聖書のみことば
2015年4月
4月3日 4月5日 4月12日 4月19日 4月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

4月3日受難日礼拝音声

 十字架の光景
2015年受難日礼拝 2015年4月3日 
 
宍戸俊介牧師 
聖書/ヨハネによる福音書 第19章1〜42節

19章<1節>そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。<2節>兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、<3節>そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。<4節>ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」<5節>イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。<6節>祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」<7節>ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」<8節>ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、<9節>再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。<10節>そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」<11節>イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」<12節>そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」<13節>ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。<14節>それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、<15節>彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。<16節>そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。<17節>イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。<18節>そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。<19節>ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。<20節>イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。<21節>ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。<22節>しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。<23節>兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。<24節>そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。<25節>イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。<26節>イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。<27節>それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。<28節>この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。<29節>そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。<30節>イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。<31節>その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。<32節>そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。<33節>イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。<34節>しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。<35節>それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。<36節>これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。<37節>また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。 <38節>その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。<39節>そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。<40節>彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。<41節>イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。<42節>その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

 ただ今、ヨハネによる福音書19章の全体をご一緒にお聞きしました。主イエスが十字架にかけられ、苦しんでお亡くなりになった受難日に当たって、このところに語られていた情景を思い浮かべたいと思います。

 このところにはまず、十字架に釘づけられ苦しんでおられるお一人の方がおられます。その十字架のたもとのところでは、苦しんでいる人物を尻目に、そこから剥ぎ取った衣服をくじ引きしようとして、兵士たちが騒いでいます。十字架に磔られている人物は、苦しい息の中で、母親に最後の別れを告げ、そしてその母親を信頼できる愛する弟子の手に委ねています。最後は喉の渇きを覚えながら、大声で呼ばわって息絶えます。そのところで兵士たちは、たった今亡くなったばかりの亡骸を手荒に扱います。その後、わずかな人たちがその亡骸を十字架から取り下ろし、墓に葬ります。まことに冷酷で惨めな有様がここに語られています。
 しかし、実は私たちは、今の時代に、こういう情景をよく目にするのではないでしょうか。ここに語られているような酷いことというのは、言って見れば、今日を生きる私たちの時代の縮図と言えるようなところがあるように思います。
 今日私たちが聖書から聞かされているこの出来事自体は、二千年あまり前のエルサレム郊外で起こった出来事です。しかし私たちは、今日このような記事を聖書から聞かされても、もはや驚かないのではないかと思います。こういう惨めな辛い出来事に対して、私たちはある種の慣れのようなものを持ってしまっている、そんなふうに思えてならないのです。
 私たちの周りでは、毎日、多くの痛ましい死の出来事が伝えられています。世界中の人々が助かるようにと願っているさなか、志を持った日本の青年が過激派に殺害されたニュースや、中学生が高校生やその年代の少年たちによって殺されてしまったニュース、また、大勢の乗組員と乗客を乗せた飛行機がヨーロッパアルプスの山懐に突き刺さるように墜落し沢山の命が奪われたというニュースなど、既にこの1月から3月の間にも、本当に多くの痛ましい死の出来事が伝えられてきました。
 私たちは、そのような知らせに接する度に心が痛むのですが、しかし、あまりにそうした悲しみや痛みを感じる機会が多すぎて、このようなニュースに対しては半ば免疫ができ、鈍感になりかかっています。
 私たちの周りには、肉体的にも精神的にも苦しみにあえぐ大勢の人々がいます。地上の至る所でテロが働かれ、飢饉が起こり、毎日途方に暮れて生きる人々がいます。生きているといっても、ただ息をして喘いでいるだけの、とても人間の生活を享受しているとは到底言えないような、どん底の暮らしを経験している人たちは、決して少なくはありません。
 そしてそのために、今晩私たちが聞かせてもらっている、この十字架の出来事を示されても、私たちはこれを、たまたま地上で起こっている不運で悲惨な出来事の一つぐらいにしか思えなくなっているかもしれません。主イエスが私たちの誰もが経験する死の一つを、その身の上に経験しておられるのだというくらいにしか、受け止めないかもしれません。十字架の出来事の表面に見えているところだけを受け取るなら、そのように受け取れることは確かにあり得るのです。

