ただ今、マタイによる福音書16章1節から12節までを、ご一緒にお聞きしました。その始まりのところ、1節の言葉をもう一度繰り返してお聞きします。「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った」。
マタイによる福音書を最初から聞いて来まして、とうとう16章に入りました。このマタイによる福音書16章は、福音書全体の峠にたとえられる箇所です。山道を歩いていくと、最初はずっと上り調子の道が続きまして、山の向こう側の様子は見えないのですけれども、峠までの道をすっかり登りきりまして、峠の踊り場のようなところ、あるいは馬の鞍の形に似ていることから鞍部と言うようですけれども、その登り道から今度は降ってゆく地点まで辿り着きますと、今まで山の向こう側で見ることのできなかった視界がサアッと広がって、今度は歩んでいく先が、まだ遠くではあるけれども、しかしハッキリと見えるようなことがあります。この16章は、この福音書全体の中でちょうどそんなところだと言われるのです。
即ち、イエス様が救い主としての御業を成し遂げるために歩んでいかれる地上のご生涯の終点には、ゴルゴタの丘の上に十字架が立っているのですけれども、その十字架は、これまでのところでは、ほとんど全くと言って良い程、視野には入って来ていませんでした。勿論、私たちは主イエスの十字架のことも、ご復活のことも知っていますから、説教の中では、主イエスのことを十字架におかかりくださった方なのだと、当然のように申し上げてお話をしてきました。それは言ってみれば、山の向こう側の結末を知っているので、その結末から今の出来事を理解して読んでいるようなことなのでした。
けれども、今や、主イエスの歩みは峠にさしかかります。その一番高いところは来週聞きますけれども、16章13節から20節のところで、ペトロが主イエスのことを「メシアです」と言い表す箇所です。実は主イエスは、弟子たちがこのことを告白するところまで一緒の歩んで来てくださったのです。そして、ペトロたちが主イエスのことを「メシア、救い主です」と告白すると、そこから視界が開けて十字架へと続いてゆく道がハッキリ示されるようになります。16章21節から28節のところで、初めて主イエスのご受難のことが予告されてゆくのです。ここはクリスマスの直前の週の礼拝で聞くことになるだろうと思います。
そんな訳ですから、今日の箇所というのは、峠にさしかかる直前の箇所と言えるような記事です。そして、ここには既に主のご受難を指し示すようなことが起きています。それが先ほど繰り返して聞いた1節に述べられていたことなのです。「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った」ことが述べられていました。
ファリサイ派とサドカイ派が仲良く連れ立って主イエスの許を訪れて来たというのです。これは決して、しょっちゅう見られるような光景ではありません。ファリサイ派とサドカイ派は、どちらもエルサレムの最高法院で勢力を誇り、互いに競い合っていたライバル関係にあった党派です。普段なら、道でばったり出遭っても目を合わせないようにして互いにすれ違うような人々です。そのファリサイ派とサドカイ派が仲良く行動を共にしているのは、どうしてか? それは、どちらの党派にとっても主イエスが目障りだったからに他なりません。そして、やがては彼らが仲良く協力して主イエスを十字架に磔にするのです。ファリサイ派とサドカイ派が一致して、足並みを揃えて行動しているところに主イエスがここから進んでゆく道のりの涯に十字架が立てられていることが暗示されているのです。
さて、このファリサイ派とサドカイ派の人々は、主イエスの許にやって来て、イエス様を「試そうとした」のだと言われています。ここに出てくる「試そうとする」=「試される」という言葉は、この福音書の中で、この後、19章や22章に何回か出てきます。主イエスに敵対する人々が何とかして主イエスをやり込めよう、挙げ足をとってやろうという下心を持って、旧約聖書の律法を解釈する上で難しいと思うような事柄や難問をイエス様に突きつけてゆくところで、主イエスを試そうとして質問したという言い方がされるのですけれども、しかし、この福音書の前のところでも、一箇所、この「試そうとする」「試される」という言葉の使われている箇所があります。それは、4章1節の「荒れ野の誘惑」と呼ばれている出来事のところです。新共同訳の聖書では「試される」と訳さないで「誘惑を受ける」とか「誘惑する者」というふうに、別の言葉に訳しているために、説明されないと気がつけないかもしれません。けれども4章1節と3節に、この「試す」「試される」という言葉が出てくるのです。4章1節、そして3節をお聞きします。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」。
