ただ今、マタイによる福音書12章22節から37節までをご一緒にお聞きしました。この箇所が朗読されている途中で、大変重苦しい不気味な御言葉が告げられていると感じられた方がいらっしゃるかもしれません。31節に「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない」とあります。
いつもならば、聖書の言葉を聞くと私たちはホッとさせられたり、慰められたり励ましを与えられます。けれども、この31節の言葉に限っては、心が和むというようなものではなく、逆に不安を掻き立てられます。慰めや励ましを感じるよりは、むしろ心がざわざわして苛立ちを覚えるのではないでしょうか。「“霊”に対する冒涜は赦されない」と言われているからです。「決して赦されることのない罪がある」と、ここでは言われています。この不気味な聖書の言葉に、教会の歴史の中で、これまでどれほどの人が心のうちに密かな恐れをと反発を抱いたことかを思わされます。
しかし中には、この言葉を聞いても何の気持ちも持たないという方もいらっしゃるかもしれません。仮に「罪」という事柄を何か精神的な心の引け目のように考えていて、後ろめたい思いを持っている人だけが感じる生活感情のようなものだと考える人は、「自分には後ろめたいことは何もないのだから、赦されない罪があると言われても自分には関わりない」と考えて、何も感じないということがあるかもしれません。「自分自身を振り返ってみて、特にやましいところはない。もちろん、天使のように無垢だと言うのは言い過ぎだが、取り敢えず人並み程度の生活をし、後ろ指を指されるようなことは何もしていない。だから、もしわたしが神の前に立つようなことがあっても、別に何も恐れることはない」と日頃から考えている人は、確かに罪の赦しとは関わりがないので、ここに言われているように「決して赦されない罪があるのだ」と聞かされても何も感じないでしょう。けれどもそういう人は、もともと神の赦しを必要としていないということになるかもしれません。そういう場合には、教会の礼拝の中で毎週告げ知らされている「神が罪を赦してくださる」という話は、ただの退屈な時間潰しの話でしかないと感じるかもしれません。
しかし、毎週日曜日に教会に集まってくる人たちの大半は、罪という事柄を、そのように自分の何かの行いや失敗に結びつけて考えるということはないのだろうと思います。失敗や行いを心の中に引きずって行く生活感情、それが罪だというのではなくて、そもそも「私たちの日々の生活が神と切れている状態にあること」、それが聖書の告げている罪だからです。「わたしは、人としては特に悪いことをしているつもりはない。でも振り返ってみると、いつもわたしは神と切れている。神抜きで、自分一人だけで生きているようなつもりでいる」、それが聖書の中で大変重々しく言われている「罪」という事柄なのです。
神との結びつきにおいて「罪」という事柄があるのだと考える人は、神との関わりが途絶えたままになることを恐れます。ですからそういう人は、神と切れている罪を神に赦していただいて、そしてもう一度、「あなたは、わたしのものだ」と言っていただいて、人生を生きたいと心から願うのです。そう思うからこそ、幾分か無理をしてでも日曜日に礼拝に来るということがあるのです。肉体が痛くても、少し疲れていると思っても、それでも神の赦しの言葉を聞きたい。そして神から送り出されて一週間を歩んで行きたいという切なる願いを持って礼拝に集います。
そういう人にとっては、「決して赦されることのない罪がある」と聞かされると、大変気がかりになってしまいます。
けれども、これは神との間柄ということを抜きにして、ごく普通に考えて、私たちがもし何かの罪を犯しているというのであれば、それが何も問題にされることなく全てが赦されるなどということは有り得ないことではないでしょうか。何もかもが赦されるというのは、虫のいい考え方になるでしょう。神は確かに慈しみ豊かな方でいらっしゃいます。私たちに恵みを与えてくださいます。けれども、神がそういう方でいらっしゃるということは、そのまま神が私たちの生活の全てを大目に見てくださるということなのでしょうか。恐らくそうではありません。神の赦しには、ある限界があります。その限界を超えてしまったら、もはやそこには赦しはありません。神は、そういう厳しい一面も持っておられるのです。
