2015年1月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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主イエスのパン裂き | 2015年1月第3主日礼拝 2015年1月18日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第14章17〜26節 | |
14章<17節>夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。<18節>一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」<19節>弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。<20節>イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。<21節>人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」<22節>一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」<23節>また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。<24節>そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。<25節>はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」<26節>一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。 |
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22節「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた」と言われております。17節から読みましたので飛ばしたと思われるかもしれませんが、そうではありません。 22節に「賛美の祈りを唱えて」とありますが、それはどんな祈りなのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが食事の度に祈る祈りであり、「あなたは祝福された方、主なるわたしたちの神、世界の王、地からパンをもたらす方」という神への賛美と感謝の祈りです。食事の際に祈る賛美の祈り、それはあくまでも「神を賛美する祈り」なのです。 さて、17節に戻りますと、そこでは既に食事が始まっております。食事の始まりが後に述べられていること、それがどういうことを意味するのか、改めて考えたいと思います。 「はっきり言っておくが、…」と、主は言われました。主イエスの宣言、それは現実のものとなるのです。それが幸いな事柄であれば幸い、しかしここでは、幸いとは言えません。主を殺そうと図っている祭司長たちに「主を引き渡そうとする者がいる」というのです。「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と、主イエスはこの穏やかならぬことを「はっきりと」言われました。 ユダと特定していない、このことが大事です。ユダだと言えば、一切をユダのせいにして裁くことになるでしょう。けれども、主がユダと特定なさらなかったということは、主イエス自ら、ユダを裁こうとはしなかったということです。主はもちろん、知っておられます。けれども名を挙げない。それは裁くつもりがないからです。 自らを省みて「心を痛め」ることは大事なことです。「心を痛める」、それは「心ある者のすること」だからです。人としての思いを持つ者、それは自らを省みて心痛む者です。 信じていると言いつつ忠実な者で有り得ない、心ならずも主イエスを裏切らざるを得ない者、それが私どもです。そのことを主イエスは知っておられます。「まさかわたしのことでは」と、自分のこととして思うことの大切さを知らなければなりません。 20節「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」との言葉は、主がユダを特定しておられないということです。「一緒に鉢に食べ物を浸している者」、それは12人全員がそうなのです。 自らの罪に心痛め、自らを責めるしかない私どもと共にいてくださる主イエス。心痛めてくださる主イエスが共にいてくださることこそ、慰めです。自分を責め自分を追い詰めて死んでしまうこともあるのです。そんな私どものために心を痛めてくださり、共にいてくださる。ここに私どもの慰めがあります。私どもの痛みにまさって心痛めてくださる、その主こそ、私どもの慰めです。だからこそ、私どもの救いとなるのです。 この出来事が語られて、そして食事の始まりが語られる。すなわち「自らを省みて、そして聖餐に与る」ということです。聖餐に与るとき、「ふさわしくないままでパンを食し、盃に与る者は、主の血と体を冒す」と言われます。悔い改めが求められた上で、私どもは聖餐に与るのです。そう考えますと、ここに記されている順序の大切さが分かります。自らを省みて心痛まざるを得ない、その私どもの嘆き、悲しみであるがこその主の十字架の贖いの恵み、それを味わい知るための聖餐なのです。自らを省みる者が、主の食卓に与っていることが解き明かされているのです。このように、主の聖餐の恵みは既に始まっていることを覚えつつ、聖餐の恵みを味わうならば幸いなのです。 自らを省み、悔い改め、痛みをもって与る聖餐の豊かさを、この主の御言葉から覚え、感謝したいと思います。 |
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