「悪魔から誘惑を受けるため」と訳されているのは、別に訳すなら「悪魔から試されるため」と訳すことができます。また、「誘惑する者が」という言葉も、別に訳すなら「試す者が」と訳することができます。今日の箇所は、あの荒れ野の誘惑の時に、主イエスを様々な仕方で誘惑して、十字架への道から逸らしてしまおうとしたサタンの働きと繋がっている箇所なのです。荒れ野の時には、サタンが自ら誘惑する者となって主イエスに近づき、神様のご計画から主イエスを引き離そうと、あれこれ囁きかけました。今日のところでは、そのサタンは一歩退いて、隠れたところからファリサイ派やサドカイ派の人々を操って主イエスを誘惑し、十字架の道から逸らしてしまおうと働きかけます。誘惑する人々は主イエスのところにやって来て言うのです。「天からのしるしを」どうか私たちに見せてください、それを見たら信じることができるかもしれません、と、そんなふうに願い出ています。
お気づきになった方もいらっしゃるだろうと思います。今日のこの「天からのしるし」を求めるあり方は、実は荒れ野の誘惑の時に、サタンが主イエスの耳に囁いたのと同じ類の言葉です。あの時、荒れ野でサタンは言いました。4章3節後半「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」、また、神殿の屋根の端に主イエスを立たせて、こうも言いました。4章6節「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」。
サタンはあの時、主イエスに向かって、地上の人間たちの前で天からのしるしを行って、その見たところをもって人々が主イエスの不思議な力に驚き、ひれ伏すようになることを勧めたのでした。今日のところに出てくるファリサイ派とサドカイ派の人たちも、まさしく同じことを主イエスに願い求めています。「しるしを見せてください。そうすれば、わたしはあなたを信じるでしょう」と彼らは言います。
けれども、しるしを見せてもらうことによって人間は急に変わるのでしょうか? 主イエスがなさる不思議なしるしを目撃したならば、なるほど、その当座は大変びっくりすることでしょう。でも、それだけです。しるしを見たことで本質的にその人が変わるなんてことは起こりません。私たちが何を見たがるかを考えれば、それは分かると思います。
たとえば、高い山に登って壮大な自然のパノラマを目にすると、確かに私たちは、その時は心を打たれます。高い山の上で夜を過ごし頭の上に天の川が綺麗に見えたりすると、厳粛な気持ちになることもあるでしょう。秋が深まり渓谷に分け入ると、すっかり紅葉した自然に触れて心が洗われたようだったと感想を述べる方もいらっしゃいます。確かに、そういうことはあるだろうと思います。しかしいずれも、そのとき限りです。もし美しい大自然に触れた結果、人の心も清らかになるのであれば、山梨の人は東京の人に比べてずっと心が清く、正しく、まっすぐな人たちばかりになることでしょう。人工的な都市に住んでいる人たちは、心も砂漠のように荒れ果て、邪悪な人たちばかりになることでしょう。実際はどうでしょうか? 東京の方が人口がずっと多いですから、悪さをする人も多くいるように思われるかもしれませんが、正しい人、心のまっすぐな人たちだって沢山いるに違いありません。山梨にだって、我儘な人、自分のことしか考えられず平気で迷惑なことを行う人たちはいるものなのです。目にしたことによって、その人のありようが変わる訳ではありません。主イエスを信じようとしない人は、何を見せられたって、結局、信じないままに終わります。ですから主イエスは、しるしを見せてびっくりさせることで人を集めようとはなさいませんでした。そうではなくて、あくまでも一人ひとりと出会われ、その人と交わって下さる中で、その出会っていただいた一人が主イエスを信じる者となるように導こうとなさったのです。
