ただ今、マルコによる福音書15章25節〜39節までをご一緒にお聞きしました。
ここには、主イエス・キリストの御受難の出来事が記されています。毎年、イースターに向かうレントの季節や受難週に読まれる箇所ですから、恐らく幾度となくこの箇所を聴いたという方も少なくないことと思います。私たちはそのように何度もこの箇所を聞いてはいるのですが、しかしそれにも拘らず、ここに述べられている主イエス・キリストの苦難というものを私たちが理解できているかと言いますと、そうではありません。
主イエスが私たちのために受けてくださった苦難は、文字通り筆舌に尽くし難いものです。決して十分に語り尽くすことのできない深い嘆きと痛みと苦しみとを、主は十字架で経験しておられます。言葉にできないほどの厳しい裁きを、主イエスは私たちのために、私たちの身代わりとなってご自身の身に受けてくださいました。そのことを何とか聖書は伝えようとしています。
本来それは簡単に言葉にできないほどのことですが、それを言葉にしようと努力しているわけです。ですから今朝は、これを聞く私たちも心して、ここに語られている事柄を受け止め、自分の中に幾分かでも刻み込んで、そして草食動物が反芻をして栄養を摂るように、私たちも主の御受難を繰り返し思い起こす者でありたいと願うのです。
25節「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」。主イエスが十字架に磔にされた時間のことが記されています。「午前九時であった」、その後よく知られていますように、お昼の12時になると全地に暗闇が臨み、そして午後3時、主イエスが十字架上で息を引き取られるまでその暗闇は続いたと、3時間ごとの出来事が聖書には記されております。
元々のギリシャ語聖書では、「午前九時」は「第3の時」と書かれています。第3の時に十字架に磔にされた、第6の時に暗闇が全地を覆った、そして第9の時に主イエスが十字架の上で叫ばれたと書かれています。3、6、9と来れば次は12です。第12の時は、私たちの時間で考えますと晩の6時ですから、夕暮れです。太陽が沈み夜が始まる夕暮れの時、主イエスのお体は十字架から降ろされてお墓の中に納められ、墓には大きな石が置かれました。第12の時に、埋葬が完了されます。そう考えますと、聖書に言われる第3第6第9の時は、主イエスの死の出来事と埋葬の時に向かって進んでいる時であると言ってよいだろうと思います。
第3の時、主イエスが十字架に磔にされます。激しい痛みと苦しみ、鞭打たれたためにボロボロになり疲労した体を抱えて、主イエスは十字架に磔にされていきます。著しく傷つけられていますが、しかしこの時点では、主イエスは確かに息をされております。そこから時間が第6の時、第9の時へと進んで行くのです。
私たちにとって、愛する家族の誰かが地上の生活を終えていくとき、私たちはそこに残されている時間というものが気になるものです。愛する者が重篤な病気であると告げられますと、私たちはその瞬間から、その愛する者の残りの時間がとても気がかりになり、そしてそこから時間の流れがとても濃厚になる、そういう経験があるだろうと思います。死までの時が告げられている、しかし今日はまだベッドから起き上がって窓辺の景色を眺めることができる、会話ができる、今日はまだ目が開いていて、お見舞いに行ったことを分かってくれる、そんなふうに一刻一刻の出来事が重大に思えてくる、そういうことがあるのではないかと思います。そういう中で私たちが普通に思うことは、共に過ごせる時間が少しでも長くあってほしい、そういうことだろうと思います。
第3、第6、第9の時と、主イエスの十字架の出来事に時刻が記されているということは、死に向かっていく出来事がもはや決して後戻りできず、時間を止めることも出来ずに、着々と進んでいるのだということを表すのです。父なる神が、容赦なく主イエスを死に向かって持ち運んでいかれます。まるでノンストップの特急列車に乗せられてしまったかのように、主イエスの地上の命は終わりの時に向かって猛スピードで運ばれていきます。誰も、それを止めることはおろか、とりすがることさえできません。
