また主イエスが方々で病人を癒したとか、遂には死んでしまった人さえ主イエスによって生き返らされるということが起こっています。既にそういう奇跡が行われている、そして、その噂が広まっているからこそ、ここで、「しるしを見せてほしい」と願い出た人たちは、主イエスのことを知ったに違いありません。噂に聞いているからこそ、「しるしを見せてほしい」と頼んでいるのです。
ですから、彼らは主イエスの噂を聞いて知っています。けれどもそこには問題があります。確かに「イエス」と呼ばれる若いラビ(先生)が、不思議な業を行ったという噂があることを、皆承知していますけれども、しかしどうやらこの時代には、そういうことは主イエス一人がなさっていたことというわけではないようなのです。周りの人が驚くような人並み以上のことをやってのける人というのは、いつの時代にも、またどこの土地にも居るものです。問題なのは、そういう不思議な業が神の御力によって行われているのか、偽りなのか、あるいは暗い勢力の助けを借りて行われているのか、その点にあります。主イエスのなさった不思議な癒しの業についても、「あの行いは悪霊の頭ベルゼブルの力を借りているのだ」と取り沙汰する人がいたことが、少し前のところで語られています。病気を治してくれると評判になったり、奇跡を行なって聖人だと噂されている人、そういう人たちの中には、いかさま師やぺてん師も大勢いました。主イエスの時代には、そういう人たちがユダヤ社会の中に行き来していました。ですから、今、主イエスの前にやって来ている人たちは、主イエスがどういう人物なのかを見分けるために、「しるしを見せて欲しい」と言っているのです。
ただ、その「しるし」というものも、通り一遍にはすまない厄介なものを含んでいます。もちろん、しるしを見たがる人たちは、自分の目の前で起こる奇跡の出来事が、なるべく大掛かりでたくさんの人たちの注意を引きつけるようなセンセーショナルなものであったら良いと考えるのですが、しかし、「しるし」というものは、どういう形の出来事であっても、常にそこには多様な意味が含まれる、多様な解釈の余地があるものなのです。しるしを見せるということによっては、決して人々を一様に納得させるということはできません。しるしには、それを受け止める側の人によって自由に解釈できる余地というものがあります。
例えば、「ナザレの有名なラビが悪霊を追い出す」ということが実際に行われた時に、そのしるしが人々の間でどう取り沙汰されたか。ある人は「神の霊が悪霊を追い出した」と考えます。ところが別の人たちは、「いや違う。これはただ追い出したのではなくて、神の国、神の御支配が今ここにやって来ている。ここにはもう悪霊は戻って来れない、そういうしるしである」と考えるのです。しかし先ほども言いましたが、「これは悪霊の頭であるベルゼブルがしていることだ」と悪意を持って受け止めることもあるのです。そして、悪意を持って受け止める場合には、「あれは悪霊同士の仲間割れである。そういうものに乗じて、あのイエスというラビが力ある者のように見せているだけだ」ということになるのです。
「しるし」は、ある人にとっては信仰を強める出来事になりますが、別の人にとっては、その人を不信仰へと導いてしまう場合もあるのです。ですから、「しるし」についての噂というのは、それを聞いただけでは満足できないようなところがあります。そのしるしについて複数の解釈や理解が聞こえてくるからです。そのしるしが本当はどうだったのかと興味を抱く人は、大抵、聞いているだけでは満足できず、自分の目で確かめないと収まらなくなるのです。ですから、幸運にも主イエスと出会うチャンスを持った人は、是非ともこの目でそのしるしを見てみたいものだと考えるのです。決して見逃しようもなく誤解の余地もない、そういう強くはっきりした体験を経験したいと願うのです。
そして、そういう経験をする中で、こういう人たちは、主イエスの本当の姿を知りたいと思っています。真実に神に仕える者として奇跡を行なっているのか、それとも、ただのぺてん師にすぎない見掛け倒しの人で有名になるために行っているのか、そういう尻尾を掴みたいと思っているのです。
もし、自分が直に主イエスのしるしを見て、「ここには確かに神がおられる。この方こそ神だ」と言い切れたならば、どんなに清々することだろうかと思います。たとえ今の世の中が様々に混乱して、この世界がどこに向かっていくのか見通せないというもどかしさの中にあるとしても、もし私たちが「神を我がことのようによく分かる。神が望まれることはこうなのだ」とはっきり確信できるならば、私たちはどんなに元気付けられ勇気を貰うことになるでしょう。そういう明快なしるしを示されたならば、私たちは、この世界に神が臨んでいるということを確信して、神の支配に信頼を寄せて、そしてまた、自分はその方向に生きていこうと思うに違いありません。そういうことが可能性としてあるだけに、ここで、もしかすると切実な気持ちで問われているかもしれない「しるしを見せて欲しい」という問いに対して、主イエスが頭から撥ね付けるような答えをなさっているということに驚かされます。
