聖書のみことば
2015年1月
1月1日 1月4日 1月11日 1月18日 1月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月25日主日礼拝音声

 契約の血
2015年1月第4主日礼拝 2015年1月25日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第14章22〜26節

14章<22節>一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」<23節>また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。<24節>そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。<25節>はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」<26節>一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 22節「一同が食事をしているとき」と言われております。「一同」とは、主イエスと12人の弟子たちのことです。この場面では、「過越の食事」として主イエスと弟子たちの「最後の晩餐」が語られておりますが、しかし、「過越の食事」は一族が皆(女も子どもも)でする食事であり、ここでは主イエスと12人の弟子たちの食事ですから、過越の食事と言いながら実は、主と弟子たちの最後の食事、最後の晩餐なのです。
 私どもは絵画などの影響で、「過越の食事は最後の晩餐である」と刷り込まれているところがあります。例えば、当時は横に寝そべって食べました。絵画では食事の席はテーブルで並んで座っていますから、そうだと思い込んでいるのです。
 けれども、ここで大事なことは、この食事は、過越の内容を踏まえての主イエスと12人の弟子たちの最後の晩餐であるということです。イスカリオテのユダも共にいる、そういう食卓であることを覚えたいと思います。

 「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて…」とあります。「賛美の祈りを唱えて」、神を賛美して食事に与る、神が恵みをくださった、そのことに感謝して食事を始める、これは私どもも変わりなくすることです。
 23節には「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった」とあり、パンと対応しています。ユダヤ人は食事の終わりにぶどう酒を飲みますから、食事の終わりに際して、神に「感謝の祈りを唱えて」感謝しているのです。ユダヤ人は、神への賛美をもって食事を始め、感謝をもって食事を終わる。これは示唆的です。始めは賛美、終わりは感謝ですが、感謝を表すことは神を誉め讃えることですから、同じです。
 食前に、食後に祈る、その精神は大事です。宗教改革者もこのことを重んじました。宗教改革によって、祈りはカトリックの成文による祈りではなく、自由な言葉で祈るようになりました。プロテスタント教会では、食事に際しての祈りも自由祈祷として重んじたのです。印象的なのはルターです。ルターは食前食後だけではなく、食事中にも祈りました。ルターは多くの牧師を育てていましたから、教会には多くの人がおり、いつも皆で食事をしたのです。その卓上語録が残されており、語らいの中の魂の触れ合う言葉が記されております。
 食事の時は、交わりの大切な時です。交わりの中で感じたことを、ルターはその時々に祈っていたのです。私どももまた、食卓を囲む中で、共に豊かな食事をいただけることの恵みを思えるならば幸いです。

 そして「繰り返し祈る」、それがキリスト者の生活であることを覚えたいと思います。神への賛美と感謝の生活です。食事をしながらであっても、神に感謝する、それは神に向かえることです。ことごとに祈れる、それは神が「ここに在す」ことを覚えることです。食事という親しい交わりの中に神が在す、私どもの食事はそういう食事であることを覚えたいと思います。
 食事の席の中心は、神なのです。神が共にあってくださることを実感しているから、ことごとに祈れるのです。それがキリスト者の生活です。主にある共同体として、触れ合いながら食事をする、そこに神が在すことを感じられるならば幸いです。

 さて、この場面が通常の食事と違うところは何かと言いますと、「取りなさい。これはわたしの体である」というところです。これは「聖餐」に通じる食事なのです。
 「これはわたしの体」、「● is ●」、そう宣言することによって、パンが実体に変化すると、カトリックでは考えました。聖餐のパンを頂くことは実体としてのキリストを頂くこと、ぶどう酒を頂くことは実体としてのキリストの命を頂くこと、ですから、聖餐のパンとぶどう酒をこぼすことなどできません。聖餐の与かり方は難しくなり、こぼす可能性の高い子どもは与れないとか、ぶどう酒につけたパンを開けた口に入れて頂く等となりました。
 本来、初代教会においては、洗礼を受けたすべての者が聖餐に与かりました。子どもも与っていたのです。このことは、今日のプロテスタント教会にとっても課題です。本来はすべての者が与っていた聖餐ですが、カトリック(西方教会)の流れを汲むプロテスタント教会では、子どもたちに与らせないのです。更に、信仰の自覚ということを大事にしましたから、幼児洗礼が認められなくなりました。このことについては議論のあるところです。カトリックでは献身礼ですが、プロテスタント教会では信仰告白をしないと聖餐に与らせない。これは、洗礼という神の秘儀の出来事に、人の自覚が勝っているという問題があるのです。後々、課題となることでしょう。