しかしそうであるならば、赦されることと赦されないことを区別する一線というのは、一体どこに引かれているのでしょうか。私たちが知って犯す過ち、あるいは知らずに犯してしまう過ち、それはどこまでが赦されるのでしょうか。そういうことを不安に思いながら聖書を読んでいますと、ここに私たちが驚くようなことを聖書が告げていることに気づかされます。すなわち聖書は、赦しが与えられるとか、もはや与えられなくなるとかを言う以前に、そもそも私たちにとって赦しが与えられる限界というのは、途方もなく広く大きいのだということを告げています。32節に「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」とあります。前の節からの続きですので、何気なく読んでしまうと、ここも「決して赦されないのだ」という脅しの言葉だと聞いてしまいそうです。
けれども、立ち止まって、この言葉を考えたいと思うのです。「この世でも後の世でも」と言われています。ということは、主イエスは、「『罪が赦される』ということは、この世においてだけのことではない。この世を超えたところでもなお、罪が赦されるということが有り得る」と考えておられるということです。「罪が赦される」のは、この地上の領域だけに限ったことではないのです。後の世、つまり私たちが地上の生活を全て歩み終えて世を去った後でも、なお私たちの罪を赦していただける可能性が残されています。こういう聖書の教えは、誠に慰めに満ちていると思います。
私たちは時折、自分が思いもかけない時に突然死んでしまったら、どうなるだろうかと思うことがあるかもしれません。「わがままな自分は、自分の生涯が終わりに近づいたならば、その時にこそ、神の御前に自分が犯してきた罪を言い表して、赦しをいただいて、この地上の生活を終わりたい」と思っているのに、思いもかけない時に突然死んでしまえば、こういうことは一切できなくなってしまうのです。もし仮に、自分がそのような地上の生活の終わりを迎えたらどうなるかと考えるとやりきれない思いになる、そういうことがあるかもしれません。あるいはまた、自分自身のことではなく、肉親や親しい友達が、今わたしが経験しているような神の慈しみに満ちた現実というものを是非知ってほしいと願ってきたけれども、しかし遂に、それを知る機会がないまま地上の生活を終えてしまうということが起こった時に、そのことで悲しみを深くするということもあるかもしれません。「あの人と一緒に生きていた時に、どうしてわたしは、もう少し主イエスや神のことをはっきりと伝えてあげられなかったのだろうか。もしそれができていたら、あの人は変わることができたかもしれない」と、私たちは苦い思いを持って自分の過去の人間関係を追憶するということがあるかもしれないのです。
そして、そのように思う時に私たちは、恐らく幾分かのためらいが入るとは思いますが、「どうか神が、地上を超えたところでも、この罪深いわたしを救ってくださいますように」、あるいは「わたしが親しく過ごしたあの人を、なんとか神が受け止めてくださいますように」と願うことがあるかもしれません。随分と身勝手な思いだと思いながら、私たちはそのようなことを考えることがあるかもしれません。
ところが、そんな私たちに、今、主イエスは明らかに告げておられるのです。「死の彼方においても、罪の赦しはある。罪の彼方にも、なおその人が生まれ変わるチャンスが備えられている」とおっしゃるのです。32節の言葉は、そういう主イエスの理解が下敷きになっているからこそ、出てくる言葉です。もしそうでないならば、ある特定の罪は後の世になって赦されることがないと言う意味がなくなってしまうでしょう。罪の赦しが今のこの世のことだけであるならば、ある者は後の世になって赦されないのであり、逆に言えば、赦されるということが有り得るからこそ言われる言葉なのです。地上の生活を超えたところに、なお主イエス・キリストが臨んでくださる。そして、私たちを生まれ変わらせることができる。私たちからすれば、生まれ変わることのできるチャンスがある。だからこそ「ある種の罪については後の世でも赦されない」と、言われているのです。
主イエス・キリストが私たちに与えてくださる罪の赦しとは、普段私たちが思っているよりもずっと広い範囲で行われているようだということを、今日の箇所から、まず確認したいと思います。
そして、このことをまず聖書から教えられた上で、「罪を赦される」ということについては、普段私たちが思っても見ないことですが、ある限界が設けられているのだという厳しい事実があることを知らなくてはなりません。その限界の先では、私たちは、「神と完全に切り離されてしまう。神から切れた罪の状態の中に留め置かれてしまう。赦しが途絶える」ということが起こり得るのであり、そこに限界の一線があることを、主イエスは警告しておられるのです。言うなれば、神は私たちの生活に対して忍耐に忍耐を重ねておられるけれども、その末に、とうとうその忍耐にピリオドが打たれてしまう、そういう時があるということです。そして、そこから先はもはや、神が憐れみや慈しみをもって私たちをご覧になるのではなく、決して和らぐことのない怒りの中に私たちが捨て置かれてしまう、そういうことが有り得るのだと、聖書は伝えているのです。
