ただ今、マタイによる福音書16章13節から20節までを、ご一緒にお聞きしました。13節の言葉をもう一度繰り返してお聞きします。「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」。
主イエスは弟子たちに対してご自身のことをおっしゃる際に、「人の子」と言う言い方をよくなさいました。ですから、ここで「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と言う問いは、別に言うなら、当時の人々が主イエスのことをどのような人物だと受け止め話し合っているかという問いです。主イエスの行いと言葉とありようについて、人々がどのように思っているだろうかという問いです。
「人々は、わたしのことを誰だと言っているか」、この問いが問われた当時、それに対して人々が答えた言葉には、好意的なものが多かったようです。弟子たちは、巷で耳にしていた主イエスについての噂を数え上げるように語っています。ある人々は主イエスのことを洗礼者ヨハネだと言っていたと、まず述べられています。ヨルダン川ほとりの荒れ野で人々を悔い改めに導き、後、ヘロデ・アンティパスによって処刑されたヨハネが、今、生まれ変わって主イエスとしてやって来ていると受け取る人たちがいました。
また別の人たちは、預言者エリヤの再来だと言っていました。昔、火の車に乗せられて、天の神様の許に上げられたエリヤが、今、この終わりの時にやってきて救い主の道備えをすると、当時の多くの人たちが信じていました。そのエリヤが今ここに現れていると、そう受け止める人々もいました。
しかしさらに他の人たちは、旧約時代に現れて、神様の前で悔い改めを教えた預言者エレミヤが、今、再び登場していると噂しあっており、あるいは他の人たちは、そういう昔の預言者たちとは別に、神様からの新しい任務を授けられた預言者が、ここにやって来ていると考えていました。
そういう主イエスについての様々な噂が一致して物語るのは、当時の人々が主イエスのことを「ただ者ではない特別な人だ」と感じていたということでしょう。ナザレのイエスと名乗るこのラビは、確かに、ただならぬ人物であると、そう、当時の多くの人たちが思っていたのです。
けれども、このことはよくよく考えてみると、こうも言えるのではないでしょうか。即ち、当時の人々が主イエスに対して抱いていた印象というのは、なるほど、他の多くの人間とは違う特別な存在ではある。それはそうなのだけれども、しかし結局、この人は歴史上に現れる一人物以上の者ではないうと、そう判断していたということになるのではないでしょうか。
「人々は、わたしのことを誰だと言っているか」、こういう問いは、今日でも引き続き問いかけられています。しかし今日、こんなふうに問いかけられて、果たして当時の人々のように主イエスをヨハネやエリヤやエレミヤにたとえようとする人はいるでしょうか。もしかすると、全くいないとは言えないかもしれませんが、しかし、大多数の人はそうはたとえないでしょう。それは、今の時代の人の方が、当時の人たちよりも主イエスについての理解が深まったからというのではありません。そうではなくて、今日では、洗礼者ヨハネもエリヤもエレミヤも、すでにすっかり過ぎ去った過去の人になってしまっているからです。
私たちは、今日、今から洗礼者ヨハネが現れるとか、エリヤやエレミヤがやって来ると聞かされても、そのことによって特別に何かが変わるというふうに考えたりはしません。それどころか、今日では、他の人々に強く影響を与えるような傑出した人物が現れるということさえ、考えられなくなっている時代です。時代に影響を与えるような絶対的な存在となるような人物が現れるとは、私たちはもはや思っていないのです。お互いに個別化、相対化して物事を考えるような考え方が私たちの内心を支配しています。他人は他人であり、自分は自分である。誰もが自分自身の人生においては主人公であり主人であると思うような物の考え方が、密かに私たちを支配しているのです。それですから、今日、私たちの間では、自分の願いや考えや思いを実現していく、自己実現という言葉が大変大切なことであるとして、もてはやされるのです。私たちが自分自身のことを主人公であり、一人ひとり小さな君主、支配者だと思っているからこそ、そのように生きて自分を実現してゆくことこそが生きる意味であり、人生の価値もそこにあると、実に多くの人々が当然のように考えているのです。
