ただ今、マタイによる福音書11章20節から30節までをご一緒にお聞きしました。この前半の20節から27節のところには、主イエスの深い嘆き、悲しみ、そしてまた神への感謝と喜びとが並んで語られています。これは大変対照的なことのように聞こえます。
まず、主イエスが嘆いておられる方ですが、ご自身が弟子たちと伝道して来られたガリラヤの町や村を叱っておられる言葉として語られています。20節に「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」とあります。主イエスがガリラヤ地方の村や町を巡って福音を宣べ伝え始められたのはずいぶん前のことになりますが、マタイによる福音書の記事の中では、4章23節に「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」と言われていました。この時以来、主イエスがガリラヤ中を回って「神の支配がやって来ている」と御国の福音を宣べ伝え、またその徴として病を癒し悪霊を追い出すという業に従事しておられました。主イエスは休む暇もないほど働かれ、教えと徴の業に精を出されました。そして、今日のところで、その働きに一区切りがつけられようとしています。
主イエスは、これまでご自身が弟子たちと共に従事して来た伝道の業を今日のところで振り返って、眺められるのです。そのように主イエスがなさったきっかけは、先週の礼拝で聞いたところですが、牢屋に囚われていたバプテスマのヨハネが自分の弟子たちを送って主イエスに問い合わせたという出来事だろうと思います。ヨハネはかつて、主イエスこそが来るべき救い主なのだと信じ、確信を持ってそのことを伝えて来たのです。ところがヨハネにしてみると、救い主がやって来ているはずなのに、牢屋にまで聞こえてくる世間の噂というものは、相変わらず戦いの噂だったり諍いが地上に絶えないというものでした。多くの人々が悩み苦しみ嘆きながら重荷を負って生活している、そんな話ばかり聞こえてくるのです。ヨハネにすれば、来るべき救い主が来ておられるはずなのに、この地上は何も変わらないように思える。それで、つい疑いを抱いて「あなたが来るべき方なのですか」と問い合わせたのでした。主イエスはその問いを正面から受け止めてくださって、今実際に主イエスの周りで起こっていることに目を向けさせるように、そしてヨハネがそれを聞いて信じるようにと、お答えになりました。そして、そのことが恐らくきっかけになって、主イエスは嘆いておられるのです。
主イエスご自身も、力を尽くして伝道して来られたガリラヤの町々の様子、人々の様子に改めて目を向けられ、そしておっしゃいました。11章16節17節です。「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』」。主イエスが、広場で「ごっこ遊び」をしている子供たちのことを言っておられます。道ゆく人たちに、「結婚式ごっこで、笛を吹くからそこで踊ってよ」とねだるけれど、通り過ぎる大人たちは、それぞれ用事があるので、そんな子供たちに付き合っていられません。子供たちはしばらく笛を吹きますが、今度は気が変わって「お葬式ごっこ」をしようと言い出して、弔いの歌を歌い始めます。人々がそれに戸惑っていると、今度は「泣いてくれない、悲しんでくれない」と言って怒るのです。そのように、子供たちは常に自分の気持ちによって思いがくるくる変わる、移り気なところがあるとおっしゃっているのですが、今の時代のガリラヤの人たちも同じだと言っておられるのです。洗礼者ヨハネがやって来て人々に悔い改めを促すと、大方の人たちはヨハネの禁欲的な暮らしを見て「あんな暮らしはとても無理だ。普通の人はあんなふうにはなれない。あれは悪霊に取り憑かれている人のやっていることだ。悪霊に取り憑かれた人が社会の中でやっていけないように、ヨハネも他の人たちと一緒には過ごせないから、ヨルダン川沿いの荒地に退いて孤独に暮らしているのだ」と言って、ヨハネの言葉に耳を傾けようとしない。その後には主イエスが現れて、禁欲生活ではなく普通の暮らしをしながら人々と交わり、その中でやはり「神の方を向きなさい。悔い改めなさい」と勧めると、今度は大方の人たちは、主イエスの暮らしぶりを見ながら、「あれは大食漢の大酒飲みで、罪人と変わらない生活をしているから、あんな人の語る勧めに従う必要はない」と言って主イエスを侮り、悔改めようとしない。このようにガリラヤの人たちは、ヨハネの招きにも主イエスの招きにも耳を貸そうとしませんでした。そのことを、今日のところで主イエスは叱っておられるのです。