ここでの主イエスの姿は、少し不思議に思います。39節に「イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない』」とあります。しるしを求める人たちに対して、主イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たち、そういう者たちがしるしを欲しがるのだ」と、にべもなく撥ね付けるような返事をしておられます。これは決して、一瞬の気まぐれでおっしゃったことではありません。たまたまこの日、虫の居所が悪かったので、このように拒絶なさったというのではないのです。そうではなく、福音書を読んでいますと、主イエスはしるしを求める人たちに対しては、一貫して否定的な返事をなさいます。それは、主イエスが公の活動を始められた時からです。
主イエスの公生涯、主イエスが公に活動を始められた一番最初は、ヨルダン川に下ってバプテスマのヨハネから洗礼を受けたところですが、その直後に主イエスは荒れ野へと赴いて行かれます。そして、四十日四十夜、サタンから試みを受けられと聖書に語られています。その試みの一番最後のところでは、サタンが主イエスをエルサレム神殿の屋根の上に連れて行き、「もしここから飛び降りたなら、神はあなたが地面に叩きつけられないように天使たちを送って落ちるまでの間に支えてくださるに違いない。そういう奇跡でも起これば、見た人たちは間違いなく、『これは神から送られて来た特別な人なのだ』とあなたのことを見るだろう。だから飛び降りてみなさい」と誘惑をするのです。ところが主イエスは、この時に、きっぱりとこの誘惑を拒絶なさいます。「そんな仕方では、わたしは自分を現さない」とおっしゃるのです。
また、主イエスが荒れ野から戻られ公に活動を始められると、方々の町や村で病気に苦しんでいる人を憐れんで、その病気を癒されました。ところが、その癒しは不思議な仕方での癒しですから、その噂が広まれば、主イエスは特別に力ある方だと思うに違いありませんが、主イエスはそうならないように、癒された人たちに対して「このことを決して口外してはならない」と固く口止めなさいます。更には、この福音書ではこの後に起こることとして書かれているのですが、主イエスが敵の手に落ちて捕らえられる、その時に、縄を打たれた主イエスの前に領主ヘロデが現れます。そして何かしるしが見られるのではないかと期待したけれども、主イエスは何も答えず、また、何もなさらなかったと書かれています。主イエスは、最後には十字架に磔られて亡くなるのですが、そのたもとで祭司長たちや律法学者たちや民の長老たちが「お前が神の子なら自分のことを救ってみろ。神の子ならできるだろう。十字架から降りて来い」と主イエスのことを嘲りますが、主イエスは、その時にも何もなさらず、ただ頭を垂れ息を引き取られたと書かれています。
あるいは、しるしについてのエピソードでは、少し前の礼拝で聞いたことがありました。主イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネが牢屋の中から自分の弟子を主イエスのもとに送り、ヨハネからすると本当に切実な問い合わせをします。それは「あなたは本当に、後から来る真実の救い主でしょうか。それとも、まだ待たなければならないのでしょうか」という問いでした。この問いに対して主イエスは、マタイによる福音書11章4節以下「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』」とお答えになりました。最後の一言、「わたしにつまずかない人は幸いである」と付け加えておられるということは、逆に言えば、主イエスがなさっているしるしが、見る人の疑いや不信仰のために曲げて解釈されることが有り得るということを言っています。主イエスは、ご自分のなさっているしるしについて、決して一通りの解釈を強制したりはなさいません。主イエスの御業はあくまでも、見聞きする人の受け止め方に委ねられます。
ということは「しるしを示して、御自身が何者かを示す」というやり方を、主イエスは決してなさらないということです。もちろん、出会った人たちが病気で苦しんでいれば憐れんで癒してくださるということは起こり得ます。しかし、「だから、わたしは救い主なのだ。特別に力ある者、神のものである証拠だ」とはおっしゃらないのです。そして、今日のところで、しるしを求める人たちにきっぱりと「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われるのです。
どうして主イエスは、しるしを求め主イエスがどういうお方かを確かめようとする人たちに、これほどまでに厳しい態度をお取りになるのでしょうか。よくこの御言葉を聴いていますと、しるしが全く無いというわけではありません。「預言者ヨナのしるしのほかには」と、「しるしはたった一つしかない」とおっしゃるのです。