そんな時代、そういう物の考え方が支配的になっている時に、「人々は、わたしのことを誰だと言っているか」と主イエスが問われても、大方の人々は、そういう問いかけ自体をまるで意味のない問いのように感じて、冷ややかに聞き流し、そこを通り過ぎてゆくだけなのです。
かつて一世紀に生きていた人々は、主イエスのことを歴史の中に登場した一人の偉大な人物だと捉えました。そして今日、大方の人々は、主イエスを自分とは関わりのない人物と考え、受け流してゆきます。しかし、そういう中にあって、主イエスは今、改めてあなたに呼びかけ、お尋ねになるのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、あなた自身の答えを聞きたいと、イエス様はおっしゃるのです。15節です。主イエスが尋ねておられるのは、周りの人々ではありません。あなたの気持ちです。あなたの思いです。今日ここにいる私たち一人ひとりが今、主イエスからさし向かいで尋ねられているのです。「わたしは、あなたの何なのか?」「あなたはわたしを何者だと言うのか?」他の人のことは良いのです。どうしてあなたは今日、ここにいるのか? どうして、わたしを礼拝するこの場に身を置いているのか? 今ここに、あなたの自由にできる時間をささげ、身をこの礼拝の場に持ち運んで来て、わたしに従って来ているあなたは、このわたしのことをどう考えているのかと、主イエスが尋ねておられます。これは2000年前に、どこかよその場所で、他の人に向かって問われている問いではありません。今日、ここにやって来ている私たちにも、まさにここで同じことが問いかけられているのです。
こういう主イエスの問いかけに対して、シモン・ペトロが答えます。弟子たちの代表として、こう言うのです。16節です。「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」。ペトロは、過去に生きた誰かを引き合いに出して、「その人と比べたりたとえたりして、あなたを考えようとは思いません」と、はっきり言っています。そして、「あなたは他のどんな人間も越えるような方です」と申し上げています。「あなたはメシア、生ける神の子です」、そう言うのです。
メシアというのは、旧約聖書の中で「油注がれた者」という意味で使われる言葉です。旧約聖書の中では、王や預言者や祭司といった神様からの特別な役目を与えられて人々に仕える務めを負う人たちが油を注がれて、その務めに当たりました。そして、そういうところから、新約聖書の福音書が書かれた時代、また主イエスとペトロの時代には、この世の歴史の一番終わりの日に現れて、神様のご命令に従って選ばれた神の民を救い出してくださる救い主のことをメシアと呼ぶようになっていました。
それまでの歴史の歩み、その失敗の全てを乗り越えて、永遠に続く命の中へ私たちを導き入れてくれるのがメシアです。そういうメシアが、いずれきっと現れて、様々な問題と破れに満ちたこの世界と私たちを新しく清らかなものとして生かしてくださることを、当時の人々は心から待ち望んでいました。この罪の体、人間の破れた歩みがすっかり贖われて、神様の御前にあって永久に生きるようにされることを、切に待ち望んでいました。今、その扉を開いて、本当に新しい生活にこのわたしを導き入れてくださる方、しかも、わたし一人だけではなくて、私たちが祈り願う全ての者たちを清め、神様の御前に生きる永遠の生活に導き入れてくださるメシア、ユダヤの人々が深い期待を込めて口にしている呼び名を取り上げて、それをイエス様に当てはめて申し上げるのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」。
ナザレのイエスその方は、人間的な見方をするなら、メシアとしての希望や期待を満たしてくれそうな証しなど何も持ち合わせていません。ご自身の栄光ある姿を隠したまま、人間の姿をとってこの世に現れ、そして飼い葉桶から十字架へと続く低い道を辿ってゆかれ、エルサレムの門の外で処刑されてしまいます。そういう人間的には大変見すぼらしく思えるような人物について、ペトロはここで、はばかることなく「この方こそ他に比べるもののない方、メシアである。なぜなら、この方は生ける神様の独り子なのだから」と申し上げます。