それにしても、主イエスの死への道行というものは非常に過酷なものでした。今日のところでは、主イエスが二人の犯罪人の間に磔にされて、二人の犯罪人と同様の者とされた、そしてその状況で様々な激しい罵りと嘲りを受けたのだと、29節から32節にかけて語られています。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」
。読んでいて気づかされるように、ここでは主イエスに対して嘲る人たちが、3つのグループに分かれて登場します。
第1は「通りがかった人々」、第2は「祭司長たち」「律法学者たち」、そして第3は「一緒に十字架につけられた者たち」です。主イエスが十字架上で命を落とされようとするとき、その命を惜しんでとりすがろうとする弟子たちの姿は、ここには見当たりません。弟子たちは皆、我が身が可愛くて、十字架の主の元から逃げ去ってしまっています。主イエスの命が地上から取り去られ失われていく、その時に、その命を愛おしんで寄り添ってくれた人は誰もいなかったのだと、この残酷な消息をマルコによる福音書ははっきり伝えます。
誰であっても、人が死に赴く時には、もはや自分で自分を頼みとすることはできません。なぜなら、自分がどんなに頑張ったとしても、自分は失われてしまうからです。誰であっても、私たちが死を迎える時に、その命を悼み、愛おしみ、そして支えてくれるもの、それは決して自分ではありません。失われていく者を上より御手を伸べて支えてくださる、その神の御手が無いならば、私たちの死の出来事は、たとえそれをどう飾ってみたとしても、虚しいからっぽのものでしかありません。死に際して、上よりの御手が確かに臨んで、そして間もなくこの地上での命を終える、そのことを証ししてくれる兄弟姉妹が私たちの死の床に寄り添っていてくれるならば、どんなにか心強いことだろうと思います。しかし、主イエスの死の時にはそういう人は誰もいなかったのだと、聖書は告げます。むしろ、主イエスの死へ向かう命は、罵られ、嘲られ、軽んじられています。何重にも主イエスを包囲して、嘲りの声、罵声が飛び交います。
ここには主イエスを朝ける3つのグループが出てきますが、よくよく考えてみますと、この3グループの人たちは、皆同じように嘲っているのではありません。それぞれに違いがあることが分かります。そしてまた、もしかすると、この人たちは、自分たちが死に向かっている主イエスを嘲っていることに気づいていないかもしれません。この3つのグループの人たちについて考えてみたいのです。
第1のグループ、それは、偶然に通りかかった行きずりの人たちです。この人たちについて、29節30節には「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』」とあります。この人たちは、たまたま通りがかった人たちです。従って、ここに行われている十字架の出来事が、自分に関わりがあるとは思っていません。ここで死に行く人がどんな目に遭っていようとも、そんなことは、そもそも自分には何の関わりもないのだと思っています。主イエスの十字架に対して、自分は傍観者だと思っている。あるいは、せいぜいのところ批評家のように、この出来事に立ち会っているだけです。
この人たちは、自分もいずれは死へと赴かなければならないのだということを知らずにいます。そして、人生には死のことよりももっと身近で、問題にするべき沢山のことがあるのだ、そう思っています。この人たちは「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と罵ります。この言葉は大変興味深いと思います。「神殿を打ち倒し三日で建てる者」と囃し立てているのです。しかし、この人たちは、主イエスがおっしゃった「神殿を打ち倒し三日で建てる」ということがどういう意味なのか、少しも分かっていません。まさかそれが「十字架の死、それから三日目の復活」のことだとは、夢にも思っていません。この人たちは、主の言葉を何も理解しないまま、主を嘲っているのです。
