聖書のみことば
2015年3月
3月1日 3月8日 3月15日 3月22日 3月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

3月15日主日礼拝音声

 見ないで信じる者となりなさい
2015年3月第3主日礼拝 2015年3月15日 
 
佐々木謙一兄弟 
聖書/ヨハネによる福音書 第20章24〜29節

20章<24節>十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。<25節>そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」<26節>さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。<27節>それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」<28節>トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。<29節>イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 今日の箇所は他の福音書には書かれていないヨハネ福音書のオリジナルの物語であります。

 十字架にかかり、復活したイエス様が弟子たちに現れました。弟子たちは突然現れたイエス様に驚いたに違いありません。そして、イエス様の姿を見たことにより、イエス様の復活を信じたのです。
 ところが、そのイエス様が現れて下さったとき、トマスは他の弟子たちと一緒にその場にはいませんでした。トマスは他の弟子たちとその場に一緒にいなかったために、復活して現れて下さったイエス様に会うことができなかったのです。イエス様に出会うことができなかったトマスは他の弟子たちからイエス様が復活して現れて下さった話を聞いても、どうしても自分の目で見て、手で触れてみなければ、イエス様が復活されたことを信じることが出来ませんでした。

 イエス様は金曜日に十字架に掛りました。その当時、金曜日はユダヤ教の安息日に当たる日でした。そして、イエス様は金曜日から数えて三日後、つまり日曜日に復活されその日の夕方に弟子たちに現れたのです。イエス様が現れた時、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、戸を閉め切って家の中にいました。日曜日に弟子たちが、戸を閉め切って中に集まっていることを想像すると、私は現代の日曜日に行われている教会での礼拝を思い浮かべます。そして、その戸を締め切った部屋の中にイエス様が現れて下さいました。重要なことはただ現れて下さったのではなく、イエス様は弟子たちの「真ん中」に現れて下さったということです。部屋の端の方に現れたのではなく、イエス様は弟子たちのいる「真ん中」に現れて下さいました。日曜日に弟子たちの集まっているところで、イエス様は「真ん中」に現れて下さいました。このことは、教会での日曜日の礼拝には、常にイエス様が「真ん中」にいて下さるということを表していると私は思います。

 しかし、その日にトマスはいませんでした。他の弟子たちは復活したイエス様に会うことができ、そしてイエス様と共にいることが出来たのです。目に見える、また触れることのできるイエス様と共にいることが出来たのです。トマスはそこに一緒にいなかったので、復活したイエス様と共に、目に見える、また手で触ることのできるイエス様と共にいることができませんでした。トマスがその場にいなかったことは、私たちに重要な意味を示しています。弟子たちの中でトマスだけイエス様と共にいることが出来なかったのです。トマスは他の弟子たちがイエス様と一緒に礼拝できたのに、自分だけが出来なかったことについて納得いきませんでした。どうしても復活したイエス様を自分の目で見て、触れてみなければ納得できなかったのです。
 トマスがイエス様に会うことが出来たのは八日の後、つまり次の日曜日です。そして、また弟子たちが集まっている「真ん中」にイエス様は現れて下さったのです。突然目の前に現れたイエス様にトマスは圧倒されて、指を手のひらの傷跡に入れることもせず、手を脇に入れることもできませんでした。そんな圧倒されているトマスにイエス様は、見ないで信じることの幸いを教えて下さいました。

 今日の箇所のトマスの出来事は、その後の教会での礼拝において重要な役割をはたしています。それは、目に見えて触れることのできる復活したイエス様と一緒にいることができなかったのは、トマスだけではないからです。今日この教会に集い礼拝している私たちも同じです。私たちも目に見えて触れることのできる復活したイエス様と一緒に礼拝することはできません。しかし、イエス様はトマスを通して、私たちに「目に見えなくてもイエス様が共にいて下さる」ことを教えてくださいました。イエス様が目に見える形で共にいてくださったのは最初だけです。それ以後はイエス様は目に見える形では共にいてはくれません。しかし、目には見えないけれど、手では触れられないけれど、いつも私たちが集う中ではイエス様が「真ん中」にいて下さるのだということを今日の箇所で、トマスを通して教えて下さっているのではないでしょうか。
 もし、トマスが最初から他の弟子たちと一緒に復活したイエス様に出会っていたら、私たちは目には見えないけれどイエス様が私たちの「真ん中」にいて下さるのだということを知ることはありませんでした。
 私たちの礼拝には常にイエス様が「真ん中」にいてくださいます。そして、目には見えないけれどイエス様が今もこの礼拝の「真ん中」にいて下さるのです。私たちは今日の箇所を通してそのことを教えていただいたのだと思います。

 ところで、初めに弟子たちにイエス様が現れてから再びトマスがいるときに現れるまで、トマスはどんな気持ちで一週間を過ごしていたのでしょうか。私は、本当はトマスはイエス様の復活を他の弟子たちから聞いて信じたのではないかと思っています。また信じたのだけれども、「確証」が欲しかったのではないかとも思っています。
 私たちも日頃生活していると同じようなことを経験いたします。誰かが「~なんだって」とか「~みたいだよ」と言っているのを聞くと「本当かな?」と耳を疑います。それが正しいことだと思ったとしても、それが正しいかどうかを確かめるまでははっきりとは信じられないという経験をしたことはないでしょうか。そして、それが確かだとわかると「やっぱり本当だった」と納得することがよくあるのではないでしょうか。この箇所のトマスのことは、私たちにとって他人事ではなく、私たち自身のことを言っているのではないかと私は思います。