同じような出来事を語るマルコやルカの福音書を見ますと、そこにはただ、ペトロが「あなたこそメシアです」と告白した言葉だけが記されています。ところが、マタイによる福音書では「あなたはメシア、生ける神の子です」と告げたことが語られています。メシアという呼び名に加えて「生ける神の子」という尊い呼び名が付け加えられています。こういう言い方で、主イエスが比べようのない独特な方であると、ひときわ強く言い表されています。「この主イエスという方を通して、私たちはまことの神様に出会っている。物言わぬ死んだ偶像ではなく、まさに生きておられる神様にお目にかかっている」ということが、はっきり表明されているのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」、この言い表しは、まことに大きな、それこそ私たちが口にすることのできる最後の言葉です。
しかし、こういう言葉を口にする時には、いつも決まって、そこに一つの疑問が生まれてきます。それは、本当にこんな大きな言葉を人間に過ぎない者が告白できるのだろうか? という問いです。
「神」という言葉を私たちは口にしますけれども、しかしこの言葉、神様ご自身を指し示すようなこの言葉は、この世の他のものの名前とは違っています。事物や物事、事柄の名前をどのように呼ぶかは、大抵の場合は人間がそれを決めるのですが、神様だけは違います。私たちは神様に造られたのであって、その逆ではありません。従って、私たちは神様のことを全部分かった上で「神」というふうに名前をつけているのではないのです。神様についてそうであるのならば「あなたはメシア、生ける神の子です」ということも同じことが言えるのではないでしょうか。主イエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉を、どうして人間に過ぎない自分が口にできるのかという疑問は、どなたであれ、神様に対してその御名を呼ばわり、信仰を言い表そうとするところでは、必ず付いて回る疑問なのです。
従って、ペトロが主イエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」と申し上げて信仰を言い表した時に、主イエスはすぐにペトロがそのように大きな告白をすることができたのは、神様がそのように働いてくださったからだと教えてくださっています。17節です。「すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ』」。
ここにいる私たちも、毎週この礼拝の中で讃美歌を歌い、神様に感謝と賛美のお祈りをおささげしますが、しかし、それはまさに、主イエス・キリストの天の父である方が「あなたにこのことを現した」、即ち、私たちにそういう理解をくださったからこそ、起こっている出来事なのです。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」、主イエスが、こう教えてくださったことこそ、私たちが礼拝を捧げて神様を賛美し感謝する時に、覚えるべき事柄です。私たちがこのところで、イエス様を生ける神様の独り子であると信じ、神様に感謝し、賛美を捧げるのは、私たち自身の中からひとりでに湧き上がったことではなくて、神様が私たちを慈しみ、憐れんで、ご自身にしっかり結びつけようとしてくださった結果、起こっていることなのです。「あなたは、私を何者だと言うのか」という主イエスの問いに「あなたはメシア、救い主です」そして「生ける神様の独り子です」と言って、喜んで賛美できるのは、神様が私たちを慈しんで何とかご自身に私たちを結びつけようとして働いてくださっている結果なのです。
神様の方が私たちを捕らえ、確かに支え、新しい者として生かそうとしてくださる、そのことを、私たちは今日受け止め、信じて感謝し喜んで、「主イエスをメシアであり、神の子です」と告白すべきなのです。
私たちは、いわゆる人間の理性とか人間の理解能力とか、そういうものに基づいて主イエスを信じたり、神様を神と言い表して御許に近づくのではありません。そうではなくて、神様が聖霊によって私たちに働きかけてくださり、御言葉へと導いてくださるので、私たちは、真心から神様を礼拝することができるようにされているのです。聖霊の力が働いて、私たちは御言葉に導かれ、それによって、神様が私たちをしっかりと捕らえ、支えてくださるのです。
主イエスを通して聞かされた御言葉によって、私たちは慰められ、励まされ、そして、この方こそ救い主であり、私たちに働いてくださる神様の独り子だという教会の信仰に導かれるのです。教会はそんなふうにして、信仰を繰り返し言い表しながら、この地上に立ってゆきます。「主イエスこそ、メシアであり、生ける神の子です」という信仰を礎にして、教会は成り立ってゆくのです。