「コラジン、ベトサイダ、カファルナウム」という町の名前が出て来ますが、それらの町を一つ一つ挙げながら、人々がヨハネの言葉にも主イエスの言葉にも耳を傾けようとしないで、広場で遊んでいる子供たちが自分の思いに付き合ってほしいとねだって付き合ってくれない周りを責めているみたいに、不平ばかり言いながら、自分の思い通りに少しも変わらない暮らしをしていることを、主イエスは嘆き、叱っておられるのです。
けれども、大方のガリラヤの人々がそのようであった中で、ごく一部だけ主イエスの言葉に耳を傾けて、主イエスを信じて弟子になった人たちも現れています。それは数の上では少数者に止まりますが、しかし主イエスはそのことを心から喜び、感謝して神を讃め称えておられる言葉が、叱る言葉に続いています。そしてその中で、どのようにして人々が弟子になっていったのか、どういう人たちが弟子になったのかを語っておられます。このことについて、まず一言申し上げますと、賢い人や知恵のある人たちではなくて、幼子のような人たちが主イエスの弟子になったのだとおっしゃっています。25節26節に「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました』」。主イエスは一方で、ヨハネや主イエスの言葉に耳を傾けない町々村々があることを嘆かれました。しかしその一方で、ごく僅かでも主イエスの言葉に耳を傾けて、その言葉を信じて生き方の向きを変えた人たちを、「幼子のような者たちだ」と言って、大変喜んでくださったのです。
ですから今日のところは、前半と後半で、主イエスの言葉を聞いても悔い改めず通り過ぎてしまった大方の人たちへの嘆きと、そのような中で主イエスの言葉を聞いて受け止め信じた人たちへの喜びと感謝とが、大変対照的に記されています。このように両方のことが語られた後に、最後の締めくくりとして、28節29節の言葉が語られるのです。恐らく、今日の聖書箇所で始めの方の言葉を聞いて暗い気持ちになった方も、28節以降の言葉を聞いて少し嬉しい気持ちになったという方もおられるでしょう。28節に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とあります。
主イエスは、「だれでもわたしのもとに来るがよい。休ませてあげるから」とおっしゃいます。「だれでも」ですから、どんな人でも招かれているのです。だれもが招かれているこの「休み」とは、一体どういうものなのでしょうか。原文で読みますと、一般的に私たちが理解している「休息を与える」というこことは違う意味が込められているようです。この言葉は「休む」とも訳せるのですが、第一の意味は「爽やかにする、清々しくする」あるいは「元気づける」です。そういう意味だと思ってここを読み返してみますと、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。あなたを元気づけて、清々しい気持ちにしてあげよう」とおっしゃっていることになります。様々な事柄に疲れくたびれている、そういう人たちをホッとした思いにさせて、元気を出させてくださるというのです。ですからこれは、ただ単に「休息する、休む」ということとは違うのです。「元気づける、爽やかにする、清々しい思いにする」、それは確かに慰めのある言葉だと思います。例えて言うならば、荷崩れを起こして手の施しようがないと思って途方に暮れている人に、「もう一度あなたの荷物をきちんと積み直しましょう。あなたがまた運んで行けるようにしましょう」と言ってくれて、そして実際に一緒にその荷物を積み直してくれるような、そんな慰めがあると思います。
ただ字面を追って「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と読みますと、私たちは、「休んでいるうちに疲れが取れて、重荷もなくなっていくのではないか」と思いがちですが、そうではないのです。「元気づける、爽やかにする」という言葉で言われていることは、必ずしも、それまでその人を圧迫している重荷がすっかり取れて無くなる、という話ではありません。世界が自分にとって都合よく安楽で楽しいばかりの場所に変わるということではありません。そうではなく、私たちを取り囲んでいる事情がどんなに深刻であっても、また世界がこれまでと少しも変わらないようであったとしても、それでもその中にあって、「あなたを元気づけてあげよう。あなたを爽やかにして、もう一度、その重荷を背負えるようにしてあげよう」と、主イエスはおっしゃっているのです。それが「あなたに休みを与えよう」ということです。
