ただ今、マタイによる福音書2章13節から23節までを、ご一緒にお聞きしました。始まりの13節の御言葉をお聞きします。「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』」。
最初のクリスマスの出来事を伝える、その直後に、大変血なまぐさい出来事が、ここに語られています。当時ユダヤを治めていたヘロデ王が、まだ生まれたばかりの乳飲み子である主イエスを何としても探し出し、殺そうとしたというのです。これは何を物語っているのでしょうか。主イエスがお生まれになった時代にユダヤを治めていたヘロデという人物の異常さを伝えようとしているのでしょうか。卑しくも一国の王である者が、生まれたばかりの幼な子を恐れるということは、誰が考えても馬鹿げたことに違いありません。生まれたばかりの乳飲み子がすぐに王に対抗できる筈はないからです。
広く知られているように、主イエスがお生まれになったのは、ヘロデ王の治世では最晩年に当たります。主イエス誕生の遅くとも2、3年のうちに、ヘロデは世を去ります。ヘロデにしてみれば、自分の余命を分かっていたはずです。それなのにどうして、ヘロデは幼な子を恐れるのでしょうか。今日の記事が伝えていることは、ヘロデの異常性なのか。確かにヘロデの振る舞いが常軌を逸していると言うことはできるでしょう。ヘロデの激しい迫害は主イエスを殺すだけでは足りず、主イエスを見つけるために、2歳以下の男の子を皆巻き込んで殺してしまっている、そのような出来事を私たちは印象深くこの箇所から聞くのです。けれども、よく考えてみて、そんなことを伝えるためにマタイはこの記事を語っているのか、そうではないだろうと思います。
ある人の説明によると、主イエスが命の危険にさらされエジプトに逃れたこの時、主イエスは生まれたばかりの赤ちゃんですから、大人が片手で力を入れて持てば、その命を簡単に失ってしまう、それほどに頼りない存在であった。今日の記事は、ヘロデの異常さを伝えようとしているのではなく、本当に弱い、はかない赤ん坊を守って片時もその傍らを離れることなく、自分の仕事も生活も全てを投げ打って、父ヨセフと母マリアが幼な子に寄り添っている、それこそが話の中心であると言っています。一度読んだだけでは、そこまで読み取ることは難しいかもしれません。けれども、どうしてこのような出来事がここに書かれているのだろうかと考えながら読むうちに、確かにそのように示されていると読み取ることができるのではないでしょうか。
今日の箇所はヘロデの異常性を非難するところにあるのではなく、思いがけない危険の中にあっても、父ヨセフと母マリアが懸命にこの命を守り抜こうとしている、そのことによって、この幼な子は生きながらえることができたのだということを語っていると聞くことができると思います。
しかし、この記事がそういう記事だと思って読みますと、私たちは、この箇所から一つの問いかけを受けるということになります。ヨセフとマリアが幼な子の命を守ろうとして片時も離れず寄り添っている、そういう姿を見せられるときに、私たちは、「では、あなたはどうなのですか」と問われるのです。主イエスがおいでになって、「主イエスが共にいてくださる人生を生きて良いのだよ」という福音を、私たちは聖書から聞かされています。けれども、私たちはその主イエスをどれだけ大事にしているだろうかということが、私たちに対して問いかけられるのです。
私たちは、どこか安穏としたところがあります。今日の日曜日に、様々な事情によって教会に行けない。特に大晦日だからというわけではありませんが、忙しくて来られなかったという方も大勢いると思います。幸いにして来ることのできた私たちであっても、一年間、毎週毎週礼拝のために時を空けられるとは限らないのです。様々な事情によって礼拝を欠席するということはあるのです。そういう時に、私たちはどこかで、今日はダメでも来週があるという思いがあるのではないでしょうか。教会は逃げないと思って、安心しているようなところがあると思います。