当然ですが、この世には、主イエス・キリストに対して背を向けたり、無関心だったり、冷淡だったり、反対したりする様々な動きがあります。そのために、私たちキリスト者も、時に怖気付いたり、自分がキリスト者であることや教会に属していることを明言するのをはばかったりする場合があります。また、信仰の核心に触れる事柄を、人々に受けの良いような別の言葉で言い表そうとしたり、あるいは、キリスト者であることの証しとして、隣人を愛する愛の業に精を出すこともあります。そういうことは色々あるでしょう。しかし私たちは、このところで問われている問いを避けて通ったり、やり過ごしたままでいることはできません。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、「あなた方は」と主イエスは問われます。これは、誰か他の人が代わって答えてくれていたら、自分はこれに答えず、やり過ごせるという意味で「あなた方」と言われているのではありません。もしも「主イエスが自分にとって何者なのか」という問いを棚上げして、それでも自分は今のままでいられると思うなら、いずれ私たちは主イエスから離れてしまうことになるでしょう。なぜなら、教会の交わりの中心にあるのは、「主イエスが私たちのために十字架にお架かりくださり、私たちの罪を清算した上で、私たちを招き結びつこうとしてくださっている」、神様の御業だからです。その御業を見上げて「あなたこそメシア、救い主です。生ける神様の独り子であり、死すべき、また滅ぶべき私たちを導いて招いてくださいます」と告白して、私たちは、神様との交わりの中に入れられていくのです。もしも私たちがこの神様の御業を認めようとしないで、何か他のもので代用して神様と結びつこうとする場合には、私たちの結びつきは、いずれは古び、破れ果ててしまうに違いありません。私たちの行いも力も、努力も、決して永久に続くものではないからです。
「あなたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねてくださる主イエスの問いは、私たちに無理をさせて異口同音なことを言わせようとする言葉ではありません。そうではなくて、まさに主イエスがメシアであり、神様の独り子として私たちに力を及ぼしてくださるが故に、私たちがイエス様から決して切り離されない、その一点を確認させようとする問いなのです。私たちは、自分の知恵や知識や努力によって主イエスと結びつくのではありません。まさに主イエスがメシアとして十字架の御業を果たしてくださり、神様の独り子として御力を私たちに及ぼしてくださる、そこに教会の交わりがあることを伝えようとしておられるのです。
ところで、ペトロが代表して答えた信仰の告白は、それが主の教会であるならば、どの教会も決して聴き損なってはならない告白です。教会は、ただ単に、同じ考え、また同じ気持ちの人同士の集まりというのではありません。一人ひとりを見るならば、信仰が弱ってしまったり、ごくかすかになって霞んでしまっているように見えることだってあるのです。人間の思いや熱意が教会を成り立たせる原動力なのではありません。メシアである主イエスが共におられ、私たちに神様の御力を持って働きかけてくださるところに、教会の営みは育まれてゆきます。従って教会は、ペトロが答えた、こういう信仰の告白をしながら聖霊の働きによって、まさしく、この通りであると知らされてゆく群れなのです。
19節を見ると「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と述べられています。繋いだり解いたりする天国の鍵について述べられています。ペトロに向かって言われているので、中世の頃には、ペトロが大きな鍵束を持っていて、それで天国に通じる扉を一つ一つ開けて人々を彼方の天の世界に送り出すのだと考えられていました。しかし、ここに言われているのはそういうことではなくて、ペトロが弟子たちを代表して言い表し、そしてその後、地上の教会にとって決して欠かせない信仰の言い表しになった、その言葉が「鍵」というふうに言われているのです。
「あなたは、わたしを誰と言うのか」、この問いに答え続けるところに、地上の教会は成り立ってゆきます。そして、聖霊の導きのもとに、この問いに対して「あなたこそメシア、生ける神様の独り子です」とお答え申し上げる人々の元に、まことの一つなる教会がなりたってゆくのです。
地上にある教会の群れは、見かけは小さいかも知れません。しかし、陰府の力もこれに対抗できないという約束が与えられています。「あなたこそメシアです。生ける神様の独り子です」、そう言い表しながら、主イエスの許にこそ、私たちの本当の命と真実な人生があることを信じて歩み続けてゆきたいのです。 |