聖書のみことば
2015年1月
1月1日 1月4日 1月11日 1月18日 1月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月1日元旦礼拝音声

 日々新たにされる
2015年元旦礼拝 2015年1月1日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/コリントの信徒への手紙二 第4章16〜18節

4章<16節>だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。<17節>わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。<18節>わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

 新しい年の夜明けに、共々に神の御前に集い、御名を誉め讃えますことを喜びます。新しい年に、神の恵みと平安とが、ここに集う者一同にあることを祈ります。

 この箇所は、パウロがコリントの教会の信徒たちに宛てた手紙です。今日の準備をしながら、16節にある「わたしたちは落胆しません」という言葉に心惹かれました。4章の1節にも同じ言葉があります。
 昨年暮の選挙を思いますと、心ある人は落胆したはずでしょう。選挙の結果ということよりも、今の日本人の心情について落胆したと思うのです。3.11以降、人々は皆、国のあり方を変えるべきだと思ったはずですが、今に至り何も先行きを見出せない状況にあります。このままではいけないと気づきながらも何も出来ない、却って悪い方向へと向かっている現状です。変えたくてもどうしようもない、そこに今の日本人の希望の無さがあります。まさしく、落胆せざるを得ない状況だと思うのです。少子高齢化、財政破綻、非正規雇用、若者の就職難、地域共同体の崩壊と、考えてみますと先に希望が持てないことばかりで、落胆せずにおれない、明るい未来を示せる人は誰もいないのです。まさに「落胆」は、今の日本に相応しい言葉だと思います。

 けれども、ここでパウロは言います。どんなに落胆せざるを得ない状況であっても「わたしたちは落胆しません」と言い切るのです。それはなぜでしょうか。1節に示唆があります。「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」と語っております。パウロは落胆の現状を見ているのではありません。パウロが見ているのは、「神の憐れみを受けた」こと、そして「この務めをゆだねられている」ことです。
 パウロにとって「神の憐れみ、神から与えられた務め」とは何でしょうか。パウロのダマスコ途上での召命の出来事を思います。パウロはキリスト者を迫害するために、ダマスコへ向かっておりました。その途上でキリストに出会う、復活のキリストがパウロに臨んでくださったのです。パウロはそれまでの生き方に行き詰まり目が見えなくなり、救われて目開かれます。それは、パウロにとっては二重の恵みの出来事です。キリストの敵対者、迫害者であっても救われたことは「憐れみ」としか言いようのないことですが、その救いと同時に「キリストを宣べ伝える」という使命が与えられたのです。迫害者を救っただけではなく、宣べ伝える者とするとは、まさにそれは神の御業です。

 パウロは、「救われ、聖なる務めを与えられた」ゆえに、「落胆しない」と言っております。けれども、パウロの人生は「落胆しない」という状況ではありませんでした。あらゆる艱難が語られております。パウロは福音を宣べ伝えるために出かけて、投獄、鞭打ち、投石、船の難破、同族(ユダヤ人)からの難、異邦人からの難、更には兄弟(仲間)との決裂、飢え渇き寒さと凍え、教会への心配事等々、繰り返しの艱難に遭うのです。しかも精一杯に神の御業に仕えていたにも拘らずであり、それほどまでの艱難に遭ったのに、それでも「落胆しない」、そしてそれらの艱難は、17節「一時の軽い艱難」だと言うのです。「一時の」ということは、それは永遠ではないということです。真実に「永遠なるもの」を知っているがゆえに一時の艱難は過ぎゆくもの、しかもそれが生命に関わる艱難であったとしても、それでも「軽い艱難」だと言っているのです。
 ほんの少しの肉体の痛みであっても耐えられない私どもには驚くべき言葉です。けれども、パウロは「軽い」と言う。どうして、そう言えるのでしょうか。16節「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」、この確信を持っているからです。「神の恵みゆえに、日々新たである」と言っております。

 パウロには肉体の痛みもありました。それは病気であったと思われます。パウロはきっと、知力・体力共に十分な者として神の御業に仕えたかったことでしょう。けれども、肉体の「とげ」を持っていたのです。そこでパウロは祈り願い、主によって「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12章)と示されました。
 肉体の衰えは、人の現実です。「外なる人」は、死に向かっているのです。「外なる人」と「内なる人」の違いは何でしょうか。この世に属する者、すなわち肉体の滅びと共に終わる人、それが「外なる人」です。「内なる人」とは、「神の恵みをいただいている者」です。キリストの贖いゆえに、神によって新しく創造され、復活のキリストの命をいただく者、神のもの、神に属する者です。
 人は、肉体においては20台半ばをピークに衰えるばかりであり、「外なる人」は遂には地上での生を終えねばなりません。けれども、「内なる人」は神に属する者とされる、それは聖霊による出来事であり、聖なる、霊なる者とされるということです。この世において、この地上に属する者でありながら「キリストを信じる者は、霊に属する者とされる、霊なる人となる」と言ってよいのです。キリストと共に甦り、永遠の命を与えられること、それが「永遠の栄光」ということです。神の恵みに与るということです。この世の人は日々衰えていきますが、キリスト者は神にあってこそ永遠、神のものとされる、神の子としての光栄を与えられるのです。