しかし、もし仮にそういうことが私たちの身の上に起こるなら、その時、私たちは神のなさりようを非難できるのでしょうか。神はこれまで幾度となく、私たちのわがままな、神抜きで生きているありようを赦してくださっているのです。神など初めからいないと、そう思って平気で生きている私たちの生活を、神は忍耐を持って赦してくださり、なお私たちの人生を先へ先へと持ち運んでくださっているのです。そうであるならば、神が私たちの人生のある時点で、私たちの過ちをことさらに取り上げて、「やはりあなたは赦しの中にはもはや置いておくことはできない」という厳しい態度で臨ことがあったとして、私たちがそれを非難できるかというと、非難できないだろうと思います。
私たちは、自分自身が考えるならば、赦されるはずがありません。いつも神に背を向けて、神抜きで生きているのが当たり前のような生活を実際に送っているのです。むしろ、そういう生活を送っている者が、「神から赦され、主イエスとの交わりの中に入れられている」、このことの方が奇跡と言わなければなりません。そして実は、神はそういう奇跡を実際に起こしてくださっているのです。
主イエスが地上の生涯を過ごしておられた時、実際に主イエスとお目にかかって直に罪を赦していただいたという経験をした人たちが、聖書の中にはたくさん出てきます。そういう人たちの中には、本当に大きな罪を犯した人が決して少なくありません。
例えば、姦通の現場で捕らえられて主イエスの前に連れてこられた女の人がいます。その人に向かって、主イエスは何と言われたでしょうか。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」と言って、その人の罪を赦してくださいました。人間的な感情から言えば、性的な裏切りというものは決して許せないものだろうと思います。何年経っても思い出すと怒りに体が震えてくる、主イエスはそういう罪も「わたしはあなたを罪に定めない」と、私たちの教会の主はそう言われるお方なのです。
あるいはまた、主イエスが十字架にかけられた時、中央には主イエスがかけられ、左右にも十字架が一本ずつ立てられたと言われています。中央の十字架にかけられた主イエスは無実の罪です。しかし、両脇に立てられた十字架の犯罪人たちは、処刑されても仕方のない、相応の罪を犯してしまった人たちです。しかし、そういう彼らに向かっても、主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という約束を語ってくださいました。「あなたは、地上の生活では、取り返しのつかない失敗をしてしまって、そのために処刑されて地上の生活を終えようとしているけれども、しかしあなたは、今本当に悔い改めるなら、楽園に入れられる。神の赦しの元に移されるのだ」という約束を、主イエスは聞かせてくださるのです。
そういうところから考えますと、主イエスの赦しとは、本当に限りなく広いと思わざるを得ません。私たちがたとえどんな過ちを犯そうと、どんな罪を犯そうと、どんな失敗をしようと、それでも、主イエスを通しての赦しに与らない罪というのは、この地上にはない、そう言って良いと思えるほどです。どんな大きな過ちも、どんなに深い罪でも、赦されるのです。人間としては不本意なことがあるかもしれません。人間の刑罰感情に馴染まないと思うかもしれません。しかし、主イエスは確かに全ての罪を赦しておられるのです。
ところが、そうであるのに、今日のところでは「決して赦されることのない罪がある」と言われています。この罪というのは、よくよくのものだと言えるのではないでしょうか。ここで問題にされている罪は、特別な罪であるに違いないと思います。では、この罪とは一体何なのでしょうか。これほどに重い罪、聖霊を冒涜する罪、聖霊に言い逆らう罪とは、どのようなものなのでしょうか。このことを考えたいのです。
「聖霊を冒涜する罪、言い逆らう罪」とは、どういうことでしょうか。聖書では、私たちの罪はしばしば病気に譬えられます。主イエスも「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃっています。ですから、罪が赦されて、そこに新しい命が与えられるということは、言うなれば、「一度健康を損ねてしまっている人が、不健康な状態から癒されるようなことである」、「神との関わりにおいて、私たちが不健康になっているけれど、そこからもう一度健康を回復させられるようなことである」と言ってよいと思います。神が私たち人間の深いところにある傷を癒してくださり、私たちの中に根を張っている病巣を取り除いてくださる。それが、赦しであり罪からの解放です。
