聖書のみことば
2015年5月
5月3日 5月10日 5月17日 5月24日 5月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月10日主日礼拝音声

 主イエスの埋葬
5月第2主日礼拝 2015年5月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第15章40〜47節

15章<40節>また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。<41節>この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。<42節>既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、<43節>アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。<44節>ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。<45節>そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。<46節>ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。<47節>マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。

 ただ今、マルコによる福音書15章40節〜47節までをご一緒にお聞きしました。
 40節「また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた」。十字架上で主イエスがお亡くなりになった後、福音書の眼差しは婦人の弟子たちに注がれます。主イエスの十字架の時、ガリラヤから主に従ってきた婦人の弟子たちは、遠くから主の十字架を見守っていたのだと語られています。
 新共同訳聖書には所々に小見出しが付けられていて、この40〜41節は、42節以下の前の、主イエスの十字架の死の出来事の記事に一まとめになっています。ですから、ただぼんやりと読みますと、40〜41節は主イエスの十字架の死の出来事の結びの部分だと思って読んでしまうのではないかと思います。しかし、ここは立ち止まって読むべきではないか、主の贖いの出来事の結びとして読んでよいのかと考えてしまいます。
 37節を見ますと、ここで主イエスは息を引き取られます。38節には神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと語られます。神殿の垂れ幕というのは、当時のエルサレム神殿の一番奥まった部屋である至聖所と、その前の部屋である聖所を隔てていた垂れ幕です。一年に一度、過越の祭りの時に、ユダヤの大祭司は聖所から至聖所に入って、イスラエルの民全体のための献げ物をしました。そこにある垂れ幕が真っ二つに裂けた、それはどうしてでしょうか。
 主イエスの十字架の出来事の前までは、大祭司が毎年不完全な犠牲を献げなければいけませんでした。けれども、主イエスの十字架の犠牲という、主イエスご自身の清らかなお体をたった一度献げてくださったがために、もはや毎年犠牲を献げる必要はなくなった、またこれまで大祭司だけが至聖所に入って神の前に出ることが許されていたのですが、これからは主イエスを信じる者は誰もが神の前に進み出て礼拝を献げるようになる、そのことを示すこととして、神殿の垂れ幕が裂けたのです。
 そして39節には、百人隊長が、主イエスが息を引き取られた様子を見て、「本当にこの人は神の子だった」と言ったと、最高の信仰告白の言葉が出てきます。ですから、ここで一旦、主イエスの十字架の出来事は閉じられているのではないかと思えてなりません。それで、今日はわざと40節41節から繋げて42節以降を読んでいただきました。ここから16章にかけての、マルコによる福音書の結びの部分は、婦人の弟子たちの眼差しを通して書かれていくようなところがあります。

