聖書のみことば
2015年5月
5月3日 5月10日 5月17日 5月24日 5月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月31日主日礼拝音声

 聖なる御名
5月第5主日礼拝 2015年5月31日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第6章9〜15節

6章<9節>だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。<10節>御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。<11節>わたしたちに必要な糧を今日与えてください。<12節>わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。<13節>わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』<14節>もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。<15節>しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 ただいま、マタイによる福音書6章9節から15節までをご一緒にお聞きしました。
 9節「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように』と記されています。主イエスが弟子たちに「『御名が崇められますように』と祈りなさい」と教えておられます。ですからここで分かることは、神にはお名前があるということです。

 この地上において、名前が無いということは大変不幸なことです。名前を明かさない、はっきり名乗らないということは、何か後ろめたいことがある印でもあります。差出人の無い手紙、匿名の電話、架空アドレスからのメールなどは、大抵が内容の卑しいものと相場が決まっています。
 神は、名を名乗らずに怪文書を流す、そのようなお方ではありません。神は、ご自身が御業をなさりお語りになるところでは、自ら名乗られます。神は、明るい光を避けて暗闇でこそこそするようなお方ではありません。サタンであれば、自分の正体を隠し、陰でいろいろと陰謀を企みます。しかし神は、きちんとした御名を持っておられます。そして、その御名を私たちに明かしてくださるのです。
 神の御名は、神が誰かに付けてもらった名前ではありません。神自らがお持ちになろうとして持っておられる名です。もちろん、神は人間との関わりを避けるならば、名をお持ちにならないということもお出来になるはずです。例えば、私たちであれば、関わりたくない相手の前では自らの名を名乗らないで済ませてしまうということがあるだろうと思います。しかし神は、敢えて御名をお持ちになって、それを私たちに知らせてくださいます。それは、神が常にはっきりとしたことを好まれ、曖昧であることを嫌われるからです。

 ところで、神が私たちに示してくださる御名とは「聖なるもの」です。今日読みましたマタイによる福音書では「御名」と書いて「みな」と読ませますが、「聖名」と書いて「みな」と読ませる場合もあります。これは当て字ではありますが、そう書く理由は、神の名が聖なるものであることを示すためです。
 ここで主イエスは、神の名が「聖なる名」であるから、「御名が崇められますように」と祈るのだと、教えておられるのです。神の名が聖なるものであるということは、誰かがそれを「聖なるもの」と認めてくれて初めて聖なるものになるということではありません。神の御名は、永遠から永遠へと、この地上が始まる前から、また滅んでしまった後でも、聖なるものです。この「聖」とは、元々「区別する、取り分ける」という意味です。神がご自分のものとして取り分けておられる、それが聖です。ですから、神の名が聖であるということはどういうことかと言いますと、「神だけに属する、神だけに当てはまる」、そういう特別な名であるということです。

 主イエスは、まず最初に「御名が崇められますように」と祈るように教えられました。それは、モーセの十戒「わたしはあなたの神、主である。あなたは、わたしのほかに何ものをも神としてはならない」という最初の戒めの言葉を祈りとして祈りなさいと教えられているということになります。この戒めは「神お一人のみ神であって、あなたにとって他に神があってはならない」という戒めです。その神に祈るときに、「御名が崇められますように」と祈ることを教えられているのです。神の名は唯一、神だけのものですから、他のものに使うことは許されません。神の御名とは、それほどに聖なるものなのです。
 このことは天上ではよく知られていることです。天上では、「御名を崇めさせたまえ」という祈りは祈られません。神の御名が聖なるものであることを、天使たちは当たり前のこととして知っています。預言者イザヤが、天上での天使たちの神への讃美の言葉を記しています。イザヤ書6章3節「彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う』」。今日の礼拝では最後に頌栄546番を讃美しますが、この讃美は、天上での天使たちの讃美が地上にまで溢れ出てきている、そういう讃美です。私たちが頌栄を讃美するとき、私たちは、天上の天使たちの讃美の声と合わせて神を讃美するのです。

