ただ今、マタイによる福音書12章15節から21節までをご一緒にお聞きしました。15節16節に「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」とあります。
「イエスはそれを知って」と始まっていますから、この直前に述べられていたことと結びついたことが起こっているのです。14節では、ファリサイ派の人たちが会堂から出て行って「どのようにして主イエスを殺そうか」と相談したことが語られておりました。安息日に、礼拝の後で、そんな相談がされていたのです。
安息日という日は、もともとは、造り主である神が、また、この世界の造られた者全てが一緒になって、そこに生かされている命を皆で喜び合う日です。ところが、その安息日にファリサイ派の人々は、あろうことか、生きている命を殺してやろうという相談をしました。これは、安息日に行ってはならない労働をしたとかいう以前に、もともと安息日が持っている重大な意味に違反する在り方だと言わなくてはなりません。神が安息日に、ご自身の造られた全ての命と一緒になって生かされていることを喜ぼうとしておられるのに、その命を消すことを、この時、ファリサイ派の人々は相談したのです。そして、今日のところは、そのことを主イエスがお知りになったというところから始まります。
命を殺そうとする、これは明らかに神の御心に反する企てです。この企てを知って、主イエスはどのようになさるのでしょうか。このような企てを厳しく指摘し、糾弾し、白日の元に晒そうとなさるのではないでしょうか。そのようになさってこそ、神の御旨に忠実だということになるのではないでしょうか。
ところが主イエスは、この時、意外な行動をなさいました。「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」とあるように、黙ってそこを立ち去られたというのです。それだけではなく、16節には「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」とも言われています。日本語では「戒められた」と訳されていますが、ギリシャ語では「叱る、罰する、どやしつける」という意味の言葉です。ですから、その言葉のニュアンスから想像しますと、恐らく、主イエスに病気を癒していただいた人々のうちの誰かが大変嬉しくて、自分が癒されたことを周りにふれて回ろうとしたのだろうと想像できます。ところが、主イエスがそれを知って烈火の如くお怒りになり、その人を厳しい口調で戒められたという出来事がここに言われていることだろうと思います。
「黙ってそこを立ち去られた」ことも、あるいは、「御自身の噂が広がっていくことを極度に警戒なさった」ということも、私たちには大変不思議なことに思えるのではないでしょうか。どうして主イエスは、このようなことに細心の注意を払おうとなさるのでしょうか。もしかすると、主イエスは性格的に弱いところがおありだったのでしょうか。気が弱くて、御自身が面倒事に巻き込まれるのが煩わしいと思ったので、御自分の噂が広がらないようにおっしゃったということなのでしょうか。そうではありません。主イエスにはこの時、御自身の噂が方々に広がって評判が高くなると、その結果どんなことが起こるかということを、よく弁えておられたのです。
実は、ここで主イエスが心配しておられることとよく似たことが実際に起きたことがあります。ヨハネによる福音書の最初に記されているのですが、その時主イエスは、ガリラヤ湖の向こう岸の小高い山に登っておられたと言われています。そこで「主イエスが癒してくださる」という噂が立ったために、大勢の群衆が主イエスの後を追いかけてきました。主イエスはその時、御自身の元に来た大勢の人たちを癒されたのですが、山の上のことですから、その人たちに食べる物がないということが起こります。そこで主イエスは、その大勢の群衆を僅かのパンと干した魚で養ってくださるということをなさいました。その結果一体何が起こったか。病を癒してもらい満腹させてもらった人たちが、主イエスを自分たちの王にしようと考えた、つまり政治的な指導者に祭り上げて、自分たちのために働いてもらおうと考えて、主イエスを拉致して無理やり連れて行こうとした、そういう出来事があったと語られています。ヨハネによる福音書6章15節に「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」とあります。この時起こった出来事は、まさしく、主イエスが癒してくださるという評判が高くなって、噂が広がっていった結果、大勢の人たちが主イエスのもとにやって来る、そして主イエスがその人たちを癒し、食事も与えてくださったという出来事の末に起こっていました。主イエスは、その時と同じような出来事が、今日のところでもまた繰り返されることを好ましいとは思われないのです。
