聖書のみことば
2015年5月
5月3日 5月10日 5月17日 5月24日 5月31日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

5月17日主日礼拝音声

 空虚な墓
5月第3主日礼拝 2015年5月17日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第16章1〜20節

16章<1節>安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。<2節>そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。<3節>彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。<4節>ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。<5節>墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。<6節>若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。<7節>さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」<8節>婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。<9節>〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。<10節>マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。<11節>しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。<12節>その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。<13節>この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。<14節>その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。<15節>それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。<16節>信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。<17節>信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。<18節>手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」<19節>主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。<20節>一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

 ただいま、新約聖書マルコによる福音書16章の1節から20節までをご一緒にお聞きしました。
 1〜2節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」とあります。3人の婦人の弟子たちが主イエスのお墓に向かったことが記されております。この3人は、主イエスが十字架から降ろされた時に遠くからその様子を見ていた、そういう婦人たちでもあります。そして、この3人の婦人たちが、復活の最初の証人とされました。

 名が出てきますので、この3人について少しお話をいたします。
 まず「マグダラのマリア」ですが、9節に「このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」と紹介されております。「以前」、それは主イエスがガリラヤにおられた頃のことです。それ以降、マリアはずっと主イエスのそばにいて従い、はるばるガリラヤからエルサレムに付いて来ました。
 次の「ヤコブの母マリア」ですが、主イエスの母のマリアだろうと言われています。それならば「イエスの母」と書けばよいのではないかと思いますが、そう書かれない理由は恐らく、「イエスの母」と書くと、主イエスよりも上に立っているような印象を与えるので、遠慮したと思われます。当のマリア自身も、弟子たちの中で、「イエスの母です」と言うことは好まなかったと思います。それで、「イエスの」ではなく、主イエスの弟「ヤコブの」母マリアという名で出てきます。来週はペンテコステですが、弟子たちの群れに聖霊が降って教会ができた、その時に、主イエスの弟ヤコブは、そのエルサレム教会の中心になっていった弟子です。使徒言行録では、「主の兄弟ヤコブ」と、何度も登場します。
 次の「サロメ」は、主の弟子「ヤコブとヨハネ」の母です。どうしてそう言えるかと言いますと、マルコでは「サロメ」と名が出てきますが、並行記事のマタイ27章では、主イエスのお墓に行ったのは「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア」、そして「ゼベダイの子らの母」だと出てきます。「ゼベダイの子ら」は「ヤコブとヨハネ」のことですから、「ヤコブとヨハネの母」それが「サロメ」だということになります。また「サロメ」は、主イエスの母の妹でもあります。ですから、主イエスから見ますとサロメは叔母に当たります。ヤコブとヨハネは主イエスの従兄弟、そういう間柄です。

 では、そういう血縁関係にあることが、主イエスの復活に何か意味を持ったのかと言いますと、そうではありません。これは大事なことです。主イエスの復活の出来事は確かにこの地上で起こりましたが、地上に由来することではありません。神が起こしてくださった出来事です。地上の繋がりの中で起こっていることではないので、血縁が何か意味を持つということではありません。
 「主イエスの弟子とされ、永遠の命の約束に与る」、私たちもそういう約束に生かされていますが、私たちに与えられたこの約束は、例えば、私たちの身内にキリスト者が居るから自動的にそうなるということではありません。私たちはいろいろな関わりの中で教会に招かれますが、しかし、一人ひとりが聖霊に導かれて「主イエスこそは、わたしの救い主なのだ」と信じるようにされ、救いに与る者とされていきます。「主イエスの復活とは、神が成される出来事である」、これが一番大事なことです。

