聖書のみことば
2015年3月
3月1日 3月8日 3月15日 3月22日 3月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

3月1日主日礼拝音声

 祝福があるように
2015年3月第5主日礼拝 2015年3月29日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章12〜19節

12章<12節>その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、<13節>なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」<14節>イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。<15節>「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」<16節>弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。<17節>イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。<18節>群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。<19節>そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」

 12節「その翌日」と言われております。12章1節に「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた」とありますから、「その翌日」とは過越祭の5日前です。それは何曜日かとの議論もありますが、ここでは何がそこで起こったのかが問題です。
 ベタニア村にはマルタ・マリア姉妹とその兄弟ラザロが住んでおりました。主イエスは彼らの家で食事をしておられます(2節)。食事を共にする、それは親しい交わりを持っていたということです。親しい交わりを持っていたがゆえに、ベタニアでは必ず、主イエスは彼らの家に行かれました。
 そこで、マリアが高価なナルドの香油を主の足に塗り、自分の髪で拭ったことが記されております(3節)。弟子たちはこの行為に対して、高価な香油を売れば貧しい人に施すことができたのにと文句を言いましたが、主は「わたしの葬りの日のためにしてくれたことだ」と言ってくださいました。エルサレムに入城する前に、主イエスはマリアのこの行為を「ご自身の葬りのためにしてくれたこと」だと言ってくださった、それはどういうことなのでしょうか。
 主のエルサレム入城、それは主が苦難と十字架へと歩まれることです。十字架の死をご承知の上で、主はエルサレムに向かっているのです。ヨハネによる福音書は、主の十字架と葬りとを関連させて語っております。主はご自身の葬りの時と十字架での死の時をご存知の上で、今、エルサレムを前にしておられることが示されております。主は死の覚悟をもってエルサレムに入られるということです。

 しかしここで、もう一つのことが語られております。「そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた」と言われていることです(1節)。ここに、主イエスがどういうお方かが示されております。主は「ラザロをよみがえらせた方なのです。「ラザロをよみがえらせた、その方がエルサレムに入られる」と語る、そこにヨハネによる福音書の特徴があります。ヨハネは、単に主の十字架の苦難を語るのではなく、主が死をもって終わるのではなく、「よみがえりの主としてエルサレムに入城される」と語っております。9節には「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった」とあります。このように1〜11節では、「主の葬りの時」と、そしてまた同時に「ラザロを復活させた方」と記して、主イエスを「十字架の主」である以上に「よみがえりの主」であることを強調した上で、12節以降、主がエルサレムに来られたと語っております。「その翌日」の前日は、主の葬りの準備であり、主をよみがえりのお方として示している日なのです。

 12節「祭りに来ていた大勢の群衆は」とあります。この祭りはユダヤの三大祭りの一つである過越祭です。過越祭には大勢がエルサレムに集まってきます。巡礼の旅として、時をかけ、礼拝するためにやって来るのです。
 その群衆が、イエスがエルサレムに来られると聞き、13節「なつめやしの枝を持って迎えに出た」と言われております。主イエスのエルサレム入城の場面にこの記述があるのは、ヨハネによる福音書だけです。今日は棕櫚の主日ですが、この「なつめやし」ということが「棕櫚の主日」の起源です。そしてここでも強調されていることがあります。
 なぜ、群衆は棕櫚の葉で主を迎えたのか、ヨハネによる福音書は17節18節で説明しております。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである」。「イエスはラザロをよみがえらせた方である」との証しを聞いた群衆が、主を出迎えているのです。ですから、なぜ群衆が主を迎えたかが分かります。人々は主イエスを、「よみがえりの命なるお方」として喜んで迎えているのです。このことは、他の福音書とは印象の違うところです。ヨハネは主イエスを「よみがえりの力ある主」として何度も語っております。
 マルコやマタイでは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」との主の言葉に表されるように、「神に見捨てられた救い主」を示し、「十字架の主イエス」を強調しております。罪なきお方の、罪の裁きとしての十字架、罪の贖いとしての十字架、絶望にある者の救いを語るのです。けれどもヨハネは、十字架に死ぬ主イエスを「よみがえりのお方」と強調しております。
 分かりやすく言いますと、ヨハネは、主の死を一つの通過点としております。罪からの救いを強調するのではなく、「甦りとしての救い」を強調するのです。主イエス・キリストを「死者の中から甦るお方」として、そのお方のエルサレム入城が語られます。十字架の死をもって終わるのではない。死して甦り、天に昇られるお方として語るのです。
 このことは、私どもにとって大事なことです。主イエスを信じる者は、主に結ばれた者として「死して甦り、永遠の命に至る」ことを、ヨハネは示しているからです。これは幸いなことです。私どもは死なないわけにはいかないからです。いずれ死にますし、また高齢化社会にあっては、一人で生きることの孤独を思えば生きることも大変です。もし死で終わるならば、人生は虚しいでしょう。
 けれどもヨハネは、死は通過点であると示します。死を通過点として、主イエスは甦られました。主を信じる私どもも同じなのです。主のエルサレム入城、それは主の苦難と死の始まりですが、しかし既にそこで、ヨハネは「死が通過点である」ことを語ってくれているのです。ラザロの復活を聞いて喜んだ者たちが、エルサレムに入城される主イエスを喜んで迎えると語られております。私どももまた、死して後、甦りの命に与る者であることを喜んで良いのです。