 しかし、です。今晩私たちがこのことの意味を確かに受け止めるために集まってきている出来事、即ち、聖金曜日の出来事と呼ばれるこの出来事の意味は果たしてそれだけなのでしょうか。私たちの誰もが経験する辛く惨めな死の出来事を主イエスもまた経験して下さっているという、それだけのことなのでしょうか。
 実は、十字架の死の場合には、他の死の出来事とは違う、ある際立った特徴があります。それは、このゴルゴタの丘での主のお苦しみに、神が初めから終わりまで関わっておられるという点です。十字架において、神はただそのことをご存知で、沈黙して見守っておられるというのではありません。神自らが積極的に行動しておられます。神が主イエスを苦しめ、その命を酷い仕方で奪い取ること、主イエスを完全に破壊することに積極的に関わっておられます。その点が、他の死の出来事とは決定的に違っています。十字架の出来事によって、神は主イエスを完全に粉砕しようとなさるのです。しかし、どうしてそんなふうになっているのでしょうか。いくつかその理由を訊ねてみたいのです。

 出来事がこういう形で起きているということの中には、まずは、このようにして初めて、この世の悪の正体が白日のもとに晒け出される、という意味があります。主イエスがこんなにも苦しめられるという、そのことによって、あらゆる悪の力、闇の勢力がそのヴェールを剥がされ、明るみの中に引き出されるようなところがあるのです。
 元々悪の力、闇の勢力は、いつも密やかに行動するようなところがあります。悪の力は、他の人々が何も気づかないでいるという人間の愚かさを上手に利用して、上手に立ち回るのです。悪の力がどれほどのものであるかを人々が分からないため、その力を過大評価したり、過小評価したりする、その隙を突いて闇の勢力は巧妙に活動するものなのです。
 ところが、今回この十字架で起こったことは、悪の力や闇の勢力をその隠れ家から連れ出して、白日のもと、まさに衆人環視の中で、その力を精一杯に晒け出せたという意義があるのです。十字架の出来事によって、主イエスは悪の勢力の最も有力な武器である、密やかさ、狡猾さを何もかも晒け出させ、そして、悪の正体をすっかり人々の前に明るみに出してしまわれました。この時以来、世界中の人々は、悪の力がどんなに醜く、どんなに策略をめぐらして迫ってくるかを理解するようになりました。
 主イエスは十字架の上に高くあげられます。しかも都のすぐ近くで、更には過越の祭りで賑わい、いろいろな国から巡礼の人たちがやってきて大通りがごった返しているような最中に、高くあげられます。ゴルゴタの丘、つまり木の茂みも、また土地の起伏によって隠れることもない小高い丘の上で、どこからも見通せるような場所で、十字架の処刑が行われました。これは悪の勢力にとっては完全な失敗でした。

 ここから聞こえてくる理由はそれだけではありません。他にもあります。ヨハネによる福音書を注意して読むと気づかされるのですが、ここには、主イエスの受けた裁判や処刑の様子が実に事細かに書かれています。例えば、罪状書きの捨て札のことが触れられています。20節のところですが、こんなふうに述べられています。『イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた』。主イエスの罪状書きは、当時最も使われていた3つの言葉で書かれました。それは実際、その通りだったからなのでしょうが、しかし、どうしてわざわざこのことがここに書き込まれているのでしょうか。これは今日風に言うとすれば、さしずめ主イエスの罪状書きが日本語と英語、フランス語で書かれていたと言っているようなもので、主イエスの処刑が主要国のどこのニュースにも流されたというようなことを言っているのだろうと思います。
 また23節には、主イエスの身につけていた着物のことが、やはり詳しく述べられています。23節を聞きます。『兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった』。どうして衣服のことをこんなに詳しく語る必要があったのでしょうか。これは、言うならば一つの状況証拠のようなものなのです。それは、喩えで言うなら、ある殺人犯が被害者から奪い取った衣服を隠して持ち出し他の場所でそれを焼き捨てた、ところが、ある有能な刑事がその焼け残りを継ぎ合わせて、その状況証拠を突き止め、犯罪が確かに行われたことを立証して見せた、というようなことに通じます。主イエスから剥ぎ取られた上着は、もはや上着の姿では現存していないけれども4つの端切れをつなぎ合わせることができたなら、否、4つの端切れの一つでも現存しているなら、それをもって不当な処刑が確かに行われたことの証拠になる、というわけです。
 こういう類のことは他にもあります。弟子のヨハネがそこにいた。あるいは、一本のヒソプの枝がそこにあった、酸いぶどう酒の器がそこにあり海綿もあった、こういうことがこの福音書には細かく書き立てられています。そして、古い時代の画家たちは、こういった細かな道具立てをとても綿密に描きました。画家たちはその理由をよく知っていました。即ち、さまざまな品物が無言の証人であること、そしてもはや一度限りの、二度目は決してない決定的な出来事が確かに起きたことを、これらの物や人物が物語る、有言無言の証人であることを知っていたのです。