 さて、2節「週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」。「週の初めの日」とは日曜日のことですが、朝の早い時間に出かける、しかも香料を買い整えて出かけていることから想像しますと、この3人は恐らく、主イエスの体に香料を塗って丁寧に葬りたいと考えていたようです。ただ、この3人の願いを実行に移す上で、一つの大きな障害がありました。それは、お墓の前に大きな石が転がしてあって、お墓を塞いでいるということでした。3節「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら、3人はお墓に向かって行きます。
 3人は、言葉の上では、物理的にお墓を塞いでいる大きな石のことを話し合っています。けれどもこの時、大きな石は、ただお墓の入り口にだけあったということではないと思います。この婦人の弟子たちそれぞれの心の中に大きな石があって、主イエスに繋がる道を塞いでいた、そう言ってよいのではないかと思います。
 大きな石がお墓の中と外を隔てて行き来を妨げているように、実は、愛する者が亡くなる、家族が亡くなってしまう時に、私たちにもこういう思いが起こるのではないかと思います。大きな石が自分と愛する者の間にある。そして、どんなに大きな声で呼びかけても、もはや言葉を交わすことができない。それは砂を噛むような無力感ですし、物事が過ぎてしまったという虚脱感、そういう事態を私たちはすぐに呑み込めなくて、抵抗します。何とかして愛する者を地上に引き止めたいと考えますが、しかし実際にはうまくいきません。いろいろな仕方で愛する者を覚えようとして、写真を眺めたり、愛する者の形見を眺めたりするのですが、しかしやはりそこで感じさせられることは、愛する者が近くに居るというよりも、遠くに行ってしまった、ここにはもう居なくなってしまったのだという思いの方が強く迫ってくる、そしてやりきれない思いになる。まさに、この3人の婦人は、そういう思いを持ちながらお墓へと向かっているのです。
 ところが、お墓に着いてみたら話題になっていた大きな石が横に取り除けられていた、彼女たちの予想と全然違っていたのです。石があるにはある。しかしそれはもはや、お墓の中に通じる道を塞いではいない。大きな石はあるけれど、それは脇へどかされていて、もはや死の現実は決定的なものとなっていないということを、この退けられた石は語っています。墓の入り口の石、それは愛する者と自分とが決定的に遮断されていることの象徴です。当然のことですが、これは小さいことではありません。4節に「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである」とあります。「大きく」はある、しかし、それは既に「脇へ退けられている」と聖書は語ります。
 墓の入り口が何者かによって開かれている、そして、私たちはもう一度、愛する者たちと交わりを持つことが許されている、そのことが示されています。

 3人の婦人がお墓に出かけたのは、日曜日の朝早くです。人の手で主イエスのお身体が埋葬され、その後最初にお墓に近づいたのは、この3人の婦人たちでした。ところが、この3人の到着に先んじて何事かがここで起こって、大きな石が脇に退かされてしまった。この場合に、何が起こったのか、考えられることは二つあります。
 一つには、暗い夜の間に、この3人の婦人ではない他の誰かが墓を暴いて主イエスの遺体を墓から取り去った、そういう可能性があります。もう一つの可能性は、人間ではないものの力で主イエスはどこかに運び去られた、そういう可能性です。3人のこの弟子たちは、お墓に入るとすぐ、事の真相を聞かされています。これは人間の手によることではない。人間ではないお方によることなのだと聞かされます。
 5節6節に「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である』」と記されています。「御覧なさい。お納めした場所である」と言って示された、その先には恐らく、死者を横たえるための岩の窪みがあったでしょうが、その場所はまさしく、三日前にこの3人が主イエスが納められるのを見た、間違いなくその場所です。3人はじっと見つめていましたから、主がどこに納められたかよく分かっています。それなのに、そこには主イエスのお身体が見当たらない。
 しかし、そのことが「主の復活」の証拠になるのでしょうか。実は、それをもってしては復活の証拠にはなりません。お墓が空だったということでは、主の復活は証明されません。私たちは、日頃、何となくそう思っているところがあります。「お墓が空だった、だから主は甦られた、だから信じましょう」と、つい思ってしまいます。この3人は、ここは主イエスのご遺体を納めた場所で、そこが空になっていたということを、確かなこととして言い得ます。しかしこの3人がそうだと請け合ったとしても、可能性としては、この3人より更に早くお墓に近づき、主の遺体を盗み出した者がいたという可能性を排除できません。
 実際に、マタイによる福音書28章によりますと、教会の歴史の一番最初の時代には、人間の手で主イエスの亡骸を盗み出したのだという噂が広くあったことが書かれています。お墓が空になっているという事実だけでは、復活の証拠にはなりきれないのだということを、マタイ福音書のイースターの記事は伝えているのです。「主イエスの甦り」というものは、お墓が空だということを見る、そういうことで得心がいくというものではありません。