 主イエスがここで、「御名が崇められますように」と祈るように教えられる、しかしそれは、よく考えてみますと思いがけないことではないでしょうか。天使たちは清い者たちですから、清い天使たちが聖なる神を誉め讃えるということは、何ら不思議ではありません。しかし、主イエスが人間である弟子たちに対して、神の御名を讃美せよと言われる、それは神の側からしますと、大変な冒険なのではないでしょうか。人間同士のことで考えてみてもそうです。誰かに自分の名刺を渡す。しかし、その名刺が自分の知らないところで一人歩きして、思いがけないところで自分の名が使われてしまって困るというようなことが起こったりします。
 しかし神は、主イエスを通してご自分の御名を明かしてくださって、私たちに対して、神の御名を使っても良いと委ねてくださる。私たちが神の御名を使えるようにと、敢えて知らせてくださる。天使たちは清らかな者ですから、清らかなことに使うでしょう。しかし私たちは果たして、清らかな者でしょうか。神は、私たちが神の名をどのように使うかをご存知ないのでしょうか。神の名がぞんざいに扱われたり、不正なことに使われる、そう心配はなさらないのでしょうか。私たちが神の御名を口に登らせるとき、私たちは一体どれだけ、その名が清いものであるかを思っているか気になります。もし私たちが、神の御名の清さを思わずに、ただおうむ返しに「御名を崇めさせたまえ」と祈るのであれば、もうそれだけで十分に神の御名を汚しているのです。神の栄光を辱めているということになると思います。

 私たちは日頃、どれほどに神のことを忘れがちであるでしょうか。主の祈りを祈るときでさえ、神の御名がどれほど清いものであるかを忘れて、ただ暗唱するだけになっています。しかし、神はそれらをすべてご存知でいて、その上で、ご自分の名を私たちに明かしてくださっているのです。私たちに「御名を崇めさせたまえ」と祈ることを許してくださっているのです。しかしどうして、神は、私たちが神の御名を唱えることを許してくださるのでしょうか。
 その理由は、神の「父なる方」としての愛が、ご自身の名を気遣うことに勝って大きいからです。人間に御名を使わせれば、その名がこの地上で乱用されたり汚されたりするのではないかと気遣う以上に、神は私たち一人ひとりのことを愛し、気遣ってくださっているのです。神から離れては頼るべきものを何一つ持たない、崇めるべきものを持たない私たちであることを、神はご存知であって、私たちが本当に崇めるべき方を崇め、従うべき方に従うようにと、神はご自身の名を知らせてくださるのです。
 神は、私たちの耳が日頃、どんなに汚れた言葉を聞かされているかをご存知です。また、私たちの唇がどんなに不真実なことを語るかということをご存知です。その上でなお、神が聖なる御名を私たちに与え、私たちがその御名を聞き取り、心に刻むことをお許しになる。父としての愛と慈しみがそうさせています。神はそれほどに私たちを気遣って、私たちを御心に留めてくださっています。

 しかし、そのように神の方で私たちを愛して御名を明かしてくださっているからといって、私たちの側がその名をぞんざいに扱ってよいということにはなりません。神の方で私たちを思いやり、愛をもって臨んでくださっている、それはあくまでも神ご自身の側の事柄ですから、私たちとしては、なおその御名を重んじなければなりません。
 十戒には、神の御名について「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を、主は罰せずにはおかれない」と教えられています。私たちは、この十戒の警告の言葉を真剣に受け止め守らなければならない、そう思います。神が、父なる方としての慈しみによって、私たちに御名を唱えることを許してくださっていることをよいことにして、私たちが神の御名を乱用するならば、私たちは神の深い慈しみを踏みにじることになると思います。実際に省みてみますと、十戒の警告にもかかわらず、神の御名は、この地上においては実に無残な形で踏みにじられていると言わざるを得ません。譬えるならば、使い古され、よれよれになったお札を思い浮かべます。神に対して、ただ決まり切った言葉を唱えるだけで心が伴わない、自分が何を祈っているのかすら考えずに、口をついて出てくるままの言葉で「主の祈り」を祈るとすれば、それはまさに、お札をよれよれにして使っているのと同じだと思います。
 私たちは本当に安易に、神の名を口に登らせている。だからこそ、十戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めを思い出したいのです。神がその慈しみゆえに、私たちに御名を委ねてくださっている。その神の慈しみに対して、私たちは慎み深くなければなりません。神は父としての愛を優先させてくださいますが、しかし私たちは「神は、わたしの主なのだ」ということを何よりも第一に受け止めなければなりません。