 40節に「婦人たちも遠くから見守っていた」と、婦人たちが遠くから見ていたことが語られていますが、「遠くから見ていた」ということは、恐らくは婦人の弟子たちの信仰の状態を表しているのだろうと思います。実は、47節にも「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」と記されており、「見る」という婦人たちの眼差しが出てきます。ここには「イエスの遺体を納めた場所」つまり「墓」を見ていたとありますが、それはお墓の形を見ていたということではなく、お墓に納められた主イエスを見ていたということだと思います。婦人たちが見つめていたのは、主イエスのご遺体です。死んでいる体に目を注いでも、そこから希望は生まれません。慰めは得られず、愛惜の念ばかりが浮かんできます。
 本当は、婦人たちはもっと別のものに目を開かれなければならなかったのに、あまりにもこの死の出来事が大きかったために、そこから離れることができないでいる、そういう姿がここに語られているのです。死の出来事の中にすっかり閉ざされてしまっているために、この15章の婦人たちの有様は憂鬱なものにならざるを得ません。
 しかし、この先の箇所を読んでいきますと、婦人たちは別のものを見せられることになります。それは墓の中で待っていた天使との出会いであり、そして天使から言葉を与えられ、示されて、婦人たちは本当に見るべきものを見る者と変えられていきます。婦人たちの眼差しの出来事の最後に語られるのは16章7節の言葉です。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねてから言われたように、そこでお目にかかれる」。あなたがたは亡くなった遺体の主イエスにではなく、別の主イエスにお目にかかることになると弟子たちが聞かされる、そういう場面で、一番古い福音書と言われるマルコによる福音書は閉じられています。
 甦りの主イエス、それが本当にあなたがたの目を注ぐべきものだと教えられていくのです。そして、甦りの主イエスにお目にかかるためには、今あなたがたが捕らえられている主イエスのご遺体に目を注いでいるだけではなく、天使の告げたことに従ってガリラヤへ行くようにと教えられるのです。そうすれば、ご遺体でも亡霊でもない、本当の甦りの主イエスとお目にかかると教えられます。
 このように、婦人の弟子たちに起こっていることを見てみますと、15章40節41節は、主イエスの十字架の出来事の結びではなく、新しい単元の始まりだと思います。婦人の弟子たちに光が当てられながら、「主イエスの復活」とは、どのように人々に受け止められていくのかが語られている、そう思って、今日はこのような区切りで聖書を読んでいただきました。前置きが長くなりましたが、こう全体を捉えた上で、今日の箇所に聞きたいと思います。

 40節「また、婦人たちも遠くから見守っていた」。なぜわざわざ「遠くから」と言われているのでしょうか。十字架の処刑とは、晒しものの刑罰です。処刑で命を奪うのですが、例えばユダヤで知られる石打ちの刑は、木に吊るされた人に石をぶつけ、打ち所が悪ければ即死する、そういう刑ですから、命は一瞬の内に奪われます。しかし、十字架は違います。十字架の木に打ち付けられたまま、大抵2〜3日生きていて晒しものにされる、最も酷い刑罰と言われています。見せ物ですから、あまり群衆が近寄ってはならない。十字架刑の場合、その人に触れられる程、人が近づいては困るので、周りに番兵がいて群衆が近づかないようにし、人々は遠巻きに見ているのです。ですから、十字架の様子を見るということは、元々遠くから見ることです。なのにどうしてここでは、わざわざ、婦人の弟子たちが「遠くから見守っていた」と言われるのでしょうか。
 恐らくこれは、婦人たちが、十字架にかかっている主イエスを見ることが本当に恐ろしかったからだと思います。恐ろしくて恐ろしくて、主イエスに近づけない。もちろん距離はあるのですが、それ以上に心の距離、気持ちが、主に寄り添えない。あまりにグロテスクな処刑であり、あまりに惨めな姿であるために、「あの方は、わたしの親しい方」と言って近づけなかったのです。
 愛する者が、あまりにも酷く惨めな有様であるとき、私たちはその人を愛していると言っても、心はそうであっても、体の方が参ってしまうということがあると思います。先ほど、「千歳の岩よ」を賛美しましたが、その中でも「燃ゆる心も たぎつ涙も 罪を贖う力はあらず」と歌われています。私たちの罪とは、心で悪かったと思うというようなことだけではないのです。私たちの存在が、本当にむごたらしいところには近づけない、そうところがあると思います。
 主イエスを遠巻きに見ている女性の弟子たちの姿は、昔から教会では、詩編38編に出てくる詩人の姿と重なると言われてきました。今日はこの箇所を交読文にも使いましたが、その12節に「疫病にかかったわたしを、愛する者も友も避けて立ち、わたしに近い者も、遠く離れて立ちます」とあります。これは大変辛い状況に陥ったわたしに、親しい者も遠く立っている、そういう有様を語っています。本当に辛いとき、愛しているからと言っても、近づけない。十字架の主イエスはこの詩人と同じような境遇になったのだと、教会の歴史の中で言われてきました。
 婦人の弟子たちは十字架の主イエスに近づけない、では、主を愛していないのか。そうではありません。心では主イエスに近くありたい。しかし、心は熱していても、体が動かない。恐ろしさのあまり近づけない。この婦人の弟子たちは、41節「この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である」と語られていますが、人間的な間柄で言えば、最も近しい、本当に親しく思っている人たちです。しかし、そういう人たちも近づけなかった。そういう中で、十字架上で主イエスは息を引き取らなければならなかった。これは、人間的な見方で言えば、本当に痛ましい出来事だと言わざるを得ません。