この人たちのこういう姿を聖書から示されながら、私たちは自分自身のことを考えることができるのではないかと思います。私たちは、お互い同士のことを完全に理解できるなどということはないかもしれません。しかし、ある程度は相手のことを理解したいと思っているのではないでしょうか。そして、もし幾分かでも理解できて、そしてそこで共感できるものを見出せる場合には、相手のことを愛したり尊重したりできると思います。逆に相手を少しも理解できない、共感できないと、その相手を平気で軽んじてしまうということがあるかもしれません。興味、関心の方向が全く違う人と会うということがあると思います。その時に、私たちは往往にしてしまうのですが、その人が目の前にいても、そこにその人が居ないかのように振舞ってしまう、そういうことがあるかも知れないと思います。この人はこの人で生きている、しかしそれは私には関係ないことだ、私は私の興味関心、心の琴線に触れる人とだけ交わっていく。
ここで、主イエスを囃し立てている人たちを見てみると、主イエスのおっしゃった「三日で神殿を建てる」という言葉は、彼らにとって一向に興味を引かない言葉なのです。だからこそ、主の十字架は嘲りの対象となるのです。この人は訳の分からないこと、神殿を立て直すなどという大仰なことを言っているけれども、実際には十字架上で死に瀕していて、しかもその十字架から降りることもできないではないか、そう嘲るのです。この第1のグルーブの人たちは、そもそも主イエスの言葉を理解できていませんし、主イエスに対しても、その教えに対しても無関心です。
けれども、主イエスが関心を向けてもらえなかったのは、この時が初めてではありません。まさに、クリスマスの時がそうです。主イエスが地上においでになった、その時に、客間には泊まる余地がなかったので主イエスは馬小屋で生まれたと、聖書は語ります。大勢の人たちは各々の目的のために忙しくし、自分たちのために宿屋を取っていました。そのために、救い主の誕生に際して場を空けることができませんでした。実は、今日のここで同じことが繰り返されています。各々が目的を持って来たエルサレムで、主の十字架の前を素通りしていきます。この十字架が自分に関わりあることだと全然知らずに、救い主を嘲って、人々は通り過ぎて行くのです。
さて、このような十字架に無関心な人たちに紛れるようにして、第2のグループの人たちも嘲りの言葉を発します。第2のグループは祭司長たちや律法学者たちです。この人たちの様子は、32節33節「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』」とあります。この人たちは、第1のグループと明らかに違うところがあります。第1のグループは通りがかりで、自分たちは全く十字架と関係が無いと思っています。しかし、第2のグループはそうは思っていません。主イエスを十字架に磔にするように扇動して、十字架の出来事を引き起こした張本人は、この人たちです。無実の方を十字架に追いやったその責任は誰にあるかと言うと、真っ先に名が挙がるのがこの人たちです。
そして、この人たちは主イエスがおっしゃったことを全く理解できないということではありません。もちろん、良く分かるということではありませんけれども、おぼろげであっても主の言われたことが分かっているのです。そのおぼろげに分かっているということが、自分たちへの痛烈な批判であるということも分かっています。自分たちの有り様が攻撃されている。悪い羊飼いというのは、真の羊飼いの現れるところでは、自分の身を守るために、これを滅ぼしにかかります。第2のグループの悪質なことは、主イエスを亡き者にしようと陰謀を企てて陥れている、それにも拘らず、何食わぬ顔をして第1のグループの人たちの中に紛れ込んでいるところに表れています。
改めて気づかされます。31節に「同じように」とあります。決してこの人たちは、第1のグループと同じではありません。同じでないにも拘らず、第1のグループの人たちと同じように振舞って見せる。そうすることによって、自分の中に潜んでいる激しい敵意や不安を誤魔化そうとしているのです。しかし、その企ては上手くいっていません。福音書の中で、明らかにこれは第1のグループと違う第2のグループとして書き留められています。第2のグループの人たちは群衆を扇動して、大勢の十字架に無関な人たちの中に紛れ込むようにして、陰の、黒幕のように振舞おうとしている。しかし、この人たちは間違いなくここにいると名指しをされて、はっきり見えるように明るみに出されてしまっています。
