聖書のみことば
2014年8月
  8月3日 8月10日 8月17日 8月24日 8月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 主の教えに耳を傾ける
2014年8月第1主日礼拝 2014年8月3日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第12章35〜37節

12章<28節>彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」<29節>イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。<30節>心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』<31節>第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」<32節>律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。<33節>そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」<34節>イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。<35節>イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。<36節>ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』<37節>このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

 主イエスに敬意を持って、一人の律法学者が「第一の掟は何か」と尋ねたことに対して、主は「第一の掟は、神を愛すること。第二の掟は、隣人を自分のように愛すること」と、お答えくださいました。
 この主の答えを聞いて、律法学者は言うのです。32節「先生、おっしゃるとおりです」。「おっしゃるとおり」とは、何とも良い響きです。あれこれ文句を付けるのではなく、「その通りです」と言うことは、なかなか難しいことです。ですから、「おっしゃるとおりです」とこの律法学者が言えたということは、この人が主イエスの言葉を、ちゃんと、心砕いて聞いていたということを示しております。そして続けて、彼なりに反復して言うのです。「『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です」。

 「唯一神教」については、近年、非寛容であるとの非難の対象となることがあります。唯一神教について十分理解した上でではなく、多神教を肯定するための論となっています。その中でも、日本の宗教事情は少し違っており、日本は多神教であると言っても、よく周りを見回してみますと、最近では地域の氏神でも、それが何の神であるかもよく分からなくても拝んでいるのです。一体それが多神教と言えるでしょうか。一つ一つの神を尊ぶということが失われております。
 神を「唯一なる神」として知ることの大切さが、「神は唯一である。ほかに神はない」というところに言われていることです。唯一なる神を知っているから、人は、自分の存在に意味を持つのです。神が在し、神に応答する者として、人は存在を得ます。そこでこそ、自分の存在を明確にできるのです。それが人格性ということです。神を知らずして自分を真実に知ることはできません。神を知ることは、存在として人格を持つということなのです。
 多神教は非寛容であるという非難をしながら、しかし、多神教で日本が寛容だったかと言うと、そうではありません。先の戦争では、日本はアジアに侵略し、各地に神社を建てました。多神教であったから寛容であったかというと、そうではなかったのです。
 寛容とは、社会がマイノリティーを受け入れることです。寛容は、寛容であれと押し付けることではありません。かつて、靖国神社へのキリスト者の合祀についての裁判がありましたが、その判決は、国の決めたことに寛容であれと、寛容を押し付けるものでありました。一神教が非寛容で多神教は寛容であるとの論は、歴史を省みていないことであるし、自己正当化のために使われていることを覚えなければなりません。

 33節「そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と、律法学者は言っております。このことは考えさせられることです。この言葉は、この人が旧約聖書に精通していることを示しております。ホセア書6章6節に「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」と言われております。ここでの「焼き尽くす献げ物」とは、神殿礼拝での犠牲の献げ物を示しておりますが、神が喜ばれることは犠牲を献げての礼拝なのではなく、神を愛することであることが言われているのです。
 サムエル記上15章22には、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」と記されております。
 ですから、この人は知っているのです。犠牲をたくさん献げることが神の喜ばれることではないことを、そして「神の御言葉を聞くことこそ、神が喜ばれることである」と知っているのです。「神を愛する、神を知ることは、神の御声に聴き従うことである」ことが、示されているのです。
 この人は、律法の精神を知っております。「神を知り、神の御言葉に聞き従うこと」、それが「律法の精神である」ことを知っているのです。

 このことは、私どもにも重要なことです。今の日本社会は、「法」を正しく理解しておりません。法は、人を規制するために作られます。けれども、神の律法は、そうではないのです。律法に従うことは、すなわち神に従うことです。人を規制し、法によってがんじがらめにしてしまうこととは違うのです。そういう意味で、日本社会は危ういと言えます。日本国憲法は、国民主権を守るために、為政者が遵守すべきものとしてあるのです。為政者は、主権者である国民の権利を踏みにじり易い者であるからこそ、この憲法を守らなければならないのです。にもかかわらず勘違いして、主権者を、人を規制するために用いようとしているのです。
 神の律法は、神と人との麗しい関係を保つために、人を神にある秩序の中に置くためにあります。麗しい秩序とは、すなわち神の言葉、神の戒めです。神の戒め、その精神は何か。それは、「神との正しい関係にある一人の人格者として、神の御言葉に従って生きよ」ということです。