「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とは、どういうことを示しているのか、それを知るためには、その前の「神に背いた時代」という言葉に注意を向けるべきです。「神に背く」と翻訳されていますが、もともとは「姦淫する、不貞を働く、背信行為を行う」と訳される言葉です。そして、姦淫、不貞、背信という言葉は、旧約聖書の時代から、イスラエルの人たちが神に対して誠実なあり方をしないことの譬えとして使われてきた言葉なのです。イスラエルの民は、「イスラエルの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブの神となってくださった聖書の神、イスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出してくださった神、そしてシナイ山に導いて十の戒めを与えてくださった神」が、自分たちの上にいてくださるのだということに心から感謝して、「神に仕える」という生き方をしなかったのです。大変な時、苦しい時は神の助けを願うのですが、大変なところを通り過ぎた途端に、自分が神に保護されたことなどすっかり忘れて、まるで神など関係ないかのように過ごしてしまう、神抜きで生きる、そういうあり方が、旧約聖書においては「神に対する不貞行為、姦淫」と表現されたのです。
ですから、「よこしまで神に背いた時代」というのは、別の言い方をするならば、「神が人間を深く愛してくださったのに、その愛に神の民が少しも応えようとしないで過ごしている時代」のことを言っているのです。
さて、「神がわたしたち神の民の上に愛を注いでくださっている」と聖書は語るのですが、この「愛」というものが、また一筋縄ではいかないのです。「愛」というのは、わたしたち人間の愛もそうですが、たとえそれが神の愛であっても、愛には常に困難が付きまといます。それは、決して証明できないという困難です。「愛」というものは、「そこに愛がある」と誰の目にもわかるように、はっきりと証明することはできないのです。
例えば、皆さんが誰かを愛していることを伝えようとする場合、どういうことをするでしょうか。言葉で表すか、贈り物をするか、あるいは時間をやりくりして一緒にいようとするか。けれども、どんなに相手に向かって「わたしはあなたを愛しています」と言っても、どんなに高価なプレゼントをしても、どんなに一緒にいたいと願って行動したとしても、それは決して愛が本物であるという証拠にはならないのです。疑われてしまえば、いかようにも疑われてしまう、それが愛というものです。ですから、愛はいつも、目指す相手方のところにこちらから届けることはできても、しかし、送り届けられた愛は相手の前まで行って、これは果たして相手に受け入れてもらえるかどうかと途方にくれた状態になるのです。愛は結局、「どうかわたしを信じてほしい。わたしの愛のしるしを真剣に受け止めてほしい」と言う他なくなってしまうのです。
「愛」というものは、それを送る側の問題というよりは、受ける側が真剣にその愛を受け止めてくれるかどうか、そこにかかってきます。そしてまた、相手がその愛を真剣に受け止めて、こちらの愛に対して愛し返してくれるかどうかを待ちわびるしか、他に何もしようがないのです。
そしてまさに、人間に向けられた神の愛というものは、そういうものになってしまったのです。何世紀もの間、神は人間に向かって、不幸で不運な愛を注ぎ続けられました。「よこしまで、神に背いた時代」に生きている人々に向かって、神の愛は燃え上がったのです。真剣に受け止めてもらえない愛、信用してもらえない愛、答えが帰ってこない愛、そういう愛というものは、痛ましく辛いものになります。その愛がどうしても目指す相手を納得させせることができず受け止めてもらえないような時には、もしかすると、その愛は、疲れ果てた末に、愛であることをやめてしまうかもしれません。愛とは、その相手を追い求めるよりありません。相手を追い求めながら、神はどこまでも人間の前にへりくだって行かれます。
愛は、相手がそれを信じて受け止めてくれることを待ちわびます。待ちわびながら、神は人間の前で深く苦しまれました。「よこしまで、神に背いた時代」に向けられた神の愛、それはこのように進んで行きます。神がご自身の民に向かって、「わたしはあなたと共にいる。あなたを愛し、あなたを保護し、あなたと共にあり続ける」と言ってくださっても、人間の側は、苦しければすがるけれども、しかし順調にいっている時や普通に過ごしている時には何も答えない。神の愛など、自分にとってあってもなくても関係のないことのように思って、神抜きで、人間それぞれが、自分の思い自分の興味関心に向かって生活していく。神の愛が無視され、辱められ軽んじられる。そういう時には、ただ一つ「最後のしるし」が記されるだけになるのです。
