聖書のみことば
2017年12月
12月3日 12月10日 12月17日 12月24日 12月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月17日主日礼拝音声

 十字架への道
2017年12月第3主日礼拝 2017年12月17日 
 
宍戸俊介牧師 

聖書/マタイによる福音書 第16章21節〜28節

16章<21節>このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。<22節>すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」<23節>イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」<24節>それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。<25節>自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。<26節>人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。<27節>人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。<28節>はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 ただ今、マタイによる福音書16章21節から28節までを、ご一緒にお聞きしました。始まりの21節をもう一度繰り返してお聞きします。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」。主イエスによる最初のご受難の予告です。
 けれども、主イエスは苦しめられ殺されるからといって、ご自身が世界の主であり、裁き主であり、そしてまた救い主でいらっしゃる立場を変えられるわけではありません。主イエスはどこまでも、ご自身の務めに忠実に歩まれます。どこまでも、つい今しがたペトロが告白したような方であることを通されます。16節です。「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」。ペトロが告白した立場から、主イエスは一時も退いたりなさいません。敵の手に渡され多くの苦しみを受け殺されることで「メシアでなくなる」というようなことを、一言もおっしゃいません。むしろその逆です。苦しめられ殺された後、主イエスは再びこの地上を訪れてくださいます。27節ではっきりとそう約束しておられます。27節の始まりをお読みします。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」。この地上に見切りをつけ、退かれるのではありません。再びおいでになって下さるのです。その時には、「それぞれの行いに応じて報いるのである」とすら、おっしゃるのです。
 主イエスは、ご自身が救いをもたらすメシアであり、また、そうであるからこそ、全てを裁く裁き主でもあるようなお方です。世界中の人々は皆、この方の御前に出て、それぞれの責任について申し開きをしなくてはなりません。28節に言われている通りです。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。弟子たちに向かって、最初の受難予告をなさった時、主イエスがこんなふうにご自身がメシアであることを強調しておられることは、考えてみると不思議なことではないでしょうか。