 34節「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた」とあります。この律法学者が適切に答えたことに対して、主イエスが言ってくださったことは「あなたは、神の国から遠くない」ということでした。けれども、これが問題です。「遠くない」とは、「近い」ということでしょう。であれば、「あなたは、神の国に近い。神の国に入れますよ」ということなのでしょうか。「遠くない」とは、難しいことです。
 入ることができるのなら、主イエスは率直に「近い」と言われたのではないでしょうか。「遠くない」とは意味深長です。遠くないのですから、近いのです。けれども「近いが、それだけでは入れない」、それが遠くないという言葉のニュアンスです。神の国の周辺にいる、近さと遠さを感じさせます。

 では、どうすれば良いのでしょうか。「遠くない」という言葉で分かることは、閉ざされてはいないということです。閉ざされてはいない、けれども、入るためには困難を要するという感じなのです。なぜこの律法学者には困難なのか。
 このことを知るためには、神の御国に与っている人とは誰だったかがヒントになります。律法に精通し、実践するファリサイ派の人々や律法学者ではありませんでした。主イエスの弟子たちはどうだったでしょうか。マルコによる福音書が強調する主の弟子たちの姿は、無理解、少しも分かっておらず、却って主の足を引っ張りさえする者です。にも拘らず、弟子であるがゆえに、彼らは神の国の民とされているのです。
 神の国とは、頭で理解したから入れるのではありません。神の国に入れる者とは、何も理解していないけれども、主イエスに従う者なのです。ここが、この律法学者と弟子たちとの違いです。
 この律法学者は、よく分かっております。そして、主から高い評価を得てさえおります。けれども、神の国への約束を与えられてはいないのです。それは、この人がなお理解を深めていくということではなく、ただ、「主イエスに従うかどうか」にかかっているのです。神の国とは、神に聞き従う者にこそ与えられているのです。

 マルコによる福音書の最初の部分を読みますと、それは鮮やかに示されております。主イエスはご自分の活動の始めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。神の国は、主イエスと共に来ているのであり、そこに連なるためにすることは議論ではなく、「悔い改めて福音を信じること」、すなわち「主イエスの従うこと」なのです。
 神の国とは、神の支配ということです。主に従う者は、神の支配の下にあるのです。神の御子でありながら、主イエスは人となって、私どものところに来てくださいました。主が来てくださったことによって、神の支配をもたらしてくださったのです。ですから、主イエス・キリストを信じ、その福音を宣べ伝えるところに、神の支配が与えられるのです。

 今、この礼拝の場に、神の国があります。この礼拝の場において、私どもは神の支配の下にあるのです。既に与えられているのですから、それを受け入れるかどうか、なのです。「神の国に入りなさい」と、主は促してくださっております。「わたしに従いなさい」と言ってくださっているのです。「あなたは、神の国に遠くない」と言って、この律法学者に対して「わたしに従いなさい」と促してくださっているのです。
 深く理解することだけでは神の国に入れない、いや、理解だけでは、却って遠いことを知らなければなりません。けれども、従うならば、入れるのです。
 私どもが、主の言葉に聞き従うとき、私どもは神の支配、神の国の一員です。主イエスが来てくださったことによって、神の国は始まっているのです。

 「もはや、あえて質問する者はなかった」と記されております。このことが示すことは、もはや議論の時ではないということです。「主に従うこと」を促されている。人に求められているのは「従うこと」なのです。ここで、誰も何も主イエスに反論できませんでした。それは、主イエスの言葉に力、権威を感じているからです。主イエスは神の御子ですから、神の御力が主に臨んでいるのです。

 続けて、35節「イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。『どうして律法学者たちは、「メシアはダビデの子だ」と言うのか』」と記されております。主はご自身について証ししようとしておられます。祭司長たちやファリサイ派の人々が、主が境内で教えることを禁止しようとしたけれども、無駄であったことが分かります。主イエスの教えが、権威ある力ある教えであったからです。

 36節、37節、主イエスは続けて「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と言われます。「メシア」についての理解が言われております。「メシアはダビデの子(子孫)である」と、なぜダビデ家がイスラエルにとって大事かと言いますと、「ダビデ家からイスラエルを救うメシアが生まれる」との神の約束に与っているからです。ですから、ダビデの血筋からイスラエルの理想の王、メシアが生まれると考えました。
 ところがここで、このことを否定するように、主は語られました。この主の言葉はセンセーショナルです。メシアは血筋によっての王ではないと言っておられるのです。主イエスご自身は確かにダビデの血筋です。けれどもそうではなく、ご自身は神が立て、神が遣わされたメシアであると言っておられるのです。
 ダビデの血筋によるのではない。神が立て、神が遣わされた、神からのメシアであると、ご自身を証ししておられるのです。
 ゆえに、主イエスの教えには力があるのです。神の権威があるのです。

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