 そして、そういうところから、このように祈りなさいと教えられている私たち自身のことを考えさせられます。先ほどから語っていますように、神の御名とは、真に清らかなものです。汚れている私たちには、到底手出しのできないものです。 使徒言行録5章に、聖霊を偽って死を招いてしまったアナニアとサフィラの話が出てきます。二人は、ごく僅かな地上の財産に固執したために、聖霊に対して偽りの言葉を語り、そのことの報いで死を招きました。神を侮り、御名をないがしろにする者への警告を、彼らは身をもって表しました。私たちはどうでしょうか。果たして、アナニアやサフィラのような心の傾きを自分の中に持ってはいないでしょうか。考えますと、大変心もとないと言わざるを得ません。
 二人が聖霊を偽って滅ぼされてしまったように、私たちも本当には神を崇めていないで、ただ言葉だけで「御名が崇められますように」と語ってしまうならば、二人のように打たれてしまうことも有り得るのです。

 ところが、実際にはそうなっていません。私たちは、主の祈りを何度も繰り返し唱えてきましたが、その度に、神の清さを考えて祈ってきたという人はいないでしょう。にもかかわらず、私たちは打たれもしないし滅ぼされもしない。教会の民から断たれてもいません。どうしてでしょうか。神には滅ぼす力が無いのでしょうか。私たちを罰する力が無いからでしょうか。そうではありません。そうではなく、私たちと神との間に、一人のお方が立っていてくださっているからです。
 神は、私たちの不真実さや偽りをご存知です。そして、それを確かに罰せられました。ただし、その罰は、直接私たちの上に下されたのではありません。神が私たちの身代わりとして、真実に清らかないけにえとして一人のお方を用意してくださって、私たちの罪をすべてその方に被せて十字架の上で滅ぼされました。十字架とは、私たちが不真実である、神に対して真実ではない、そのことの証拠として起こっていることです。ですから私たちは、私たちの身代わりとなって十字架の死を遂げてくださった、その方によって保護されているのです。
 そして、私たちが主の祈りを唱えるとき、その私たちの祈りの言葉は、直接神の前に登っていくのではなくて、まず、このお方の耳に聞き取られるのです。このお方の御心に受け止められるのです。そして最後に、このお方の清らかな口を通して、神の前に運ばれていくのです。このように、神と私たちの間の仲立ちになってくださっているお方がいる。そしてその方が、私たちに、この祈りの言葉を教えてくださっているのです。「御名が崇められますように」、「あなたがたは、神の名を聖なるものとして、こう祈ってよいのだ」と教えてくださっているのです。
 十字架の仲立ちがあればこそ、私たちは神の御名を呼び、神を讃美することが許されています。十字架の主イエスがいてくださるがゆえに、私たちは、遠慮することなく神の御名を心に刻み、まことに大らかに御名を唱え、お祈りを捧げるのです。「天の父なる神さま、どうかこの祈りを聞いてください」と、私たちは普段、そこに仲立ちがおられることなど何も考えずに、神と直接話しているようなつもりで祈っています。それほど大らかに、私たちは祈ることを許されているのです。「願わくは、御名を崇めさせたまえ」と祈ることが許されているのです。

