2015年5月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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空虚な墓 | 5月第3主日礼拝 2015年5月17日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第16章1〜20節 | |
16章<1節>安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。<2節>そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。<3節>彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。<4節>ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。<5節>墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。<6節>若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。<7節>さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」<8節>婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。<9節>〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。<10節>マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。<11節>しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。<12節>その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。<13節>この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。<14節>その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。<15節>それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。<16節>信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。<17節>信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。<18節>手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」<19節>主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。<20節>一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕 |
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ただいま、新約聖書マルコによる福音書16章の1節から20節までをご一緒にお聞きしました。 名が出てきますので、この3人について少しお話をいたします。 では、そういう血縁関係にあることが、主イエスの復活に何か意味を持ったのかと言いますと、そうではありません。これは大事なことです。主イエスの復活の出来事は確かにこの地上で起こりましたが、地上に由来することではありません。神が起こしてくださった出来事です。地上の繋がりの中で起こっていることではないので、血縁が何か意味を持つということではありません。 さて、2節「週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」。「週の初めの日」とは日曜日のことですが、朝の早い時間に出かける、しかも香料を買い整えて出かけていることから想像しますと、この3人は恐らく、主イエスの体に香料を塗って丁寧に葬りたいと考えていたようです。ただ、この3人の願いを実行に移す上で、一つの大きな障害がありました。それは、お墓の前に大きな石が転がしてあって、お墓を塞いでいるということでした。3節「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら、3人はお墓に向かって行きます。 3人の婦人がお墓に出かけたのは、日曜日の朝早くです。人の手で主イエスのお身体が埋葬され、その後最初にお墓に近づいたのは、この3人の婦人たちでした。ところが、この3人の到着に先んじて何事かがここで起こって、大きな石が脇に退かされてしまった。この場合に、何が起こったのか、考えられることは二つあります。 では、私たちはどこで「主イエスが甦られた」ことを知るのか、どこから主の甦りを信じるのか。それはあくまでも、「天使が語りかけてくれる言葉を聞かされ、それを信じることによって」です。聞かされ、信じて、私たちには復活の信仰が与えられます。「主イエスの復活」とは、見ることや何かの証拠によるのではなく、「聖霊の働きによってだけ確かなものとして受け止められる」そういう事柄です。 しかし、私たちは「聞かされて信じる」ということがとても苦手です。婦人の弟子たちもここで、戸惑っています。マルコ福音書の16章は面白いなと思います。誰かが「信じた」と、どこにも書いてありません。誰か信じた人はいないかと思って読みましたが、誰もいませんでした。婦人の弟子たちはどうだったでしょうか。8節には「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあります。主イエスが復活したと聞いて、「まあ、嬉しい。ハレルヤ」と言って、皆に伝え回ったかというと、そうならなかったと書いてあります。怖くなり、震え上がり、正気を失い、だれにも言わなかった。貝のように口を閉じて逃げ去りました。 このあと、9節から20節にかけて書かれていることは、復活の出来事から続けて書いてありますので、続けざまに起こったことのように読んでしまいますが、恐らくは、随分長い時間をかけてゆっくりと、「主が復活されたことが弟子たちに伝えられて、受け止められていった」という記録です。ここを読んでもやはり、弟子たちは主の復活を告げられても、すぐに信じてはいません。11節「しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」、あるいは13節「この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」と書いてあります。そして、14節になりますと、主イエスが現れて弟子たちを咎められます。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」と書いてあります。物の見事に、「弟子たちは聞かされても信じなかった」と異口同音に記されています。 私たちの生活の中に、さまざまな印があることに気づくことがあるのではないかと思います。例えば、生活の折々に、聖書の御言葉がふと思い浮かぶということがあったり、讃美歌がふと思い浮かぶということがあるのではないでしょうか。あるいは、私たちが過ちを犯しそうになるときに、ふと主イエスのことが気になってしまう、そんなことがあるのではないでしょうか。もちろん、そうであっても失敗するかもしれません。けれども、その失敗の直前で、なぜか気になることがあるとすれば、それはなぜか。それは、主イエスがそこに居てくださる、共に居てくださるからなのです。私たちの生活の中に、私たちとぴったり一つとなるくらい近いところに、既に主イエスが居てくださるからなのです。 ペンテコステの日に、主イエスは弟子たちの群れに聖霊を与え、地上に教会を立ち上げ、私たちをその中で生きる者としてくださいました。私たちの信仰生活は、自分一人の生活で成り立っているのではありません。教会の群れの中に抱かれるようにして、私たちは生かされています。自分一人だとすれば、私たちの信仰はもしかしたら消えてしまうということがあるかもしれません。日曜日の礼拝の時間には主イエスのことを考えたとしても、しかしここから出かけて行って、四六時中主イエスのことを考えているなんてことはないと思います。忘れてしまっている。けれどもはっきり言えることは、それでも私たちは教会の群れに抱かれている、ということです。そして、私たちがどんなに忘れっぽいとしても、教会の群れ全体が、同時に主イエスを忘れるということはあり得ません。 弟子たちは、空の墓を見たからといって主の復活を信じたのではありませんでした。主イエスが甦ってくださって、そして天使たちが語りかけてくださった言葉を聞き、聖霊の導きによって信じる者とされました。そのようにして私たちも、また私たちの愛する者たちも、神の永遠の領域において、確かに持ち運ばれています。神のもとで私たちは今この地上を生き、そしてやがての日には永遠の領域において共に神を賛美しながら生きる、そういう群れとして生きる生活を与えられていることを覚えたいのです。 今日から始まる一週間の生活が、この地上の中に閉じ込められた生活ではなくて、神が共に歩んでくださり、永遠に結ばれた者として生きる日々でありたい、そういう生活を与えられたいと切に願います。 |
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