聖書のみことば
2017年12月
12月3日 12月10日 12月17日 12月24日 12月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月24日主日礼拝音声

 降誕
2017年クリスマス礼拝 2017年12月24日 
 
宍戸俊介牧師 

聖書/マタイによる福音書 第2章1節〜12節

2章<1節>イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、<2節>言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」<3節>これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。<4節>
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。<5節>彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。<6節>『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」<7節>そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。<8節>そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。<9節>彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。<10節>学者たちはその星を見て喜びにあふれた。<11節>家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。<12節>ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 ただ今、マタイによる福音書2章1節から12節までを、ご一緒にお聞きしました。その始まりの1節と2節をもう一度繰り返してお聞きします。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」。
 主イエスがお生まれになったのは、ヘロデ王の時代、ユダのベツレヘムにおいてだったと、ここに述べられています。ここに名前が出てくるヘロデという人物は、紀元前37年から紀元前4年にかけてユダヤを支配した王です。紀元前4年に亡くなっていますから、主イエスの誕生したのは紀元前4年よりも前だということになります。また、来週聞くつもりですが、マタイによる福音書の2章16節以下のところには、ヘロデが命令を下してベツレヘム周辺にいた2歳以下の男の子を皆殺しにさせたと言われていますので、この時、すでに主イエスが2歳位に育っていたのだと仮定しますと、主イエスのお誕生は更に早まって、紀元前6年ぐらいということになります。残念ながら、主イエスの誕生年や誕生日が正確に分かっている訳ではありません。紀元前6年から4年にかけてのいつかだろう位にしか分からないのですが、しかし大切なことは、細かな誕生日が分かっていないということではなくて、詳細はともかく、私たち人間の歴史の中に「神様の独り子が確かにお生まれになった」ということです。このクリスマスの出来事、決しておとぎ話や作り話ではなくて、人間の歴史の中に確かに起きたことをはっきりさせるために、聖書の福音書は、時の支配者の名前を出しています。
 このマタイによる福音書に限らず、ルカによる福音書もそうです。ルカによる福音書では、ヘロデ王ではなくて、皇帝アウグストゥスウや、その皇帝の下でエルサレムやユダヤを含むシリア州の総督として人々の上に力を及ぼしていた地方総督のキリニウスの名前が出てきます。登場する人名は違いますが、クリスマスの出来事について伝えるマタイによる福音書とルカによる福音書は時の権力者の名前を引き合いに出すことで、人間の歴史のいつ頃にクリスマスの出来事が起こったかということを明らかに示し、それによって主イエスのお誕生が間違いなくこの世の中で起きた出来事であることを伝えようとしているのです。