 愛する者に囲まれて息を引き取る、そうでありたいと願います。しかし主イエスの場合には、あまりにも酷い十字架刑であるために、それができなかった。しかし実は、主イエスがそういう仕方で、誰も近づけないほどに見捨てられた姿で十字架に死んでくださっていることこそが、私たちにとっての救いの出来事なのです。
 私たちは生きている間、誰も、思う存分好き勝手に生きるということはできません。子供たちには、「あなたたちは何でもできるのだ」と教えることはありますが、決してそんなことはありません。私たちの人生にはいろいろな制約があって、こう生きたかったけれど出来なかったということが沢山あります。しかしそれは、生きている間だけのことではありません。死の時もそうなのです。畳の上で愛する者たちに囲まれて、生きている間一緒に過ごしたことの感謝を一人一人に伝えて静かに死の時を迎えたいと、私たちは思うかもしれませんが、しかし、そう思うように運ぶとは限りません。最愛の者が遠くにいるために、命の刻限に間に合わなかったということもしばしばあります。どんなに近くありたいと心の中で願っていても、現実の死はそれを許さない、そういう厳しさがあります。
 「十字架の主イエスの死」というのは、そういう私たちのための死であるということです。十字架の主の死の後、地上に生きている私たちは、たとえどんなに痛ましい死の出来事に直面しても、そこにもなお主イエスがいてくださるのだということを、この十字架の出来事を通して示されます。厳しい死の現実の最中に、なおそこに主イエスが共にいて、そして死からの復活と永遠の命を約束してくださっている。私たちはそのことを信じてよいのです。今、生きている私たちですが、これから死を迎える時にも、そこに主イエスが共にいてくださるのです。

 それはただし、必ずそうなるとは言えません。
 私たちはどこから希望を見るのでしょうか。それは、十字架の主、復活の主が共にいてくださるところから希望を持つことができるのです。もし私たちが、その主イエス・キリストから離れてしまったら、希望を失ってしまうことになります。ですから、十字架の凄惨な様子を見上げながら、私たちはなお、信じなければいけない。神が確かに、十字架の上で辛い状況で死なれる主イエスをどこまでも愛し保護してくださっている。この主イエスの姿というのは、まさに神が愛してくださっている、そういう姿ですし、そして神の愛から誰も引き離されることはない、そのことを教えてくださっている主イエスの姿なのです。私たちは、このことを確かなこととして信じなければなりません。表面的な辛さ、凄惨さは確かにあります。しかしそれでも、そこに限りない神の愛と慈しみが注がれているのです。
 そして、このことを確信する人は、この地上で自分の身にさまざまな辛い出来事が起こる時にも、そこにも神の愛が注がれていくと信じて生きる者へと変えられていくのです。

