2015年1月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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過越の食事 | 2015年1月第2主日礼拝 2015年1月11日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第14章12〜21節 | |
14章<12節>除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。<13節>そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。<14節>その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』<15節>すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」<16節>弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。<17節>夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。<18節>一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」<19節>弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。<20節>イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。<21節>人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 |
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12節「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか』と言った」と、まず言われております。 マルコによる福音書は、「過越」と「主イエスの最後の晩餐」を一つのこととして語っております。このことは、必ずしもどの福音書でも同じということではありません。例えば、ヨハネによる福音書は、「主イエスの十字架は、小羊が屠られる日である」と語ります。そうなりますと、ヨハネによる福音書では、主の最後の晩餐は、過越の食事ではないことになるのです。 最後の晩餐は、閉じられた、限られた者の愛餐です。それは、教会の信仰があって初めて解ることです。「主イエスとの親しい交わりに入れられた者に与えられる恵み」を表しているのです。このことも重要なことです。贖いの恵みに与った者の群としての恵み、それが聖餐なのです。聖餐を、単にオープンにすべきとの議論がありますが、閉じられているところの多様性を神学的にどう神の恵みの出来事として捉えるかということが何より大事です。 ここで、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と弟子たちが言っていることに、はっとさせられました。主イエスが「どうしようか」と言われるのではなく、弟子たちの方から主に問うております。その内容も、「なさるのに」と、「あなたがなさる過越の食事」と言っております。普通であれば、先ほども言いましたように、過越の食事は開かれた食卓ですから、「私たちがする過越の食事は」と問うでしょう。 弟子たちは、「主イエスが過越をなさるために、どうしたらよいか」と、主に指示を仰いでおります。この言葉も興味深く聴きました。あくまでも、主イエスが主体であり、主に指示を仰いでいる、主の指示を待っている弟子たちです。つまり、主の指示のもとに「主に仕えようとしている」のです。主を中心として主に仕える、そこに主の弟子の姿があります。だからこそ、主の弟子には「主の御言葉が必要」です。私どもには、主の御言葉が必要なのです。御言葉により、主の御旨に従って、そして仕えることができるのです。 「仕える」ということは、主体性が無いことのように思いますが、そうではありません。「仕える」ところに、弟子たちの主体性があるということを聴かなければなりません。どこに主体性を見るかですが、何かをするということで主体性を表すことは、自分中心になる危険性を持ちます。 主体的に生きるためには、神が必要です。神の御言葉が必要なのです。主の御言葉によって押し出されて、私どもは主体性を発揮できるのです。だからこそ、この弟子たちの問いは大切です。 弟子たちの問いに対して、主イエスは答えてくださいます。13節「二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい』」。主は「二人の弟子」を使いに出されますが、「二人」は、正式な使者であることを表しています。二人の弟子は、主イエスの代理人として立てられ、使命を担って出かけるのです。「都」とは、エルサレムのことです。エルサレムへ行けと言われます。そればかりではなく、そこで何が起こり、何を見るかを教えてくださるのです。 「わたしの部屋はどこか」との主イエスの言葉は、すごい言葉です。過越祭のときには各地から巡礼者がやって来ますので、どこの家でも場所を提供いたします。ですから、通常は「部屋を貸して欲しい」とお願いすべきですが、しかし、主は「わたしの部屋はどこか」と問われました。ここに大切なことがあります。 ですからここで、その家の主人との問答はありません。そこに主の臨在がある、だから、理解も納得もできたわけではないけれども、家の主人は二階の広間を見せてくれるのです。 なぜここに行くのでしょうか。弟子たちはまだ主の十字架も復活も知りませんが、しかしここで、主の言われた通りにして、結果、過越の食事に与るのです。それは通常の開かれた食卓ではなく、特定の人たちの閉ざされた晩餐です。 すべては主が言われた通りだったので、そこで過越の食事がなされます。それは、これからのことも暗示しております。主がかねてより弟子たちに言われていたこと、すなわち「十字架と復活」が現実となることを示しているのです。今言ってくださった事が起こったように、「既に語ってくださったこれからの事がこれから起こる」、それによって「神の救いの計画が成る」のです。 私どもは、主イエス・キリストとの秘められた親しい交わりの中に入れられております。この恵みを、聖餐に与る度毎に覚えて良いのです。何と幸いなことでしょう。私どもに示されている事柄は曖昧なことなのではありません。 |
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