 では、私たちはどこで「主イエスが甦られた」ことを知るのか、どこから主の甦りを信じるのか。それはあくまでも、「天使が語りかけてくれる言葉を聞かされ、それを信じることによって」です。聞かされ、信じて、私たちには復活の信仰が与えられます。「主イエスの復活」とは、見ることや何かの証拠によるのではなく、「聖霊の働きによってだけ確かなものとして受け止められる」そういう事柄です。
 主イエスの復活、その現場は確かにこの地上です。それはエルサレム郊外にあるアリマタヤのヨセフのお墓でした。しかし復活の出来事は、この世を超える出来事です。神が、復活の出来事を引き起こしてくださいました。ですから血縁とは関係ありません。神が起こされる出来事ですから、血縁を超えて、誰にでも神が与え賜う出来事なのです。
 まさしくここに、3人の婦人の弟子たちに、「天使が主の復活を告げて」います。告げられたことを聞いて、3人は当惑しながらも、一番最初に福音を知る者とされました。私たちも、聖書から主イエスが甦っておられるとの語りかけを聞かされる、そして聞かされたことを信じることによって、新しい希望を与えられるのです。

 しかし、私たちは「聞かされて信じる」ということがとても苦手です。婦人の弟子たちもここで、戸惑っています。マルコ福音書の16章は面白いなと思います。誰かが「信じた」と、どこにも書いてありません。誰か信じた人はいないかと思って読みましたが、誰もいませんでした。婦人の弟子たちはどうだったでしょうか。8節には「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあります。主イエスが復活したと聞いて、「まあ、嬉しい。ハレルヤ」と言って、皆に伝え回ったかというと、そうならなかったと書いてあります。怖くなり、震え上がり、正気を失い、だれにも言わなかった。貝のように口を閉じて逃げ去りました。
 しかし、もしそのままであったなら、今日、私たちの教会は地上に存在していなかったはずです。ですから最初は逃げ去った弟子たちも、どこかで、聞かされたことを考え直して信じるようになったはずです。残念ながら、このことをマルコはあまり詳しく書いてくれていませんが、しかし、弟子たちが後々信じるようになったからこそ、今があるのです。

 このあと、9節から20節にかけて書かれていることは、復活の出来事から続けて書いてありますので、続けざまに起こったことのように読んでしまいますが、恐らくは、随分長い時間をかけてゆっくりと、「主が復活されたことが弟子たちに伝えられて、受け止められていった」という記録です。ここを読んでもやはり、弟子たちは主の復活を告げられても、すぐに信じてはいません。11節「しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」、あるいは13節「この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」と書いてあります。そして、14節になりますと、主イエスが現れて弟子たちを咎められます。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」と書いてあります。物の見事に、「弟子たちは聞かされても信じなかった」と異口同音に記されています。
 天使が私たちに語りかける言葉、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」、つまり「主が甦っておられる」、その言葉は、信じる人にとっては、本当に慰めを与えられる言葉であり、揺るぎない確信を与えられて生きることができるようにされる言葉です。しかし同時にこの言葉は、聞いたからと言ってすぐに受け止められるかというと、とても受け止めにくい言葉であることも事実です。
  けれども教会は、主の復活の知らせを聞いた人たちがすぐに受け入れてくれないからと言っても、そんなことではひるみません。復活の主がこの私と共に立っていてくださる、この私を支えて働かせてくださるということを教会は知っているので、教会はずっと、2000年の間、「主イエスは甦っておられます。私たちと共に歩んでくださっています」と、毎週毎週礼拝の中で語り、そしてまた、礼拝からそれぞれの場所へ遣わされたキリスト者の生活の中で、語り続けてきています。
 それは、私たちが言葉巧みに誰かを丸め込めるからではありません。「甦りの主が、私たちと共に働いてくださることを知っている」からです。マルコ福音書の最後、20節に語られている言葉を聞きたいと思います。「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」。主イエスが共に働いてくださる、そのことの印を示されながら、私たちも今この地上で、それぞれの命を生きる者とされています。主イエスの復活の印として、「お墓が空だった」ということがしばしば言われますが、それだけではない。天使たちを通して神が弟子たちに語りかけてくださる。そしてその語りかけによって、弟子たちが変えられ信じるようにされる。私たちも、教会の群れ、弟子たちの群れの大きな流れの中に抱かれて、今日ここで御言葉を聞くことができるようにされている、そして私たちもまた語る者とされているのです。