主イエスのもとを訪れた多くの人たちは、自分の病が癒されることを願いました。自分の心が満たされ、自分が満腹することを求めました。そして、実際にそうしていただくのを見ると、主イエスを自分たちの道具であるように考えます。自分たちの病が癒され、心が満たされ満腹する、そのことのために主イエスに役立ってもらおう、自分たちが気持ちよくなるため、自分たちが心地よくなるために主イエスがいてくださったらよいと考えるのです。
けれども、主イエス御自身は、そういうことのためにこの地上においでになったのではありません。主イエスは、「天の国の神の慈しみに満ちた御支配が、今この地上にやって来ている。あなたの上にも神の真実な支配が来ている」ことを告げ知らせようとして、そのために地上においでになったのです。
しかしそれならば、主イエスのおっしゃる天の国の支配、神の御支配とは、一体、どのようにして訪れて来ているのでしょうか。
主イエスがおいでになるより前には、誰一人として、完全に神の御心に従って歩む人間はいませんでした。皆が自分の満足することばかり追いかけて生活していました。そういう只中に、主イエスが飼い葉桶にお生まれになりました。私たち人間は、自分が満足すること、自分が慰められたり励まされたり力を与えられたり、難しい問題が解決されることを願います。しかし主イエスは、そのような中にあって、人間の思いが満足するということではなく、どこまでも「神の御心を尋ね求め、神の御心に従うように歩もう」となさるのです。そういう人が一人、生まれている。言ってみれば、他の多くの人々とまるっきり違う方向に生きようとしている、そういうお方が、一人いる。神の御支配に完全に従う「神の国の民の最初の一人」が生まれる、そういうことが起こったのです。
そして主イエスは、御自身が天の国の民の最初の一人になって、そこに、一人また一人と弟子たちを招いて行かれます。主イエスに招かれることで、その周りに、次第に「神の御心を知らされながら、主イエスに倣って、神に従って生活しようとする人々」の群れが生まれて来ます。そのようにして、「天の国、神の国の御支配」が、この地上に始まって来たのです。
主イエスというお方を通して、「神の御言葉に耳を傾ける」、そして「御言葉に聴き従って生活する」、それが「地上を生きる天の国の民の姿」です。主イエス御自身は、そういう天の国の民の初穂、最初の一人となられました。そして、主イエスは、神の御言葉に招かれた弟子の一人一人が真実に従っていくことができるように、その一点にのみ、御心を向けられるのです。
弟子たちが主イエスを通して神に従い、主イエスに教えられながら「神のもの」として歩んでいく。そのためには、何としても克服されなければならない、ある非常に難しい問題があります。
私たちは生まれつき、誰であっても、自分のことを中心に置いて物事を考える、そういう癖、自分中心の傾向を持っています。どんなに幼い子どもであっても、どんなに長く人生を生き、物事を弁えている人であっても、一人の例外もなく私たちは、どうしても自分中心に物事を考えてしまう、そういう癖から自由ではいられないところがあるのです。いつでも自分の腹に仕え、自分の思いに仕え、自分の体が安楽であることを望み見ながら生きてしまうようなところがあります。
しかし実は、その点が誠に問題なのです。というのは、私たちの誰にも自分中心という傾向があるために、神に従い、神の御言葉に耳を傾けて生きようと思っていても、ふとしたはずみに、自分中心の思いが頭をもたげてしまって、どうしても神の御心に完全に従って生きていくことができないのです。もちろん、どなたにもご自身の意思というものがあります。自分の意思で、「今からは主イエスに仕えて生きていこう。神に従って歩もう」と決心することはできます。神の御言葉に耳を傾けその御言葉に従って生きるのだと自分で決めたのなら、誰でもそのように歩んでいけそうなものですが、しかし実際には、そうは問屋が卸さないようなところが誰にもあるのです。私たちの自分中心の思いというものは、それほどに根深く、また、手強いものなのです。
