2015年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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眠っている弟子たち | 2015年3月第1主日礼拝 2015年3月1日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第14章32〜42節 | |
14章<32節>一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。<33節>そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、<34節>彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」<35節>少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、<36節>こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」<37節>それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。<38節>誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」<39節>更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。<40節>再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。<41節>イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。<42節>立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 |
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今日は37節からの御言葉に聴きます。 36節に記されているように、主イエスは恐れもだえ苦しみつつ「アッバ、父よ」と切実に祈られたのちに、弟子たちのもとに戻られました。37節「それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので」と記されております。ここには、主が弟子たちを「御覧になる」、つまり「見てくださる」という麗しさがあります。けれども、主が見てくださった弟子たちは、「眠っている」という有様でした。 「ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか』」とあります。弟子たちを代表して、「シモン」と呼ばれております。弟子たちは、どうして起きていられなかったのでしょうか。端的に言いますと、「主イエスを理解できなかったから」です。主イエスが苦しみつつ切実に祈っておられることが理解できなかったのです。主の痛みに心動かされたならば、眠ってなどいなかったでしょう。なぜ眠っていたのかとの問いに答えるならば、主のことに思いを馳せることができなかった、だから眠ってしまったということです。 「わずか一時も目を覚ましていられなかったのか」と、主は言われます。主はその様子を、38節「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」とあるように、「誘惑」として表現しておられます。眠さの頂点で眠っているのではありません。主を思わず、他のことに心が向かっている、誘惑に陥っている、だから眠っているのです。 ここでの誘惑は、主の苦しみ、十字架へ向かう苦しみ悲しみを理解できない「無理解」ということです。自らの思いでは、主へと思いを馳せることができない、それが誘惑です。「神から遠ざける力」、その一つが「無理解」ということです。 主イエスは弟子たちに、「わたしのために祈れ」とは言われませんでした。そうではなく「自分のために、神へと心を向けられるように祈りなさい」と言ってくださったのです。自分の力では誘惑に勝てない、神から遠ざかってしまう、神無しとなってしまう、だから「神ご自身が聖霊をもって臨んでくださるように祈りなさい」と言ってくださっております。 続けて「心は燃えても、肉体は弱い」と、主は言われました。「心と肉体」とありますから、二元論のように思ってしまいますが、ユダヤ教にはその考え方はありません。肉体と魂が一つのものが人間だと考えているのです。二元論で考えていないのですから、ここは二元論で言っているのではありません。 39節「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた」とあります。再び戻って、切実な祈りを繰り返されるのです。どんなに切実であったかが示されております。身を切るような祈りが繰り返されているのです。主の痛みの深さが示されている、それが戻っての祈りです。 そして、主の言葉に対して、「彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった」と記されております。主の苦しみ、悲しみを少しも受け止められないのですから、どう言ったら良いか分からないのは当然です。私どもも、主の前に、本来語るべき言葉を持たない者です。言い開きも言い開きにならない。何も言えない。沈黙あるのみです。にもかかわらず「弟子とされている」、その恵みにすがるよりありません。返す言葉もなく、語る言葉もない。それでも主イエスは私どもの前に立ちたまい、弟子としてくださることを覚えたいと思います。 さてしかし、これで終わりとはなりません。三度目に主が戻って来られると、弟子たちはまだ眠っておりました。41節「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい」と言われたとありますが、この言葉は難しいのです。 自ら苦しむ者、痛む者は、他者を苦しめることはありません。自らの苦しみを苦しみとできる、痛みを痛みとできる、それが人の真実な心なのです。そしてそれは、ただ、主の出来事によってのみ知ることができる。主のみ、この私の苦しみ、悲しみ、痛みを知りたもうと感じることによってのみ、知るのです。 「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」と言われております。「時」それは「人の子が引き渡される時」です。その時は一瞬の限られた時ですが、それが「神が定めれらた時、永遠の時」です。主の死の時、罪の贖いとなる時が来たのです。十字架の時に至ったことを、主は分かっておられるのです。 42節「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と記されております。「立て、行こう」と、主イエスは裏切る者が来るのを待つのではなく、弟子たちを伴って、自ら先頭に立って進み行かれます。主は十字架を受け身で捉えておられません。自ら進んで、十字架を担っておられるのです。自ら進んで、人の贖いをなしてくださっているのです。自ら進んで人の罪の贖いとなってくださる、それが「時が来た」と言われる「時」なのです。 「見よ、わたしを裏切る者が来た」とは、すごいことだと思います。「裏切る者」を、主イエスが見出しておられるのです。裏切る者ユダが主を見つけたというのではありません。主の方で裏切る者ユダを見出し、自ら進んでその者の前に立ってくださるのです。 主イエスの十字架は、ご自身が進んで担ってくださった苦難です。自ら進んで、私どもの贖いとなってくださいました。ここに、神の意志が、救いの意志が働いております。いやいやなしてくださるのではない。自ら進んで私どもを担い、贖いとなり、救いとなってくださったのです。それが主イエス・キリストの十字架であることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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