主イエスは、律法学者が長い衣をまとって歩くことで人々の尊敬を受けたいと思っているということを、教えの中で言われました。ここまでを前回お話しましたが、更に「広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、…」と続きます。「広場で挨拶される」、それは公衆の面前でということですから、彼らは自分の面目を保ち、人々から尊敬を受けることを望んでいるのです。
このような律法学者のあり方と、主イエスのあり方の違いを覚えなければなりません。律法学者と主イエスとの教えの違いについては、既にお話しました。主イエスの教えは「権威ある教え」です。権威ある者として、主イエスが示されたご自身のあり方は、人の上に立つことではありません。仕えられるためではなく、「仕えるためのあり方」です。
力ある者であれば、人の上に立ち、人を従わせたいと思うでしょう。相手より自分を高くして、他者を仕えさせようとするのです。人は絶対者ではありませんから、何かしらの能力があり、中途半端に力を持つ人のあり方は、そのようになるのです。
しかし、主イエスは、十字架でご自身の聖をもって、命をもって、人の救いのために仕えてくださいました。十字架の主イエス、それが主イエスの究極のあり方です。ですから、主イエスの教えとは、仕える者としての教えなのです。神にある究極の力、教えとは、人に仕えるためにあることを覚えなければなりません。そうであるからこそ、救いが起こったのです。
神がもし、私どもに対して「頑張って、わたしの如くになれ」とおっしゃるならば、私どもは救われません。そうではなく、神の方から私どもの所に降りて来てくださって、出会ってくださったからこそ、私どもは救われるのです。私どもの力によっては、救いはありません。そこに、律法学者の教えと主イエスの教えとの全き違いがあるのです。
もし、私どもが他者に仕えるとすれば、それは自分が無力な時であり、他者に屈服するというときです。屈服せざるを得ず、仕えるということはある。しかし、自ずとの思いによって他者に仕えるということは、人にはできません。「仕える」ためには、力が必要なのです。
主イエスは、無理解でご自身の足を引っ張るような者でしかない弟子たちに、仕えてくださいました。ゆえに、弟子たちは救われたのです。主イエスは自ら進んで仕える者になってくださった、それが主イエスの出来事です。自ら進んで仕える、それは私どもには難しいこと、困難なことです。
「仕える」ということは、生易しいことではありません。人には、成し得ません。「困難を克服する力」がなければならないのです。主イエスは困難をもろともせず、成し遂げてくださいました。主イエスの力は、不可能を可能としてくださる力なのです。
度々、主イエスが教会に対して教えてくださったことは、「仕える者となれ」ということでした。教会は「仕える」ことで成り立っております。今朝も教会では多くの奉仕がなされ、礼拝のために仕えております。その奉仕こそが、教会の大きな力を示すことなのです。
究極の力、権威、究極の神の業は「主イエス・キリストの十字架」です。真に力あるお方が「無力な者となるまでに」力があるのです。それが十字架の出来事です。
その、究極の愛の業によって、愛の出来事のゆえに、人は仕えることができます。愛に満たされることによって、仕えるということが起こるのです。神の愛を知るゆえに、仕えることができるのです。
人であっても、愛するということによって人に仕えることが可能になるということがあります。例えば、母が子を愛するゆえに、ということです。けれども、それにも限度はあります。
自分の思いや能力によって愛そうとすることには限界があります。一生懸命によってでは難しいのです。一生懸命であればあるほど、「これほどまでにやっているのに…」と、相手を責めることになるのです。
ただ限りなく愛されているから、だから仕え続けることができることを覚えなければなりません。全き権威、主イエスの権威によってこそ、仕えることができます。それが、主イエスの力なのです。人の力では、中途半端にしか仕えることはできません。そこに、律法学者と主イエスとの根本的な違いがあるのです。
また、人はより上に、より善き者にと思います。「律法に従わなければならない」と無理をして、そして仕えたとしても、それでは、相手に誤解を与え、相手が上になってしまう、そういうことにも気をつけなければなりません。
ただ、捕われなき思いをもって仕える。限りなく愛されているからこそ、捕われずに愛せるのだということを覚えたいと思います。
40節「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と記されております。このことは、律法学者に対してだけ言われていることではなかったと考えられております。誰に対しても言われていることなのです。
「やもめの家」という言葉で、一つの状況が示されております。42節にも「やもめ」が出て来ます。当時は、女性は単独では人権を持ちませんでした。女性は夫を持つことで人権を得たのです。十戒に「姦淫してはならない」とありますが、それは何を意味しているかと言いますと、既婚の女性との関係において「姦淫してはならない」と言われているのであり、それは家庭の神聖化を意味しているのです。既婚の女性との関係を持つことは、一番小さな信仰共同体である家庭を壊すことになり、それは神の御心に反するからです。
夫を持つことは、保護者を持つことです。しかし、保護者を失っている者、それが「やもめ」なのです。そのような、自分を守ってくれる者を持たない者、そういう弱者を「食い物にする」ということが起こっていたということです。
本来、律法とは、弱者に対する保護として、神が慈しみの神であるがゆえに定められております。神は、エジプトで奴隷の民であったイスラエルを神の民としてくださいました。ですから神は、保護を持たない者、寄る辺ない者を憐れむようにと言われているのです。
