ただ今、マルコによる福音書15章1節から15節をご一緒にお聞きしました。
1節に「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した」とあります。ここには、夜が明けてすぐに最高法院の議会が召集されて、ごく短時間の裁判が行われたことが語られています。朝早く、一応形だけの裁判が開かれたというのです。「形だけ」と言いますのは、朝早くのこの審議が始まったときには、もう既に結論が定まっていたからです。この時、実際にはもう判決は決まっていました。
いつその判決が決まったのかと言いますと、前の晩のことです。イスカリオテのユダの裏切りによって、主イエスが逮捕され、その後、大祭司の屋敷に連行されます。そしてその屋敷の中で、実は第一回目の裁判が開かれたのです。その時の様子が14章53節以降に述べられています。55・56節に「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである」とあります。
夜の間に開かれたこの裁判も、実は厳正中立なものではありませんでした。最初から、主イエスを死刑にしようという意図を持って開かれていました。主を有罪にするために偽証する人は大勢いた、けれども、それが偽りの証言であるために、詳しく検証していくと、証言が曖昧になってしまって有罪と確定することは出来なかったのです。
当時のユダヤの裁判では、誰か一人だけが激しく言い立てたとしても、一人だけの証言では有効な証拠と見なされません。すべてのことは、2人また3人の証言によって確定するというのがユダヤ人の考え方です。2人また3人が同じことを証言して初めて、真実な証言として取り上げられるのです。主を死刑にしようとした人たちは、次々と思いつきで証言しましたが、しかしそこに偽りがあるために、一致した証言にならなかったのです。
それで、遂に業を煮やした大祭司自らが、主イエスに問いかけることになります。60・61節「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、『お前はほむべき方の子、メシアなのか』と言った」。ここで主イエスが初めて大祭司に対して肯定的な返事をなさいます。その答えによって、そこにいたすべての人が、主イエスから神を冒涜する言葉を聞いたと言って死刑判決が下されることになりました。64節「『諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。』一同は、死刑にすべきだと決議した」とあります。
主イエスの処刑が決定された瞬間、それは夜のことでした。しかし、このように夜に処刑が決定していたのであれば、どうして翌朝のしかも早い時間にもう一度裁判が開かれなければならなかったのか。そういう疑問が出てきます。
当時、最高法院の決まりでは、夜の間に判決を下すことは出来なかったそうです。ですから、64節にあるこの判決は無効ということになります。そのために、翌朝、夜が明けるとすぐに裁判が開かれたのですが、しかしその時には、判決の大筋は決まっているのですから、ただ形だけの法廷を開いて判決を下せばよかったのです。それが、この1節の経緯です。
しかしここで、どうしても問われなければならないことがあります。それは、大祭司を筆頭とする最高法院の議員たちが、どうしてこんなにも事を急いだのかということです。議員たちは、前の晩に主イエスを捕らえることに成功しました。その夜のうちに最初の裁判が開かれ、翌朝早くに2度目の裁判が開かれ、その形だけの裁判で死刑が宣告されます。それからすぐに、ローマ総督ピラトのもとに身柄が送られ、祭司長たちが群衆を扇動してピラトに圧力をかけ、ピラトに、有罪・十字架・処刑という判決を下させるのです。
朝の9時には、主イエスはもう十字架に架けられてしまうと、聖書は語っております。逮捕されたのは前の晩の遅く、今で言えば8時か9時。それからたった半日、朝の9時には十字架の処刑が始まっている。
私たちは、受難週には十字架のこの場面を、聖書を読みつつ聴きます。この場面の聖書箇所は大変長いですし、また丹念に聴きますので、時間はとても長く感じるのですが、実際には半日の間にすべてが進んでいます。驚くべきスピードです。9時には十字架に架けられ、そして午後3時には息を引き取られる。前の日の午後3時に、翌日こんなことになるとは誰も予想していなかったと思います。早すぎて尋常ではありません。
普通であれば、この短時間に処刑という重大な判決を出して、しかも実行するということは有り得ないでしょう。当時のユダヤでも有り得ないことでした。最高法院で死刑判決が出るときには、必ずもう一度法廷を開いて刑を確定しなければいけない決まりがあったそうです。ですから、朝の会議だけが有効な会議だとすれば、その日に処刑できるはずはありません。翌日にもう一度法廷を開いて刑を確定する、それが正式な手順です。