 主イエスは神様がお立てになった世界の主であり、裁き主、そして救い主でいらっしゃいます。ところが、その救いをもたらすはずの世界の主が、ここで弟子たちに、ご自身が「必ず多く苦しみを受けて殺されることになっている」と打ち明けられます。しかも、エルサレムに行って当時の宗教指導者たちによって命を取られると打ち明けられるのです。これが普通の人で、その人が何でも明け透けに告げる主治医から余命宣言をされるのなら仕方がないと観念する他はありません。病床でそうした宣言を聞かされることは辛いことですが、しかしそれでも「これは人の運命としての出来事なのだから」と、どこかで諦め、慰められながら苦しみと死の一方通行の道を歩んでいくことになるのでしょう。
 しかし今日のところは、病床でお医者様から深刻な病状についての真実を打ち明けられるというのとは状況が全然違います。ここでは、単なる普通の人ではなく、つい先ほどペトロが弟子たちを代表して「あなたこそメシア、救い主です。生きておられる神様の独り子です」と告白申し上げた、その方が、ご自身のこれからについて打ち明けておられるのです。イスラエルと世界の主であり、裁き主であり、救い主である方が、ご自身は苦しみを受け殺されるのだと、そうおっしゃっているのです。これは決して当たり前のことではありません。よく考えれば極めて異様なことが語られているのです。ところが、弟子たちはこの時、主イエスのおっしゃっておられることの異様さに、ちっとも気がつきません。ペトロだけでなく、他の全ての弟子たちも、ここで主イエスのおっしゃっていることの本当の意味が分からなかったのです。
 もちろん、主イエスは、ご自身の伝えようとしている事柄がなかなか弟子たちに分かってもらえないだろうということを、よく承知していらっしゃいます。すぐには理解できない事柄でも何とか理解できるようにと、主イエスはこの日まで、慎重に、そして注意しながら繰り返し弟子たちを教えてこられました。福音書記者たちが伝えているところによれば、主イエスが公生涯にお入りになってからというもの、初めの3分の2ぐらいまでのところでは、あからさまでなく抑えたような調子で、それとなくご自身のことを弟子たちに分からせようと心を砕いて教えてこられたのでした。それが、ある一定の時を境に、それから後は3度に亘って、ご自身の受ける苦しみと死のことについてはっきりと予告なさるようになります。まことのメシアが、主であり裁き主であり救い主でもある方が「多くの苦しみを受けて殺されることになっている」と打ち明けられます。しかもエルサレムにおいてです。
 主イエスは、まことに慎重に、弟子たちに伝えようとしました。しかし、ついに弟子たちに分かってもらえません。主イエスが教えようとなさったことは、彼らの理解の範囲を超えていたのです。そして、主イエスが教えられた通りに実際に十字架に上げられた聖なる金曜日にも、弟子たちは依然として理解しませんでした。イースターの朝も同じでした。そして、その日の午後になっても、やはり弟子たちは理解しませんでした。救い主である方が苦しみを受け、そればかりか殺されるというのです。ごく当たり前に考えて、どうしてこの二つの事柄が結びつくでしょうか。本当に救いを与えてくれるのならば、歓迎されて当然のはずです。主イエスは、本当に救い主メシアなのか?それとも苦しめられて死んでゆくただの人なのか?弟子たちは、あちらを立てればこちらが立たないというような二者択一の判断を迫られます。
 直弟子だけではありません。本当は、私たちだって、ここで主イエスのおっしゃったことは受け止め難いものがあるに違いないのです。主イエスが世界の主メシアであり救い主でいらっしゃるという、そのところまでなら、私たちだって同意できるような気がするのです。ペトロたちが告白したのと同じです。ですが、世界の主であるということは、私たち自身の主でもあるということです。そして、私自身の主である方が、苦しみを受け殺されるというのです。果たして私たちは、そういう主を理解できるでしょうか。救いを与えて下さる主だと言うのならば喜んでついて行けるけれども、それが敵に捕らえられ散々に苦しめられ、遂になぶり殺されてしまうなどと聞かされたら、正直に言ってとてもついて行けないと内心思うのではないでしょうか。救い主が十字架の苦しみを受け殺されてしまうということは、率直に言って私たちの理性には受け容れ難いことなのです。弟子たちが主イエスの言葉を理解しなかったのは、最もなことなのです。
 結局弟子たちは、イースターの日の夕方になるまで、十字架にお架かりになった方が本当に主であり救い主だということが理解できませんでした。それは、元々理性によって解明し受け容れるというような性質の事柄ではないからです。十字架に掛けられお亡くなりになった方が三日間に甦る主なのだという理解は、理性から出てくるのではありません。それは信仰によって受け止められる他ない事柄なのです。そして、信仰は、聖霊の働きによってのみ与えられます。
 十字架の死から三日目に復活なさった主は、夕方遅くになって、弟子たちに出会って下さいました。そこで弟子たちに信仰の奇跡が起こり、まさに主が自分たちを訪れ親しく出会って下さったのだと、そう弟子たちが信じることができるようになったのは、聖霊の御業でした。イースターから50日してペンテコステの日に、ようやく主イエスが弟子たちに約束されたことが弟子たちに受け止められるようになったのです。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。この約束は、ペンテコステの日に実現されることになるのです。ペンテコステの日に聖霊が働いて、弟子たちは初めて、苦しめられ十字架にかけられて殺された主が、本当の主であり裁き主であり、そして救いをもたらして下さる方なのだと受け止めるようになったのでした。

