聖書のみことば
2015年4月
4月3日 4月5日 4月12日 4月19日 4月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

4月5日主日礼拝音声

 復活
2015年イースター礼拝 2015年4月5日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第20章1〜18節

20章<1節>週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。<2節>そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」<3節>そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。<4節>二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。<5節>身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。<6節>続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。<7節>イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。<8節>それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。<9節>イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。<10節>それから、この弟子たちは家に帰って行った。<11節>マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、<12節>イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。<13節>天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」<14節>こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。<15節>イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」<16節>イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。<17節>イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」<18節>マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 ヨハネによる福音書20章1節から18節をご一緒にお聞きしました。
 主イエスの甦りの朝、マグダラのマリアが復活の主にお会いし、園丁と勘違いしたことが記されております(15節)。しかし、マリアの勘違いはそれだけではありません。彼女は更に本質的な勘違いをしております。目の前にいる方は主イエスだと気付いたとき、マリアは主がまた再びこの世に舞い戻られたのだと思いました。それはラザロのことを思い出してのことだったかもしれません。ラザロは死んで4日目に生き返らされて姉たちのところに戻ります。ラザロの姉マルタ・マリアとマグダラのマリアは信仰の友でしたから、話を聞いていて、ラザロと同じように、主も戻って来られたと思ったかもしれません。
 そう思ったまま、マリアは主の足にすがりつこうとしました。マリアは今、自分が甦りの主に接していることを理解できないでいるのです。マリアは主イエスと、以前と同じような間柄で会っていると思っております。けれども、それこそが大きな勘違いでした。
 主イエスは確かに甦られました。けれども、ラザロのように死んでまた生き返ったのではありません。ラザロは確かに地上の生活に戻されましたが、またいずれ死ぬのです。けれども主イエスの場合は、以前の状態に戻ったというのではないのです。主イエス・キリストの復活は、この世の生活への逆戻りではありません。そうではなくて、永遠の生へ入っていくことです。永遠の生に向けて出発することなのです。

 ですから、ここでマリアは、主イエスから厳しい言葉を聞かされます。17節「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」。主にお会いして喜んですがろうとするマグダラのマリアに、主はこう言われました。これは、復活の肉体だから触れてはいけないということではありません。この後、トマスは対して主イエスは、復活の体を示しながら触れてみるように言ってくださいます。
 主がここでマリアをたしなめられるのは、マリアが主にすがりついて、いつまでも地上の生活に主イエスを留めておこうとするからです。復活の主イエスは、今までとは違う状態で弟子たちに出会ってくださるようになります。地上における交わりではなく、永遠の命にある方として、弟子たちと交わってくださるようになるのです。
 主イエスがご自身の甦りを通して弟子たちに願っておられることは、弟子たちもまた永遠の命に結びついて生きる者となることです。主イエスを仲立ちにして、神に結びつけられることです。弟子たちは、主を礼拝しながら永遠の命を生きる者とされていくのです。
 主は十字架を前にして、「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(17章9〜11節)と、弟子たちが主と一つとなるようにと切に祈ってくださいました。
 主イエスは、地上での生の間、神に信頼を寄せて、祈りによって、父なる神との交わりに生きられました。神の御言葉に聞き、自分の思いではなく神に喜ばれる生き方をしようとされました。そして地上の生を終えられたときには、真実に神の御心に生きた者として、永遠の命を生きる者となられたのです。
 ゆえに、弟子たちも、私たちも、もちろん主のように完全に神に従い切って生きるなどということはできませんが、しかしそれでも、神の御言葉に聞き、教えられ、招かれつつ、主に従って生きるならば、主イエスと同じように永遠の命に生きる者とされる約束が与えられる、それがイースターに示されていることです。