どうして最高法院はこれほどまでに処刑を急いだのか、これは問われなければなりません。その理由は、主イエスを処刑するための正当な理由が何もなかったからです。彼らは、横槍が入ることを恐れたのです。朝になればエルサレムの町は動き出す、そうすれば、前の晩に起こったことは噂になって広まっていきます。「あのナザレのイエスというラビが逮捕されたらしい」「大祭司の屋敷に連行されるのを、わたしは見た」という人が出てくるに違いない。そして「大祭司の屋敷で裁判があったらしい。何があったのか」という噂になる。噂が広まれば、大祭司たちは、なぜ自分たちが主イエスの身柄を押さえているのか説明しなければならなくなります。その際に、正当な説明が出来るならば、裁判を急ぐ必要はありません。こういう理由で逮捕して、今取り調べ中であると答えれば良いのです。ところが、急いで裁判をして主イエスを処刑してしまう、そのところに最高法院の議員たちの欺瞞が表れております。そう言わざるを得ません。
ところで、このように最高法院が事を急ぎましたので、ピラトは朝早く裁判をしなければならない羽目になりました。恐らく起き抜けだったでしょう。ピラトにとっては驚きだったでしょう。前の日、夕暮れには、こんな展開になるとはまったく思っていなかったと思います。けれどもピラトは、そんな急なことと言って門前払いすることは出来ないのです。なぜかと言うと、ピラトに主イエスを突き出した人たちが、ユダヤの、エルサレムの顔役、重立った人たちだったからです。ピラトとしては、エルサレムを上手く治めていくために、町の顔役とは仲良くしたいと思っています。ですから、ピラトはしぶしぶながらでも、この裁判を開かなければならなかったのです。
それで、ピラトはイエスに尋問します。2節「ピラトがイエスに『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると」とあります。ピラトがこう尋問するということは、詳しい訴えの内容は書かれていませんが、最高法院の訴えは「この男は『ユダヤ人の王』と名乗って、ローマに反逆を企てている危険分子だから連れてきたのだ」というものだったに違いないのです。
ピラトはエルサレムを治める者ですから、自分でもそれなりの情報網を持っていたでしょう。けれども、ピラトの情報網からは、このような反乱が起こることは引っかかって来ないわけで、だからこそ、このユダヤ人たちの訴えは妬みからくるものだと、ピラトにはすぐ分かるのです。しかし、訴えて来た者が「この男は『ユダヤ人の王』と名乗った」と言って訴えてきた以上、ピラトは主イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と問わざるを得ませんでした。
ここに主イエスを突き出した人たちの訴えが詳しく書かれていないのは、そもそもの訴えが詳しいことを言わず、「この男は『ユダヤ人の王』と名乗っている。ローマへの反逆を企てている」ということだけだったからです。ではなぜ細かく言わなかったのか。細かく言えばそれは、前の晩の繰り返しになるからです。訴える人がいろいろ言い出せば証言が一致しない。そうすると、ピラトは何を言われているのか分からなくなってしまう。そこで、恐らく祭司長たちが中心になって、「この男は『ユダヤ人の王』と名乗っている」と訴えているのです。
私たちは、何度もこの福音書を読んでいますから、主イエスが「ユダヤ人の王」として突き出されていることを知っています。そして、そのことに慣れてしまっています。ところが、よく考えてみますと、この言葉自体が既に「偽りの言葉」なのです。しかも二重の意味で、です。
一つは、無実の主イエスをローマへの反逆者として訴えている、これは偽りです。
しかし、もう一つ偽りがあります。前の晩の最高法院の会議では、「主イエスは死刑に値する」という判決が出たのです。jけれどもその時には、「ユダヤ人の王」という言葉はどこにも出てきません。前の晩に最高法院が「主イエスは死刑に値する」といきり立ったのは、主イエスのどんな言葉を聞いたからでしょうか。14章61・62節「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、『お前はほむべき方の子、メシアなのか』と言った。 イエスは言われた。『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る』とあります」。主イエスの「そうです」という、この一言が、自分を神と等しい者とした、神への冒涜だと言って、最高法院は死罪に値すると決定したのです。主は確かにご自身を「メシアである」と言われました。けれども、この時点で「ユダヤ人の王」ということはどこにも出てきません。前の晩には何も無かった言葉が、ローマ総督ピラトの前に引き出されたときには、突然降って湧いたように生まれたのです。
