2015年1月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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日々新たにされる | 2015年元旦礼拝 2015年1月1日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/コリントの信徒への手紙二 第4章16〜18節 | |
4章<16節>だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。<17節>わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。<18節>わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 |
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新しい年の夜明けに、共々に神の御前に集い、御名を誉め讃えますことを喜びます。新しい年に、神の恵みと平安とが、ここに集う者一同にあることを祈ります。 この箇所は、パウロがコリントの教会の信徒たちに宛てた手紙です。今日の準備をしながら、16節にある「わたしたちは落胆しません」という言葉に心惹かれました。4章の1節にも同じ言葉があります。 けれども、ここでパウロは言います。どんなに落胆せざるを得ない状況であっても「わたしたちは落胆しません」と言い切るのです。それはなぜでしょうか。1節に示唆があります。「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」と語っております。パウロは落胆の現状を見ているのではありません。パウロが見ているのは、「神の憐れみを受けた」こと、そして「この務めをゆだねられている」ことです。 パウロは、「救われ、聖なる務めを与えられた」ゆえに、「落胆しない」と言っております。けれども、パウロの人生は「落胆しない」という状況ではありませんでした。あらゆる艱難が語られております。パウロは福音を宣べ伝えるために出かけて、投獄、鞭打ち、投石、船の難破、同族(ユダヤ人)からの難、異邦人からの難、更には兄弟(仲間)との決裂、飢え渇き寒さと凍え、教会への心配事等々、繰り返しの艱難に遭うのです。しかも精一杯に神の御業に仕えていたにも拘らずであり、それほどまでの艱難に遭ったのに、それでも「落胆しない」、そしてそれらの艱難は、17節「一時の軽い艱難」だと言うのです。「一時の」ということは、それは永遠ではないということです。真実に「永遠なるもの」を知っているがゆえに一時の艱難は過ぎゆくもの、しかもそれが生命に関わる艱難であったとしても、それでも「軽い艱難」だと言っているのです。 パウロには肉体の痛みもありました。それは病気であったと思われます。パウロはきっと、知力・体力共に十分な者として神の御業に仕えたかったことでしょう。けれども、肉体の「とげ」を持っていたのです。そこでパウロは祈り願い、主によって「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12章)と示されました。 パウロが言っているように、17節「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」のです。「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」。キリスト者は、「見えないもの」すなわち「神、聖霊なるものを見る」のです。それが信仰ということです。見えないもの、神を見る者として、キリスト者は、永遠を垣間見つつ、この世を生きることができるのです。 パウロの言っていることは深いと思います。散々な苦しみに遭い、落胆を体験して、パウロは身に沁みて「この世には希望がない」ことを知り、しかしそこでこそ、なお一層「神しかない、神にしか希望がない」ことを知ったのです。外には救いはない。神以外に望みがない。しかしそれは、神を信じる者にだけ与えられている恵みです。 パウロは、理論で言っているのではありません。パウロは自分自身の身に沁みて言っております。神の恵みによって「日々新たである」と言っております。神無しであれば、落胆せざるを得ません。けれども、神を信じる者は、だからこそ知っているのです。この世の救いの無さを知っている、だからこそ、神にのみ希望があることを知っているのです。 この世に希望がないことについて、パウロが示していることは何でしょうか。人の叡智を否定するということではありません。行き詰まりによって新しい文明を生み出して来たことは歴史が語っていることです。けれども、繁栄は必ず滅びを招きます。今はまだそこまで行っていないにしても、この世の滅びという現実の中で、パウロの示すことは、「神との永遠の交わりに生きる、永遠の命に生きる」その確信によって、そこでこそ「神によって日々新たにされて生きることができる」のだということです。 私どもは、パウロの生き方、宣教に対する姿勢から示されております。パウロは、福音宣教に励めば励むほどに迫害を受け、そして艱難に遭えば遭うほどに、しかしだからこそ、日々新た確信したのです。「神によってこそ完成する、望みがある」ことを確信したのです。パウロにとって日々新ただったことは、宣教に励めば励むほどに、繰り返し繰り返しこの世に希望がないことを身を持って知り、だからこそ「神の恵みのみがこの世を救う」ことを確信することでした。それがパウロにとっての「日々新たにされる」活力であったのです。 2015年、神の恵みを頂きつつ、日々新たに歩んでいきたいと思います。 神が絶対の他者であることが大事です。どうしてかと言えば、同化しないからです。親子であれば一体化するでしょう。人は、他者との交わりによって個を確立します。絶対の他者なる神との交わりによってこそ、人は自分自身を見出すことができるのです。自分がどう立つべきかを知るのです。ですから、絶対の他者である神との対話、すなわち御言葉に聴き、祈り、礼拝することが大事です。それによって、日々新たに、新しく自分の存在を確かにすることができるのです。 今、新しい年を迎えました。神の御言葉をもって、今、私どもの存在を確かにしました。今私どもは、御言葉によって新たなる者とされている、それが私どもの一年であり、日々であることを覚えたいと思います。 |
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