2015年1月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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12人の一人ユダ | 2015年1月第1主日礼拝 2015年1月4日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第14章10〜21節 | |
14章<10節>十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。<11節>彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。<12節>除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。<13節>そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。<14節>その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』<15節>すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」<16節>弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。<17節>夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。<18節>一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」<19節>弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。<20節>イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。<21節>人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 |
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12人の弟子の一人、イスカリオテのユダの登場です。 けれども、この間には、一人の女の話が入っております。主イエスに敵対する多くの者がいる、しかしその中に、主イエスを慕ってやまない一人の女がおりました。そしてそれは、主イエスにとって大いなる慰めでした。 神は、私どもの存在を愛おしんでくださるお方です。私どもの弱さに心痛めてくださる。それゆえ、独り子を十字架にまでおかけくださいました。私どもに必要なのは、ただ一人、神のみです。神はご自身が大きな損までして、私どもを愛し、私どもの存在を慈しんでくださった、ただ一人のお方なのです。 さてここで、ただ「イスカリオテのユダ」ではなく、敢えて「十二人の一人イスカリオテのユダ」と記されております。12人とは、主イエスの12人の弟子です。12はイスラエルにとって大事な数字です。イスラエルは12部族であり、12部族は神の民として、神の御心に生きることを求められた民なのです。しかしイスラエルは従いきれなかった、それが旧約の歴史です。 「ユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」とありますが、しかし、どうして引き渡そうとしたのか、その理由は語られておりません。これはマルコによる福音書の特色です。共観福音書であるマタイによる福音書には、「『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」(26章)とあり、ユダがお金を求めて主を引き渡そうとしたというニュアンスがあります。けれども、マルコでは、ユダが主を引き渡すことを提案したことに対して、祭司長たちが11節「金を与える約束をした」と言われております。ですから、なぜユダが主を引き渡そうとしたのか、いろいろと理由が挙げられるのです。 私どもは常々、このユダの行為を「裏切り」と感じております。18節、21節に「裏切り」と記されているからですが、しかし、18節の言葉は実は、裏切りではなく「引き渡す」という言葉です。それを解釈して「裏切る」と訳しました。要するに、聖書は「裏切り」と言っていないのです。ユダは、裏切ったつもりはなかったのではないでしょうか。引き渡すこと、それを良いことだと思っていたのではないでしょうか。 「自らを善とする、そこで過ちを犯す」のです。ユダは善きことと思って、主を引き渡そうとしているのです。引き渡そうと言われた側も、それを受けるためには理由をつける必要がありますから、お金を渡すことで自らの責任を軽くしようとするのです。負い目を負いたくないからお金を渡すのであって、ユダがお金を求めたのではありません。 ここに示されていることがあります。12人の一人がユダだったということです。12人は新しいイスラエル、すなわち教会です。教会も、自らを善とするならば、神の栄光を表すのではなく、教会自身の繁栄を求めることになるでしょう。ですから、12人の一人がユダであったことは大きいことです。教会が過ちを犯すことを示しているからです。自らを正当化するとき、教会も過ちを犯します。 さらに、その上で知らなければなりません。そういうユダの思いであっても、この「引き渡す」という言葉の重みを知らなければならないのです。9章で、主イエスが弟子たちに「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と予告しておられます。それは神の出来事として予告されたことです。 ユダの思いによって神の救いの計画が妨げられるのではなく、ユダの悪しき思いであっても、神はなお用い、救いの御業をなしてくださいました。私どもの如何なる愚かな思いも、神はお用いくださる。愚かでしかない者をも、救いの対象としてくださるのです。 自分の善ゆえに神が顧みてくださるのだと思うならば、それは傲慢なことです。そうではなく、神の救いの御業に対して低くなれるところでこそ、救いが喜びとなるのです。 自らが善と思いつつなすことの罪を見なければなりません。けれども、そのように愚かな者をも、神は、救いの対象としていてくださるのです。 |
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