 そして、今語ったことの他に、更に第3のことがあります。この福音書を読んでいて印象に残るのは、今数えたような細々としたことだけではありません。もっと注目すべきことが書かれています。
 即ち、主イエスが二人の犯罪人の間に挟まれるようにして亡くなられたこと、その頭上に「ユダヤ人の王」という罪状書きが取り付けられていたこと、また、衣服がくじ引きされたこと、酸いぶどう酒を含ませた海綿が差し出されたこと、主イエスの足は折られなかったけれども、わき腹が槍で突き刺されたこと、こういった一連のことが細々と記された後で、それらのことが『聖書の言葉が実現するためであった』と書き添えられているのです。
 そして実際、ここに記された事柄については、旧約聖書の中にそっくりそのまま当てはめる記事を見出すことができるのです。これはとりわけ注目すべきことです。しかし、それはどうしてなのでしょうか。こんな理由があるためです。
 つまり、十字架に釘付けられ、お亡くなりになった主イエスは、もはや自分で自分のことを証しすることはできません。そして誰もが、この方が神の独り子であり、世の贖い主なのだというふうには、認めてくれません。目に見える証拠から言うなら、主イエスは大変不利です。主イエスは、誰からも認められない状態で十字架にかかっておられます。主イエスは自分の人柄やその死について、後世に伝えるべきものを何も持ち合わせません。唯一の持ち物だった衣服すら、剥ぎ取られてしまいます。
 これが果たして、本当に世の贖い主の姿なのでしょうか。なるほどかつては、大勢の群衆をわずかなパンと魚で養いました。その時は、いかにも救い主のように見えました。けれども、今は違います。今は、喉が渇いて水を求めています。まるで病院の中で呻き苦しんでいる人が、看護師に痛み止めの薬を要求しているようなありさまです。一体誰が、この憐れな人物を、世の救い主、贖い主であると認めるでしょうか。
 しかし、外側から見てそんなふうに限りなく惨めであるからこそ、まさに、この方が世の救い主であるのだと、旧約聖書が証言するのです。この福音書を書いたヨハネにとって、旧約聖書はこの上なく重要です。なぜなら、この旧約聖書に書かれている記事と照らし合わせて初めて、このような悲惨な状況の中に追いやられている方は、単に異邦人ピラトの冷酷な判断で殺されたのではない、そうではなくて、ここには他ならない父なる神が関わっておいでなのだということが知られてくるのです。
 激しくいきり立ち、猛り狂う嵐の下に、実は隠れた避難所があって、そこで全ての手が操られ、手繰り寄せられています。人間の目につく荒々しい事柄の最後の決定権は、神の御手のうちにあります。それだからこそ、主イエス・キリストはおっしゃるのです。 『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』(ルカによる福音書23章34節) 。実際、人々は自分では何をやっているのか分からないままに行動しています。
 ピラトは罪状書きを書きました。あらゆる人に分かるように丁寧に、3ヶ国語で書かせました。しかしピラト自身は、それを嘲りの気持ちを込めて書かせています。そして、実際に十字架におかかりになった方は、嘲りをみじんも含まない、ピラトが書かせた通りの方でした。ピラトはこれを書きましたけれども、本当は、もう一人の方がピラトの手を引いて、そのように書かせたのです。
 兵士たちは、主イエスの衣服をくじ引きしました。ところがその時、本当は別の方が手を引いて、兵士たちにそのようにさせておられるのです。兵士たちは、その方の御手に引き回されていることに気づきません。彼らは、役得を得たと思って、ほくほくしながら家路についたことでしょう。主イエスの足の骨を折らず、代わりに脇腹を槍で突き刺した兵士も同じです。彼もまた、自分では気がつかないうちに神に導かれ、用いられています。
 ヨハネは、こういう一つ一つのことが、たとえ人間の目には酷く見えたり辛く思えることがあるとしても、全体として、父なる神の御手の働きに持ち運ばれているのだと物語っているのです。
 こういうふうに聖書の光に照らしてゴルゴタの丘の出来事を見るとき、それは全く新しい意味を持つ出来事となって見えてきます。
 十字架に釘づけられ、何もできない状態のように置かれているように見えたのは、信仰の目からすると、決して悪の勢力の前に屈服している姿ではなく、雄々しく中央に立ち、救いの御計画を一つ一つ実現していかれる方の御心に完全に従順に仕えているお姿です。
 主イエス・キリストは、黙って屠殺場に引かれてゆき、なすがままにされる小羊でいらっしゃるのです。十字架にかけられ、むごたらしい仕方で殺されるのは、しかし、死と悪魔にもてあそばれている姿ではなく、却って、そのような仕方で悪と死に勝利している方の姿です。神は、そのように独り子を十字架の上に遣わして、死の力、闇の力に勝利なさることを決めておられたのです。