 私たちは終始、自分の自己中心な思いに翻弄される者です。しかし、主はまさに、こんな自己中心な私たちのために十字架にかかられました。捨て去られても仕方のない者のために、主は十字架にかかられたのです。主イエスお一人の地上での生を見るならば、主は全く父なる神に従順であられたのですから、十字架で死なれる必要はありませんでした。主の十字架は、ただ私たちの罪を神に執り成すためでした。神の正義の前に立ち得ない私たちですが、その私たちの身代わりに、主は十字架にかかってくださいました。
 主は弟子たちに、私たちに、永遠の命につながれた新しい生を生きる者となるようにと望んでくださいました。その主の御言葉の光に照らされながら、自分がいかに頑なで自己中心な者か、神から離れる者かということを示されつつ生きるのです。そのようにして主イエスを礼拝して生きる生活が、イースターの後に、私たちに与えられているのです。ですから主はマグダラのマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言ってくださいました。

 マリアは主の言葉によって自分の勘違いに気づき、正されました。そして、そういうマリアに対して、主は一つの使命をお与えになるのです。主がこの地上の生活に逆戻りされたのではなく、永遠の命に生きておられる方として出会ってくださるのだということを、他の弟子たちに伝えるという使命です。マリアだけが、永遠の命を生きておられる主を礼拝していればよいということではない。もっと多くの人に、永遠の命を生きておられる主がおられることを、復活の主の交わりに生きるようになるようにと伝えること、それがマリアに与えられた使命です。復活の主イエスを知っているということは、自分だけがそれを喜ぶということではなく、この世の人々に、永遠なる方、復活の主イエスを伝えつつ永遠の命の入口に立つこと、それがイースターの朝に私たちが始めるべきことです。
 主の復活は、マリアや弟子たちだけではなく、全ての人の救いのための出来事です。主が復活してマリアに出会ってくださったこと、それは、この世の人々に、今までは死に閉ざされ死で終わる人生でしかなかった者に、新しい生を生きる入口を与えることです。ですから、主はマリアに、伝える使命をお与えになったのです。それはマリアだけではありません。今ここで、主の復活の出来事を知らされている私たちも同様の使命が与えられているのです。
 私たちのなすべきは、復活の主の前に立ち、主の福音に照らされながら、主に喜ばれる日々を尋ね求めつつ生きることです。そして、この地上の生活を懸命に生きた末に、神が「お前はよく生きた」と言ってくださり永遠の命へと入れられる約束のもとに生きる者とされているのです。それは私たちだけのものではありません。全ての人の救いのために、私どもには宣べ伝える使命が与えられているのです。この地の全ての人が、私たちのために主が永遠の命へと入っておられることを、主の復活を、知らなければならないのです。

 その発端が17節で起こっております。主イエスは言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。
 主イエスは私たちを、死で終わる滅びの人生から、新しい生を生きる者へと取り上げてくださいました。それは、死で終わる滅びの命ではなく、勝利に満ちた命です。神から与えられた命を神が御心として置いてくださった場所で懸命に生きるという命へと変えてくださるのです。この恵みを、私たちは伝えなければなりません。復活の主を知らせる、これこそが私たちの人生の意味であると言ってよいのです。

 ところでここで、マグダラのマリアの他に、二人の主の復活の証人が出てきます。シモン・ペトロと名の隠された「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と言われております。このもう一人とは、この福音書を書いたヨハネであろうと思われます。
 最初に墓に着いたのはヨハネでした。彼は外から墓を覗きます。ペトロも着いて躊躇なく中に入ります。そしてヨハネも入るのです。墓の中には亜麻布がたたんで置いてあり、主の頭を包んだ布も丸めてありました。そこで彼らは、主が布を必要としなくなったことを知るのです。
 ヨハネは語ります「見て、信じた」(8節)と。目立たない書き方ですが、自分の方がペトロより先に「信じた」と言っております。ヨハネは年若く口数少ない控え目な弟子だったと言われています。けれども、ここでだけ、自分の方が先に信じたと書いています。おそらくこう書くことに、ヨハネはためらいがあったと思います。
 けれども敢えて書いたのは、復活の主を信じる信仰とは、ただ神から与えられるもの、神からの贈り物であることを知っているからです。ヨハネは自分を「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と言い、主が愛してくださる方であると言っております。マグダラのマリアとペトロは、主を愛する者として自分を表していますが、ヨハネだけは「主に愛されている者」と言い表すのです。それは、主の復活の出来事は、細かいことはよく分からないけれども、「主に愛されている私たちのために起こったことだ」と受け止めたからです。それゆえに、ヨハネはペトロよりも先に復活を信じることができました。