 ところで、今日のところでは、ペトロが大変厳しいお叱りの言葉を主イエスからかけられています。これは決して、ペトロが主のご受難や死について理解しなかったからというのではありません。ペトロを始め、弟子たちが理解できないでいるということなら、主イエスはよくご存知だったのです。
 それならばどうして、ペトロは、ことさらに厳しく叱られたのでしょうか。ペトロがどう行動したのかは22節に述べられています。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』」。ペトロは、ご自身の受難を予告する主イエスを脇の方に連れて行って、自分としては懇願するようなつもりで切々と語りかけ、またその気持ちが強いあまり、ほとんど主に命令しているような口調で語ります。主イエスが苦しみを受け殺されることなど、決して口にしてはならないし、考えることだっていけないという調子で主イエスを諌めます。しかし、このペトロの振る舞いは、まさに弟子である者の分を超えて出過ぎた振る舞いになっています。まさしくペトロはここで、本人は全く意識しないままに、また全然意図しないままに、主イエスの道を十字架から逸らしてしまおうとする誘惑者の役を演じさせられていたのです。エルサレムの受難と十字架を見据えて一歩一歩進んでゆこうとなさる主イエスにとって、ここでのペトロはまさに、妨げの岩、つまずきの石になっています。
 よく知られているように、十字架への道のりを歩ませないようにするというのが、まさに最初から誘惑する者が狙っていたことです。主イエスが十字架への道のりを歩んで行かれ、その十字架にお架かりになって贖いの御業が成し遂げられることを、どんな手立てを使ってでも止めさせようと、誘惑者は画策します。それは、主イエスの公生涯の一番初めのところで、荒れ野において主イエスに臨んだ三つの誘惑の時から変わりません。主イエスを何とか誘惑して、十字架への道行から外れさせてしまおうとするのがサタンの目論見でした。主が十字架に向かわないためだったら、サタンは、この世の全ての国々とその繁栄を主イエスに引き渡そうとすら申し出ていました。マタイによる福音書4章8節9節に、そんな誘惑者の言葉が記されていました。「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」。
 そして、あの時、主イエスが誘惑に乗ろうとしなかったのを見てサタンはいったん退いたのですが、今日のところで、弟子たちの無理解につけ込むようにして、特にペトロの口を通して、十字架に向かう主イエスの歩みを邪魔しようとしているのです。誘惑する者は、たった今、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した筆頭弟子のペトロにつけ入り、弟子の姿をとって主イエスに近づきます。主イエスは、そういう誘惑者の策略を見破って厳しい言葉をおかけになるのです。23節です。「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』」。主イエスはサタンの誘惑に騙されません。ペトロの口を通じ、人間的な親しみによって十字架へと向かう足取りを鈍らせ逸らしてしまおうとする計略を喝破なさいます。主イエスはご自身の救い主としての歩みを、変わらずに続けてゆかれます。十字架への道をぶれることなく、また、足取りを鈍らせることなく、一歩一歩進んでゆかれます。主イエスがペトロをこんなふうに叱りつけ、歩んで行かれるということは、依然として主がイスラエルと全ての民の主であり、裁き主であり、救い主であり続けておられるということです。たとえご自身の身に苦しみが臨み、命を脅かされ、殺されるようなことがあるとしても、むしろ、まさにそうであるがゆえに、主イエスは、まさに全世界の主、裁き主、救い主なのです。なぜなら、それが、主イエスが御子として従っている父なる神様の御心だからです。

 ところで、主イエスがペトロを叱りつけた後、すぐそれに続けて弟子たちにおっしゃった教えも、受難の予告と同様、私たちには、にわかには理解しがたい言葉です。24節25節です。「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る』」。何だか禅問答を聞かされているような言葉です。主イエスはここで、ご自身の受難について打ち明けられた後、引き続いて、弟子たちの前に控えている彼らの苦しみや死、十字架を背負うことについて教えようとなさるのです。弟子たち一人一人は、いずれも十字架を背負う人たちなのだとおっしゃいます。しかしこれは、誤解される危険が非常に大きい言葉ではないでしょうか。
 うっかり誤解してしまうと、私たちは、主イエスが経験させられたような理不尽な苦しみや人生の嘆きを、私たちもそれぞれ、主の十字架と別に背負って生きてゆくのだと思い違ってしまいます。しかしそうではないのです。ここでは、まず、主イエスご自身の受難のことが告げられているのです。十字架というはっきりした言葉こそ出てきませんが、しかし主イエスがご自身の受難を弟子たちに予告する際、そこで十字架のことを念頭に置いて受難予告をしておられることは確実です。
 ところが主イエスは、ご自身の苦しみと死の出来事を、私たちのために、その身に引き受けてくださるのです。主イエスは十字架にお架かりになるに際して、ご自身お一人だけの、いわば孤高の存在であろうとはなさらないのです。高く十字架に磔にされ、苦しまれる時も、そこで私たち一人一人が多くの人生の中で経験する苦しみや痛みの、嘆き、虚しさを思いやってくださいます。私たちが苦しんだり悩んだりする時、そこでは私たちが孤独のうちに自分だけで悩んだり苦しんだりするのではなくて、十字架上の主が一緒になって、悩み、苦しみ、死と戦ってくださることを知るように、こうおっしゃるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。「自分を捨てよ」という勧めは、「主イエスと別の一個人になるな」ということです。別に言えば、あなたの人生の苦しみを背負ったまま主イエスの右や左に付き従うのではなく、そうではなくて、「距離を置きながらでも十字架の主の後に付き従いなさい」ということです。主イエスの苦しみと死を示されながら、その贖いの御業に与る者として、主の後をついて来るようにと招かれているのです。
 こういう主イエスの招きの言葉を聞かされて、私たちは、主イエスに従うという不思議さの前に立たされます。誰かが無理にでも私を主に従わせるのでしょうか。誰かが無理に、主の十字架を私に負わせるのでしょうか。決して無理強いしてはならないのです。救い主に従うというのは、一つの提案であって強制ではないのです。私たちは自由に、そして自発的に、その提案を受け入れるか、あるいは拒否するかを決めるのです。

