聖書のみことば
2015年5月
5月3日 5月10日 5月17日 5月24日 5月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月24日主日礼拝音声

 聖霊のおとずれ
ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝 2015年5月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第2章1〜13節

2章<1節>五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、<2節>突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。<3節>そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。<4節>すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。<5節>さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、<6節>この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。<7節>人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。<8節>どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。<9節>わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、<10節>フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、<11節>ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」<12節>人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。<13節>しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 ただ今、使徒言行録章1節から13節までをご一緒にお聞きしました。
 1節〜4節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。ペンテコステの日に、聖霊が地上を訪れてくださったという記事です。この時期にはよく読まれる箇所でご存知の方も多いかと思いますが、今日は、この記事の前に少し立ち止まって考えてみたいと思うのです。

 ペンテコステの日に聖霊が降ったと言われておりますが、一体どうしてこの時にこのことが起こらなければならなかったのでしょうか。改めて考えてみますと、ここに至るまでに必要な神の御業はすべて既に成し遂げられているのではないでしょうか。主イエス・キリストが十字架におかかりくださり、その苦難と三日後の復活によって、私たちの罪の贖いの業は既に完成されているのではないでしょうか。主の三日後の復活により、もはや死は最後のものではない、「主イエス・キリストは死に勝利された」ということは確かなこととして示されているのではないでしょうか。復活の主が天に昇り神の右の座に着き、私たちのための執り成しをなさっている、その主に出会わされて甦りの命を信じて祈る群れ、そのような群れは既に誕生していたのではないでしょうか。
 例えば、使徒言行録1章15節を見ますと、「百二十人ほどの人々が一つになっていた」と言われています。もう既に、甦りの主イエスに出会って信じる人々が現れてきています。この他に一体何が足りなかったのでしょうか。ペンテコステ、日本語では五旬祭の日ですが、その日に一体何が起こったのか、知りたいのです。確かに何かが起こった、それは間違いありません。それは十字架と復活の出来事のおまけのようなものではなく、十字架・復活と並ぶ大きな出来事として語られているのです。

 主は甦られた後に、弟子たちに対して、このペンテコステの日に起こることについて予告しておられました。1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と、主イエスと入れ替わりに聖霊が降るのだと言われました。「あなたがたは力を受ける、わたしの証人となる」と、聖霊が主イエスと入れ替わって弟子たちを励まし、復活の証人にしてくださると、主は弟子たちに教えてくださっていました。
 弟子たちは主イエスと離れれば無力です。私たちも同じです。主イエスが十字架で死なれた時、弟子たちはどうなったでしょうか。男の弟子はそこに居ませんでしたし、婦人の弟子たちは遠くから十字架の主を見つめるほかありませんでした。葬りの時には、まだ弟子でなかった者の手でなされる葬りを、一番身近だった婦人の弟子たちでさえ、ただ見守るだけしかできませんでした。自分たちの導き手であった主イエスが殺された事実の前に、弟子たちは一時、力を失い、大きなダメージを受けます。天使が主の復活を告げてくれても、その知らせを喜ぶことはできませんでした。マルコによる福音書の最後には、皆が「信じなかった」ことが繰り返し記されています。
 人間の力によって、主イエスの復活を信じて喜ぶことはできません。どんなに主イエスを好きでも、必ず主は一緒にいてくださると信じようとしても、しかし、死の現実はそれ以上に強力です。私たちは自分の力や思いの強さによって死の現実を乗り越え、主の復活の出来事を掴み取ることはできません。
 であれば、どうやって弟子たちは信じる者となったのでしょうか。弟子たちが自分の理解力や思いの強さによって、主の復活を信じる者となったということではありません。十字架の後、復活の主イエスは弟子たち一人一人に親しく現れてくださって、復活を信じてよいと教えてくださいました。その教えを聞きながら弟子たちは、かつて主が共にいてくださった時に「救い主は苦難を受け、十字架に死に、三日目に復活する」と話してくださっていたことを思い起こします。人間の理解によって復活を信じるのではなく、主の御言葉が弟子たちの中に一言一言埋め込まれ、それによって、主は甦っておられることを確かなものとして信じることができるようになっていったのです。

 ところが、その主は今や天に帰られ、父なる神の右の座、栄光の座にお着きになる。そうすると、これまで甦りの主が直に弟子たちに聞かせてくださった言葉は聞けなくなります。それで、主が天に昇って最初になさったこと、それは弟子たちに「聖霊を送る」ことでした。先ほど読みました「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と、主イエスが約束してくださったこと、それがこのペンテコステの日に起こっていることです。その時からは、甦りの主イエスではなく、聖霊が弟子たちを力づけ、御言葉を悟らせる。そして、弟子たちは聖霊の働きによって信仰を与えられ強められ、確かな者として生きていくようになるのです。

