2014年8月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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主なるメシア | 2014年8月第3主日礼拝 2014年8月17日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第12章35〜40節 | |
12章<35節>イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。<36節>ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』<37節>このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。<38節>イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、<39節>会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、<40節>また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 |
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35節、主イエスが神殿の境内で教えておられます。 37節に「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」と記されております。結論を言うことになりますが、主イエスの教えとは、人に知識を与えるものではありません。主の教えは「人に喜びを与えるもの、人々を満たすもの」であったのです。また更に、これから先を読み進めますと、主の弟子たちは何も理解していなくても、主によって満たされるのだということが分かります。マルコによる福音書は、弟子たちの無理解ということを強調しておりますけれども、何も分からなくても、しかし、主の弟子は弟子であり得るのです。 「神の力、神の恵みが満ち溢れること」、それが「主イエスが教える」ということです。そこに聖霊が働くのです。 その上で、主イエスは36節・37節「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と言われました。一体何を言っているのでしょうか。 ところが、ここで主イエスは「そうなのか?」と問うておられます。確かに、主イエス・キリストの系図はダビデの子孫です。マタイによる福音書には、神の啓示によって、主イエスがヨセフの子として生まれる、つまりダビデの末裔として生まれることを強調しております。『メシアはダビデの子だ』というのは、間違いではないのです。主イエスはヨセフの子、ダビデの末としてお生まれになるのです。 ここで知るべきことは、詩編110編は、1節に「【ダビデの詩。賛歌】わが主に賜った主の御言葉。」とあるように、ダビデの口を通して神が与えられた御言葉だということです。ダビデの口を通して神が示されていることは何でしょうか。「わたしの主」それは「メシア」です。メシアは統治者。ダビデがメシアを「わたしの主」と言っているのであれば、ダビデよりもメシアの方が上であることを言っているのです。メシアを「わたしの主」と、ダビデが言っている以上、「メシアが主である」ということを、37節「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と、主イエスは解説してくださっているのです。メシアが単にダビデの子孫であれば、ダビデがメシアを「わたしの主」とは言わないだろうと、おっしゃっているのです。 続く詩編の御言葉は、「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」です。「わたしの右の座に着きなさい」とは、メシアは神の全権を担う者として、その座にお着きになるということです。それによって、まさしく主イエス(メシア)は神の全権を担い、全てを統べ治められ、地上に新しい神の国をもたらされるということです。地上の支配を超えて、神の支配が現れる。主イエスは、全宇宙を治める方としてのメシアであることが示されております。 この世は対立を深めるばかりです。この世の在り方にしか目が行かなければ、私どもには絶望と行き詰まりしかありません。一層の対立を深め、一層争いへと人々は向かっている、それが私どもの現実の地上の力です。私どもは、この現実に望みを見出せません。希望も夢も無い、行き詰まりと絶望の世界、それが私どものこの世の現実です。自らの欲望の果ての現実なのです。未来を描けない、それは、今の現実にのみ目を向けているからです。 けれども、私どもは幸いです。主イエスの十字架と復活によって、この世の支配は終わっているのです。私どもを神が統べ治められる、だから行き詰まらないのです。たとえ、この世が滅びても、死を超えて、地上を超えて、神にある生を生きることを望み見るのです。 地上の支配はいずれ終わります。この世は移り行くのです。けれども、ただ神の支配のみ永遠です。「屈服させるまで」とは、「終わりの日まで」ということです。神に敵対する者たちが一掃されて、神の支配が完成するという約束なのです。 この世に「完成」ということはありません。人は自ら完成を見るということはありませんから、そういう意味で、人の最大の評価は「未完成」であり、それを美しいとするのです。人は、未完成な者に過ぎません。けれども、ただ神によってのみ、キリストによってのみ、完成するのです。私どもは、終わりの日に完成を見るのです。それがここに言われていることです。 私どもは、主の十字架と復活を知っております。主が終わりの日の完成者であることを、私どもなら少しは分かるのです。けれども、ここに記されている人々、弟子たちには分かりません。にも拘らず、人々は「イエスの教えに喜んで耳を傾けた」と記されております。主イエスの言葉が人々を満たしたのです。理解したから喜んだということではありません。どれだけ理解したかは問題ではないのです。 私どもも同じです。ただ、聖書を読み、主を、神を感じる、だから喜んで満たされるのです。私どもの理解に依らないことを覚えたいと思います。主がそこに、御言葉に臨んでくださっているからこそ、そこで主を感じ、満たされて行くのです。それが「主の教えに喜んで耳を傾けた」ということです。 一つ覚えたいことがあります。 そのためには、繰り返し繰り返し聞くことが大事なのです。 |
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