2017年7月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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安息日の主 | 2017年7月第2主日礼拝 2017年7月9日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マタイによる福音書 第12章1節〜14節 |
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12章<1節>そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。<2節>ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。<3節>そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。<4節>神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。<5節>安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。<6節>言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。<7節>もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。<8節>人の子は安息日の主なのである。」<9節>イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。<10節>すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。<11節>そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。<12節>人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」<13節>そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。<14節>ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。 |
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ただ今、マタイによる福音書12章1節から14節までをご一緒にお聞きしました。1節に「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた」とあります。ここを聞いていて、この場面が心に浮かんで来るように感じます。主イエスが安息日に弟子たちと一緒に麦畑の中、畑のあぜ道を進んで行かれます。弟子たちはあぜ道の中を通りながら、両側にたわわに実っている麦の穂を摘んで、その穂の中から実を揉み出して食べ始めるのです。ここ数日食べ物にありつけず「空腹だったから」と、但し書きが付けられています。 ところで、そのように麦の穂を摘んで食べている弟子たちの振る舞いを咎める人たちがいました。ファリサイ派の人たちです。2節には、ファリサイ派の人々がその行いを咎めたと言われていますが、恐らくこのファリサイ派の人たちというのは、畑の持ち主である農民だっただろうと想像されます。この人たちは自分の畑で主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んでいるのを見て、咎めました。その際に、この農民たちが許せないと思ったこと、それは主イエスの弟子たちが無断で畑に立ち入り、麦の穂に手を出して摘み取ったということではありません。食事にありつけずに飢えている人たちが他人の畑から満腹するまで麦の穂を摘んで食べるということ自体は、ユダヤ人社会では許されていました。例えば、旧約聖書の申命記23章25節26節には「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」という戒めが語られています。ここに言われているように、ひもじければ他人の畑に入って食べさせてもらうということは許されていました。 主イエスは、そういうファリサイ派の人たちの非難にお答えになって、ここで3つの反論をなさいます。しかし、この主イエスの反論はおかしな反論であるようにも聞こえるのです。順番に聞いていこうと思いますが、主イエスが最初になさった反論は、3節4節に「そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか』」と出てきます。「読んだことがないのか」と主イエスはおっしゃっていますが、これは旧約聖書サムエル記上21章1節から6節に語られていた昔の出来事です。ダビデはサウル王から命を狙われた時、着の身着のままで逃げ出したのですが、落ち延びていく途中で、空腹だったので、ノブの聖所に立ち寄って、祭司アビメレクから供え物のお下がりのパンを食べたけれども、そのパンは祭司の他には食べてはならないパンだった、という話がここで引き合いに出されています。「そういうことがあったのだから、いいじゃないか」ということですが、しかしこの反論は、今ここで弟子たちに向けられている非難からすると、話が噛み合いません。ファリサイ派の人たちが問題にしているのは、「取って食べてはならないものを取って食べた」ということではないからです。批判している人たちは、「麦を食べることは構わないけれども、安息日に労働してはならないはずなのに労働したではないか」と言って怒っているのです。それに対して主イエスの反論は、安息日と全然関係ない話でしたから、これは噛み合っていないと、非難した人たちは思ったに違いありません。 2番目の反論は、恐らく、最初の反論が的外れになっていますから、批判に対して、より的確に反論しようとして語られた言葉です。5節に「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか」とあります。主イエスは「読んだことがないのか」と言われましたが、聖書には「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない」と文字通りに書かれているわけではありません。旧約聖書を探しても見つかりません。なぜ主イエスがこうおっしゃっているかというと、旧約聖書には、「安息日には、これこれしかじかの献げ物をしなさい」という決まりは出てきます。