「神の憐れみのうちにある、守りのうちにある」こと、それが聖書の語ることです。このことに立って、主は語っておられます。弱者は保護を必要とする者として、施しの対象であるにも拘らず、人は弱者を搾取するのです。
どうして、人は人を搾取するのでしょうか。神のあり方と遠いことを覚えなければなりません。このことは、力をどう行使するかということと繋がっております。人は、相手が弱いと分かると、助けるよりも、侵略しようとするのです。これは国家のあり方においても同様です。そのような者は、力を失えば、滅びます。そのことは歴史の語るところです。
「見せかけの長い祈り」とは、自分がいかにも敬虔な者であると示す態度です。その振る舞いによって、敬虔な者であると、他者に錯覚させるのです。敬虔な信仰に生きているように見せかける、それは神をだしにして自分を表そうとすることで、人の傲慢さがそこにあるのです。そのことを、主は示しておられます。
「祈り」は、神との対話、語らいです。祈りとは語らいですから、「神を呼ぶ」ことによって始まるのです。「呼びかける」ことは、とても大事なことです。現実に神の前に立っている、だから呼ぶのです。
祈れないということは、神を見ていない、神に向かっていないからです。神を呼ぶということは、つまり神と対話ができるということです。
実は、私どもが神を呼ぶことは、簡単なことではありません。神と人とは対等ではありません。聖と俗の違いがあるのです。俗である人は、聖なるお方に耐えることはできません。なのに、神を呼ぶことができるのは、特別な恵み、赦しがあるからこそ、できるのです。「聖なるお方を呼ぶ」それは神がそのことを良しとして許してくださっているからこそ、できることです。特別な恵み、赦しを頂いているからこそ、神を呼び、祈れるのです。
ですから、祈りは人の力に依りません。神が赦してくださるからこその祈りです。そして、その赦しは、主の十字架の出来事、主の贖いによってこそのことです。「アッバ、父よ」と、神を父と呼ぶことができるのです。「アッバ、父よ」との呼びかけは、赦された者への特別な恵みです。それは本来、神と主イエス・キリストとの交わりにおける呼び方だからです。神と主との親しい交わりにおける呼びかけの言葉です。主イエスが十字架の贖いによって、私どもに「そう祈って良い」と、祈りの言葉を下さったゆえに、私どもは「アッバ、父よ」と祈れるのです。ですから、そのようにして与えられている祈りとは、神を父とし、神の子とされている者としての語らいであることを忘れてはなりません。
主イエスの十字架によって、私どもは神の子とされる恵みを与えられ、神との親しい交わりを与えられたのです。それが私どもの祈りです。
本来は神の子ではないにも拘らず、子とされたのですから、そこでは、弁えを知るべきです。あまりべたべたとするのは頂けません。神と人との間には一線があることを覚えつつ、弁えを持っていたいものです。
赦されているからと言って、情緒的な関係によってだけ神を思ってはなりません。情緒が先立つのではなく、心身共に、全人格的な交わりが与えられていることを覚えたいと思います。
そして、神の子として頂いての祈りなのですから、「キリストの名によって」祈ります。祈るときに、私どもには主イエスの執りなしが必要なのです。主の執りなしがなければなりません。なぜならば、私どもの祈りは自分本位だからです。自分本位なことが実現すると思ってはなりません。
神との交わりの回復の根底にあることは、神の創造の御業です。神は人を、神の呼びかけに応える者として創られました。祈りは、神との応答関係が与えられること、それは神と人との正しい秩序に入れられることです。ですから、祈りは創造の秩序の回復、麗しい秩序を与えられることです。それが、祈りにおいて人が見出す恵みなのです。
神との祈りの中で、麗しい秩序を見出しつつ、他者との交わりに生きるのです。
祈りの根底にあることは、麗しい秩序の回復です。人に対し、世界に対し、自然に対して、麗しい秩序を見出してゆく。それは、神との交わりによって見出せる恵みなのです。
自分本位であっては、麗しい秩序を見出すことはできません。人に対し、世界に対し、自然に対して、どのようにして麗しい秩序を見出せるかということを、神に聞くことの大切さを覚えたいと思います。神は、どう望んでおられるのかを、祈りの中で見出していくことが大切なのです。
「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と、主イエスは言われます。弱者から搾取し、自らの敬虔さを見せつける者、このような者は、既にこの世において評価を受けているのであるから、神を必要としなかった者として、神の保護も評価も要らないのです。
私どもは、地上に生きる限り、地上における評価を気にしないではいられない者です。しかし、その評価は、限定的な、この世でのみの評価です。地上でどんなに評価を得たとしても、他者は、そのことを忘れてしまいます。けれども、神は忘れたまわない。ゆえに、人が評価してくれなくても、神が評価してくださることを覚えておくことが大事です。
日本人は、人が亡くなると、お悔やみを言います。悔やむという消極的な態度になるのです。もっとこうしておけば良かった、ああしておけば良かったと後悔することによって、亡くなった人への愛情を示すのです。それはそれとして、しかし、肯定的に「いろいろあったけれども、それでも良かった」と言えるのは、神にあってのことです。神にあってのみ、人の生は完結します。
人の評価は、絶対ではないのですから、いずれ消え失せてしまいます。にも拘らず求めてしまう。そこに人の愚かさがあります。 終わりの日の神の評価を知っているならば、私どもは、この世の人の評価に捕われるしかない窮屈なところから解き放たれるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。
今日は「レプトン銅貨、二枚」のところまで至りませんでした。それは次週といたします。 |