主イエスがご自身を「メシア」と認められたこと、これは神を信じているユダヤ人にとっては、神への冒涜として許し難いことです。けれども、もともと異邦人であるピラトにとっては、関係無いことです。いくらユダヤ人たちが訴えたとしても、ピラトはそんなことでは動きません。ピラトにしてみれば、「それはあなたたちの宗教上の問題なのだから、自分たちで裁判をやったらいいだろう」と言うでしょう。もしそんなふうに、ピラトからまた主イエスを突き返されたら、もちろん最高法院を開くことはできるのですが、彼らが判決として死刑を宣告してそれを実行することはできませんでした。当時、誰かを死刑に処する権限はローマ総督しか持っていなかったからです。
ですから、彼らはどうしても、主イエスを死刑にするためには、「イエスはユダヤ人の王と名乗っている反乱者である」として、宗教上の理由ではなく政治上の理由で、治安上・公安上の問題としてピラトに裁いて欲しかったのです。ピラトに圧力をかけて死刑判決を出してもらうために、唐突ですが、最高法院の議員たちは、主イエスを「ユダヤ人の王」として、ピラトに突き出したのだろうと思われます。
事情はそのように動いて、突然降って湧いたように、主イエスに「ユダヤ人の王」という罪状がつきました。普通の考え方からすれば、訴える人たちが偽りに偽りを重ねて主イエスに濡れ衣を着せている、あるいは何とか死刑にしたくて思いついた丁度よい言葉だったのだと思います。しかし、何とも不思議ですが、この偽りに満ちた人間の口を通して、実は、神が本当のことを知らせておられるのです。ここに起こっていることは、嘘が真になるというような軽々しいことではありません。神は、人間には偽りが多いこと、人間は一人ひとり弱さを持つ生身の者であることをご存知です。その上で、神は、この世に事を起こされます。
考えてみたいと思います。最高法院の議員たちは、自分たちの策略で主イエスを捕らえ、自分たちの計画を持って主を十字架につけようと思っていたに違いありません。自分たちが主導して出来事が起こっていると思っていたに違いないのです。しかし果たして本当にそうなのでしょうか。
彼らが、ここでこの時、主を処刑しようと思っていたかと言いますと、そうではありません。14章の初めに彼らが主を殺そうと相談していたときには、まさかこんなに早くその機会が来るとは思っていませんでした。1・2節「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」とあります。主を殺したいと思っている、けれどもまさか、過越祭の前に十字架を立てることができるなどとは思っていなかったのです。過越祭には大勢の人がやって来る、大勢の人たちの前で主イエスを捕らえたりすれば、うっかりすると暴動が起こるかもしれない。自分たちが人々の反撃の的になるかもしれないから、過越祭が終わって群衆が立ち去ってから行動を起こそう、そういう計画だったのです。
ところが、祭司長たちが予想もしていなかった、イスカリオテのユダの裏切りが起こり、そこで思いがけず主の身柄が自分たちのところへ転がり込んできました。もちろん、彼らは喜んだでしょう。けれども主の身柄を持っている、それはそこで彼らに責任が発生するということです。なぜ自分たちが主イエスの身柄を押さえているのか、皆に説明しなければならなくなる。説明できなければ、群衆の非難の矛先は自分たちに向いてしまう。その矛先をかわすために、大急ぎで最高法院の裁判を開いて、形だけの2回の裁判をしてピラトに突き出し、最後はピラトに判決を下してもらえば、主を処刑したのは自分たちではなくピラトであると言える。
このように、最高法院の議員たちにも予想できないように、事がどんどんと急かされて進んでいって、過越の祭りの時が主イエスの十字架の時となります。そして更には、その過程で、「ユダヤ人の王」という罪状が、主イエスにつけられることになったのです。
主の逮捕から起こる出来事の数々は、人間の惨めな殺意や偽りや裏切りの連鎖です。けれども、しかし、それらを超えて、すべてを持ち運び操っている一本の糸があります。その糸は、信仰の目でしか確認できません。信仰を持たない人の目から見れば、ただ偶然に偶然が重なってこうなっていると見える。けれども実は、ある方が一本の糸をたぐって事の一切を進めておられるのです。そして、主イエスはそのことをご存知です。