 私たちの生活の中に、さまざまな印があることに気づくことがあるのではないかと思います。例えば、生活の折々に、聖書の御言葉がふと思い浮かぶということがあったり、讃美歌がふと思い浮かぶということがあるのではないでしょうか。あるいは、私たちが過ちを犯しそうになるときに、ふと主イエスのことが気になってしまう、そんなことがあるのではないでしょうか。もちろん、そうであっても失敗するかもしれません。けれども、その失敗の直前で、なぜか気になることがあるとすれば、それはなぜか。それは、主イエスがそこに居てくださる、共に居てくださるからなのです。私たちの生活の中に、私たちとぴったり一つとなるくらい近いところに、既に主イエスが居てくださるからなのです。
 甦りの主が私たちと共に歩んでくださる。私たちのこの地上の命はいつか終わりますけれども、しかし、私たちは永遠の命を生き始めている。主イエスに出会わされた私たちは、既にそのようにされている。そのことの印は、実は、私たちの生活の、人生の営みにおいて、一人ひとりに与えられているのです。私たちはそういう人生を、この地上で、今、生かされているに違いないのです。

 ペンテコステの日に、主イエスは弟子たちの群れに聖霊を与え、地上に教会を立ち上げ、私たちをその中で生きる者としてくださいました。私たちの信仰生活は、自分一人の生活で成り立っているのではありません。教会の群れの中に抱かれるようにして、私たちは生かされています。自分一人だとすれば、私たちの信仰はもしかしたら消えてしまうということがあるかもしれません。日曜日の礼拝の時間には主イエスのことを考えたとしても、しかしここから出かけて行って、四六時中主イエスのことを考えているなんてことはないと思います。忘れてしまっている。けれどもはっきり言えることは、それでも私たちは教会の群れに抱かれている、ということです。そして、私たちがどんなに忘れっぽいとしても、教会の群れ全体が、同時に主イエスを忘れるということはあり得ません。
 私たちは面白いもので、信仰は自分のものだと思っていますけれども、実は、教会の群れの信仰を皆でそれぞれ分け持って生きるようにされています。私たちが主イエスを覚えて何かをしている時も、実はそれは自分のためでありますが、しかし同時にそれは、教会の兄弟姉妹のためでもあるのです。私たちは兄弟姉妹のために執り成しの祈りをすることもありますし、あるいは、教会の誰かのことを思い出して嬉しくなるということもあります。それは、主イエスが教会の頭として私たちの群れと共にいてくださって、そして、群れの一人ひとりを主の御体の一枝として生かしてくださっていればこそです。
私たちはしばしば、心が揺れたり、主を忘れたりしますけれども、それでも私たちは、主の御体なる教会の中で位置付けられ、そして主が導いてくださることにおいて信仰生活を送っています。

 弟子たちは、空の墓を見たからといって主の復活を信じたのではありませんでした。主イエスが甦ってくださって、そして天使たちが語りかけてくださった言葉を聞き、聖霊の導きによって信じる者とされました。そのようにして私たちも、また私たちの愛する者たちも、神の永遠の領域において、確かに持ち運ばれています。神のもとで私たちは今この地上を生き、そしてやがての日には永遠の領域において共に神を賛美しながら生きる、そういう群れとして生きる生活を与えられていることを覚えたいのです。

 今日から始まる一週間の生活が、この地上の中に閉じ込められた生活ではなくて、神が共に歩んでくださり、永遠に結ばれた者として生きる日々でありたい、そういう生活を与えられたいと切に願います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