ですから、ここで主イエスがおっしゃっていることは、「あなたに真の平安を与える。そして、今与えられているあなたの命を、本当に生き生きと生きて行けるようにしてあげよう」ということが語られているのです。そして、「神が私たちに力を与えて、命をもう一度生きることができるようにしてくださる」という主張は、聖書全体が私たちに語りかけてくれている主張です。聖書の根本にある、基本的な生活体験だと言って良いと思います。そしてそれは、主イエス・キリストというお方に深く結びついているのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」、つまり主イエスは「あなたに平安を与えよう。あなたを力づけ、ここからもう一度生きる者として立たせてあげよう。わたしのもとに来なさい」とおっしゃるのです。
さて、それならば当然問題になるのは、「慰めと平安をあなたに与える」とおっしゃる「主イエス・キリストとは、どういうお方か」ということでしょう。また、主イエスから平安と力を新たに与えられて生きる人たちとは、どういう類の人たちなのでしょうか。そのことを考えるために、もう一度主イエスに従うことになった弟子たちのことを考えてみたいのです。
25節に「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました』」とあります。「これらのことを」というのは、「主イエスがこの世に来られたことによってもたらされた一切のこと」を表しています。つまり、主イエスが神のもとからおいでになった方として、この世の人々と親しく交わってくださったこと、特に罪人や徴税人や遊女たちと言われて人々から除け者にされていた人たちと交わりを共にしてくださったこと。また、主イエスご自身は十字架までの道のりを歩まれ、私たち人間の罪の贖いのために十字架に架けられ御業を成し遂げてくださったこと。さらには、ここに述べられているように、主イエスの御言葉に聞いて信じようとする人たちに真実の平安を与えてくださること。こういう一切合切を「これらのこと」とおっしゃっています。
ところが、このように主イエスがこの世においでになったことでもたらされたことが「知恵ある者や賢い者には隠されている」と言われています。「知恵ある者や賢い者」とは、どういう人たちのことでしょうか。いわゆる文化水準の高い人でしょうか。学歴や教養のある人たちでしょうか。そうではないと思います。ここで主イエスが考えておられるのは、自分は多くを知っていると自認している人たちのことです。つまり、自分自身の優れた知識を誇って、あらゆる出来事について自分はよく分かっている、もちろん自分自身のことも正しく判断できると思っている、そういう人がここで言う「知恵ある者や賢い者」です。物事の道理を自分はよくわきまえていると思っている人は、実はしばしば、事柄の本当の認識に辿り着く上では、多くの妨げがある、また妨げを自分で生み出してしまうことがあります。自分の考え方、自分の理性で全てを割り切れると考える人には、主イエスによってもたらされている本当の秘義というものが理解できないのです。隠されたままに終わってしまいます。
ところが、それに対して「幼子のような者」には、それが分かると言うのです。「幼子のような者」と言うのは年齢のことではありません。これはなかなか言葉を見つけるのが難しいのですが、「未熟な者」と言ってもよいかもしれません。「未熟な者」だと自分で自分のことを思っている人は、まだ一切のことについて、自分で責任を持てないと思っています。むしろ、様々な場面で周りからの保護を必要とし、自分を弁護し守ってくれる人たちを必要としています。
ここで「幼子」と訳されている言葉は、時には「純真な者、素直な者」と訳されます。つまり、心が平らで下心がなく自分は未熟だと思っているので、だからこそ、本当に喜びを持ち、愛を持って周りの人たちにも仕えることができる人、それが「幼子のような人」なのです。