けれども神は、そういう私たち人間を、何としても天の国の民として招き導こうとなさるのです。そして、そのために主イエスを送ってくださったのですが、それで終わりにならないのです。私たちが自分中心の思いに支配されて神を忘れ、神抜きで生きてしまう、神に従い切れずにいる、その罪を、主イエス御自身がその身を身代わりとして差し出すことで清算してくださろうとします。それが、私たちが礼拝毎に聞かされる十字架の出来事であるわけです。あの十字架は、本当であれば、ここにいる私たち一人一人が神抜きで生きてしまっている報いとして各々の身に受け、そして苦しんで死ななければならないところなのです。けれども、そういう私たちの自分中心の罪を主イエスが身代わりになって御自身の側に引き受けてくださり、そして確かに十字架上で苦しみ亡くなってくださることを通して、私たちの罪を清算してくださる。罪は清算されるのですから、「十字架を通して、私たちは、神の民として生きてよい」という始まりが与えられるのです。
私たちの自己中心という罪、これを病気に譬えるならば、すっかり慢性化して体の奥に根深く病巣を宿しているような状態です。表面的に大騒ぎして警鐘を鳴らしさえすれば、すぐに除き去れるというようなものではありません。ですから主イエスは、根気よく、人間の罪を癒し回復させようとなさいます。そのために弟子たちを一人一人、御自分の側に呼び集め、ある程度の時間を主イエスと共に生活するように招かれるのです。
もし仮に、主イエスが癒しをしてくださる、癒しだけでなく食物も与えてくださるという噂が広まったらどうなるでしょうか。ガリラヤ湖の向こう岸におられた時のように大勢の群衆がやって来るでしょう。そのために、一時は主イエスの伝道が上手く行っているように見えるかもしれません。しかしその人たちは、次には、この主イエスこそが今の世の中や自分たちの生活を変えてくれる預言者だと言って、主イエスを担ぎ上げ、領主ヘロデやローマ総督ピラトに抵抗しようとするかもしれません。そうなると、ローマから軍隊が派遣され、人々は一網打尽に滅ぼされてしまうことになるでしょう。一時盛り上がっても何も残らない、そうなることを主イエスは良しとされません。主イエスはもっと時間をかけ、もっと辛抱強く人間の罪と取り組もうとしてくださるのです。そのために、軽率に主イエスの噂を広めようとした人を叱り、ファリサイ派の人たちとの対立も注意深く避けようとなさったのです。
主イエス・キリストによる神の御業、私たちが「罪に気付かされ、罪を離れるように導かれる」その御業は、私たちが思っている以上に、ずっと静かに、密やかに進められて行くのです。主イエスは弟子たちを一人一人、御側近くにお招きになり、生活を共にしてくださいます。そういう中で、弟子たちが神に真っ直ぐに従う率直さと柔和さの感覚を身に付けるようにと、神に平らに歩むという感覚を、主イエスが弟子たちの中に植え付けてくださるのです。そしてその上で、主イエスは、最後の手強い敵である死に対して、御自身の身を武器にしながら戦おうとしてくださるのです。主イエスの「罪と死に対する戦い」、これは文字通り捨て身の戦いでした。十字架の上に御自身を差し出して磔にされる。苦しみもだえて死ぬ。このことを通して、本来私たちが死ななければならない死を御自分の側に引き受けてくださる。だからこそ、私たちには「罪を赦されている者として、新しい命を生きるチャンスが与えられた」のです。
主イエスの御業は、実際に十字架の出来事が起こる時までは、この世にあっては誠に静かに進行して行きます。主イエスは弟子たちの間にあって、「真実に柔和なお方」として行動なさいます。この福音書を著したマタイは、そういう主イエスのありようを、旧約の預言者イザヤの預言の通りだと、今日のところで語りました。17節に「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」とあります。もともとのイザヤ書の預言はイザヤ書42章ですが、マタイはそこから自由に引用していますので、全く同じではありません。ですから、今日はマタイの言葉から説明します。
主イエスの「柔和さ」については、19節に「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」とあります。主イエスは、ファリサイ派の人々が安息日に会議を招集して「命を抹殺しよう」と企んだ事実をご存知でした。ですから、その出来事を太陽のもとで指摘し、この人たちの欺瞞を暴こうとすればお出来になったはずです。しかし、それをなさいません。19節の御言葉通りです。主イエスの気が弱かったからでも、尻込みなさったからでもありません。そうではなく、ファリサイ派の人たちが企んだ個別の罪の一つを暴いて見せたところで、それだけで人間の自己中心な傾向が止むかというと、そういうことにはならないからです。主イエスは、目の前のファリサイ派の罪を暴いて糾弾するのではなく、まずは「弟子たちを招いて訓練する。そして罪は本当に恐ろしいものだと感じることのできる感性を育てる」ことをなさいます。