今日礼拝に行って御言葉の中におられる主イエスにしっかり寄り添っていなければ、来週には取り去られてしまうなどということを、殆ど私たちは考えません。そういう意味で私たちは、ヨセフやマリアより大分呑気なところがあると言って差し支えないのではないかと思います。本当に主イエスと共に歩んでいけるかどうかということは、ヘロデのような暴君が君臨していないとしても、私たちには危ういところがあると思います。主イエスも教会も、いつでもいてくれると思っている間に、いつの間にか私たちは、自分の生活の方が忙しくなってしまって、気付いた時には、主イエスを忘れてしまっている時間が長くなっているということが有り得るのです。
ですから、今日の記事は、自分の仕事も生活も投げ打って、住んでいた家からも離れて、ともかく幼な子イエスの命を守るために、主イエスと共にいるために、ヨセフとマリヤが主イエスに付き従っている、そういう姿を見せられるところから、「では、私たち自身の気構えはどうなのか」という問いを突きつけられていくという記事だと言えると思います。
さて、ヨセフとマリアは懸命に幼な子の命を守ろうとしましたが、どのようにして守ったのでしょうか。注目すべきことだと思うのですが、ここでは父ヨセフが主導的に動いています。幼な子イエスとマリアを引き連れて方々を歩くのですが、その際にヨセフは、天使が夢で告げてくれたことに従って行動していきます。しかし、幼な子を守るためには自分がしっかりしなければならないと、ヨセフ自身がアンテナを張り巡らして、場所を探して行動しているのではありません。そもそもヨセフは、幼な子に大きな危険が迫っていることすら、自分で気づくことはできていないようです。天使が告げてくれたので、エジプトに逃げることができたと語られています。13節を見ると、「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った」とありますから、ヨセフは夢を見ていたわけで、寝ていたのです。幼な子に重大な命の危険が迫っているにもかかわらず、父ヨセフは気づかずに、ベツレヘムの家の中で眠っていました。その夢の中に天使が現れて告げてくれたので、気付いたのです。
ヘロデは、生まれたばかりの神の独り子に手を伸ばして命を取ろうとします。この独り子を通して世界と繋がろうとしてくださる神の御業の邪魔をして、幼な子の息の根を止めようとするのです。ヨセフは懸命に幼な子を守ろうとしましたが、しかし、この箇所が語っていることは、どんなに我が子を深く愛し守ろうとしていても、結局、命に関する事柄について、私たち人間は決定的なことを知ることも行うこともできない、ということだろうと思います。
ヨセフはもちろん、ヘロデの企てを止めるとこはできません。危険がどこに潜んでいるのか察知して、それを防ぐ手立てを講じることもできません。けれども、それはヨセフの父としての愛情や能力が不足しているためだということではありません。私たち人間は、命を脅かそうとする死の勢力に対しては、もとより無力であることを、この箇所は語っています。
ヨセフに限らず、私たちは身近なところで死の出来事を感じ取る時に、自分にとって大切な人を、ほんのひと時でも長く自分の傍に引きとどめたいと願います。少しでも長く、そしてできれば苦しませないで、少しでも健やかな状態で自分たちの元に引きとどめたいと願いながら、愛する者の最後の道行きに寄り添うようなところがあります。ところが、そういう私たちの願いなど全くお構いなく、どこからともなく死に出来事が忍び込んでくるのです。そして、あっという間に、私たちの大切な人を奪い去っていきます。死というものがどういう仕方で私たちを訪れ、私たちの命を奪っていくのかについて、私たちはとうとう知ることはできません。不可解なままです。
ヘロデの命令を受けた兵卒たちが突然家の中に踏み込んできて、幼な子の命を奪おうとしたことに対して、ヨセフは全く、その時を予測できませんでした。ヨセフだけではなく、この時、ベツレヘムの町の中や近在に暮らしていて、2歳以下の男の子を育てていた家庭の家族たちは、皆同じ思いをしました。死の力を何とか防ぎたいと思うけれど、本当に無力だということを、身に沁みて思わされたのです。私たちは、何時どこで命が奪い去られるかが分からないままに、本当にハラハラし、そのために心が暗くなる、重い気持ちを抱えながら、無力であることの前に佇む他ありません。