ところで、重い病気が治るとか、骨折した手足の骨が再生してもう一度使えるようになる時には、実際にはどういうことが起こっているのでしょうか。もし、患者自身の体から回復する力が既に失われているような場合には、病気も怪我も治らないだろうと思います。医師は病気の人が目の前に連れて来られたらどうするのか。医師がその人の体を治すのではないのです。その人の体に巣食っている病原菌の働きを薬などで一時抑えるのですが、しかしその間に、その人の体に備わっている治癒する力が働いて新しい細胞が作られ、損なわれていた細胞が新しく置き換えられていく、そのようにして私たちの健康は回復されていくに違いありません。骨折した場合も同じことです。
ところが、もともとの体に、自分で自分が治っていくだけの力が失われている、新しい組織を生み出すだけの活力がもはや無くなっているならば、どんな名医であっても、その患者の健康を取り返すことはできません。全ての医療技術というのは、患者の体にもともと備わっている自然治癒力に依り頼んでいます。自分で回復しようとする働きが順調に進むように、薬や器具で体をコントロールしながら治療を受け、癒されていくという経験をするのです。もし患者自身の中で力を出す能力が既に失われているならば、どんな医療技術も役に立たないということになります。
今は肉体のことを言いましたが、同じようなことが魂についても言えるのだろうと思います。もっとも、魂が癒されること、神との関わりにおいて私たちが健康になるという時には、もともと人間の肉体に神の方を向く力が備わっているというわけではありません。神に背を向けて生きるのが当たり前のようになっている、そういう私たちが、自分の努力とか能力とか、あるいは悟りによって神を見出すのかと言えば、そんなことはありません。そうではなくて、私たちが本当に神の前に健康に回復されていく、それは「聖霊に固有の働き」なのです。神が私たちの上に聖霊を送ってくださって、私たちの中の魂が癒されて、もう一度神に結びついて生きていくことができる力を創り出してくださるのです。私たちの中に「神が聖霊を働かせて信仰を作ってくださる」のです。私たちはそういう中で、神との結びつきを新たに与えられて歩んでいくようになるのです。
ところが、人間の肉体が力を失って自分で自分を回復できなくなっているように、聖霊が私たちの中に働くことを、私たちが拒んでしまう場合ということが有り得るのです。神の霊によって捕らえられていながら、その神からの働きかけを、バリケードを築いて抵抗するみたいに私たちが受け付けない、そういうことが有り得ます。聖霊の導きによって私たちに神の知識が与えられ、「神が慈しみ豊かな配慮に満ちていて、あなたを持ち運んでくださっている」ということが聖書に基づいて語られる時にも、その御言葉に耳を塞いで、応答しないということが起こり得るのです。
そういう場合には、一体、どうしたらその人を助けることができるのでしょうか。神は私たちの上に御力を及ぼして、奇跡を引き起こしてくださるお方です。神から切れた状態にある人間を、もう一度神と結ばせてくださいます。これまで神を知らずに過ごしてきた人、神と関わりのない生活をしてきた人にも、神は「わたしとの交わりの中で、生きて行きなさい」呼びかけてくださいます。
その呼びかけを聞き取って、自分が神から呼ばれていると知ることができること、これは一つの奇跡なのです。この世界の中で、神の呼びかけなしで、人が自然にそういう思いに達することは有り得ません。神が私たちに呼びかけてくださって、私たちは知ることができるようになります。
その神の御業は、決してデタラメではありません。神が私たちに呼びかけて御自身との交わりに導こうとなさる時に、私たち一人一人を一個の人格として認めてくださいます。私たちを、一人一人の、神とは別のものとして扱おうと忍耐してくださるのです。そしてそのために、これはまことに危なっかしいことですが、神は私たちに自由を与えてくださるのです。
けれども私たちは、時にその自由を正しく使いません。聖霊の働きかけを無視して、神の呼びかけに応えず、「わたしはあなたを信じます」と言わないで、「わたしはまだまだ、あなたと関わりのない状態で大丈夫です。あなた抜きでも、わたしは自分で生きて行きます」と言ってしまって、新しく生きようしないのです。