また、病んでいる人や、自分自身のことを重荷に感じて苦しみ、悲しみ、嘆いている人たちに、「それでも神はあなたを真剣に愛しておられる。神の導きと保護とを信じて、あなたが生きて行く新しい生活があるのだ」ということを知らせようとなさいます。その上で、御自身が十字架にかかることによって、「主イエスがわたしの罪の身代わりとなってくださった」と信じた人が、新しい命を生きられるようにと、弟子たちを導いていかれるのです。
そういう主イエスのなさりようは、まさに神の御心に適うことであって、神の御計画に沿った歩みでした。18節に「『見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる』」とあります。この言葉は、マタイがたまたまイザヤ書に書いてあった言葉を「これは主イエスに重なるな」と思って引用しているというだけのことではありません。ここに語られている言葉と非常によく似た言葉が、主イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった時に語られていました。マタイによる福音書3章16節17節に、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」とあります。ここでは主イエスの上に天から聖霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という宣言が聞かれています。まさしくこれは、今日、私たちが聞いているイザヤ書の預言とぴったり重なるような出来事です。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける」と預言されていたことが、主イエスが洗礼をお受けになった時、その通りに起こっているのです。
イザヤが語った預言が主イエスの洗礼によって実現しているのであれば、18節の最後に語られていることも、きっと本当のことであるに違いありません。「彼は異邦人に正義を知らせる」と言われています。神の独り子であり、神の御心に忠実に従って行動する僕でもある主イエスは、ここに言われているように「異邦人たちに神の正義を知らせてくださるお方」です。
ところで、「異邦人に知らされる正義」とは、一体何なのでしょうか。「神の正義」、それは、一見神と関わりないように生きている人々、つまり私たち一人一人が「主イエスによって成し遂げられた十字架の御業を告げ知らされ、一人も滅びることなく、永遠の命を生きるようになる」ということです。
繰り返しになりますが、私たちは神から命をいただいて生まれてきました。そして、生まれてから今日に至るまで、神がずっと私たちの命を支えてくださっています。私たちは無意識のうちに呼吸し心臓が動き、今生きています。私たちが自分の力で呼吸したり心臓を動かしているわけではありません。私たちが眠っている時にも、あるいは、気持ちがどん底にあってもう生きていけないと思っている時にも、それでもなお、神が私たちを支えて肉体を生かしてくださっているのです。ところが、そうであるにも拘らず、私たちは、神がそのように命を支えてくださっているということを殆ど思いません。数の上では、神を知らず神無しで生きている人のほうが遥かに多いのです。神と関わりのない異邦人として生きている、そういう人が大勢います。
しかしそういう中にあって、キリスト者たちは、神から選ばれ、主イエスのもとに招かれ、「神の深い配慮によって、一人一人の命と人生が持ち運ばれている」ということを知らされているのです。神が御自身の独り子を十字架にかけてまでして、「あなたは神の保護のもとに生かされている」ことを知らせてくださる。そういうあり方が「神の正義」なのです。
もともと神と何の関わりもなかった、異邦人であった私たちに「神の正義を知らせる」、そのために主イエスは十字架にお架かりになり、そして甦られて、今、私たちと共に歩んでくださっているのです。ですから、21節に言われているようなことが起こるのです。「異邦人は彼の名に望みをかける」とあります。これまで神と関わりのない生活を続けてきた一人一人を、神は主イエス・キリストを通して神の民としてくださる。教会の群れの中に招いてくださる。そして、主イエスの御言葉を通して、「わたしがあなたの主なのだ。神なのだ。あなたを確かに持ち運ぶ。どんなに辛いこと、人生の中で不可解なこと、苦しいこと、嘆かわしいことがあるとしても、それでもあなたは、わたしによって生かされている」と語りかけてくださるのです。