しるしを求める人々は、しるしが見えなければ信じないと言っているのです。そんな彼らに、もし主イエスが求められた通り、しるしを見せてあげたらどうなるでしょうか。彼らは大いに興奮し、主イエスに興味を示すかもしれません。しかしそれは、主イエスを救いの君として信じるのとは別の動きになってゆきます。しるしを見て、それによって信じた人は、さらに不思議なしるしを見たがるようになります。自分の前に示されたしるしと同じものを見るだけでは満足しなくなるのです。
主イエスが神様の独り子であり、世の救い主であることのしるしは、私たちの前には示されているのでしょうか。私は、この礼拝の中にそれが示されていると思っています。このところに教会が建てられ、日曜日ごとに礼拝がささげられ、ここに大勢の人たちが集まります。
世の中の人は不思議がるのです。何でせっかく仕事が休みの日に、好きこのんで教会なんかに出かけるのか? 家で遅くまで寝ていても良いし、近所の喫茶店にでも出かけて友人とゆっくり過ごしても良い。趣味のことをやったって良いのに、どうしてキリスト者たちは日曜日が来ると教会へ行くのか? 動員をかけられてエキストラで参加するなら、幾らかアルバイト料が出そうなのに、逆に献金を持って自分から出かけてゆくのは何とも不思議だと言って、首をかしげるのです。
しかしキリスト者自身にとっては、それは不思議でも何でもありません。私たちに力と命と慰めと勇気を与えて下さる主がおられるから、ここにやって来ます。主イエスを救い主と信じて、ここにやって来るのです。そしてそれが、主が確かに救い主であることのしるしなのです。しるしは、実はファリサイ派の人たち、サドカイ派の人たちの目の前に示されていました。主イエスその方がここにおられ、そして、その主を信じて従う弟子たちの群れが、彼らにとってのしるしだったのです。毎週教会の礼拝がささげられ、兄弟姉妹たちが集まっているように、主イエスの周りにも毎日、弟子たちが従っていました。ファリサイ派の人もサドカイ派の人も、そのしるしを目にしていたのです。ただ、あまりに日常的な光景であり、当たり前のことのように思ってしまったので、まことのしるしに出会っていたにも拘らず、それがしるしだとは気づかなかったのです。
教会の群れがここにあるというしるし以外に、何か不思議なことや、人々の注目を惹きつけるような目覚ましいことを求めたくなる傾向は、主イエスを信じようとしないファリサイ派やサドカイ派の中だけに芽生えるのではないかもしれません。時には、主イエスを自分の救い主と信じている弟子たちの間にも、同じような傾向が生まれてしまう場合があります。それで主イエスは、ファリサイ派やサドカイ派の人たちと別れた後、今度は弟子たちに向き直って、彼らを戒めようとなさいました。6節にそんな主イエスの言葉が記されています。「イエスは彼らに、『ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい』と言われた」。
ファリサイ派やサドカイ派の人々が不思議なしるしを見たがり、それをもてはやす傾向を、主イエスはパン種にたとえられました。パン種とはイースト菌のことですが、小麦を水や牛乳でこねた生地の中にイースト菌を混ぜ込んでしばらく置くと、イースト菌の発酵する力によって、パン生地が大きく膨れ上がり、ふわふわのパンになります。大きくはなるのですけれども、それはパン生地や小麦粉の分量が増えた訳ではありませんから、見かけが大きくなっただけの話で、膨らんだパンを押さえつければ、また元の量に戻ってしまいます。
しるしを見たがる傾向にも似たようなところがあります。驚くようなしるしを見ることで、自分が何か大きく変えられたように感じる人は、実際には、元々のその人でしかありません。ですから、不思議なしるしを見たと言って興奮している当座は良さそうなのですけれども、その人の実際の人生の中で、試練に出遭ったり苦しみを経験したりすると、興奮はたちまちしぼんでしまって無力な元々の自分でしかないことに気づくことになります。元々が貧しい自分でしかいので、そうならざるを得ないのですが、しるしを求め、ありがたがるあり方は、将来きっと幻滅することにつながるのです。主イエスは、そんな警告をなさるつもりで、しるしを見たがる信仰をパン種にたとえられました。