 けれどもここでは、主イエスの宣言によって、パンが主イエスの体に実体変化したということではありません。「これはわたしの体である」、それは「ここに、わたしの臨在がある」ということです。聖餐に与ることによって、生ける主イエス・キリストが臨んでくださり、臨在してくださり、命における交わりが与えられるという内容です。
 聖餐に与ることによって、主イエスが弟子たちと食事をなさったことを思い起こすことで、主イエスとの命における交わりを頂くことを知るのです。それは、交わりを通して存在を新たにするということです。他者との交わり(関係)によって、人は存在を確かにする、存在が新たになるのです。聖餐に与る度毎に、主イエスとの交わりを新たにすることによって、私どもは自らの存在を新たにします。私どもは主との生ける交わりに入れられている、主イエスとの生ける交わりにあることの保証、それが聖餐であり、それは恵みなのです。

 このように、主イエス・キリストは恵みを与えてくださいました。パンを頂き、ぶどう酒を飲んだ、それは誰でしょうか。主イエスを引き渡すイスカリオテのユダ、そして他は、ペトロを代表とする11人の弟子たちです。彼らはどんな人だったでしょうか。この後、ゲッセマネで主が祈っておられたとき、「目を覚ましていなさい」と言われたのに「眠っていた」人たち、捕らわれたイエスを「知らない」と拒んだ人、主イエスの十字架に耐えられず逃げ出した人たち、立派な人は誰一人いません。主を裏切り、見捨て、主との関係を否定し、逃げ出した、そういう人たちが、主との親しい交わりに与っているのです。

 24節「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と、主は言われました。与ったのは12人ですが、「多くの人のために」と言われております。主イエスの十字架の贖いの死は、弟子たちを含む「すべての人のため」だったということです。
 ここで、弟子たちは象徴的です。主を裏切り、見捨てる者、それは「多くの者」、すなわち「すべての人」を表しているからです。大いなる驚くべきことです。主イエスは「すべての人の贖いとなる」と言っておられるのです。弟子たちは、主の聖餐に相応しい者ではありません。にも拘らず、主は彼らのために血を流し、贖ってくださいました。それほどまでに弟子たちを愛し、弟子たちの「友」となってくださったのです。主は、裏切り、見捨て、逃げる者の友として、ご自身を献げてくださいました。ユダが、ペトロが主の聖餐に与っているのです。

 では、私どもはどうでしょうか。私どもも、ある意味で主に従いきれない者、それは、主を裏切り、逃げる者であるということでしょう。そういう私どもも、聖餐の恵みに与っているのです。弟子たちが聖餐に与っていること、それは私どものことをも示しております。
 裏切るイスカリオテのユダも聖餐に与っていることは幸いなことです。それは、罪にすぎない私どもも、聖餐に与れることを示しているからです。主の聖餐に相応しくない者であっても、除かれないのです。ユダがいる、弟子たちがいる、その中に「わたしがいる」ことを感じることが大事です。
 ただ、間違ってはならないことは、だからといって主を裏切って良いはずはないということです。主に従う、その責任を放棄してはなりません。

 ところで、「友」という言葉の定義を古代人は何としていたか。調べましたら、「自分の秘密を語れる相手、それが友である」ということでした。私どもには、それほどの友がいるでしょうか。そう考えますと、古代人が、自分の秘め事を打ち開けることの出来る相手を友と定義したことの意味は大きいと思います。
 私どものために命を捨てる、そうまでして友となってくださった、それが主イエス・キリストです。
 私どもは、他者の秘め事に耐えられるでしょうか。耐えられないのです。
 主イエスにすべてを打ち明けることができる、それが「主イエス・キリストが友となってくださった」ことの恵みです。誰にも言えない、心に秘めた思いを告白できることの幸いを思います。主は、私どもにとって、そういう相手となって、友となってくださっているのです。

 そうであれば、私どもは祈らずにはいられません。主との語らいを喜ばざるを得ないのですし、そこでこそ大いなる慰めを受けるのです。
 秘め事を打ち明けるほどに主を信頼しているか、私どもは省みてよいと思います。主に信頼する者であれば、主の祈らざるを得ない、聴かざるを得ないのです。

 「契約の血」、それは命です。主イエスは自らの血を流し、贖いとなって、私ども罪人を救い出してくださいました。イスラエルの民は、神の契約の民です。神の憐れみによって、エジプトでの奴隷の民から、贖われ救われて神の民とするという契約に与かりました。「贖いを通して神の民とされること」、それが契約です。
 「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。主イエスは、ぶどう酒を通して「神の民として贖い出してくださったしるし」としてくださいました。主は、十字架の死によって罪人を贖い出し、新しい神の民として創造してくださったのです。

 神の民、それは終わりの日の完成を約束された者です。25節「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とは、今、主の贖いに与ることは、終わりの日の完成を見ることのしるしであることを示しております。
 私どもが神の民とされる、それは、終わりの日に、完全な神の民として神の国の一員とされるという恵みです。

 私どもの生は、日に日に老いてそして死ぬということではありません。「死を超えて、完全な神の民としての完成を見る」、それが私どもキリスト者に与えられている希望です。日に日に肉体は衰える。けれどもそれは、日に日に完成に近づいている、そういう恵みであることを覚えたいと思います。

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