ですから、そういう招きを聞いたならば、素直にそれに応じて「わたしは神のものです」とお答えするのが願わしいことです。私たちは、神から招かれなくては、誰も自分から神の民になることはできません。主イエスを通して神が招いてくださった、主イエスの御言葉を通して神が私たちに語りかけ、「わたしがあなたの主なのだ。どんなことがあっても、あなたの命はわたしが支えているのだ。どんなに困難に直面する時にも、どんなに不本意で不可解な嘆きの中に陥ってしまう時にも、そこであなたは、なお、わたしが持ち運んでいる大切な一人なのだ」という御言葉を聞き、招かれていることを知ったならば、そこに率直に応答して生きることが、私たちにとっては願わしいことなのです。
しかしもしかすると、「確かに今は、主イエスを通して神が招き、導びこうと言ってくださることを聞き取れるので、信じてもいいけれど、しかしわたしはこの思いを一生、持ち続けていけるだろうか。自分には自信がない」と思って、尻込みなさる方がいらっしゃるかもしれません。「わたしは決して、一生の間、強い信じる思いを持ち続けていけるほど、宗教的な感性が優れているわけでも、信仰が強いわけでもない」、もしかすると、そういう心配は、既に洗礼を受けた方もお持ちになる時があるかもしれません。自分の信仰生活を振り返ってみて、「果たして自分は本当に長い一生の間、ずっと神に従い続けていけるのだろうか」と感じておられる方もいらっしゃるかもしれません。
実は、私たちは、自分自身の抱いている信仰の事柄については、どうしても覚束なさを覚えてしまうようなところが誰にもあるのです。
しかし、心配はご無用です。私たちに神の保護を知らせてくださるお方は、20節に語られているようなお方だからです。「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」とあります。
信仰に招かれ、信じるように導かれている人たちが、「傷ついた葦、くすぶる灯心」と、二通りの言葉で形容されています。
「葦」は、川辺に生えて真っ直ぐに伸びる性質の植物です。主イエスの時代にはペン軸などに使われました。葦の枝を斜めに切って、その先に煤で作ったインクをつけて、羊皮紙などに文字を書いたと言われます。本来、真っ直ぐであるべき葦の茎が、何かの理由で途中で折れてしまう、そういうことがあるのです。そのように途中で折れてしまった葦は、使い物にならないとして捨て去られるでしょう。ところが「傷ついた葦を折って捨てたりしない」と、ここに言われています。
また、「くすぶる灯心を消さない」と言われています。当時のランプの灯心は木綿だったそうですが、ランプに入れて使っているうちに短くなり、明るく輝くところが少なくなり、暗く煙と煤ばかり出すようになってしまう場合があります。そういう灯心はもう寿命だと言って新しいものに取り替えられるのが普通でした。ところが、教会の頭である主イエス・キリストはそうなさらないのだと、ここに言われています。折れた葦を更に短く折って捨てたり、暗い灯心を吹き消して新しいものに変えたりはしない。むしろ、傷ついた葦を、それでも大事に使い続け、くすぶる灯心に力を与え、神の正義が勝利を得る時まで、その人を上からの光によって照らしてくださる。そして、その人が若さと元気を回復するところまで、ずっと伴ってくださるというのです。
私たちが、自分の信仰生活の将来について不安を抱く時には、私たちは自分自身の中を覗き込んではなりません。自分の心の状態がどうだとか、自分の思いがどれくらい強いか、そんなところに目を向けたら、私たちは、たちどころに何の確信も持てなくなってしまいます。それは、もともと拠り所とすべきではないものに目を注ぐからです。
私たち自身は、本当に弱い、悟りのない者ですけれども、しかし、そういう私たちと主イエスがどこまでも共に歩んでくださる。正義を勝利に導く時まで、主イエスは「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さないお方」として、共に歩んでくださるのです。
そのようにして、「教会の頭である主イエス・キリストに伴われ、歩んでいく」そういう営みが、地上の教会で実際に起こっている営みであるのです。
私たちは今日、そういう主イエス・キリストに招かれ、伴われているのだということを覚えたいのです。神の正義が、このわたしの上にも勝利を収める。そして、「信じている者は一人も滅びない。永遠の命を与えられた者として、この地上を歩む一人一人とされるのだ」ということを信じて、慰められ、勇気づけられて、与えられている一日一日の生活に向かって、ここから歩んで行きたいと願います。 |