 ところで、このマタイによる福音書の記事によれば、主イエスが人となって地上においでになったクリスマスの時、あるいはそれは生まれて1年か2年経った時のことだったかもしれませんが、東の方から占星術の学者たちが主イエスを拝もうとしてやって来たという消息を伝えています。明らかにユダヤ人ではない、この学者たちがはるばる旅をしてユダヤ人の新しい王を拝もうとしてやって来た姿と、その新しく誕生した王である赤ん坊を、まだ幼いうちに密かに抹殺してしまおうと考えたヘロデ王の姿は、対照的です。しかし、こういう対照的な姿を聖書から指し示される時に、私たちは、一つの問いの前に立たされるのではないでしょうか。
 一方には、全くの外国人、異邦人であってユダヤ人の持っている聖書の言葉や教えに必ずしも精通しているとは言い難い占星術の学者たちが、しかし彼らなりに新しい王の誕生を感じ取って、その方に丁寧に挨拶をし、精一杯、その誕生を喜び祝おうとしている姿があります。もう一方には、そのユダヤの中に暮らしていて、聖書の教えと戒めを日常的に見聞きしていながら、新しい王、救い主となる赤ん坊の誕生について聞かされても喜ばず、むしろこれを迷惑なこと、厄介なことのように感じて抹殺しようとしている姿があります。こういう対照的なあり方が聖書の中から聞こえてくる時に、それと一緒に、「さて、それならばあなた自身はどうなのか」という問いかけが同時に聖書の中から響いてくるのです。
 マタイによる福音書のクリスマス、誕生を伝える記事の中には、ルカによる福音書の記事とは違って天使は登場しません。降誕の前後の出来事の中で、人の夢の中には天使が現れますが、ルカによる福音書で天使たちが直に羊飼いたちに現れ、主の栄光が羊飼いたちをめぐり照らしたり、その後で、天使の大軍が現れて厳かに御業を賛美するような場面は、マタイによる福音書には現われません。そしてそのために、降誕の出来事それ自体を伝えている記事で、ルカの記事とマタイの記事では随分印象が違って聞こえます。すなわち、ルカによる福音書では、天使の大軍によって天の大きな喜びが地上にもたらされ、それに導かれて地上でも賛美の声が上がり、羊飼いたちを通して救い主誕生の喜びが方々に持ち運ばれてゆくという喜びの色合いが大変強い出来事としてクリスマスの出来事が物語られています。
 けれども、マタイによる福音書ではそうではありません。喜び一杯のクリスマスの天使たちは、ここには登場しません。このマタイによる福音書のクリスマスの記事の中で、唯一、喜びを語っているのは10節の言葉です。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。ルカによる福音書に語られている喜びが、朝日の喜び、つまり朝になり太陽が昇って辺り一帯全てが明るく照らし出されるような喜びとすると、マタイによる福音書が伝える喜びは、夜道を照らす月の光のような喜びか、あるいは暗闇の中に輝く一本のろうそくの光のような喜びに例えられるかもしれません。マタイによる福音書に語られているクリスマスの喜びの光は、その光の強さの度合いからすると明らかにルカによる福音書の輝くような喜びに比べて慎ましやかなところがあります。
 しかしこれは、確かに私たちに手渡されるために生じた喜びの出来事です。太陽を手の内に持つことはできませんが、ロウソクであれば、私たちはそれを掲げ持つことができます。今年のクリスマスに私たちは、神様が備えてくださった喜びのともし火をそれぞれに掲げ持って、この時を歩む者たちとされたいのです。そして、そのためにも私たちは、このクリスマスの時、是非ともこの10節に述べられている喜びにこそ、私たちの思いを向かわせたいのです。