ところが弟子たちは、主イエスのおっしゃった意味が分かりません。どうして主イエスが唐突にパン種の話をなさったのか? 弟子たちは考えてみて、自分たちが十分な量のパンを用意してこなかったからだと考えたようです。7節に言われている通りです。「弟子たちは、『これは、パンを持って来なかったからだ』と論じ合っていた」。
弟子たちは、自分たちの気がかりや心細いと感じていることに心が向かっていて、そのことばかりが気になってしまったのです。自分たちには十分なパンの蓄えがない、だから飢えに苦しむ時が来るかもしれない。一方、ファリサイ派やサドカイ派の有力者たちのところには、パンもどっさりあるし、柔らかにパンを膨らませるパン種も潤沢にある。あの豊かなパンを見せられたら、飢えている自分たちはひとたまりもなく食欲の誘惑に負けてしまうのではなかろうかと、実際のパンの話だと思って、主イエスの御言葉を聞いたのでした。
こういうことは、私たちにもあるのではないでしょうか。教会とそこに生きているキリスト者たちがどのように歩んでゆくかを展望するような時、私たちは大抵、自分たちの強みに思いを向けるよりも先に、気がかりなこと、不安を抱えていることに思いが向いてしまいます。そして、日本の社会全体に福音を伝えるためには、キリスト者の人数があまりに少なすぎることを問題にしたり、家庭の中でただ一人、自分だけがキリスト者であるということを嘆いたりするのです。そうなってしまうのは、真剣に主に従っていこうと願うからこそ出て来る思いですから、これを軽んじるわけにはいきません。弟子たちにしても、主と共に歩む生活を成り立たせようと願っているからこそ、パンの分量の心許ないことが気になってしまうのです。
しかし、それはそうなのですが、弟子たちは大切な点をついうっかり忘れていました。それは、主イエスが共にいてくださるなら自分たちの必要はきっと満たされるのだという根本的なことを忘れていたのです。
主イエスは弟子たちに、その大切な点、根本的な事柄を気づかせようとなさいます。5000人の給食の時、僅かなパンでどのようになったかを思い出すよう、弟子たちに促されます。4000人の給食の時にも、7つのパンでどのようになったかを思い出させようとなさいます。そのことを思い出させることで主イエスが弟子たちに教えようとしておられる事柄は、自分たちを持ち運んでくださり確かにするのは、パンの分量やそこに集まっている人数などではなくて、主イエスが確かに共に歩んでいてくださるという、その事実の方なのだということでした。8節から12節です。「イエスはそれに気づいて言われた。『信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。』そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った」。
今日の聖書は、主イエスの十字架に向かって歩まれる道のりがひらける、その直前の箇所でした。ファリサイ派とサドカイ派が結託して主イエスに立ち向かい、その敵意が間も無く誰にも分かるようにはっきり立ち現れるようになる直前のところでした。曲がり角を曲がれば、そこに抜き身の刀を持つ敵が待ち構えている十字路の手前にいるようなものです。
その時、主イエスは、ファリサイ派とサドカイ派のパン種、即ち、この世の勢いや圧力や数字に誘惑されることなく、ただ主イエスが共に歩んでくださることに目を向けるようにと、弟子たちを諭されたのでした。
私たちは今日、教会の暦で言うと最初の日曜日を迎え、新しい一巡りの時に入っていこうとしています。今からの一年にどんなことが起こるのかは、私たちにはまだ分かりません。神様は、しかし、その道をご存知でいてくださり、主イエス・キリストの許に私たちを招いてくださいます。私たちはこの時、その主の御言葉によって慰められ、勇気を与えられて歩むことを確認させられたいのです。目覚ましいと思えるような、人目を惹きつけるようなしるしではなく、ただ主の御言葉を聞いて、主が伴ってくださることに信頼して、新しい歩みに押し出されてゆきたいのです。 |