 また、この聖霊の出来事をもう少し別の見方で具体的に言うならば、どういうことなのでしょうか。それは「教会」ということです。聖霊の訪れによって、地上に教会は誕生します。
 実は、教会以外にも神の民とされた人々はいます。聖霊の訪れ以前に、神は、旧約に書かれているようにアブラハムの家を選び、その子孫であるイサク、ヤコブから続くイスラエルの民を選ばれ、そこに属する一人一人を神の宝の民として持ち運んでくださいました。ところが、神の宝の民とされた人々が、あろうことか神からの独り子を退け、十字架に磔てしまいました。彼らは神のなさることを決定的に否定しました。神はご自分の独り子を遣わしたならば、神の御心を聞くだろうと思ってくださったのに、彼らは神の御子から御言葉を聞くよりも、自分たちの言い伝えや考え方を押し通して生きる方が良いと考えました。それによって、自ら神の宝の民であることを辞めてしまって、神のなさることに敵対する者となってしまったのです。
 神は、そのような古いイスラエルに代わる新しい神の宝の民を、地上に起こしてくださいました。それが「教会」です。ですから、教会は「新しいイスラエル」とも言われます。神がもう一度立ててくださった、新しい契約に生きる群れなのです。
 日頃私たちは、自分が新しい契約の元に置かれているとは思わずに、単純に主イエスを信じるキリスト者だと思っていますが、しかし思い出してください。今日はこれから聖餐に与りますが、聖餐式での制定の言葉は、「この杯は、わたしの血による新しい契約である」との主の言葉です。「あなたたちはこの杯を受けて、新しい契約に生きる民なのだよ」と、最後の晩餐のとき、主イエスは弟子たちにおっしゃってくださいました。「杯」とは主イエスの血です。古いイスラエルが主を十字架につけて自分たちが神の宝の民であることを拒否してしまう、しかしまさにそのところから、主は新しい契約の民を起こしてくださいました。「あの十字架こそはわたしの救い、十字架の主こそわたしの主なのだ」、そう告白して生きる人は、新しい契約に生きる一人ひとりだと、主が教えてくださり、その主を信じて洗礼を受ける者を聖餐に与る者としてくださるのです。教会とは、その主イエスのなさりようを信じて、新しい契約に生きる民です。私たちは、そういう教会の群れに一人ひとり招き入れられ、歩んでいます。

 神は本当に不思議な仕方で教会を生まれさせられた、そのことがここに記されています。聖霊を送ってくださり、その聖霊の導きによって教会が生まれたと言われています。教会は、聖霊が訪れてくださることによって初めて成り立つのです。他の仕方では決して成り立ちません。人間の理性や、人類の叡智というものによって教会を作り上げることはできません。私たちは、自分の能力で教会の基礎を形作ることはできないのです。私たちを教会に招いて教会を形作る、それは神だけがおできになることです。聖霊を送り、主の十字架と甦りの上に私たちを立たせてくださる。私たち一人一人を招き、教会の群れに連なる者としてくださる。神が絶え間なく聖霊を送ってくださる、そのことによって教会は歩んでいます。
 聖霊の訪れは大昔のことで、私たちはそのことを知る者の子孫だということではありません。今この私たちにも、神が絶え間なく聖霊を送ってくださる。そして、十字架と復活の主イエス・キリストに出会わせてくださる。そのことによって私たちは、いよいよ深く教会の枝として植え込まれ、主の御救いの中に生きていることを知らされて歩んでいるのです。

 ですから、教会が教会として相応しくあり続けるということは、厳密に言えば、私たち人間にできることではありません。私たちがどんなに頑張って教会を清く保ち、教会らしく装おうと思ったとしても、人間の知恵や思いでは、教会らしくあることはできません。
 私たちが日々経験することに照らして見ても分かると思います。私たちは教会に集まりますが、始終そこで小さな行き違いや諍いが起こります。それはなぜかと言えば、私たちが人間だからです。私たちが天使だったら、穏やかに過ごすかもしれません。けれども残念なことに私たちは人間ですから、何か険しさや、のっぴきならない欠けを持って集まってくるのですから、それが顔を覗かせます。ですから、人間の力で教会らしくするとか、一つになることはできないのです。

 けれども、その逆も然りです。教会が聖霊によって作られる、だからこそ、私たち人間が教会を潰すこともできません。教会の中でいろいろ経験すると、先ほど言いましたが、それにもかかわらず、私たちが「教会はもう駄目だ、やめてしまおう」とならないのはなぜか。それは、聖霊が私たちの上に働いているからです。欠け、破れ多く、弱さを抱えている私たちですが、それでも「あなたたちはキリストの土台の上に立つ者なのだ」と、聖霊が呼びかけ招いてくださる。だからこそ私たちは、主の復活の証人としてこの地上に立ち続けるのです。人間臭い出来事が始終ある、それでも教会が滅ばないのは、聖霊が私たちを招き、導き、持ち運んでくださっているからです。神のなさりように対して、人間は邪魔をすることはできません。