 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。ここで喜んでいるのは、元々からユダヤに住んでいる人ではありません。遠くから長い旅をしてきて、ここに辿り着いた東の方の学者たちです。そして大変興味深いことに、彼らはいかにも占星術の学者として生きてきた人たちらしい喜びに包まれています。すなわち、ここには「その星を見て」喜びにあふれたと述べられているのです。クリスマスの出来事なのですが、私たちはいつの間にか、飼い葉桶の中の嬰児にまみえる時に、当然、喜びも最高潮になるのだろうと思い込んでいるようなところがあります。ところが学者たちは違うのです。彼らは、自分たちが追いかけてきた星がある場所に留まって動かなくなり、そのところを指し示したことに気がついて喜んだのです。
 もちろん、星が止まったのは、そこに救い主として生まれた幼な子がいるからなのですが、しかし学者たちは、星の下に確かに幼な子がいるのを見て安心し初めて喜んだのではありません。そうではなくて、星が確かに留まったことに気がついて、大いに喜びました。もうこれ以上の喜びはないという程に大喜びしました。
 このことは、私たち自身に引きつけて考えるならば、どういうことになるでしょうか。それは恐らく、これまで生きてきた自分自身の経験に即してということになるかもしれません。占星術の学者たちについて考えてみたいのです。彼らは天体の運行やこの世の深い智恵には精通していたに違いないのですが、聖書の中に記されている言葉や教えについては不案内なところもありました。この人たちは東の方から来たと言われていて、この東の方という言い方は漠然としているので、恐らく、どこかの国を指しているのではないだろうと言われています。しかし旧約聖書の中には、東の方に生活していた人たちとしてアッシリアやバビロニア、ペルシャといった国々の名前が記されていて、そういった東の国の人々は、歴史的にユダヤ人たちとある程度の交わりを持っていました。東の方の人々は、聖書という書物があることさえ知らないという程の無知ではなかったに違いないのです。ここにやって来た学者たちは、ユダヤの人々が旧約聖書を大切に生きている民であって、そのユダヤ人たちの新しい王の誕生なのだから、当然、聖書の中に語られている言葉の中に新しい王について述べられている箇所があるだろうというくらいの察しはついていたと思われます。けれども、その言葉が、では聖書のどこにあって何といっているかということまではわかりかねていたのです。
 彼らは、自分の生きて来た経験の中で夜空を見上げ、天体の異変に気づきました。恐らく、今までなかったような明るい天体が出現したものと思われます。それが惑星同士の重なり具合によるものだったか、彗星によるものだったか、あるいは、歳取った星が最終的に爆発して寿命を終えた時に見られる超新星爆発の輝きだったか、2000年以上も経過した今日では定かなことは分かりません。しかしとにかく天体の異変に気がついて、それを彼らは新しい王の出現を示すものだと考えました。その明るい星の方向から見てユダヤに違いないと考え、はるばる旅をして来たのです。
 旧約聖書の雅歌3章3節のところに、「わたしの恋い慕う人を見かけましたか」と言って、道ゆく人々に尋ねて回るエルサレムの一人の乙女が出て来ますが、その乙女と同じように、この学者たちも「ユダヤ人の王として生まれた方はいらっしゃいませんか。私たちはその方の星を見たのです」と言って、道ゆく人々に尋ねて回ったのです。自分が東の国に生まれ、占星術の学者となってこれまで生きて来た、その生活の中で自分なりに本当に大切だと思える事柄の手がかりを掴んで、一生懸命に手探りで、その目指すものに近づきたいと願っているのです。

 思えば、私たちにも似たようなところがあるのではないでしょうか。占星術の学者などという、ちょっと聞きなれない職業に従事しているので、どこか縁遠く感じられるのですが、これはいわゆる今日の占い師と同じではありません。ペルシャやメソポタミア地方に始まった占星術の伝統からは今日の天文学や哲学、あるいは物理学が生まれて来たと言われています。東の方の人々は職業人だったのです。私たちも主婦なら主婦らしく、農民なら農民らしく、医師なら医師らしく、会社員なら会社員らしく、自分なりに人生を生き、そしてその結果、本当に大切なものは何かという人生の尺度を持っているのではないでしょうか。
 例えば、ここに集まっている方の多くは、自分自身の願いや思いが人生の中で実現できさえすれば、他の人のことなど構わない、人生は皆、自分自身のために生きてゆくもので、そのためだったら他人を虐げても押しのけても構わないというような人生観を持って歩んでいる方は、そう多くないのではないでしょうか。もちろん、そう自分中心に物事を考える人が礼拝に来てはいけない訳ではありません。誰もが最初は当たり前のように自分中心の物事の考え方をしていますから、そういう人が礼拝にいらしても不思議ではなく、悪くもないのです。
 ただ、この礼拝の中では、クリスマスに地上に来られた主イエス・キリストという方を通して「自分中心に人生を生きるのではない、別の生き方をする人生がある」ことを知らされることも確かなのです。それが私たちのごく普通の生き方とは随分違ったものなので、一度や二度聞いて、すぐに合点がゆき、人生の生き方が180度変わるようなことは滅多にないのですけれども、しかし、繰り返し礼拝を捧げ聖書の御言葉に聴く生活を続けてゆくうちに、私たちには、少しずつ変わったところが生まれてくるようになるものなのです。
 いつでも自分中心でないと気が済まなかった人が、隣の人のことをふと何かの機会に気をかけるようになったり、あるいは自分の判断こそが絶対に正しいと思っていつも自分の考えを押し通そうとする癖のあった人が、他の人の考え方に耳を傾けてみようとするゆるやかさ持つようになったり、さらに、様々な折にいつも自分のことを責めてしまい苦しくて生きにくいと思って来た人が、確かに色々と困ったところを抱えている自分ではあるけれども、それでもここをもう少し生きて良いのだと人生に信頼を置けるようになったり、そんな小さな変化が、御言葉を聞いて生きる人の人生には無数に生じてくるものなのです。
 そして、そういう変化は、決して無理やり力づくで私たちに押し付けられるのではありません。聖書を開いて御言葉の知識を与えられ、御言葉に聴く中で、私たちそれぞれのこれまでの歩みには皆意味があり、そしてここへ導かれるために必要な経験であったと、御言葉によって私たちの人生は位置づけられ、また意味も与えられるようになるのです。そして、そういう経験を通して、私たちは、「ここに確かに、私の主、私の救い主がおられる。私を全て持ち運んでくださる方がここにおられる」という確信を与えられて生きるように変えられてゆくものなのです。