そして第3のグループとして主イエスを嘲っているのが、主イエスの両脇の十字架に磔にされている人たちです。32節の終わりに少しだけ出てきます。「一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」。この人たちが主イエスを罵る理由は一体どこにあるのでしょうか。この人たちは、祭司長や律法学者たちのように、最初から主イエスを憎いと思っているわけではありません。危害を加えようと思っているのでもありません。あるいはまた、通りすがりの人たちのように、十字架が自分にとって関わりのないことだと思っているわけでもありません。何と言っても、今、自分自身が十字架に付けられて苦しんでいるのです。では、そういう彼らがどうして同じ十字架に架けられている主イエスを罵るのか。本来なら、罵る余裕などないはずです。罵ったからと言って、この犯罪人たちに利益があるとも思えません。罵れば状況が良くなるのかと考えても、何も思い当たりません。にも拘らず、この人たちは主イエスを罵ります。どうしてでしょうか。
この二人の犯罪人は、いわば自分の今まで生きてしまったその人生の責任を問われて、この場所にいるのです。これまで生きてきた中で溜まりに溜まったツケを支払うような羽目になっている。ところが、そうなっていることを直視できないのです。旅の恥はかき捨てというように、その時々に勝手なことをやってきて、過ぎてしまえば良いと思っていたけれども、それがここで捕らえられてツケを支払わされる、十字架にかけられているのです。しかし、自分がやってきたことの結果なのだと認める覚悟と勇気がない。そのために、すべて周りのせいにしたがっているのです。たまたま隣の十字架に磔にされているその人に対しても、容赦しないのです。何でもいいから言いがかりを見つけては悪し様に言う。この人たちは結局、自分自身の人生を直視して、自分の人生を引き受けるのが恐ろしい。すべて周りのせいだと言うでしょう。ですから、早い話がこれは、八つ当たりでしょう。
いろいろな動機からの、主イエスへの嘲りがあることを、ここから知らされます。主イエスを理解できず無関心である、そういうあり方が主イエスを嘲ることにつながっていきます。あるいは、主イエスのことをおぼろげにでも理解できて、反発するところから嘲りにつながっていきます。また、自分自身に与えられている命を正面から受け止められない、勇気がないことからも、主イエスへの嘲りが生まれてきます。いろいろな嘲りに囲まれて、主イエスの地上での生涯は閉じられようとする。第3の時、第6の時と、時が次々に流れて行って、いよいよ午後3時の、その時になります。
第9の時、今まで多くの嘲りと罵りが交錯する中で、ひたすら黙っておられた主イエスが、突然ここで大きな声で叫ばれます。聞いていた人たちはとても驚いたでしょう。印象的だったのだと思います。この言葉だけは、聖書の中で、主イエスがおっしゃった通りのアラム語で記録されているのです。アラム語で、カタカナで書かれているとはどういうことかと言うと、他の箇所はギリシャ語で書かれているのに、原文もやはり主イエスがおっしゃった通りにアラム語で書かれているということです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉です。それでは理解できませんから、その後に説明が続きます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
主イエスのこの言葉で注目すべき点があると思います。それは、呼びかけの言葉です。主イエスが父なる神に呼びかける言葉として弟子たちに教えてくださった言葉は何だったでしょうか。祈るときにはこう祈りなさいと教えてくださった呼びかけの言葉は「アッバ」という言葉です。「アッバ、父よ」、日本語に訳すと「おとうちゃん」というくらいの大変親しげな呼びかけです。主イエスがそう教えてくださっているので、私たちも祈るときに「天のおとうさま」とか「在天の父なる神さま」とか言ってお祈りを始めるのです。