 主の復活の出来事は、私たちが学んだり研究して分かるということではありません。そうではなくて、主イエスが私たちの中に起こしてくださっているのです。どう考えたとしても、復活の理屈は最後まで分からないでしょう。けれども、ヨハネは信じることができました。それは、ヨハネが「主イエスに愛されている」ことを知っていたからです。主が、このわたしのために甦ってくださったのだと信じることができたのです。
 もちろん、他の弟子たちも、さまざまな入口を与えられながら、自力で分かるのではなく、信仰によって信じる者とされました。信じ方は皆、それぞれ違いますが、最後には、真実の主が御言葉をもって自分の前に立ってくださることを信じるのです。そういう仕方で、弟子たちは主の甦りを受け入れました。
 主はこの世の時間と空間の中に甦られたのではありません。主イエスは永遠の命に甦えられました。甦って、今、私たちのこの礼拝の場に臨んでくださっています。このことをマグダラのマリアに伝え、そして他の弟子たちに伝えるようにと、主は言われました。その主を信じる者は、その人もまた、復活の命に生きる者となっていくのです。

 しかし、復活を信じるということは、ただそれだけのことなのでしょうか。主の復活を信じるということは、この地上の生の果てに、もう一つの新しい生があると信じて生き、死ねる、それだけでしょうか。もちろん、それだけであっても十分素敵な人生です。
 けれども、実際に復活の主イエスが永遠の命なる方として私たちと出会ってくださると信じるならば、もっと大きなことが私どもには起こると思います。
 そういう希望を持たずに生きるならばどうかと考えてみると分かりやすいでしょう。地上の命で終わると考えるならば、最後には人生に希望を持てなくなります。どんなに楽しく遊び暮らしたとしても、どんなに他者から感心されることを成したとしても、死をもって終わる生だと思えば、私たちは、今のこの命を愛することはできなくなります。地上でどんな偉業を成し遂げたかということだけに執着するようになります。年を取れば、わたしの墓はどんなに立派かとか、この地上にだけに目を向けるならば、この地上でどんなに立派に生きたかに執着することになるのです。私たちは死という出来事を受け止めることができません。そして、死に実際に出会うときには即物的になって、事務的に、何事もなかったかのように、死を通り過ぎようとします。

 けれども、そんな生き方が、人らしい生を生き、死ぬことなのでしょうか。人は死を知っているつもりで、死を事務的にやり過ごそうと、ぽっくり死にたいなどとよく言われますが、実はそれは、生きてもいない、死んでもいない姿なのです。この地上でだけ生きようとするならば、私たちはそうならざるを得ません。この地上で、神の祝福を与えられて生きるのでもなく、祝福の約束の中で死ぬのでもなく、ただ即物的に生きて死ぬことになるのです。
 またそれだけではなく、永遠へと入っていく死であることを知らなければ、私たちは、永遠から生まれることも出来なくなります。子供の誕生も、偶然の産物に過ぎなくなってしまうのです。そうすると、子供の誕生もなるべく問題が無い方が良いことになってしまいます。この世で手がかからず順調に育てば良いと思い、そのことだけが重要なことになってしまうのです。ですから、生まれるときに障害がないかとか、健康に育つことだけが良いことだと思ってしまいます。けれども、人間的な強さだけを求める社会は、大変危険です。私たちは誰でも死ななければなりませんし、弱さを抱えています。そういうことを認めずに、この地上でどれだけ栄えられるか、そこにだけ価値があると考えるようになってはいけないのです。
そうではなく、私たちは私たちの命を、神から与えられた生として感謝し、主の永遠の命に入って行くのだと信じて生きていかなければなりません。
 おそらく、親から即物的に育てられた子供は、親になったときには、いろいろなことを引き受けるのが嫌だという親になると思います。手のかからない子に育って欲しいと思いつつ、それでいて、大人になってから手をかけなかったことを後悔する、そういうことが起こるのではないでしょうか。

