聖書のみことば
2015年4月
4月3日 4月5日 4月12日 4月19日 4月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

4月19日主日礼拝音声

 兵士たちは
2015年4月第3主日礼拝 2015年4月19日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第15章16〜20節

15章<16節>兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。<17節>そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、<18節>「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 <19節>また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。<20節>このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

 ただ今、マルコによる福音書15章16節から20節をご一緒にお聞きしました。
 ピラトから十字架の判決を言い渡された主イエスが、刑の執行のためにローマの兵隊に引き渡されて、十字架までの道を実際に辿り始める、その間のことがここに語られています。総督官邸の中に連れ込まれ、兵隊たちによって手酷く扱われたことが記されております。
 時間で言えばせいぜい1時間ほどだったと想像できます。また、まっすぐに十字架に向かうということよりも少し脇道に逸れた記事のように思います。ピラトの死刑宣告、そして十字架へ、それで済むように思います。にも拘らず、ここには主がローマ兵たちとお過ごしになったことが詳しく述べられています。どうしてでしょうか。今日はここから聞こえてくる事柄に一つひとつ聴いてみたいと思います。

 16節「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた」。主イエスが総督官邸の中に引き入れられたとあります。裁判が総督官邸の前側の広場で行われていたからです。ピラトは屋敷から出て、表で、興奮した群衆を持て余しました。もちろん、軍隊によって鎮圧することも一つの方法だったと思われますが、しかし、それは一時のことだけで、後によくない事が起こるとピラトには予想できました。ガスで充満したボンベに空気を送るとどうなるか考えてみると分かると思います。群衆の不満は、一時は抑えられても、抑えれば抑えるほど緊張が高まり、やがては暴発し、暴動となる。ピラトは群衆の持つエネルギーを恐れたのです。不満が蓄積して暴発し、制御不能になることのないようにと、ピラトは考えました。
 貯まったガスの圧力を下げるにはどうしたらよいか、簡単です。日頃はきつく締め付けている口金を、少しだけ緩めてやるのです。そして余分なガスを逃がせばよいのです。口金を緩める、そのために使われたのがナザレのイエス、その方です。
 ピラトは主イエスが無実であることを知っていました。ピラトは決して無能な支配者ではないのです。エルサレムの町には、暴動を監視するために、ピラト自身が偵察を放っています。不穏な動きがあればピラトの耳に届くようになっていたのです。けれども、主イエスはそのようなセンサーに引っかかってこない。ということは無実だということです。無実であることを知りながら、しかしその主イエスを使って安全弁を緩めよう、そのために十字架刑を宣告する、総督ピラトの無慈悲で冷酷な一面が現れていると思います。

 しかしもう一つ、露わになっていることがあります。それは、ピラトにとって主イエスはさほど重要でないということです。この若いラビが処刑されようが釈放されようが、自分には関わりないと思っていました。ピラトは主を十字架に送った張本人ですが、しかし、主に対してどれくらい注意を向けていたかというと、ほとんど向けていなかったと言ってよいと思います。
 ところがです。ピラトから主イエスの身柄を引き受けたローマの兵士たちは、十字架刑の準備が整うまでの間、全員がそこに集まった、「部隊の全員を呼び集めた」と記されております。総督ピラトがさほど注意を払わなかったのに、ここには、これからの処刑に必要な人員を遥かに超える人数が集められています。
 「部隊の全員」が何人なのか、この訳では分かりませんが、原文では、この部隊は600人隊となっています。ですからこのとき、ピラトの官邸には、一連隊という驚くべき人員が集められたのです。
 聖書研究者の中には、この数の多さから見て、ピラトが普段エルサレムを治めるために守備させた全兵だろうという人もおります。そうかも知れません。けれども、もし600人もの人が官邸に集まったら、どういうことになったでしょうか。官邸に入りきったのでしょうか。それほど広かったのでしょうか。あるいは、戒厳令を布くように、総督官邸を守るために屋敷の周りに呼び集められたと考えることもできるかもしれません。しかしそんなはずはないのです。ピラトは主イエスに関心がなく、さほどの脅威を感じていなかったからです。もし、主イエスの背後に徒党を組むような人がいて、主が捕らえられ死刑判決を受けたとなれば取り返しに来るかもしれないとすれば、無実と分かっていながらそんなに簡単に十字架刑を宣告する筈はありません。ですから、警備のために兵士を集めたとは考えにくいのです。
 また「全員を呼び集めた」とありますが、これは原文でははっきりと、「全体を一つにして集めた」と記されております。600人があちこちに配備されたというのではなく、600人が一つとなって主イエスの前にやって来たことが分かります。
 これはちょうど、私たちがここで礼拝を捧げていることと同じようなことです。ローマの兵士たちもこの時、主イエスの前に呼び集められて、一つの群とされているのです。兵士たちは、自分たちがこれから十字架に磔にする人物の前に勢揃いしています。そして、そういう群の面前で、主イエスに対する不当な取り扱いが公然とされるのです。言ってみれば、ここに集められた兵士たちは、そこで起こったことの目撃者であり証人とされたということです。