 パウロが言っているように、17節「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」のです。「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」。キリスト者は、「見えないもの」すなわち「神、聖霊なるものを見る」のです。それが信仰ということです。見えないもの、神を見る者として、キリスト者は、永遠を垣間見つつ、この世を生きることができるのです。

 パウロの言っていることは深いと思います。散々な苦しみに遭い、落胆を体験して、パウロは身に沁みて「この世には希望がない」ことを知り、しかしそこでこそ、なお一層「神しかない、神にしか希望がない」ことを知ったのです。外には救いはない。神以外に望みがない。しかしそれは、神を信じる者にだけ与えられている恵みです。
 どうしようもない現実、うずくまり縮こまるしかない現実、しかしそれは、この世と共に終わるもの、過ぎ去る一時のことです。神の憐れみ、慈しみこそ永遠なのです。だからこそ「神なしには希望がない」ということを、誰よりも苦しんだ者であるがゆえに、パウロは確信しているのです。

 パウロは、理論で言っているのではありません。パウロは自分自身の身に沁みて言っております。神の恵みによって「日々新たである」と言っております。神無しであれば、落胆せざるを得ません。けれども、神を信じる者は、だからこそ知っているのです。この世の救いの無さを知っている、だからこそ、神にのみ希望があることを知っているのです。
 落胆の状況の中で、神によって確信を持って生きるということ、それが信仰の出来事です。

 この世に希望がないことについて、パウロが示していることは何でしょうか。人の叡智を否定するということではありません。行き詰まりによって新しい文明を生み出して来たことは歴史が語っていることです。けれども、繁栄は必ず滅びを招きます。今はまだそこまで行っていないにしても、この世の滅びという現実の中で、パウロの示すことは、「神との永遠の交わりに生きる、永遠の命に生きる」その確信によって、そこでこそ「神によって日々新たにされて生きることができる」のだということです。
 この世に望みを置く者と神に望みを置く者の生き方は、まったく違います。この世に望みを置く者は、死をもって終わり虚しくなる。けれども、神に望みを置く者の生き方は、完成を見る生き方です。神が私どもを完成させてくださる、それは「完成によって終わる」という生き方なのです。
かつての日本人の感覚では、「終われば後は水に流す、完結しないけれども終わらせて終わる」、水に流して過去は振り返らないというあり方でした。けれども、人は自分で完全に終わらせることはできません。最近では、水に流しても終われないという現実です。裁判を見ても、人がどう裁いて終わらせようとしても、人の心の憎悪まで終わらせることはできません。いつまでも終われない、完結しないのです。
 けれども、キリスト者にとっての終わりは、完成を見る終わりです。ですから希望があるのです。

 私どもは、パウロの生き方、宣教に対する姿勢から示されております。パウロは、福音宣教に励めば励むほどに迫害を受け、そして艱難に遭えば遭うほどに、しかしだからこそ、日々新た確信したのです。「神によってこそ完成する、望みがある」ことを確信したのです。パウロにとって日々新ただったことは、宣教に励めば励むほどに、繰り返し繰り返しこの世に希望がないことを身を持って知り、だからこそ「神の恵みのみがこの世を救う」ことを確信することでした。それがパウロにとっての「日々新たにされる」活力であったのです。
 私どもの新しさとはどこにあるのでしょうか。それは決して古びない新しさです。水に流すということではない。「神の恵みによって、日々新たである」と示されております。

 2015年、神の恵みを頂きつつ、日々新たに歩んでいきたいと思います。
 神の恵みを日々新たにすること、それは、御言葉を聴き、祈り、礼拝しつつ生きるということです。そこでこそ、神の恵みを知るからです。この一年も、御言葉に聴き、祈り、礼拝する者として、神の恵みによって日々新たな者として生きたいと願います。

 神が絶対の他者であることが大事です。どうしてかと言えば、同化しないからです。親子であれば一体化するでしょう。人は、他者との交わりによって個を確立します。絶対の他者なる神との交わりによってこそ、人は自分自身を見出すことができるのです。自分がどう立つべきかを知るのです。ですから、絶対の他者である神との対話、すなわち御言葉に聴き、祈り、礼拝することが大事です。それによって、日々新たに、新しく自分の存在を確かにすることができるのです。
 神との交わりこそが大事です。神との交わりを失ってしまえば、人は自分しかなくなり、自分を見出せなくなります。自分を日々新たに見出し得るのは、ただ神との交わりに生きること、神の前に立つ、神との対話にのみよるのです。
 神との交わりにおいてこそ、私どもは、日々新たなる存在となる。新たに存在を得る。それが私どものあり方であることを覚えたいと思います。

 今、新しい年を迎えました。神の御言葉をもって、今、私どもの存在を確かにしました。今私どもは、御言葉によって新たなる者とされている、それが私どもの一年であり、日々であることを覚えたいと思います。

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