 占星術の学者たちは、それまでの彼らの歩みが全く意味のない無価値なものとして退けられた訳ではありません。目指す方の幼な子が安心して母マリアと共にいるところにまで星に導かれて辿り着くことができました。ただ、その時に、本当は星が彼らを導いたのではなく、星の運行を通して彼らを本当の救い主に導こうとしておられる方の働きかけによって、救い主である新しい王にお会いできたことをこそ、喜び感謝したいのです。
 学者たちは、はるばると長い旅を星に導かれて辿って来ました。しかし、最後まで星だけに導かれてベツレヘムの幼な子の許にたどり着けた訳ではありません。ユダヤまで辿り着いたところで、後はどこに進んで良いのかが分からなくなり、御言葉の導きを必要としました。すなわち、「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」(6節)という御言葉のあることを知らされ、その御言葉に信頼してベツレヘムの幼な子の許に辿り着いたのです。
 私たちも、生まれた時からただ聖書の御言葉にだけ教えられ、育てられて、人生の旅路を辿って来たのではありません。聖書以外の様々な知恵や教えに導かれて自分自身を形づくりながら、人生の歩みを辿って来ました。しかし、その全てを支配し、持ち運んでくださっていたのは、実は、主なる神様だったのです。東の方の学者たちは星に導かれて長い旅を続けてユダヤまで導かれ、そして最後のところで聖書の御言葉を信じてベツレヘムへ向かい、幼な子イエス様に出会うことができました。ベツレヘムの家を探し当てた時、彼らは全てが分かっていた訳ではありませんでした。ただ、星の運行を通して自分たちを導き、そしてここまで持ち運んでくださった方の導きに感謝し、喜んでいます。
 思えば、私たちもそうだろうと思うのです。私たちが主イエスの許へと導かれ、信仰を告白して洗礼を受けた時、私たちは聖書に記されている教えの全てを知り、全て分かった上で洗礼を受けたという方はおられないのではないでしょうか。ただ、自分自身がこの地上に命の息を与えられて生まれさせられ、そして生きて来た中で、神様の御言葉に聞いて生きることが力を与えてくれることだと、どこかで感じるようになり、教会生活へと導かれる中で、このところに今を生きる自分が確かにされて、主イエスを信じようという決心が与えられるのではないでしょうか。そして、占星術の学者たちが非常な喜びにあふれたように、私たちも本当に深く、大きく、喜ばされるのです。

 占星術の学者たちは、各々が持参したものを幼な子への贈り物として捧げたと、8節に述べられています。黄金、乳香、没薬というこれらの贈り物は、いずれも学者たちがそれまでの生活の中で用いて来た物だったと言われています。自分がそれまで生かされ歩んで来た中で与えられている賜物を持って、主にお仕えすることを、この学者たちの捧げ物は教えてくれています。

 私たちはこのクリスマスに、東の方から来た学者たちの深く大きな喜びを心に留めながら、私たちにも与えられている喜びの源に心を向け、そして、この主にお仕えして生きる志を新たにされたいと願うのです。
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