 神は今日のところで、大変不思議なことをなさいます。婦人の弟子たちがとても近づけないと思っていた主イエスの遺体を埋葬するために、仕える人を立ててくださいました。十字架の主のお身体を引き取りたいと願い出たのは、ペトロでもヨハネでもない、主の最もそばにいた婦人の弟子たちでもないのです。アリマタヤのヨセフという人が突然現れて、主のお身体の埋葬に当たります。このヨセフはここまで一度も福音書に名が出てこなかった人です。43節に「勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」とあります。そして主のご遺体を引き取り、葬っています。
 アリマタヤのヨセフは、この葬りの時点で、主イエスの弟子であったかどうか、福音書によって書き方が違っています。マタイ福音書とヨハネ福音書では、ヨセフは弟子だったけれども、同僚のユダヤ人をはばかって、そのことを隠していたと記されています。ルカ福音書とこのマルコ福音書には、弟子とは書かれていません。43節を見ますと「この人も神の国を待ち望んでいたのである」とあります。ルカにも同様の記述があります。ヨセフは弟子だとは書かれないけれども「神の国を待ち望む人である」と言われています。
 主の弟子ではなく神の国を待ち望む人というのは、福音書に何人か出てきます。例えば、シメオンがそうですが、シメオンは主の弟子なのではなく、神の支配が正しく行われることを望んでいた人であり、マルコ、ルカ福音書では、アリマタヤのヨセフもそういう人だったと記しているのです。
 これは私の想像ですが、マルコが最も古い福音書ですから、恐らく、この福音書が語っていることが真実に近いと思っています。ペトロを始め男の弟子たちが逃げ散っていたのは何故かと言いますと、主の弟子であることが知れると、自分の身が危険だったからです。主の弟子だと名乗れたなら、当然、ペトロやヤコブたちが主のご遺体と引き取りたいと願い出てもおかしくありません。しかしそれができなかったということは、主の弟子たちはこの時、相当緊迫した状況に置かれていたのだと思います。
 そうであれば、アリマタヤのヨセフがいかに身分の高い人だったとしても、「わたしは主イエスの弟子です」と名乗り出て、無事に済む筈はありません。ヨセフが主のご遺体の引き渡しを願い出て、それがあっさり通っているのは、ヨセフが主の弟子ではなかったからです。しかし、安息日が近づいている。安息日にユダヤ人の遺体が架けられたままでは、安息日が汚されることになる。ですから、ヨセフは遺体の引き渡しを願い出て、自分の墓に埋葬しました。
 ところが、アリマタヤのヨセフは主イエスを自分の墓に埋葬したつもりでしたが、その墓はあろうことか、主の復活の場に変えられることになる。そこから、ヨセフには弟子たちとの交流が生まれ、やがては信じる者に変えられました。ですから、主の十字架から60年以上も経って書かれたヨハネ福音書では、当然、アリマタヤのヨセフは主の弟子になっているわけで、弟子だったけれども、隠していたのだと書かれているのです。
 また他にも、ヨセフが主の弟子でなかったことを推測させる手がかりがあります。それは、ヨセフが主を埋葬している時に、47節「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」とありますが、もし、ヨセフが隠していたとしても弟子であったのならば、主のそばに仕えていた婦人の弟子たちがヨセフを知らない筈はありません。知り合いのヨセフが主のご遺体を引き取ってくれたということであれば、当然、ヨセフと一緒になって埋葬を手伝ったことでしょう。しかしここには、そう書いてありません。
 十字架刑は晒しものの刑ですから、ローマ兵が遺体を取り下ろしてくれるなどということはなく、何日もそのままにされました。ゴルゴタの丘というのは、丘の格好がされこうべに似ているからそういう名だと言われますが、その他にも、晒しものにされ朽ちた遺体からされこうべが転がり落ちて散乱していたからそう呼ばれるとも言われます。婦人の弟子たちは、とても十字架に近づくことなどできませんし、ましてや埋葬などできない。ところがそこに、不思議なことに、遺体を引き取って埋葬したいという人が現れて埋葬してくれる。その場は、婦人の弟子たちにとっては、ただただやり場のない愛惜の場でしかなく、遠くから見つめる他ないと思っていたのですが、ところが、その場が復活の命の揺りかごに変えられていくのです。