 クリスマスに一人の嬰児が地上に生まれてくださったところから、この地上にも、はっきりと神様のものとしてしるし付けられた御国の建設が始まっています。それは、最初、飼い葉桶に安心して眠る嬰児の姿をとって始まり、神様に祈り、御心を尋ね求め、そして御心に従って十字架まで歩んでゆく道のりの上に建てられてゆきます。
 その御国が建てられてゆく時、私たちが同じように、その主に従い、御国建設の現場に居合せるなら、神様はそのことを喜んで下さいます。十字架の主が、神様の御国のしるしとなって下さり、そこに新しい天と新しい地が始まってゆく、そのところに私たちも招きに応えて居合わせることを、神は喜んで下さるのです。
 しかしそれは、この地上自体が、ひとりでに天のように変わるということではありません。地上に御国が建てられてゆくときには、きっと周囲との摩擦が生まれます。この世との摩擦があるため、貧しさと十字架と苦悩が、地上の御国の建設現場には付いて回ります。そして、その御国が建て上げられてゆくところでは、主イエスお一人が、私たちのための贖いの十字架を背負って御国を建ててゆかれます。私たちは、その主の十字架によって罪から贖われた者として、各々の小さい十字架を背負いつつ主の後ろから付いてゆくのです。
 この歩みの中で、どうしても贖いの主を離れて自分の命を保ちたいと考える人は、それを失うことになります。そして逆に、主に従いながら、その中で最後まで歩み続けて自分の命を失う人は、それを見出すのです。ここで命を失うとか得るとか言われている命は、地上の肉体の内に宿っている肉の命のことではありません。もし肉体の命のことであるなら、私たちは誰もが肉体の死の時を迎えます。しかし、地上の時を超えて、私たちは永遠の命を約束され、それに生かされているのです。

 クリスマスの喜びは、2000年前の出来事を覚えるだけでは不十分ではないでしょうか。私たちは、そこから始まって今日まで働き続けている一つの新しい命の現実の中に置かれているのです。主イエスが復活して、今も私たちと共に生きておられるように、私たちも地上の命を超える永遠の命に力づけられ、慰められて、日々を生きているのです。
 私たちのために十字架にかかってくださった主イエス・キリストは、私たちが銘々の命だけを愛し、この地上での自己実現を図り、そしてその自己が実現した結果、人生をあっという間に浪費して滅んでいってしまうことを望みません。そうではなくて、主の十字架の後に続いて、神様の御国の民とされ、永遠の命に生きる者となることを願って下さいます。それですから、各々の十字架を背負って従うようにとおっしゃって下さるのです。
 私たちは、この方の招きに自分自身を委ねて生きる決心を、今日もう一度、新たにされたいのです。そして、クリスマスから始められたこの地上での御国建設と救いの業に与る者として、毎日の歩みを確かにされ、心を込めて歩む者とされたいのです。

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