主イエスは今日のこの箇所で、ただ一度だけ口を開かれます。2節に「ピラトがイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』と答えられた」とあります。この一言だけです。口語訳聖書では「あなたの言う通りです」と訳されていました。しかし、この答えでは、あまりにもピラトの問いかけに噛み合った答えのように思ってしまいます。実際には、主イエスはピラトの問いに噛み合うような答えをなさってはいませんので、新共同訳では「それは、あなたが言っていることです」という表現に訳し変えられたと言われております。
私たちはこう読みますと、これはどういうことだろうかと引っかかります。ピラトの問いに噛み合わない。ところが、「ユダヤ人の王なのか」とピラトが問うたその瞬間に、「ユダヤ人の王」という言葉が主イエスの上に降ってくる、そこで主イエスはピラトに「あなたは今、そう言ったね」と、その言葉を捕まえられるのです。「ユダヤ人の王」という言葉は、とても大事なのだと、主は言っておられるのです。
どうして大事なのでしょうか。この言葉の大事さは、主イエスが「ご自分の民の身代わりとなって十字架におかかりくださる」から、大事なのです。民全体の身代わりとして、王が自らの命を差し出す、そういうことが起こるとすれば、それは王にしかできない務めです。自分も民の一人でしかない、そういう人が、どうして民全体の身代わりとなれるでしょうか。なれません。
主イエスの十字架が民全体の身代わりとなる、それは何故かと言いますと、主イエスが「ユダヤ人の王」だからです。
しかしそれは、最初からそうだったのではありません。初めは、主がご自身を「メシアだ」と言って神を冒涜したから許せないという話でした。ところが、最後の最後、ピラトの所に引き出される段になって、突然、主イエスは「ユダヤ人の王」として死ぬということになってしまうのです。
あのゴルゴタの丘に立てられる十字架とは、主イエスだけのことではありません。あるいはまた、主を慕う弟子たちのためだけではない。そうではなくて、ユダヤ人のため、神の民全体のために立てられる十字架なのだということが、この「ユダヤ人の王」という言葉ではっきりしてきます。
受難日に聴きましたヨハネによる福音書では、この「ユダヤ人の王」という捨て札について、マルコによる福音書より詳しく記されております。そこには、捨て札は1枚ではなく3枚で、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語で「ユダヤ人の王」と書いてあったとあります。それは何を意味するのか言いますと、この出来事がユダヤ人だけに関係していることではないということです。外国語を話す人でも、その捨て札を読むことができる人は皆、主が何のために十字架についておられるかが分かるということです。
そして大変不思議なことですが、普通に成り行きを考えるならば、この「ユダヤ人の王」という呼び名が主イエスにつけられることは無いのであって、「ユダヤ人の王」という呼び名は降って湧いたようにつけられた名なのです。
「ユダヤ人の王」というのは、いわゆるユダヤ人という血筋にだけ関わっているのではありません。もっと広い神の民に関わっていることです。従って、私たちにも関わっているのです。
神が、主イエスの十字架によって、私たちと和睦してくださる。そして、主の復活によって、私たちは新しい命に生きることを許されるのです。それは、主イエスが私たちの主であり、王だからです。主が私たちの王であり主であってくださる、だから私たちは新しい命を生きる、永遠の命を生きる約束のもとに、この地上を生きることができるようになるのです。主イエスがピラトの発した一言を捉えて、このことを確かに、今日、宣言しておられます。
それにしても不思議です。この「ユダヤ人の王」という言葉が、主を信じる者たちや主の弟子たちから出るのではなくて、どうして、ピラトや祭司長の口から出るのでしょうか。このことは恐らく、主に素直に従う人たちだけが神に用いられるのではないことを示していると思います。神に逆らったり反発したり、あるいは神の御業が進んでいることを理解できない人たちであっても、神に用いられ、神の民の中に位置付けられ、務めを与えられるのだということを語っていると思います。
ということは、私たちが、聖書の内容がよく分かり、素直に従順に従える時だけ、神のお役に立てるのではないということです。私たちが分からないときにも、反発するときにも、そういう私たちを用いて神が御業をこの地上になさってくださる。私たちは今日、そういう神のなさり方の前に集められて、ここで共に礼拝を捧げているのです。
従順で素直な人だけが、神に仕えていけるのではありません。私たちは、すべての者が神から召されて、それぞれの務めに当たるようにと、神に仕えて生きる者とされています。主イエスが「ユダヤ人の王」として十字架にかかってくださっていることが、そのことを私たちに教えてくれています。
主イエス・キリストが王として私たちに臨んでいてくださる、そのことに感謝して、信頼をして、ここからの一周りを歩んでいきたいと思います。 |