ところが、私たちには予測はつきませんが、神には、その死がどこからやって来て、その死からどのように守ったら良いのかが分かっておられます。神はここでヨセフに命じて、「あなたは幼な子をエジプトに連れて行くのだ」と言われました。天使を通じて語りかけることを通して、ヨセフとマリアの家庭に生まれた幼な子の命を守ってくださったのです。
実は、こんなことを聞かされると驚くかもしれませんが、ここにいる私たち一人一人もそうなのです。私たちは生まれてから今まで、一度も死んだことがありません。当たり前ですが、生き続けて今日を迎えています。けれども私たちは、もしかすると、常に死と遠いところを歩んでいたとは限らないかもしれません。自分では気づきませんが、本当に紙一重のところで命が終わっているという瞬間があったかもしれません。夜には何事もなく床に着く、しかし朝になったら息が絶えている、そういう人がいることを時折耳にします。それがこの「わたし」でなかったのは何故なのか、分からないのです。私たちは、夜寝れば朝には必ず起きる、今生きているから、次の瞬間も生きていると、何の根拠もなく信じています。しかし実は、私たちの命は産まれてからこの方、いっときも休まず神が守り支えてくださっているので、今ここで生きているのです。私たちは普段、自分の命が死と隣り合ったところにあるとは、なかなか感じられないかもしれません。けれども、実態はまさにそうなのです。私たちの命は、例外なく、この命の中に死を宿しています。ですから私たちは、何時か必ず死ぬのです。死を宿していない命を生きている人は、どこにもいません。ヘロデから遣わされて来た兵士が突然踏み込んで来て、大事な息子の命を奪っていったみたいに、私たちの命も、急に奪われるということが絶対に無いとは言えないのです。死の力に対して私たちが無力だということは、真に残念なことですが、しかし認めないわけにはいきません。
人間は死の力の前に無力ですが、しかし神は違います。神は天使をヨセフの許に遣わして、夢の中で語りかけてくださるのです。そして、ヨセフはその語りかけに忠実に従いました。そうやって間一髪のところで、大事な幼な子の命を永らえることが赦されたのです。
この出来事について、聖書は、旧約聖書のモーセの出エジプトの出来事になぞらえて、例えて説明しています。つまり、エジプトでの奴隷生活を余儀なくされて、すっかり行き詰まっていたイスラエルの人たちが、モーセによってエジプトから導き出された時、神に守られて海の中を進んで生きながらえることができたということと、幼な子イエスがエジプトへ逃がされた出来事と似通ったところがあると語ります。14節15節に「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。
出エジプトしたイスラエルの民は、葦の海のほとりでエジプトの軍隊に追いつかれてしまいます。後ろからは剣を振りかざした軍隊、行く手には海が道を塞ぎ、奴隷暮らしからの解放を喜んだのも束の間、絶体絶命に思えるのです。ところが、そこに神は道を開いてくださって、イスラエルの民の命を永らえさせてくださいました。丁度それと同じことが、ヨセフとマリアの家庭に起こったと聖書は語ります。ヘロデが遣わした兵隊がベツレヘムとその周辺に住む2歳以下の男の子を皆殺しにしようとした、そういう中から、主イエスは神によって救い出され導き出されました。
ところで、神がそうなさったのは、どうしてでしょうか。幼子があまりにも愛らしく愛おしかったので、その命が失われるのを残念がったということではありません。あるいは幼な子が劔に刺し貫かれることはあまりに忍びないからという理由でもありません。ここで救い出された幼な子は、やがて十字架の上に釘付けられ、脇腹を槍で刺されるという時がやって来ます。神はなぜ、この日、この幼な子を守られたのか。大変残酷に聞こえるかもしれませんが、この幼な子はやがて、釘で打たれ槍で刺されて失血死をしていく、そういう生涯を送ることになります。もし神が、この幼な子をただ安らかに守ろうとなさっただけであったなら、この子はずっとエジプトに留まり一生をエジプトで過ごすこともできたに違いありません。しかし実際にはそうなりませんでした。ヘロデ大王が亡くなると、この幼な子はユダヤに連れ戻されます。