 ペンテコステの日、神はまさに教会を地上に立てようと決心され、聖霊を遣わされました。聖霊が遣わされたとき、その場で証人になったのは12人の弟子たち、120人ほどの弟子たち、その他に多くの婦人の弟子たちがいたことが聖書に記されています。
 けれども、このように人が集まっただけで教会ができるのではありません。集まっている一人ひとり、隅々にまで聖霊が行き渡り、私たち一人ひとりが聖霊に満たされるということがなくては、私たちも教会になることはできません。聖霊は目に見えない絆のように、不思議な接着剤のように、私たちの間に働きます。そのことによって主イエスを信じる者は一つに結び合わされていくのです。
 聖霊の働きと教会の交わりの間に、そういう不思議な結びつきがあるものですから、教会が最初から言い表している使徒信条の中で、私たちは「われは聖霊を信ず」と告白した後、すぐに、「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と告白します。聖霊が働いて、最初に生まれるのは「聖なる公同の教会」です。そしてそこで「信徒相互の交わり」が生まれる、そのことを「信じる」と、私たちは毎週告白しています。教会は、目に見えるだれそれが居る、いい人たちが集まっている、そういうだけの交わりではないのです。

 地上の教会が聖霊の訪れによって成り立つ、そのことをもう一度、今日のこの箇所を通して考えたいと思います。実は、この日のことをきちっと記録に留めることは難しいことだったようです。ここを読みますと、使徒言行録を書いたルカが、何とも戸惑いながら書いている様子を見て取ることができます。
 例えば2節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」とあります。激しい風が吹いてきた音ではなくて、激しい風が吹いて来るような音、それは風の音なのか風の音でなかったのか。あるいは、3節「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。「炎のような」、この「ような」が曲者です。私たちは言葉をなんとかイメージしようとします。舌なのか、炎なのか、「炎のような舌」なんて、私たちは見たことがありませんから、何だろうかと思わずにいられません。ルカはよく書いたなと思います。何とかこの出来事を伝えるために、ルカは言葉を考えて書いていますが、しかし戸惑っていることは確かです。
 けれども、はっきりしていることもあります。五旬祭の日に、大勢の者が集まっていたことは、はっきりしています。「一同が一つになって集まっている」とあります。けれども、この「一つになって」ということも考えなければなりません。恐らくこの時点では、「一つになって」とは、まだ不安にかられ恐れに支配されている、弱い人たちが肩を寄せ合うように集まっている、そういう一つであるに違いありません。その証拠に、ここにいる弟子たちは誰一人、ここから出て行って、復活の主イエスを伝えようとしない。ここに自分たちのベースがあり、出て行っても戻ってくる場所がある、だから喜び勇んで出かけていって、主イエスを伝える、そういうことではないのです。みんなでただ一つになって何をしていたのか。彼らはただ待っていたのです。かつて主が言ってくださっていたようになるのは何時だろうかと、ただ待ち続けているのです。
 自分たちは、「いずれ力を与えられて、地の果てに至るまで主イエスの証人となる」らしい。けれどもそれは何時のことか。弟子たちには皆目見当がつきませんでしたが、しかしそれは突然、意表を突く形でやってきました。一陣の風が吹いたようでもあり、そうでなかったようでもあり、とにかく一瞬のうちに起こり、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。

 大変興味深いことですが、「炎のような舌が分かれ分かれに現れた」と、聖書は語ります。「分かれ分かれ」ということですから、最初は一つだったのでしょう。「炎のような舌」自体がよく分からないのに、なぜ元は一つのものだったと言えるのでしょうか。大変不思議な気がいたします。
 けれども、これは私たちに与えられる信仰を考えても、そう思わざるを得ません。信仰は、私たち一人ひとりに、聖霊によって、分け与えられます。そしてそれは、私たちに確信を与え、語りかけ、私たちの心を燃やしてくれる。確かに聖霊には燃える炎のようなところがあるのです。それは確かに私たち一人ひとりが経験することですけれども、しかし決して、私たちの心の中のことではありません。確かに一人一人に現れる、けれども、元は一つなのです。
 ある人が悟りを開いたから、自分の理解として信仰を持つのではありません。もともと一つの信仰が教会に与えられていて、それが私たちを教え、導いて、そして私たちは信仰を告白するに至るのです。教会は一つ、聖霊は一つ、主に与るバプテスマも一つなのです。
 バプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていたとき、主イエスを指し示して「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と教えました。その「聖霊と火」による洗礼の出来事が、ここに起こっているのです。ペンテコステの日に、火が投じられてからずっと、教会にはこの火が燃え続けているのです。
 私たち一人ひとりの信仰のことを考えますと、燃えていた火が時にはくすぶるということがあるかもしれません。しかし聖霊の火は、決して燃え尽きることなく光を放ち続け、燃え盛る火は分かれ分かれの舌のように働いて、私たちに一人ひとりに聖書の御言葉を思い起こさせるのです。
 ですから、ペンテコステの出来事というのは、十把一絡げに、皆が同じものを見たということではありません。「分かれ分かれに現れた」と言われているように、一人ひとり、それぞれに働いたのです。しかしそれは同時に、一つなのです。一人一人がその人らしい仕方で、しかし元々は一つである聖霊に満たされ、強められ、動かされ、教会の第一日目はそのようにして始まったのだと、聖書は語っています。