「わたしは理性で何でも分かる」と思っている人と「わたしは未熟だ」と思っている人の間に、どんな違いがあるのかというと、恐らくそれは「愛の有無」だろうと思います。「わたしは理性で何でも分かる」と思っている人は、愛ゆえに様々なことが起こるということが分かりません。自分の力で何でもできると思っている人は、「愛されている」ということが分からないのです。けれども実際には、私たち一人一人は、決して愛されないで育ってきたわけでもなく、愛されないで生きていられるわけではありません。ですから、一人一人愛を受けたことを知り、幼子のように平らな思いになって、「愛して生きよう」としなければ、その人には愛の事柄が分からないのです。
愛の事柄が分かる人は、実は、主イエスと神との間にある深いつながりも分かるのです。「主イエスを通して、神が私たちを愛そうとしてくださっている」という神の慈しみも分かるのです。神と主イエスの間に深い関係が成り立っているということを、主イエスは27節で「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とおっしゃっています。一方を知る人は、もう一方を知ることになると、ここに言われています。主イエスという方を知る、そのことによって私たちは、主イエスの中に父なる神の愛を見出すようになるのです。
逆に、主イエスの中に神を見出し、神の愛を見つけようとするのでなければ、私たちは神の愛を知ることができないし、主イエスを知ったことにもならないのです。たとえどんなに人間の側が人間の理性で聖書の言葉をあれこれ説明して「わたしは主イエスのことを分かっている」と主張したとしても、「主イエスの前に平らにへりくだって、神の愛を主イエスから知らせていただく。そして、神の威厳を認めて主イエスの前にひれ伏す」のでないならば、主イエスのことは結局分からずじまいになってしまうのです。
父なる神は、この世界をすべてお造りになりました。そして、この世界の至る所に、さまざまな力を宿らせておられます。私たちは毎日、その神の力によって支えられて、生きていることができます。例えば、私たちは気づかないことですが、当たり前のように胸の中には心臓が鼓動し、眠っている間も呼吸は止まりません。私たちがしようとしてそうなっているのではなく、神が私たちの体にそういう力を宿らせ、私たちが生きるようにと支えてくださっているのです。けれども、そのように神が私たちを愛してくださっているということは、私たちがただ、息の続く体を持っているから分かるということではありません。神がどんなに深く一人一人のことを配慮してくださっているか、どんなに深く覚えてくださっているか、そのことは、主イエス・キリストを通してしか知ることはできないのです。
もし、主イエスによって現された恵みの出来事を知らないならば、私たちは神から与えられている全ての恵みを当たり前のこととして通り過ぎて行ってしまうことになります。あるいは神が創造の御業によって、私たちに、あるいはこの世界のさまざまな所に力を宿らせ働いてくださっていることを賛美し、喜ぶのでないならば、主イエスによって行われた贖いの業も分からないまま終わるのです。
父と子の間に、そういう隠れた関わりがあるのだということは、私たちが人間の理性で説明したり証明することではありません。そうではなくて、主イエスが「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とおっしゃっている通り、「主イエスから聞いて信じる」以外には、神がおられて私たちを支えてくださるのだということを受け取ることはできないのです。「幼子のように主イエスを愛する人。神の御業を平らに受けることができる、愛することができる人」だけが、神の御言葉に耳を傾け、御言葉から力と勇気を与えられることができます。そしてそれが、「神の御心に適うこと」なのです。26節に「そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と言われている通りです。
最後に、考えてみたいことがあります。主イエスは「誰でも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いてくださいます。けれども、このように主イエスが招いてくださるということは、重荷を負って苦労しているけれども主イエスのもとに行こうとしない人がいるということなのでしょうか。その通りなのです。重荷を背負って悩んでいる、そういう人が直ちに、全て、主イエスのもとに行くと決まっているわけではないのです。