 今日の箇所で、婦人の弟子たちは、何をどうしてよいか分からずに呆然としています。目の前で主の埋葬が行われているけれども、何も手出しができない。目の前で起こっていることを受け止められずにいます。もちろん、それが永遠の命の始まりだと、考えることはできません。そのことは、三日後に天使が教えてくれて、そこで初めて考える糸口が与えられるのです。これは次回聞くことですが、天使が教えてくれたからといって、最初からすべてが分かって喜んだのでもありません。けれども、そういう仕方で、復活の命、永遠の命が与えられていることを知る糸口が与えられていきます。むごたらしい死の出来事の最中に、永遠の命への希望が備えられているのです。
 しかしそれは、目の前の痛ましい辛い死の現実を眺めるところでは、悟ることはできません。天使の語る福音の言葉を聞いて、それを信じることが必要なのです。
 主の死の後、婦人たちに光が当たるのだと言いました。どうしてそうなるのか。恐らくこのことも、私たちが「信じる」という事柄に関わっているのです。神は、主の復活の出来事を、まず最初にマグダラのマリアや婦人の弟子たちに告げられました。私たちはいつもそう聞いていますから、そうだと思っていますが、ではなぜそうなるのか、不思議ではないでしょうか。なぜ、ペトロに、ヨハネに、最初に伝えられなかったのでしょうか。ペトロやヨハネという男の弟子たちは、婦人の弟子たちから教えられて、それで、自分たちも墓へ行き、確かに墓の中が空っぽであることを見せられます。どうして最初に、婦人の弟子たちに復活が告げられるのか。それは、主の復活ということは、決して何らかの証拠によるのではなくて、語られた言葉を信じることによってだけ確かなものとされる、そういうことだからだろうと思います。
 当時の考え方によりますと、裁判でも噂でも同じですが、二人または三人の証言によって真実が確定するとされていました。一人の人が雄弁に語っても駄目なのです。真実なことは、誰かが語ったことに対して、別の誰かが「そうだ」と言ってくれて初めて真実となるのです。ところが、そういう証人としての資格があったのは、当時、男性だけでした。女性の言葉は証拠となりません。ですから、マグダラのマリアに告げられて、男の弟子たちは自分で墓を見に行ったのは、「自分が聞かされた言葉を信じた」からです。聞いて、そうだと受け取る、そうでない限り、主イエスの復活とは私たちが確かなことだと言えないということです。わたしに教えてくれた人は立派な人だから、だから多分本当でしょうとか、あるいは、何人もの人がそう言っているから確かだろうとか、そういうことではない。わたし自身が、聞かされたことを本当のことだと信じているかどうか。そしてそのことによって、神が備えてくださる希望を受け取って、それに与って生きることができるのです。

 主イエスが甦ってくださっている、命の後ろ盾になってくださる。私たちがどんなに辛い時にも、苦しい時にも、惨めな時にも、主がいてくださるということは、私たちが幼い時に両親に聞かされたからというようなことではありません。そうではなくて、今日、私たちがこのことを「本当のことだ」と、「主が甦って、わたしと共に歩んでくださっているのだ」と信じることによって、私たちは復活の命の希望を自分のものとして歩んでいくことができるのです。

 今日の箇所の終わりでは、婦人の弟子たちは、主のご遺体の納められた墓を呆然と見つめている、そういう状況で終わっています。しかしやがて、福音の言葉を聞かされて、この婦人の弟子たちは希望を持つ人に変えられていきます。そして、「主イエスは確かに甦られました。私たちは空の墓を見た証人です」と、周りの人たちに伝えることへと導かれていくのです。
 私たちのこの地上での生活は、さまざまな嘆きや悲しみがあります。死の時だけではなく、死の前にも、思うようにならないことがたくさんある。しかし、そのところになお、主イエスが共に歩んでくださっている。そして、私たちのこの生活の中にこそ、神が永遠の命への戸口を開いてくださっている。そのことを信じる者でありたいと願うのです。

 主イエスが納められた墓の惨めさの先に、神が備えられた永遠の命があります。そして、そうであるならば、私たちは死を最後のことと考えないようにしたいのです。私たちは、死が起こるとすべてがひっくり返ったように思いがちです。しかしそうではない。私たちは、死の出来事に出会うと確かにショックを受けます。今まで親しくしていた人が取り去られるのですから途方に暮れますけれども、しかし、神がそこにも臨んでいてくださって、取り去られた者も、また傷ついている私たちも、更に命の営みへと持ち運んでくださるのだということを信じて、ここから一巡りの歩みに送り出されていきたいと願います。

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