 「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と、群衆は主を賛美します。「ホサナ」とは、元々のアラム語がギリシャ語になった言葉で、「栄光あれ」との挨拶の言葉となりました。けれども元々は「主よ、救いたまえ」という意味の言葉です。私は「救いたまえ」という意味は大事だと思います。主の十字架から主の復活へと続く道、そこで「ホサナ、主よ、救いたまえ」と言われていること、それはまさしく甦りの命とつながる言葉でもあることを覚えたいと思います。ここにもヨハネによる福音書の特徴があります。
 ヨハネによる福音書3章16〜17節はよく知られた箇所です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と記されております。「救い」とは何かを考えるとき、ここを読みますと、ヨハネにとっての「救い」は「永遠の命を得る」ことなのです。他の福音書との強調点の違いです。他の福音書では「罪の贖い」が「救い」です。けれどもヨハネは、主のエルサレム入城に際して「ホサナ、主よ、救いたまえ」と言って、「永遠の命の到来」を告げます。ヨハネによる福音書は、永遠の命に至る救いを語るのです。

 主イエスはラザロを甦らせたお方です。死を超えた命、もはや死の支配を受けない命、それが「永遠の命」です。主は甦りのお方として、死の力を無力としてくださり、主を信じる者に永遠の命を与えてくださいました。私どもは死ぬしかない者です。けれども、死はもはや私どもを支配しません。主イエスが甦り、死に勝利されたお方として、私どもに永遠の命をくださったからです。なんと幸いなことでしょう。主を信じるがゆえに、私どもには何の功績もない、いえそれどころがマイナスでしかないにも拘らず、死を超えた甦りの命に与る恵みの内にあるのです。

 主イエスは私どものところに、おいでくださいました。私どもは、神を見ることはできない者ですが、主がおいでくださったことによって、神の御子、主イエス・キリストを知り、ゆえに神を知るという恵みをいただいております。私どもに神を見る力などありません。罪ゆえに、神と人との断絶は深いのです。けれども、主が私どものところにおいでくださったゆえに、神を知らないにも拘らず、神を知ることになるのです。
 この世は神を知りません。ですから、そこに救いは無いのです。けれども、私どもは幸いにも、主イエス・キリストを知ることによって神を知り、救いに与っております。ゆえに教会は、主イエス・キリストを証しする使命を負うております。主を証しする群れ、それが教会です。救い主、主イエス・キリストの到来を告げる者、そこに主が共にいてくださり、臨んでくださっているのです。

 群衆の賛美の言葉は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」です。「イスラエルの王の到来を告げる」、それはまさしく「メシアの到来を告げる」ということです。主イエスこそ、旧約聖書に約束された救い主であることを、この賛美の言葉は表しております。「主イエスこそ、聖書が言い表しているメシアである」と「祝福」しているのです。
 主イエスは、メシアとしてエルサレムに来てくださいました。15節「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」と記されております。「シオンの娘」とはエルサレムの民を示します。なぜここで「恐れるな」と言われているのでしょうか。神なき者にとって、神の到来は「恐れ」です。神の到来は「裁き」だからです。けれどもここでは「恐れるな」と言われております。主の到来は、裁きではなく「救いである」と言われているのです。なぜそうなのか。この王は「ろばの子に乗る」メシアだからです。
 王が乗るものは本来は軍馬です。ですから、この世の王の象徴は戦いです。けれども、主イエスは軍馬ではなく、子ろばに乗って来られます。ろばとは、重荷を負う者です。また、重い臼を繰り返し忍耐しつつ引く者です。重荷を負い、他者に仕える、それがろばの姿なのです。重荷を負うてよたよたとしている姿は、弱さのしるしです。他者に重荷を与えるのではない。主イエスは自ら重荷を担い、他者に仕える者、平和の象徴として子ろばに乗られるメシアなのです。柔和の王、弱さを担うお方として、重荷を負うてくださるお方として、軍馬ではなく子ろばに乗ってくださいます。
 主は、十字架についてまでして、人の罪ゆえの裁きを負う者となられました。この主の贖いによって、私どもは神との交わりに入れていただいているのです。ですから、真実な平和・平安は「神との間に平安が与えられてこそある」ことを知らなければなりません。神によって満たされているならば、他のものを求めて満たす必要はないし、争う必要もありません。神との交わりに生きる者こそ、平安なのです。主にある平安、平和を失っているがゆえに、人は争わざるを得ません。それは自力で満たそうとするからです。

 16節「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」と記されております。弟子たちにはこの時、何も分かりません。主が十字架に死に、復活されて、弟子たちに臨んでくださって初めて分かるのです。
 けれども、私どもは何と幸いな者でしょう。私どもには、復活の主イエス・キリストが既に臨んでくださっております。今既に、聖書を通し、主の御言葉を聞くことによって知らされているのです。感謝です。

 19節「そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。『見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか』」と記されております。「何をしても無駄だ」とは、主にあって満たされている者たち、群衆の行為を、何ものも阻止できないことが示されております。

 主イエスこそ平和の王、永遠の命を与えてくださったお方です。主を信じる者として、私どもは永遠の命を頂いております。私どもはいずれ地上での交わりを失わなければならない者、終えなければならない者ですが、しかし、新しい決して失われることのない神との交わりを与えられて生きる約束の内にあります。
 地上での交わりを終えても、天井にある住まいへと移され、もっと普遍的な、決して尽きない神との交わりを与えられて生きるのです。それこそが、永遠の命の約束を与えられていることの恵みであることを感謝をもって覚えたいと思います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