 では、兵士たちの面前で行われたこととは、何だったのでしょうか。17節〜19節「そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした」。エルサレム守備隊全員の前で行われたこと、それは一つの見世物だったと記されております。
 故郷を離れて遠い異国の戦場で緊張を強いられる人たちには、時として慰問団が訪れるということがありますが、実はこの日、ローマの兵隊たちは、真の魂の慰問を受けているのです。ただし、兵士たちはそのことに誰一人気づいていません。兵士たちが見せられた見世物とは何なのか。それは「真の王の即位式」です。もちろん、兵士たちの気持ちからすれば、十字架処刑までの短い時間に自分たちの慰めのために哀れなユダヤ人を引き出していたぶっているということに過ぎなかったでしょう。しかしそれにも拘らず、主を不当に扱っている人々の不真面目さにも拘らず、ここに起こっていることは、紛れもない、真の王の即位式なのです。

 主イエスはどのように扱われているか。まず紫の服を着せられます。この紫の服はローマの士官のマントだと言われております。ローマの士官のマントは赤ですが、長年の戦場暮らしの中で色あせて薄い紫色になってしまう、そういう古ぼけたマントを、兵士たちは王者のマントに見立てました。そして、王であるから王冠を戴くのですが、それは金や宝石の飾り物ではなく、茨の冠でした。葦の棒でその王冠を強く叩けば、茨の棘が頭に食い込んで血がどんどん流れる、そういう姿です。そういう姿の主イエスの前で、兵士たちは敬礼し歓呼の声をあげる、跪いて拝むという行為をしているのです。また一方では、唾を吐いて嘲り、葦の棒で叩いている。兵士たちは、王に対して敬意を払う真似をしてふざけているのです。
 ここで起こったことは一体何なのか。これは戦場でよく起こるようなこと、兵士たちが弱い立場の人たちに対して乱暴を働くというようなことなのでしょうか。間違いなくそういうことでしょう。けれども、それだけではありません。兵士たちは誰一人思ってもいませんが、ここに起こっていることは、紛れもない「ユダヤ人の王の即位式」です。神の民の王である方が、ここに確かに王として立てられていくのです。人間は誰もそのことを知らない、見ている者が誰一人それを認めないとしても、ただお一人の方が、ご自身が選んだ僕を、ここで王として即位させておられます。

 先週の礼拝でも話しましたが、そもそも「ユダヤ人の王」という罪状書き自体が、総督ピラトの裁判の席で突然降って湧いたものでした。ピラトの前に連れて来られるまでは、一度も主イエスの上に「ユダヤ人の王」という称号が唱えられたことはありませんでした。神がその称号を、ピラトの裁判のその場で主イエスに与えられたのです。そして主イエスは最後に、その称号のもとに、十字架に磔にされていきます。
 「ユダヤ人の王」という言葉は、ピラトの前で突然降って湧いた言葉です。そしてその言葉は、信仰を持たない人の目から見れば、ただの冤罪の言葉にしか過ぎません。まったく無実であるのに、敵対者たちが主イエスを陥れるために、この人はユダヤ人の王だと仕立て上げ、ピラトの敵だとし、ピラトはまんまとそれに乗せられて主を死刑にしてしまいました。しかしです。神が「そうではないのだ」と、実は今日のところでおっしゃっているのです。だからこそ、マルコは、このことを丹念に書かなければいけないと思っているのです。
 神は、「ユダヤ人の王」という罪状が決して冤罪ではない、本当に確かに、この人は「ユダヤ人の王」として十字架にかかるのだ、イスラエルの王として十字架に向かわれるのだということを、こういう仕方で示してくださっているのです。

 今日のところで、主に悪ふざけをしている人たちが誰なのかということを注意して聞きたいと思います。それは、主イエスに敵対し、陥れてやろうと思っている人たちではないのです。ユダヤ人たちが悪ふざけで「ユダヤ人の王」と言っているなら、まだ話が分かります。しかしここで、主イエスを王だと言って嘲っている、しかしその場にいるのはローマの兵士です。ローマの兵士は別に、主イエスを陥れる必要などない人たちです。この人たちはただ主イエスを、自分たちの慰み者にしているだけです。しかし、大変不思議な仕方ですが、神によってこの人たちは用いられております。

