2015年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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見捨てて逃げ去る | 2015年3月第2主日礼拝 2015年3月8日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第14章43〜52節 | |
14章<43節>さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。<44節>イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。<45節>ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。<46節>人々は、イエスに手をかけて捕らえた。 <47節>居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。<48節>そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。<49節>わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」<50節>弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。<51節>一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、<52節>亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。 |
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43節「さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た」と言われております。41節42節で、主が「もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と言われたところで、ユダが近づいて来たことが記されております。「十二人の一人であるユダ」と、ユダが12弟子の一人であることが強調されております。12弟子は主イエスに最も親しい者、ユダはその中の一人なのです。 主イエスが「あってはならないこと」と決めておられたならば、救いは起こらず、希望はありません。「あってはならないこと」であっても、主イエスは排除されない。だからこそ、私どもの救いが起こるのです。裏切る者であったとしても、主はご自分のものとしてくださる。そこに、神の憐みの出来事があるのです。 人は、良いことを求め、良いことをしなければならないと思うものです。けれども、限界ある人の力では、必ずしも、その良い志が成就するわけではありません。良き業として起こされる悪もある。教会は、良い業をすると言わないから良いのです。良い業であっても、そこに最大限の悪がある。だからこそ、そこに救いの御業が働くことを知っている。それが教会に与えられた知恵です。 もちろん、だからと言って裏切りが良いわけではありません。けれども、マルコによる福音書は、ユダの裏切りに対する責めを語りません。ですからここで覚えるべきは、人の思いが成るのではなく「神の御旨こそが成る」ということです。一見、ユダ(人)の思いが成ったように思いますが、そうではない。また、たとえ人の思いが成ることがあったとしても、それは人の思いが成ったのではなく、更にそこで神の御心こそが成るのだということを覚えたいと思います。 もう一つ、ユダの裏切りによって示されていることがあります。それは、裏切りは身近なところで起こるということです。関係の遠いところで起こるのではありません。近い者の間に、裏切りは起こる。身近であればあるほど、そこに裏切りがあります。それゆえに、主はその裏切りを担いたもうのです。主イエス・キリストがおられる、だから救いがあるのです。 ユダが進み寄ると、「祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」と、大勢で主を捕らえに来たことが記されております。ここで、「剣や棒を持って」武装した者たちを、兵士とも役人とも言わず、「群衆」と言っております。このことは印象的です。祭司長、律法学者、長老たちは、主の殺害を計画しましたが、「群衆を恐れて」実行できないでいたはずです。主イエスを支持していたはずの群衆が、しかしここでは主を捕らえようとしております。本来なら役人たちが捕らえに来たと記されるはずですが、ここでマルコが強調していることは、「群衆もまた、主を見捨てて、主に敵対する者となっている」ということです。 現代社会の問題は何かと言えば、孤独に耐えられない社会だということです。ですから、孤独の中に主が立っておられるということは、救いです。孤独な者を担えるお方、それは主イエス・キリストだからです。主は、孤独な現代社会の救いとなって立ってくださっているのです。 人は、武器をもってまでして自分で自分を保持しなければならない、それほどに無力な者です。弱さゆえに武力を必要とし、武力を保持したいのです。 ですから、教会が一つの共同体として互いに愛し合うことは、この世への大いなるメッセージを語っていることです。共同体性を失うことは、弱さであり、脆さであり、滅びであるということを覚えたいと思います。人が尊厳を失ったことの表れ、それが武力であることを覚えたいのです。 45節「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した」と記されております。この人が主イエスであることを示すために、ユダは接吻します。ユダは、物陰からあの人だと示すこともできたはずです。けれどもそうはせず、主に近寄って接吻する。この言葉は44節と45節に出てきますが、同じではなく、45節の方は、より強い口調です。単なる挨拶の接吻ではなく、強く抱きしめるというニュアンスです。 後に出てきますが、逃げ出したペトロや他の弟子たちとの違いは何でしょうか。ペトロは主を見捨てて逃げ出した後、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と、前に主イエスに言われていたことが実際に起こって、72節「するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした」と記されております。ユダには後ろめたさも主への嫌悪感もない。けれどもペトロは泣いた、つまり心痛んだのです。 ユダの接吻によって、人々は主を捕らえます。弟子ではなく、群衆の一人が刀を振るって大祭司の手下の耳を切り落としますが、他の福音書のようにその結末を語ることなく、マルコは淡々と情景を記します。この行動も主イエスを思ってのことでしょうが、主をまったく理解していない行動です。主は孤独の中に、一人立ってくださっております。私どものために、一人、立ちたもうお方なのです。 49節「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」と、主は言われました。「毎日」とは、「一日中」と捉えてよいのです。つまり、いつでも主を捕らえることは可能だったということです。しかし全てのことは「これは聖書の言葉が実現するためである」ことを示すためです。予め神が言われていたことが実現するため、「神が既に語ってくださったことが、今ここに成っている。救いが今ここに成る」と、主は言ってくださっております。 けれども、この時、人々は耐えられずに逃げ去るのです。51節〜「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。この一人の若者とは、マルコであるとも言われております。そのことを斟酌はしませんが、しかし、この御言葉が何を意味するのかに思いを馳せることは大事なことです。 全ての者に見捨てられて、主は孤独の淵に立たれます。ただ主イエスのみ、孤独を担うお方です。人は、孤独において滅ぶしかない者です。尊厳を失うのです。けれども、主イエスの孤独は、罪人を担うための孤独です。 |
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