主イエスは弟子たちには、あなたがたは祈るときに神を父と呼んで良い、「アッバ、父よ」と呼びなさいとおっしゃったのです。にも拘らず、ここでご自身が神に呼びかけるときには「アッバ、父よ」と呼んでいない。「エロイ」と呼んでいます。「エロイ」とは、ここに書いてあるように「わが神」という意味です。「父よ」と呼んで良いと教えながら、主イエスはここでは、そう呼びかけることができないほど神から遠ざけられて、よそよそしく扱われているのです。よそよそしいので、「エロイ、エロイ」と二度繰り返しているのです。「神さま、神さま」と、遠くから呼びかけるような感じです。「わたしの神よ」と呼びかけても何の返答もないので、繰り返し呼んでいます。
地上の野次馬たちは、このことを、預言者エリヤに救いを求めた言葉だと勘違いして受け取りました。そして、本当に助けに来るかどうか確かめたくて、少しでも主イエスの命を延命しようとして、酸いぶどう酒を差し出したりします。それは、苦しみを長引かせることです。最後の最後まで、主イエスは残酷な意地悪を受けておられる。しかし、まさにそういう苦難を通して主イエスは、救いの御業を実現していかれたのです。
主イエス・キリストの十字架の出来事が、これ以上ないほど惨めで、残酷で辛い出来事になっている、その理由は、この出来事を通して、主イエスが死の苦しみを経験していくすべての人間の隣人になるためです。そして、そうであればこそ、主イエスは、自分の人生を引き受けられなくて罵詈雑言を浴びせかけてくる隣の十字架の犯罪人にも耐え忍んでくださっているのです。主イエス・キリストは、信じる者すべての王となってくださって、この世の嘆きと苦難をすべてその身に受けながら十字架におかかりになります。そして、私たちの罪を十字架の上で滅ぼされるのです。ここに、私たちの本当の希望があります。主イエスが死んで犯罪人の一人に数えられたということは、私たちにとっては、確かに感謝すべきことなのです。主イエスが十字架にかかっていてくださったからこそ、私たちも、地上の生活の中でいろいろな失敗をし、罪を抱えながら、「それでもこのわたしは主イエスに伴われた者です」と言って、主イエスに信頼して生きることができるからです。
私たちは、主イエスの話を聞いて心洗われて、自分が天使みたいになるから主に従えるのではありません。主イエスの出来事聞いても、多分、私たちは何度も何度も同じように過ちを繰り返し、地上で生きる限り、何度でも破れを抱えて生きる者です。しかし、そういう私たちのために主イエスが十字架にかかり共にいてくださるからこそ、私たちは絶えず新しい命に招かれ導かれているのです。
十字架の上で死の苦しみを受けられた最後に、主が一声、大声で叫んで息を引き取られたのだと語られています。マルコによる福音書には書かれていませんが、ヨハネによる福音では、その言葉がはっきりと書かれています。それは「成し遂げられた」という言葉です。こうおっしゃって息を引き取られます。 私たち人間の心の闇の一番深いところにまで、主イエスは下ってくださる。私たちの心の最も惨めな、また痛ましい、最も険しくあぶなっかしいところにまで、主イエスは下って来てくださって、そして、意地悪の限りを耐え忍んでくださいます。そして、主イエスはご自身の地上の戦いをすべて成し遂げられて、息を引き取られるのです。私たちの心と思いの最も暗い闇ところにまで下って来てくださって、そこに光をもたらし、そこを照らし出して、そして新しい始まりを私たちに与えてくださいます。
私たちは今日、この場に集まって、そういう主イエスが私たちのために十字架にかかってくださったのだということの証人とされているのです。そして、そういう主イエスから新しい命を与えられている者として、ここから生きるようにと招かれてもいます。この地上で、たとえ様々の困難や苦労や悲しみや、あるいは取り返しがつかないと思う悔いの思いがあったとしても、そこに既に十字架の主が共に歩んでくださっています。新しい始まりが備えられていることを覚えたいのです。
たとえ今まで私たちがすべてを失ってきたとしても、今日、主イエスは十字架の主として、ここからもう一度生きて良いのだと呼びかけ語りかけてくださいます。
「十字架の主が、私たちのために、十字架を降りずにそこに留まっていてくださり、終わりまで歩んでくださった」、そのことを覚えながら、ここからの一周りの歩みに進んでいきたいと願うのです。 |