そういう律法の言葉からして、安息日には献げ物をするようにとあるからには、実際に献げ物に関することで働かなければならない祭司は働かざるを得ませんから、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならないと書いてあることになる」というのが、主イエスの2番目の反論です。これは、神殿の中で働いている祭司たちの労働に関わっての話ですから、最初の反論と比べると、この2番目の反論の方が筋が通っていることになるでしょう。けれども、2番目の場合には、聖書の中にそのままズバリの言葉が出てこないということがあります。 主イエスがなさった反論は3つあると申しましたが、この時主イエスが最も力を込めてなさった反論は、今説明した2つの反論ではなく、その後に続く3番目の反論です。ユダヤ人は安息日には仕事をしてはならない。各々が皆、自分の仕事を休まなければならない。それは、ただ休息を取るということではなく、「会堂や神殿に詣でて礼拝を捧げるために、労働してはいけない」という決まりなのです。そして主イエスは、この3番目の反論では、「神殿での礼拝を遥かに超える偉大なものが現れてきている」と言われました。6節に「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」とあります。「言っておくが」とは、「わたしはあなた方に言っておくよ」ということです。 主イエスは、ご自身の体を引き合いに出して、「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」とおっしゃっています。そして、そうなのだから、主イエスご自身を献げる犠牲によって弟子たちも執り成されて、弟子たちの過去に犯した過ちも赦されて、罪のない者と見做されるようになるのだとおっしゃるのです。旧約聖書のホセア書の言葉を引用しながら、主イエスは7節で「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」と言われました。ファリサイ派の農民たちは、主イエスの弟子たちが罪を犯したと盛んに言い立てるのですが、主イエスは「いや、違う。この人たちはもはや罪のない者にされている。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という聖書の言葉、神の御心が分かっていたならば、あなたたちも弟子たちのことで騒ぎ立てなかっただろう」とおっしゃるのです。 この日、主イエスがなさった弁護には、一つの特徴があります。それは、弟子たちの行いが「それで良い」という形での弁護ではないということです。ここでの出来事に即して言うならば、弟子たちが安息日に麦の穂を収穫し、それを脱穀して食べた、その収穫や脱穀自体が正しく良いことだとおっしゃっているのではありません。それは、その前に主イエスがなさった2つの反論でも同じことが言えます。ダビデの時代にダビデが祭司以外に食べてはいけない供え物のパンに手を出したこと、それが良いのだとおっしゃっているのではありません。あるいは、安息日は仕事を休んで神を礼拝することに集中する日だけれど、祭司たちは仕事の性格上休めなくているのだから休まなくて良いとおっしゃっているのでもありません。この日主イエスがおっしゃっていること、それは、「人間はさまざまに相応しくないあり方をしてしまうかもしれない。そうせざるを得ないかも知れない。けれども、しかしそれはやがて、『神殿よりも大いなるもの』つまり『十字架の主イエスの憐れみ』に向かっていく中で起こっている出来事なのだ」とおっしゃっているのです。人間の様々な罪と過ちを、それで良いとおっしゃるのではありません。それは確かに問題かも知れないけれど、しかし「わたし自身が身代わりとなって、人間の罪や過ちを自分の側に引き受けて十字架に架かる。だから弟子たちも、あなた方も、罪のない者の一人に数えられるのだ」と、主イエスはおっしゃってくださったのです。 そして、そうおっしゃった上で、主イエスは決定的なことを宣言なさいました。8節「人の子は安息日の主なのである」という言葉です。「あらゆる安息日、あらゆる礼拝の場にイエスさまが主として臨んでいてくださる」というのです。生贄の血を流すということではなく、「ご自身が身代わりとなって執り成しを行い憐れみをもたらそうとする」、そういう主イエスが、「あらゆる安息日、あらゆる礼拝の主として臨んでくださる」のです。主イエスが執り成してくださるが故に、私たちがこうして礼拝を捧げる時に、ここから「罪を赦された者として、新しい歩みに進んでいくことができる」のです。主イエスはこの日、そのようにファリサイ派の人々に宣言なさいました。 そして、その足で会堂に向かい、礼拝に連なってくださいました。主イエスは毅然とした態度で礼拝に臨まれます。この主イエスの姿は非常に印象的です。もしかすると、私たちとは違うかもしれません。私たちは時に、心外なことがあったり嫌な思いがあると、ついつい礼拝から足が遠のいてしまうということがあり得ます。けれども主イエスは違います。主イエスは神の御心に完全に従おうとして、「公の礼拝を捧げる」という最も大事な務めを果たそうと、ファリサイ派の人たちとのトラブルが予想されても会堂においでになりました。 しかし、まさにそう考えたファリサイ派の人たちは、「安息日」ということについて思い違いをしていました。ファリサイ派の人たちは、「安息日は礼拝に集中するのだから、全てを休む日だ」と素朴に思っていました。「安息日は何もしない日だ」と思っていたのです。神を畏れ、その前にかしこまって礼拝する。そのために自分たちとすれば何もしてはいけない日だと思っている。その思いは、いつしか、「何も行わない」ということが自分たちの敬虔さを表すことになるのだと思うようになっていました。 さてこの時には、主イエスを巡って、本当に起こるべき良いことが起こったのですから、当然この場に居合わせた人たちは、この日の出来事を喜んで、神の御名を崇め感謝して良さそうなものですが、ところがそうはならなかったのだということが、今日の箇所の最後に語られています。14節に「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」とあります。 私たちは、今日ここで、この主イエスの御言葉をしっかりと聞き取って、心の底から受け止める者でありたいと願うのです。主イエスによって真実に罪を赦され、清められた者として、新しい命が、ここにいる私たち一人一人の上に与えられていることを信じて歩みたいと願います。 |
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