重荷を背負いながら主イエスのもとに向かって行く人というのは、自分が重荷を背負い込まされて大変だと不平を言うような人たちではありません。「わたしが苦しく大変なのは、周囲のせいだ。わたしは何も悪くなかったのに、周りのせいで重荷を負わされたのだ」と思っている人たちは、実は、主イエスの方へ歩いて行くことはできません。どうしてでしょうか。主イエスはそういうあり方とは全く逆の方向におられるからです。
主イエスがもしも、十字架へ向かって歩む道のりで常に不平を言っていたのなら、自分の重荷は周囲のせいだと言っている人たちは主イエスと同じ方向を向いていると言えると思います。主イエスがもしも、文句ばかり言いながら、仕方ないと言いながら十字架に向かって行かれたのなら、私たちも「わたしの重荷は自分のせいではないのに、ひどい目に遭わされている」と不満を言いながらついて行くことでしょう。
けれども主イエスは、人生の歩き方の向きからすると、不平を人に向けるというのとは全く逆の方向に向かって歩んでおられるのです。他の人たちが不満や憤りや諍いを起こしながら生きて行く、それを全てご自身の側に引き受けて歩んで行かれるのです。ですから、「主イエスの方に向かって行く」ということは、「私たちが与えられているそれぞれの生活の重荷を自分のものとして受け止め、それが大変だと思ってもきちっと抱えていく」、そういう生き方になるだろうと思います。そういう時には、自分自身は本当に重くて大変だという思いをしながら生きて行くことになるのだと思います。周囲の状況が悪い、不愉快だと不平を言うのではなく、「自分の重荷だと思って自分の人生を背負って行く人」、そういう人が、ここで「重荷を負って主イエスのもとに向かって行く人」になるのです。
そして、そういう人たちには、主イエスが側近くにいて御言葉を聞かせてくださるのです。29節、30節で主イエスは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われました。「わたしの軛を負いなさい」と、主イエスは言われます。不平を言いたがる人は、「また軛を負わされるのか」と文句を言うわけですが、しかし「軛」というものは、元来、荷物を重くするためにつける道具ではありません。動物たちにつけられる軛は、重い荷物を軽く引くことができるようにつけられる道具です。軛の助けを借りて、普通ならとても担げないような分量の荷物を軽々と持って行くのです。
しかもその軛は「あなたの軛を負え」というのではありません。主イエスが「わたしの軛を負え」とおっしゃるのですから、「主イエスが一緒についていてくださっている軛」です。ここで主イエスがイメージしておられる軛は、一頭立ての馬車ではなく二頭立てです。「わたしが一方の軛を負ってあげる。あなたの人生を軽くするために一緒に歩んであげるから、あなたは、あなたの荷物をその軛で背負い直して歩んで行くがよい」とおっしゃってくださるのです。
主イエスがおっしゃっている「軛」は、別の言葉で言えば「愛」という軛です。使徒パウロは、彼自身も負っていた軛について、コリントの信徒への手紙一13章で語っています。ここはずっと「愛」について語っているところですが、「愛」について7節では「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と言っています。
「愛とは、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えるものである。こういう軛をあなたは背負って生きなさい。わたしもその軛を背負っているよ」と主イエスはおっしゃってくださっているのです。
十字架と甦りの主イエスが、私たちと共に、それぞれの人生の重荷の軛を背負ってくださいます。そしてそれゆえに、私たちの重荷は軽くされるのです。これこそが「あなたたちを休ませてあげよう」と主イエスがおっしゃっている「休息」の秘密です。
聖書が語っている福音は、愛の軛によって重荷を背負って行くことを教えます。そして、愛によって生きようとする人によって荷物が軽くされ、主イエスが共に歩んでくださる中で、私たちが生きることができるのだと語りかけられています。私たちは、そのような軛を負って生きるようにと、主イエスから招かれています。 |