 ですから、ゴルゴタの丘では、死と闇の力だけではなく、天の力もまた現れています。主イエスは、ご自身が十字架に釘づけされ殺されるという凄惨な道が、実は、神が悪の勢力を破り、死の勢力を克服してゆかれる道であることをご存知でした。従って30節のところで、こうおっしゃいます。 『成し遂げられた』 。今や、最後まで終了したという言葉です。これは万事休すということではありません。今や、聖書によって、父なる神の御心として述べられているすべてのことが実現したという勝利の宣言です。神の御心が貫徹される、そこにこそ、私たちの希望があります。

 十字架の死においては、罪や死や闇や滅びの勢力が勝利を収めたのではありません。キリストが勝利したのでもありません。父なる神の御心のうちに定められたことがすべて実現され、父なる神が勝利されたのです。
 今日このところに、つまり、十字架が立てられたこのところに、神はその清らかな御力をもって関わっておられることを聞き取りたいと思います。それによって、死はもはや武器を失い、破壊的な力を失っています。十字架において、悪の勢力は衆人環視の下に連れ出され、否応なくがんじがらめにされているのです。

 けれども、そうではありましても、神の救いの御計画がすべて完成したわけではありません。それは段階を踏んで完成します。死はまだなくなったわけではありません。悪はその働きをまだ止めていません。使徒パウロは、はっきりと、最後に滅ぼされる敵が「死である」と述べています。
 死に際して、私たちは何に依り頼むでしょうか。何とか死を克服しようとしても、死なないわけにはいかない私たちです。けれども神は、この私たちの死の一つ一つに関わってくださっております。私たちの命は、この地上においてだけで終わるのではありません。神が永遠から与えてくださって生きる命です。そして、主イエスはそのことをご存知であるがゆえに、最後まで、父なる神の御心に従順に従われ十字架に死なれました。そこに永遠の命があり、甦りの希望があるのです。
 私たちは、なお、敵地のただ中にいるようなものです。しかし、私たちには既に、この世において、死の力の毒矢に対して身を隠す避難所が、そして盾が与えられています。
 罪を耐え難い重荷であると感じ始めるとき、私たちには休息と自由を得ることのできる場所が与えられています。十字架のたもとです。そのところで、主の御業によって、私たちの罪は洗い清められます。神が定められた救いの計画は、既に主イエス・キリストの十字架が立てたれたことで、土台が据えられました。救いの土台は既に備えられ、「成し遂げられて」います。
 私たちは、この主の十字架の御業を信仰によって仰ぎ見つつ、復活の朝を待ち望む者たちとされたいのです。

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