それは、大変恐ろしくも見間違えようのない、はっきりとしたしるしです。もしそのしるしを示されたならば、神に愛されながら少しも応えようとしなかった人でも、もはや易々とはその脇をすり抜けて行けなくなるような、そういうしるしです。すなわち、愛に対して誠実に向き合おうとしなかった不誠実な人たち、そういう人たちに代わっての死という、恐ろしくも最高のしるしが示されたのです。神から愛されていながら、いつまでたってもその愛を真面目に受け取ろうとしないで、相変わらず自分はそれに関わりのない者のような顔をして生活している。誰からも愛されていない者であるかのように、周りの人たちを憎んだり蔑んだりしながら生活を続けていく。もし、私たち人間がそういう姿で歩んでいるのであれば、誰か「神の愛が本当にあるのだ」ということを知っている人が、不誠実で少しも神に応えようとしない人たちの責めを負って、身代わりにならなくてはならない。そして、そのことによって、「神の真実の愛が、この世界に生きている人間一人ひとりに注がれているのだ」ということを証し立てなくてはなりません。
主イエスが多くの人たちの間に歩んで癒しをなさり、命を慈しんでくださり、神の愛を証ししようとなさったのに、そういう主イエスの御生涯だけでは不十分であるというならば、「わたしには神の愛など分からないと言い放っている人たちに代わって、主イエス・キリストが死ぬ」ということによって、この上ないほど強烈に、もはやこれ以上言い逆らうことができないほどに「神がその民一人ひとりを深く愛しておられるのだ」ということが、はっきりと示されなくてはなりません。
主イエスご自身は弟子たちに、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われたことがありました。今日のところで、「先生、しるしを見せてくだい」と求められた時に、主イエスは、このただ一つのしるしをお考えになったのです。そして、「他にはしるしはない」とおっしゃったのです。御自身が十字架にお架かりになり、そこで裂かれた御体、流された血潮、そういうものが生まれる。それ以上に大きなしるしは他にないのです。
主イエスの前にやって来た人たちが、主イエスのしるしを信じないで、「あれは悪霊がやっていることだ」と言ったり、あるいは、神など関わりないのだと言い続けるならば、やがて「ヨナのしるし」と言われていることが実際に起こることになります。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」と、主イエスはおっしゃいました。この「ヨナのしるし」というのは、「主イエスが十字架に架かり、葬られて、三日間墓の中にいる」、そのことを言い表している言葉です。主イエスは、「辛く痛ましい御自身の十字架の死」という神のなさりよう、神の正義以外には、何もしるしをお持ちになりません。これを前にしたら、もはや、神の愛が自分に注がれていないなどとは決して言えないような、決定的なしるしをお示しになるのです。
そしてまた、そういうしるしを示して、「神の愛がそこにあるのだ」ということを受け取ってもらおうとする、そういう神の愚かさ以外には、何の知恵もお持ちにはなりません。「十字架の死によって、神の愛をこの地上にはっきりと証し立てる」、そしてそれを見た人たちが、それに応えて、「神を愛して生きるようになる」、そのことを待ち望む愚かさというものを、主イエスはただ一つの神の知恵として携えながら、よこしまで神に背いた時代の中を歩んで行かれるのです。主イエスはそのようにして、神など関わりないと思っている時代の子らに、「神の愛はここにある。十字架に架かり、三日間、土の中に人の子が葬られる。そこにまさに神の愛があるのだ」ということを示そうとなさいます。主イエスは十字架によって、神の愛を、私たちの間に持ち運んで来られるのです。愛することを知らない、だから自分が愛されていることも分からない、そういう時代の人々に向かって、主イエスは、「十字架を見て神を知るようになる」、そのことを待つ愚かさを、ただ一つの知恵として携え、私たちの間においでになるのです。
主イエスは、私たち人間が遂には、神の愛によって克服され変えられていくと信じて、心からそのことを待ち望みながら、十字架に向かって歩んで行かれます。ニネベの人たちが悔い改めたり、南の国の女王がその知恵に気づくというだけではなく、やがては多くの人たちが神の愛を認め、神の知恵を知るようになるだろうと心から期待しながら、主イエスは、人々の間を歩んで行かれるのです。十字架と甦りの説教の周りに世界中の人たちが集まって、「神から愛されていることを知り、愛されていることを信じて、新しく生きるようになる」、そういう生活が地上の人々の間に本当に起こるのだということを、主イエスは信じ、それを遥かに望み見て十字架に向かって行かれるのです。
主イエスは、「神の愚かさは人よりも賢い。神の弱さは人よりも強い」という言葉をよくご存知なのです。
ヨナが起こしたしるしはニネベの人たちの心に刻まれました。そして遂に、人々は悔い改めへと導かれました。南の国の女王はソロモンから知恵を聞きたいと願って、ソロモンから知恵を受け取りました。
私たちも、主イエス・キリストによってもたらされた畏れるべきしるしを、私たち自身の心の中に刻み込んで、神の愛を受けていることを知らされて、神への畏れと信仰に生きる新しい生活へと歩む者とされたいと願うのです。 |