福音書を読んでいますと、時々主イエスが町々村々を訪れ、せっかくそこに来てくださったのに、癒しをなさることができなかったという記事に出会う場合があります。主イエスはもちろんその場にいてくださって、人間が願い求めれば癒してくださることがおできなったのですが、人間の側では主イエスをお迎えする用意がなく、そのために奇跡が起こらなかったのです。神に対して意識的に背を向ける、背を向けても大丈夫だと思っている、主イエスを救い主として感謝して受け入れようとしない、そういう人間のあり方が、結果として癒しの奇跡を拒むことになったのだと聖書の所々に語られています。
そういう場面の記事を読む時に気付かされます。そこで主イエスに背を向けている人たちというのは、上辺でもはっきりと主イエスを罵り、対立しているだろうかと言うと、そんなことはないのです。見た目では、特別神を冒涜する言葉を口にしているわけではありません。ただ心の中では、主イエスを前にして、例えば「この男は大工の息子ではないか」とか「この男の弟たちをよく知っている」とか「妹たちは、私たちの誰それの嫁になっているではないか」と思って、本当には主イエスを通して救いが来ているとは考えなかったのだと語られています。「今この場で、主イエス・キリストを通して御業が行われている。神の御力が働き、聖霊がわたしにも働きかけておられるのだ」ということを認めないで、ただ自分が主イエスについて知っている知識だけを振りかざして、それを全面に押し立てようとする、そういうあり方をしているだけです。それが、主イエスが奇跡を行うことを阻んだ力であったと聖書は語っています。「わたしは神の働き方、神の御業について、もう十分知っている。聖書の中に何と書いてあろうと、この世で起こる自然の理についても熟知している。聖書がどう言おうとも、わたしの知っている限り、そんなことは起こるはずはない」と、特別に神に言い逆らわなくても、私たちが心の中でそう思うだけで、神の働きを阻害してしまうことは、いとも簡単にできてしまうのです。「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と言われているのは、まさに神がわたしの魂を癒し、新しいスタートを与えようとしてくださっていることに対して、私たちが自分の理解や考えを先立たせてしまうあり方について、教えられている言葉なのです。
神の赦しについて、こういう厳しい警告が聖書に語られているということを、私たちは決して聞き逃してはならないのだと思います。もし、こういう警告があるということを抜きにして考えるならば、神の赦しの事柄というのは、私たちにとっては、自分がどのようであっても必ず赦される側に入れられるという誠に都合の良い話になり、そしてまた、誰でも慰められ救われるような事柄に聞こえますけれども、それは実際には、私たちを何も助けることのない、言葉だけのものに終わってしまうことになります。
けれども、私たちが真剣に、「神がわたしに御言葉をかけ、新しい命を生きるようにと招いてくださっている。この言葉を神の言葉として聞く必要があるのだ」と警告されていると聞き取った上で、私たちは最後に、ここに語られている決定的な慰めの言葉に耳を澄ませる者でありたいと願うのです。31節「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」という言葉です。あなたがどんな過ちを犯しても、どんな心得違いをしていても、その罪はどんなものでも赦されるのだと言われています。そうであるならば、私たちは誰も「聖霊に言い逆らってしまったから、もはやどうしようもない」と言ってしょげてしまう必要はないだろうと思います。
実は、そもそもそのように不安を覚えてしょげる人は、既にその時、その人の中で、神による癒しの業が始まっているからです。私たちがどうやって「神のものである」と言われるのか、それは「私たち自身が自分の罪に気づく」ということが一番最初です。わたしは神と関わりなく生きて来てしまったということに気づいて、そしてそのことを悔い改め、「神がどうかもう一度、わたしと一緒に歩んでくださるように。わたしの今からの生活を神の御言葉の光によって照らしていただきたい」と願う人にこそ、神の赦しが与えられ、そして本当に神に伴われて生きる生活が始まるのです。
自分の罪に気づいて赦しを求め、心に渇きを覚える人にこそ、今日の箇所の直前に語られている言葉が与えられています。マタイによる福音書11章28節の言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。
この週もまた、私たちの罪を全て赦し、新しく歩み出させてくださる主イエス・キリストのもとに、真の平安を与えられて歩み出したいと願うのです。 |