神のご計画はどこにあるのか。「この幼な子がイスラエルの人たちの只中に生きて、神の憐れみと慈しみを告げ知らせる、そういう役割を果たす」、そのことに神はこの幼な子の一生の意味を置いておられるのです。そしてまさにこの点が、この幼な子が、他のどの赤ん坊とも違っている独特な点なのです。
私たちは普段、主に聖書を読んでいますから、この話は主イエスの話として親しんでいるのですが、西洋古典の研究者たちは、このような話は他にもあると言っています。共和制ローマを最初に開いたロムルスとレムスという双子の兄弟の伝説があります。この双子は生まれてすぐ、時の王から命を狙われたために川に流され、それを雌の狼が拾って育てたという伝説です。あるいは、ローマ帝国の始まりになったのは皇帝アウグストゥスで、主イエス誕生の時の皇帝ですが、彼も幼い時に命を狙われ、危ないところで救われ命を永らえて皇帝になったという伝説があります。西洋古典の学者たちは、そういう伝説があることを数え上げて、主イエスのこの話もこれらと同列の伝説なのだと語ります。確かに、似たような話だと聞こえないこともありません。
けれどもしかし、実は、決定的に違う点があるのです。それは何か。ロムルスにしてもアウグストゥスにしても、彼らは自分が王になり、権力者になって自分が力を振るっていく、英雄になっていく、そういう人たちの幼い日々に危険があったという話です。けれども主イエスは違います。主イエスは周囲の人たちに仕えさせ、従わせるのではなく、「ご自身が仕える者になり、そして命を捧げる」そういう方になって行った、その始まりに命の危険があったと伝えているのです。
幼い時には命を狙われることもあったけれども、成長してからはもうそんなことはない、これは英雄物語として分かりやすい構図だと思います。ところが、聖書の語る「主イエスのヘロデによる命の危険」というのは、「主イエスがやがて劔で刺し貫かれ命を落としていくことになる」ことを最初から伝えているのです。これはマタイによる福音書が伝えているだけではなく、ルカによる福音書では、女預言者アンナが母マリアに向かって「あなた自身も、やがて心を刺し貫かれることになる。多くの人々の心の内にある思いが露わになるためだ」と、主イエスがやがて十字架に架けられお亡くなりになるということを語っています。マタイでは、ヘロデが命を脅かしたという言い方で語られているのです。
そしてそのことを改めて確認するかのように、主イエスがエジプトから戻って来てから、ガリラヤのナザレで生活するようになってナザレ人と呼ばれるようになったという経緯が、今日の最後のところに語られています。23節「ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」。マタイによる福音書にこう書いてありますから、旧約聖書のどこかに「救い主はナザレの人である」とか「救いはナザレから来る」というようなことが書いてあると思いつつ聞くかもしれません。ところが、旧約聖書にはどこにもそういう言葉は出てこないそうです。ナザレについては「異邦人のガリラヤ」と旧約聖書に出てきます。つまりナザレを含むガリラヤ地方は、ユダヤの人の町ではなく、サマリアの人が混ざり合っている異邦人の国だから、そんなところから救いが来るはずはないと書かれているのです。
ですから、新約聖書のヨハネによる福音書を読んでいますと、「もしかしたら、イエスさまは救い主ではないか」と思った人に対して、周りの律法学者やファリサイ人たちが「あなたは聖書を読んだことがないのか。ナザレからどんな良い者がでるか」と言う場面が出てきます。普通に考えれば、ナザレは「そんなところから救いが来るはずはない」と思われていた地名です。