 私は、教会に通い洗礼も受けました。多くの人に自分がイエス様を信じていることを話しています。でも、私はイエス様に会ったことはありません。ではどうして私が会ったこともないイエス様を信じていると言えるのでしょうか。そして、そのイエス様を信じているという証拠はどこにあるのかと言われても、その証拠を出すことは出来ないのです。クリスチャンである身分証があるわけではないので、クリスチャンであるという証拠は自分自身がイエス様を信じていると告白することだけです。私はイエス様を信じているという証拠もなければ、身分証をもっているわけではありませんが、大きな声でイエス様を信じていることを人々に言うことが出来ます。
 私がイエス様を信じている証拠は、私自身が信じていることだけです。目に見えてその証拠をお見せすることは出来なくても、心から情熱をもって、堂々と人々に話すことが出来ます。むしろその信仰は目に見えないおかげで、とてもとても大切なものです。形あるものはいつか消えてしまったり、崩れてしまったりしてしまいますが、心の中でいつも大切にしている信仰は決してなくなることはありません。むしろ目に見えないおかげで、私はいつもイエス様に強められ、守られていると実感しています。私は、そのような信仰を持ててとても幸せです。この幸せはただの幸せではなく、イエス様によって与えていただいた幸せです。目には見えないけれど、手では触れることは出来ないけれど、イエス様に与えていただいた、またただ信じていることによって与えていただいた幸せです。

 私は、若いころに両親を亡くしました。経済的にも心情的にも頼るものはありませんでした。ただ私にとってイエス様を信じる信仰のみが今日まで私を支えてくださったのだと、私は思っております。私は、実在のイエス様に会ったことはありませんが、イエス様を信じることによっていつもイエス様がそばにいてくださると思っています。そして、イエス様が近くにいてくださることで、強められ堂々と生きていくことが出来るのです。

 先日、山折哲雄先生という宗教学者の講演を聴く機会がありました。山折先生は現在83歳で、長い間大学で宗教学を教えられていましたが、今は京都のご自宅で奥さんと共に毎日ゆっくりと暮らしているそうです。そんな山折先生が講演の中で次のようなことを言っていました。「わたしは毎日寝る前に3時間かけて夕食をとるようにしています。できるだけ長く噛み砕いて胃の中でよく消化できるようにゆっくりと時間をかけて食べるようにしています。3時間もかけて食事をとるものですから、食べ終わるとすぐに寝るようにしています。毎日21時には寝てしまいます。そして、わたしは寝る前に必ず「さあ死ににいくか」と言ってから寝るようにしています」。
 また、山折先生は次のようにも言っておりました。「わたしは日々生きていく中で気を付けていることが3つあります。1つは『食べ過ぎない』、2つ目は『飲みすぎない』、そして3つ目は『人に会いすぎない』です」。 私は山折先生のその言葉を聞いて、3つ目の「人に会いすぎない」という言葉に非常に惹かれました。そして、自分自身の生活を振り返って、自分は必要以上に人と会いすぎていること、そして人と会いすぎることで、自分の心が乱れる原因にもなっていることに気づかされました。そのことに気付かされた時に、私は今一度自分自身を振り返ってみました。私はいつもイエス様を信じていると言っておきながら、その主体は自分自身にあったのではないか。そして、私自身がイエス様を信じているということに満足していて、イエス様が私を愛していて下さることに感謝することを忘れていたのではないかと気づかされました。どんなに多くの人に会っても、その「中心」にイエス様がいてくださるのだということに気がつかなかったように思います。
 多くの人に会ってお話しすることは、時にとても苦しいことです。人と会うことで、その人から学ぶこと、得ることが多くあります。しかし、常にイエス様がそこにいてくださるということを知れば、新たな喜びや気づきが生まれてくるのではないかと私は思います。私もイエス様に直接お会いして話が出来たらどんなにいいかと思います。「イエス様だったら何と言ってくださるか」、「どんな答えをしてくださるか」、私がトマスだったら、「みんなはイエス様に会ったのに自分だけ会えないなんてずるい、会わなければ信じないぞ」と思うかもしれません。そして、私も「イエス様に会いたい」、「見なければ信じない」と思うとき、この聖書の「見ないで信じる者になりなさい」という言葉が、私たちに向けられたものであるということがわかるのではないでしょうか。

 今日の箇所のイエス様の言葉は、イエス様が天に戻られた後でも、姿は見えないけれど「わたしはあなたたちとともにいる」ということを私たちに言っています。そして、「見ないで信じる者は幸いである」というイエス様の言葉は、逆に言えば、イエス様が見えなくてもイエス様が復活された事実を信じることでイエス様が共にいてくださるということをイエス様は言っています。そして、見ることは出来なくても、その事実を聴くことによって信じることで、私たちは救いへと導かれるのだとイエス様は言っているのです。

 現在、私たちにとって、イエス様の姿を目にすることは非常に難しいことかもしれません。しかし、目には見えないけれど、手に触れることは出来ないけれど、姿を見ることは出来ないけれど、イエス様は私たちのすぐそばにいてくださいます。そして、目には見えないけれど、イエス様が私たちのすぐそばにいてくださることを信じることによって、強められ、日々の幸せを感じながら生きていけると思うのです。
 今日の箇所を通して、見ないで信じることを教えて下さいました。そして見ないで信じることにこそ、真の信仰があると私たちに示してくださっていると、私は思います。

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