 そのような祈りを捧げることによって、具体的に私たちの生活に何が起こるのでしょうか。心の病を患う一人の兄弟のことを思い出します。洗礼を受けられた兄弟は、祈祷会に出席すると、交わりにある兄弟姉妹方一人ひとりの名を挙げて祈りました。そこで特徴的だったのは、「わたしの思いのようにではなく、御心が成りますように」と、祈りの最後に必ず付け加えました。つまり、この兄弟の祈りは、自分自身を含めて兄弟姉妹一人ひとりをすべて、神に委ねるというところにポイントがあります。執りなしの祈りですから、一人ひとりが「こうなりますように」、また自分自身が「こうありたい」という願いはある。願いはあるけれども、しかし最後には神の御心に、自分自身をまた祈りに覚える兄弟姉妹を委ねる。そういう仕方で、この方は神の御名を心から崇めていたのだと言えると思います。

 私たちは今日、日常生活の中で、不平不満を抱くことが大変多くなっていると思います。始終皮肉ばかりを言って生活しているようなところがあると思います。今の政治はなっていない、場合によっては、今の教会はなっていない、私たちはつい、そんなことを思ってしまいます。それは人間に対して思うだけではなく、遂には神に対してもそう思ってしまうことがあるのです。一体神は何をなさっているのか。こんなに筋の通らないことを良しとしている。この世界をこんなに惨めな状態で放ったらかしているとは、神らしくない。どういうことか。ひょっとしたら神は居ないのではないか、そんなことまでも思ってしまうことすらあるかもしれない。
 それはしかし、よく考えてみますと、十字架のもとで主イエスを罵ったローマの兵隊たちとよく似ているのです。ローマの兵士たちは主イエスに対して「その十字架から降りてみろ。そうすれば信じてやろう」と言いました。私たちも同じようなことを心に思うことがあります。「神さま、あなたが本当に神さまなら、ここに下って来て世界を正してください。そうしたら信じます。でも、そうならないじゃないですか」と、私たちの心は不平不満でいっぱいなのです。神などいない、そんな空気が世の中には満ち満ちています。皆、好き勝手に生きればよい、そういう空気の中で私たちは生きています。

 そのような、神への信頼を失い神を崇めることを忘れている世の中にあって、ヨブが最後に語ったような言葉を語る人こそ、本当に神を崇める人なのです。「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることができないと知りました。本当にあなたこそ主です」。他の人に向けられていた皮肉・批判が自分に向けられ、自分自身が本当に至らないのだということに気づかされていく。そして十字架の前で沈黙するようになる。その時に、神のみ、全てを導き成し遂げられることを私たちは知るようになるのです。そして、そのことを知る時に、私たちは、神にすべてを委ねようとするようになっていきます。
 心を病んでいた兄弟は、病ゆえに不本意な目に遭うことがしばしばあったようです。周りを責めたり自分を責めたりしながら、長く求道生活を送られました。自分自身の心をコントロールできない、そういうことに途方に暮れつつ、しかし最後に、そういう自分自身が十字架の主イエスの前に立たされている、十字架の上で、自分のままならない嘆きや悩みが滅ぼされている、そう信じて洗礼を受けられました。そして、兄弟姉妹一人ひとりが皆、自分自信を神に委ねることができますようにと祈ることができるようになったのです。

「天の父なる神さま、願わくは、このわたしにも御名を崇めさせてください。本当に、このわたしが、あなたの御名を清らかなものとして生きることができますように」。このように祈りを捧げて自分自身を神に委ねる、その幸いを知って生きる者にされたいと願うのです。
 たとえ、今の生活がさまざまな不自由さや困難や苦しみの中にあるとしても、私たちのままならないこの全てが、主イエスの十字架の上で清算されている。主イエスが暗闇の中に輝く光として立っていてくださるので、このわたしは主イエスの導きの光を信じて生きていく、そのような生活を、ここからもう一度歩みだしたいと願うのです。

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