2015年4月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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十字架の光景 | 2015年受難日礼拝 2015年4月3日 |
宍戸俊介牧師 |
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聖書/ヨハネによる福音書 第19章1〜42節 | |
19章<1節>そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。<2節>兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、<3節>そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。<4節>ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」<5節>イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。<6節>祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」<7節>ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」<8節>ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、<9節>再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。<10節>そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」<11節>イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」<12節>そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」<13節>ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。<14節>それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、<15節>彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。<16節>そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。<17節>イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。<18節>そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。<19節>ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。<20節>イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。<21節>ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。<22節>しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。<23節>兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。<24節>そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。<25節>イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。<26節>イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。<27節>それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。<28節>この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。<29節>そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。<30節>イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。<31節>その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。<32節>そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。<33節>イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。<34節>しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。<35節>それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。<36節>これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。<37節>また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。 <38節>その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。<39節>そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。<40節>彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。<41節>イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。<42節>その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。 |
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ただ今、ヨハネによる福音書19章の全体をご一緒にお聞きしました。主イエスが十字架にかけられ、苦しんでお亡くなりになった受難日に当たって、このところに語られていた情景を思い浮かべたいと思います。 このところにはまず、十字架に釘づけられ苦しんでおられるお一人の方がおられます。その十字架のたもとのところでは、苦しんでいる人物を尻目に、そこから剥ぎ取った衣服をくじ引きしようとして、兵士たちが騒いでいます。十字架に磔られている人物は、苦しい息の中で、母親に最後の別れを告げ、そしてその母親を信頼できる愛する弟子の手に委ねています。最後は喉の渇きを覚えながら、大声で呼ばわって息絶えます。そのところで兵士たちは、たった今亡くなったばかりの亡骸を手荒に扱います。その後、わずかな人たちがその亡骸を十字架から取り下ろし、墓に葬ります。まことに冷酷で惨めな有様がここに語られています。 しかし、です。今晩私たちがこのことの意味を確かに受け止めるために集まってきている出来事、即ち、聖金曜日の出来事と呼ばれるこの出来事の意味は果たしてそれだけなのでしょうか。私たちの誰もが経験する辛く惨めな死の出来事を主イエスもまた経験して下さっているという、それだけのことなのでしょうか。 出来事がこういう形で起きているということの中には、まずは、このようにして初めて、この世の悪の正体が白日のもとに晒け出される、という意味があります。主イエスがこんなにも苦しめられるという、そのことによって、あらゆる悪の力、闇の勢力がそのヴェールを剥がされ、明るみの中に引き出されるようなところがあるのです。 ここから聞こえてくる理由はそれだけではありません。他にもあります。ヨハネによる福音書を注意して読むと気づかされるのですが、ここには、主イエスの受けた裁判や処刑の様子が実に事細かに書かれています。例えば、罪状書きの捨て札のことが触れられています。20節のところですが、こんなふうに述べられています。『イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた』。主イエスの罪状書きは、当時最も使われていた3つの言葉で書かれました。それは実際、その通りだったからなのでしょうが、しかし、どうしてわざわざこのことがここに書き込まれているのでしょうか。これは今日風に言うとすれば、さしずめ主イエスの罪状書きが日本語と英語、フランス語で書かれていたと言っているようなもので、主イエスの処刑が主要国のどこのニュースにも流されたというようなことを言っているのだろうと思います。 そして、今語ったことの他に、更に第3のことがあります。この福音書を読んでいて印象に残るのは、今数えたような細々としたことだけではありません。もっと注目すべきことが書かれています。 ですから、ゴルゴタの丘では、死と闇の力だけではなく、天の力もまた現れています。主イエスは、ご自身が十字架に釘づけされ殺されるという凄惨な道が、実は、神が悪の勢力を破り、死の勢力を克服してゆかれる道であることをご存知でした。従って30節のところで、こうおっしゃいます。 『成し遂げられた』 。今や、最後まで終了したという言葉です。これは万事休すということではありません。今や、聖書によって、父なる神の御心として述べられているすべてのことが実現したという勝利の宣言です。神の御心が貫徹される、そこにこそ、私たちの希望があります。 十字架の死においては、罪や死や闇や滅びの勢力が勝利を収めたのではありません。キリストが勝利したのでもありません。父なる神の御心のうちに定められたことがすべて実現され、父なる神が勝利されたのです。 けれども、そうではありましても、神の救いの御計画がすべて完成したわけではありません。それは段階を踏んで完成します。死はまだなくなったわけではありません。悪はその働きをまだ止めていません。使徒パウロは、はっきりと、最後に滅ぼされる敵が「死である」と述べています。 |
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