では、「彼はナザレの人と呼ばれる」と預言者たちが言っていたというのはどういうことなのでしょうか。どこの箇所なのか丹念に探してみますと、「ナザレ」という言葉ではありませんが、ヘブライ語で大変良く似た言葉が出てくる箇所があるのです。ヘブライ語で言うと「ネーツェル」ですが、それをヘブライ語の文字に書き表すとナザレと同じ字になります。ヘブライ語には母音がなく子音だけで書かれていて、子音だけを見て母音を当てはめながら読むのがヘブライ語です。日本語が外国人から難しいと言われるのと似ていて、私たちは漢字とカタカナが混じっていて、例えば漢字の「口」とカタカナの「ロ」を読み分けられますが、外国の方には難しいのです。ヘブライ語もそうで、ヘブライ語を読む人は子音だけを見ても読めるのです。
「ナザレ」と「ネーツェル」は同じ表記ですが、「ネーツェル」の意味は「若枝」を表す言葉です。イザヤ書の11章1節、待降節によく読まれる箇所ですが、そこに「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち」と出てきます。この「若枝」が「ネーツェル」です。そして字で書くと「ナザレ」と読めるのです。ですから、「エッサイの株からひとつの芽が出て、ナザレの人が育つ」と読めなくはないのです。
そしてイザヤ書では、この箇所と関わって「若枝」と時々出てくるのですが、主イエスの御業と関わって大変重要になって来るのは、53章1節2節です。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない」とあります。ここにまた「若枝」という言葉が出てきます。「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝」です。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでた」と11章に言われていましたが、その若枝は「乾いた地に育つ」とあります。つまり、水気のないところで懸命に生き永らえようとして根を張っていくというのです。そして、この「若枝」が「ナザレの人」だというのです。「主イエスがナザレ人と言われるようになる」ということは、「主イエスが若枝の人と呼ばれるようになる」と言っているということです。
つまり、主イエスはヘロデの迫害からは命を救われましたが、それはエジプトで大切に扱われて幸せに暮らすためではありませんでした。水気のない土地から生え出た若枝のように、苦労しながら育っていく若枝のように命を助けられたのだと、このマタイによる福音書2章は語っているのです。ヘロデの手から救い出されたのは、主イエスご自身の幸福のためではなく、もう一度エジプトからユダヤに連れ戻されて、文字通り、イザヤの預言した若枝のようになるためだったと言われているのです。
今、イザヤ書53章の話をしましたが、ここは大変有名な箇所ですから、その後のことを思い出される方もおられることでしょう。53章の続きを読んでいきますと、主イエスの十字架の意味を表すような言葉が続けて出てくるのです。53章4節5節には「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。この時、命を助けられた幼な子イエスは、やがて十字架に上げられ磔にされていきます。そしてそこで、私たちの罪と咎をすべて処理して、そして私たちの「神に背いたあり方」を清算してくださるのです。
キリストが十字架に架けられたことを、その時代の人たちは主イエスご自身の問題だと思いましたから、誰も同情しないで、十字架の下で囃し立てました。「あの人は自分の人生に失敗した。あんなバカな生き方をしたから、こんな惨めな死に方をするのだ」と主イエスを侮りました。けれども私たちは、そうではないことを聞かされています。主イエスの十字架は、ここにいる私たちのためであり、主イエスが私たちのために苦しんでくださっているのです。私たちが神の前に「清らかな者」とされるために、主イエスは苦しんでくださっているのです。主イエスが十字架に架かられたその苦しみを目の当たりにして、当時の人々は「それはイエス自身の問題だ」と思いました。けれども、そうではなく、十字架の出来事は、ここにいる私たちが信じるならば、それは私たちのための出来事だったのだと、イザヤは伝えているのです。
そして、そういう御業を将来行うことになる幼な子なので、神はこの子を「十字架に向かう方」として、一時エジプトに保護されたのだということが、今日のマタイによる福音書が伝えていることです。
