2014年8月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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主の教えに耳を傾ける | 2014年8月第1主日礼拝 2014年8月3日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第12章35〜37節 | |
12章<28節>彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」<29節>イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。<30節>心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』<31節>第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」<32節>律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。<33節>そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」<34節>イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。<35節>イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。<36節>ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』<37節>このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。 |
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主イエスに敬意を持って、一人の律法学者が「第一の掟は何か」と尋ねたことに対して、主は「第一の掟は、神を愛すること。第二の掟は、隣人を自分のように愛すること」と、お答えくださいました。 「唯一神教」については、近年、非寛容であるとの非難の対象となることがあります。唯一神教について十分理解した上でではなく、多神教を肯定するための論となっています。その中でも、日本の宗教事情は少し違っており、日本は多神教であると言っても、よく周りを見回してみますと、最近では地域の氏神でも、それが何の神であるかもよく分からなくても拝んでいるのです。一体それが多神教と言えるでしょうか。一つ一つの神を尊ぶということが失われております。 33節「そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と、律法学者は言っております。このことは考えさせられることです。この言葉は、この人が旧約聖書に精通していることを示しております。ホセア書6章6節に「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」と言われております。ここでの「焼き尽くす献げ物」とは、神殿礼拝での犠牲の献げ物を示しておりますが、神が喜ばれることは犠牲を献げての礼拝なのではなく、神を愛することであることが言われているのです。 このことは、私どもにも重要なことです。今の日本社会は、「法」を正しく理解しておりません。法は、人を規制するために作られます。けれども、神の律法は、そうではないのです。律法に従うことは、すなわち神に従うことです。人を規制し、法によってがんじがらめにしてしまうこととは違うのです。そういう意味で、日本社会は危ういと言えます。日本国憲法は、国民主権を守るために、為政者が遵守すべきものとしてあるのです。為政者は、主権者である国民の権利を踏みにじり易い者であるからこそ、この憲法を守らなければならないのです。にもかかわらず勘違いして、主権者を、人を規制するために用いようとしているのです。 34節「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた」とあります。この律法学者が適切に答えたことに対して、主イエスが言ってくださったことは「あなたは、神の国から遠くない」ということでした。けれども、これが問題です。「遠くない」とは、「近い」ということでしょう。であれば、「あなたは、神の国に近い。神の国に入れますよ」ということなのでしょうか。「遠くない」とは、難しいことです。 では、どうすれば良いのでしょうか。「遠くない」という言葉で分かることは、閉ざされてはいないということです。閉ざされてはいない、けれども、入るためには困難を要するという感じなのです。なぜこの律法学者には困難なのか。 マルコによる福音書の最初の部分を読みますと、それは鮮やかに示されております。主イエスはご自分の活動の始めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。神の国は、主イエスと共に来ているのであり、そこに連なるためにすることは議論ではなく、「悔い改めて福音を信じること」、すなわち「主イエスの従うこと」なのです。 今、この礼拝の場に、神の国があります。この礼拝の場において、私どもは神の支配の下にあるのです。既に与えられているのですから、それを受け入れるかどうか、なのです。「神の国に入りなさい」と、主は促してくださっております。「わたしに従いなさい」と言ってくださっているのです。「あなたは、神の国に遠くない」と言って、この律法学者に対して「わたしに従いなさい」と促してくださっているのです。 「もはや、あえて質問する者はなかった」と記されております。このことが示すことは、もはや議論の時ではないということです。「主に従うこと」を促されている。人に求められているのは「従うこと」なのです。ここで、誰も何も主イエスに反論できませんでした。それは、主イエスの言葉に力、権威を感じているからです。主イエスは神の御子ですから、神の御力が主に臨んでいるのです。 続けて、35節「イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。『どうして律法学者たちは、「メシアはダビデの子だ」と言うのか』」と記されております。主はご自身について証ししようとしておられます。祭司長たちやファリサイ派の人々が、主が境内で教えることを禁止しようとしたけれども、無駄であったことが分かります。主イエスの教えが、権威ある力ある教えであったからです。 36節、37節、主イエスは続けて「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と言われます。「メシア」についての理解が言われております。「メシアはダビデの子(子孫)である」と、なぜダビデ家がイスラエルにとって大事かと言いますと、「ダビデ家からイスラエルを救うメシアが生まれる」との神の約束に与っているからです。ですから、ダビデの血筋からイスラエルの理想の王、メシアが生まれると考えました。 |
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