 旧約聖書イザヤ書50章5節〜7節をお読みします。「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている わたしが辱められることはない、と」。
 神が選び、一つの使命に向かわされる僕の姿がここに語られています。この僕は、人間的に言えば、明らかに辱められ侮られています。しかし、「神に仕えている、神からの使命に仕えるためであれば、それは決して辱めではない。このような道を通して、今自分は神に用いられている、幸いな道にある。神の御言葉に耳を開かれて、わたしは素直に、それに逆らわなかった」と言うのです。顔を硬いダイヤモンドのように輝かせながら、しかし苦難の道を辿っている僕の姿がここにあります。
 このイザヤ書の預言は、実は、今私たちが聞いている「ユダヤ人の王」として即位されている主イエス・キリストを遥かに指し示す言葉なのです。主イエスはまさに、背中を打つ者には背中をお任せになり、頭を打つ者には頭をお任せになり、唾を吐きかける者の間にあって、しかしご自身の使命を果たそうとして、まっすぐに、十字架に進んで行かれるのです。ユダヤ人の王として、まことに神の民の主である方として、すべてのユダヤ人の身代わりとなってご自身を差し出し、十字架に向かって行かれます。そしてまた、新しいイスラエルの王として、信じるすべての者のために即位しておられるのです。

 今日の説教題として「兵士たちは」という言葉が与えられました。この「兵士たち」とは一体誰なのかを思います。そして、今日この聖書箇所に耳を傾けている私たちは一体誰なのだろうか、そう思います。
 大変不思議な巡り合わせになってしまいました。今日の主日には午後から、牧師就任式が行われます。就任式と聞きますと、教会に牧師が就任するのだとお考えになる方がいると思います。しかしそうではありません。就任式の中で私たちは、一つの出来事を見せられます。それは、大牧者である主イエス・キリストが、私たちの上に、主として、王として、位に着いておられ、その主の前でもう一度、牧師は牧師として、教会員は教会員として、私たちは互いにそれぞれの務めを与えられ、それぞれの役割に置かれているのだということを確認する、それが就任式です。大牧者である主イエス・キリスト、私たちの教会の主である方に仕える者たちとして、牧師も信徒ももう一度務めを確認させられ、そして教会全体として主の御栄光を現す務めに向かわされていく、それが就任式です。
 私たちは、自分自身というものを見つめてしまうと、いつでも心細いものを感じます。礼拝に来て、もう一度主の僕として歩き出す、そういう思いで家路に着いているはずですが、しかし気づくといつも主イエス抜きで、神抜きで歩いている自分がいる。本当に自分は弱い僕でしかないことを思わされます。始終、主イエスの御名を汚し、御心に適わないことを思ったり、話したり、行なったりしている、そういう弱い者でしかないことを、私たちは自分について思うことがしばしばあります。
 しかしです。主イエスがローマの兵士たちの前で王として即位なさった、それは実は、私たちのためでもあるのです。主が王として即位され、主が贖いのために十字架に向かっていかれる、その時の証人というのは、主イエスのことがよく分かって、主に心から従う立派な弟子たちではなかったのです。目の前で起こっていることが理解できなくて、そして、自分としては誠に不真面目でしかない者が、本当に不思議ですが、証人とされる。そして、「確かにあの出来事はあった」と、後々語るようになる者とされているのです。

 今日の箇所で、部隊全体が呼び集められたと記されております。十字架を前にした主イエスの前に、一部隊の全員が呼び集められ整列させられて、そして主イエスが王として即位される、そのことを目撃させられている、目撃して証人とされている、そのことを聖書は語っております。
 私たちも、この私たちの群の上に、大牧者であられる主イエスが立ってくださっているのです。私たちの魂のために立ってくださっていて、私たちの王として十字架にかかり、罪を清算してくださって、新しい命を与えてくださっている、そのことの証人として、各々の生活を営む者とされていきたいと願うのです。

 主が十字架に向かうまでのひととき、ピラトの中庭に連れ込まれて、ローマの兵士たちと共に過ごされた、それは決して辱めを受けるためではありません。むしろ、この兵士たちのために、私たちのために、王となる御業を確かに果たしておられる。そのことを覚えて、私たちは、王であり大牧者である主イエス・キリストに従って歩んでいく志を新たにされて、ここからまた進んでいきたいと願うのです。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