 では、教会はそこから何をしたのでしょうか。集まっていた弟子の一人一人は何をしたでしょうか。それまでの弟子たちは、恐れと不安を抱きつつ集まって、ただ待っていました。ところが聖霊が降ると、この弟子たちには驚くような変化が現れます。立ち上がって行動し始めます。4節「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。ペンテコステの日に、教会はいきなり説教をし始めました。あるいは「説教しただけか」と思われるかもしれません。教会が説教したからと言って、世の中が変わるわけではないのだから、教会もキリスト者ももっとやるべきことがあるのではないかと思われる方もいるかもしれません。またあるいは、主イエスのことを語るのなら、耳に心地よくわかり易い説教をしてほしいと思われる方もいるかもしれません。ところが、ペンテコステの日に語られた説教は、そうではありませんでした。いわゆる「下手な説教」です。
 ここに「霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とありますが、自国語でなく外国語で語るということは、なかなか思いを十分には伝えられないものではないでしょうか。説教を語ることにおいても同じことが言えます。説教者は示されたことを何とか伝えようとして語ろうとしますが、しかし果たして、自分が聞いたように伝わっているだろうかと思いつつ語ることがあります。時には、説教を聞いた感想を聞かされて、動揺することがあります。その通り、だけれども自分が思っていたこととは違う。不思議ですが聖霊が働くとそういうことが起こることがあります。説教者は一生懸命に聖書の御言葉を伝えたいと思いますが、しかし十分に内容を捉えきれていない場合もある。しかしそこで、聞く者たちが御言葉を聞きたいと思って聞くと、御言葉をきちんと聞いて「今日は恵まれました」と言われる…それで、説教者は動揺しますが、ああ、そういうことだったのかと逆に説教者も恵まれるということがあります。聖霊の働き方には、そういうところがあります。説教は上手に語るということではないのです。
 今日は13節までとしました。ペンテコステの記事はこの後ずっと続きますが、14節以降は分かりにくい箇所です。ペトロの説教、またステファノが石打で殺される前の説教があり、カイサリアでのペトロの説教がありますが、使徒言行録に記された説教はどれも、一度読んだだけでは分かりづらい、難しいと思う説教です。ペンテコステの日に聖霊が降り、語る言葉として弟子たちに与えられた説教とは、実はそういう説教なのです。一言でわかる明快な説教ではなかった。けれども、そういう分かりづらい説教が用いられて、実に大勢の人が「主イエスは甦られたのだ」と信じるようになりました。

 五旬祭の日に、聖霊はその御業を始めました。その日から、その最初の世代から次の世代へと、途絶えることなく常に聖霊は風が吹くように新しい言葉を語り続けて、今日まで私たちの間に働き続けています。
 主イエスによって神がなしてくださった大きな御業を、聖霊は語り続けます。そして、その聖霊の御働きに、私たちも今日、与っているのです。
 ただ聖霊については、私たちが都合良く身勝手に考えないことが大事です。聖霊の訪れは、このペンテコステの記事のように目覚ましい劇的な変化があることだと決めないことです。聖霊は働き方としては風ですかから、常に新しい形を生み出しています。時には劇的に、しかし時にはひそやかに働くということがあるでしょう。今日もし語られたペンテコステの出来事を少しでも理解するならば、それも実は聖霊の働きです。そしてもし、自分はからし種ほどの信仰しかないけれど、神の大きな御業に与りつつ生きたいという志が与えられるなら、そこで既に、私たちの中に聖霊による御業が始まっています。そういう聖霊を日毎に与えられながら、地上の生活を私たちは歩んでいます。

 ペンテコステの日に聖霊が訪れ、その聖霊が今日に至るまで私たちの間に働き続けていることを覚えつつ、新しい一週の歩みを始めたいと願います。

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