 人生がこの地上のものだけだと思っている人たちは、年配の人に対して歪んだ姿勢を取るようになります。永遠を失った人生は、ただこの世しかありませんから、日々に弱っていく年配者を見るのが億劫になるでしょう。若いときには価値があると思えても、年老いてしまえば価値が無いと思えてしまうのです。
 私たちも、ともすればそういう思いになってしまうのではないでしょうか。けれども、そうではありません。神は、日々に弱っていく私たちを最後まで、置いてくださったその場所で生きるようにと、持ち運んでくださっているのです。神が生きよと言ってくださっているから、私たちは生きるのです。自分の自己実現だけで地上を生き抜くことはできません。自己実現が人生の価値であるならば、私たちの晩年は暗くならざるを得ません。また、年配者への尊敬を持つことができなくなります。やがて自分が歩んで行く道、けれどもそこが暗い道であれば、私たちはそれを見ることができなくなります。

 けれどもそうではありません。私たちは、若く元気なときはできることをすれば良いし、高齢で弱っていても、しかしその弱さゆえに、神が全てを引き受けてくださっていることを示され、教えられつつ生きることです。私たちは、実は、生まれたときから、そのように神に守られながら育ってきたのです。ただ幼いときには気づきませんが、しかし高齢になり弱っていくときには、自分の力で自分の人生が成り立っているのではないことを深く受け止めていくということがあると思います。神に支えられての生であることを感謝して、最後の時まで、祈りつつこの地上の命を生きるようになるのです。
 私たちの地上の命は、実は神の永遠の命の上に浮かんでいる命だと言えます。地上の命を終える時、私たちは地上の命を離れますけれども、しかし、永遠の命の中に入れられていくのです。
 詩編127編の詩人は歌います。「見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い」。子の誕生は神からいただくもの、ただ単に生まれてくるのではないのです。嗣業です。あるいはイザヤ書46章3・4節には「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」とあります。
 私たちは最後まで、神に担われ、背負われ、救われて今を生きております。永遠の命のうちに生まれ、永遠の命へ向かって生きる者、その者だけが、この地上の生活を喜び、感謝することとして受け止めることができるのです。永遠の命への信仰があればこそ、私たちは、この地上に生きることに意味を持ち、結婚して子供を産み育てることに意味を見いだせるようになり、年齢を重ねることに意味を持つようになるのです。
 永遠の命に向かって子を育て、永遠に向かって生きていくべきなのです。目先の数十年、数百年を生きるのではない。そうではなく、本当の永遠を、神の栄光を表すために、私たちはこの地上で生きるべきなのです。

 マグダラのマリアに与えられた務め、それは私たちにとっても感謝な、有益なことでした。私たちの命が永遠なる神に覚えられて、支えられ持ち運ばれて今日を生きている、そのことを知るということは、他のどんなことにも変えることのできない、大きな勇気と元気とを私たちに与えてくれるものです。
 私たちの周りに起こるさまざまな問題・課題は、最終的には、私たちが永遠の命を生きているか、復活信仰によってでしか乗り越えることはできません。この世で何とか解決しようすれば、行き先を失うのです。この世で、たとえ解決できないことと思えることでも、神がこのわたしを持ち運んでくれるのだと信じるならば、この地上に出口を見出せなくても、なお出口が備えられるのです。そして私たちは、今日を感謝して生きることができるようになります。神が解決してくださるのです。出口を見いだせるのです。
 イースターの日、そのような永遠の生を示されていることを覚えて、ここから新たに感謝をもって生きたいと願います。

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