今日の箇所からどんなことが聴こえてくるのでしょうか。「この世は決して楽園のような過ごしやすい場所ではなくて、悲しみや不条理に満ちている。生まれて来なければ良かったと言われるような世界に、赤ん坊は生まれるものなのだ」と言っているのでしょうか。確かに、そういうことは言えるかもしれません。ヘロデの迫害を通して、何も悪いことなどしていないのに赤ん坊の命が狙われる、この世界はそんな世界だったとマタイによる福音書は語りますが、ここにいる私たちであっても、そうかもしれません。生まれてきた時に迫害されなくても、生きている中で不当な扱いを受けたり、謂れのない差別や憎しみの中で辛く悲しい思いをして生きるということも有り得るのです。そういうことがヘロデの迫害を通して語られています。
けれども、それだけではないのです。そういう世界だけれど、神はその世界に生きている一人一人を本当に大事に考えていてくださって、その人に与えられている命が、この世の不条理や悲しみによって覆い尽くされ押し流されていかないようにする、「あなたの命は、わたしが与えたものなのだ。あなたを通して、この世界は生きても良い場所なのだと現すために、あなたに命が与えられているのだ」ということをはっきりさせるために、神は主イエスを与えてくださっているのです。
主イエスがどうして生まれた時から命を脅かされ、やがて十字架に向かっていかなければならなかったのか、それは、ここにいる私たち一人一人がそういう世界に生まれているからでもあるのです。主イエスが無実の罪を着せられて命を失って行った、それは、私たちにもあり得ることでもあります。ですが、そういう中で、「だから、こういう世界はもう無い方が良い。なるがままに不機嫌に、周りの人を傷つけてもよいのだ」、そういう世界になるのではなく、「それでもあなたは、わたしが愛している本当に大切な存在なのだし、そういう者として生きてよいのだ」と知らせてくださる、そのために、主イエスが十字架に架かって、私たちの誰もが取り替えたく無いような目に遭いながら「それでも神に信頼して生きて行ってよいのだよ」と示してくださっているのです。
神が主イエスの十字架を通して、私たちを真実に真剣に扱い、そして私たちが清められ、神に愛されているかけがえのない者としてこの一日一日を過ごし終わりまで歩んで行ってよい、そのことを伝えるために、主イエスがこの世に来てくださって、十字架への道のりを歩んでくださっているのです。
主イエスはヘロデに命を狙われました。けれども、神は主イエスをエジプトへと逃れさせました。それは、もう一度ユダヤに連れ帰られて、「彼はナザレの人と呼ばれるようになる。若枝の人として生きていくようになるのだ」と語られていることを、私たちは今日、聴くべきではないかと思います。
元旦礼拝から始まって、今日が一年の一番最後の日曜日ですが、この一年、私たちには主イエスがずっと伴っていてくださって、神が顧みてくださる中でここまで生きながらえてくることがゆるされました。私たちの群の兄弟姉妹の誰一人として失われることなく、この年を終えようという時を、今歩んでいます。しかしそれは、決して、死が私たちから遠いところにあるからそうだったということではないのです。私たちには、危難が及んでくるということがあったかもしれません。けれども、神が私たちを守って生かしてくださっている、私たちが生きているこの命は、どれほど傍目に弱っているように見えても、それでもなお神が、「今日ここで生きてよい」と言ってくださっている命です。私たちは、その命を終わりまで、たとえ最後は本当に苦しく大変な時を過ごすとしても、その命を感謝して終わりまで生きることを通して、身を以て、この命は生きて良いものなのだということを世界の中に現しながら歩んでいく、そういう命を生かされているのです。
そのことを知らせるために、主イエスは、若枝である方として、この地上においでになったのだということを覚えたいと思います。そして私たちは、この主イエスに教えられながら、私たち自身もまた、自分の命が神によって意味あるものとされていることを覚えながら、来る年に向かって歩んで行きたいと願うのです。 |